散りゆく徒桜に、微笑みを。#Last Spring
「俺を、見てください」
風が、咲乃さんの髪をさらう。ふわりと流れた、真っ黒なストレートヘア。綺麗だ、と思った。漂う甘い香りに、不思議と気分が落ち着く。
春一番に背中を押されて、ずっと伝えられなかった言葉が、するりと喉元を抜け出ていった。
「三倉志葵の弟でも、三倉朱音の弟でもない。三倉紹巴を、見てください」
心臓は、壊れそうなくらいにばくばくと脈打っている。なのに、口をついて出る言葉は、思いのほか淡泊だ。あまりの温度差に気が遠くなって、何を口走っているのかもよくわからない。
「好きでした。たぶん、ずっと、2年前、初めて見たときから」
絞り出す言葉は、ずっと伝えたかった想いのカタチ。声はずいぶんと揺れていて、やっぱ俺、情けないなあ。
ゆっくりと見開かれる、柔らかな光を抱いた黒い瞳。丸々として、舐めたらとても甘そうだ。桜色の唇が、なにか言葉を紡ごうとして、震える。――待って。まだ、言わないで。
だって、俺はまだ、なに一つ伝えられていない。
「最初、から……やり直させてくれませんか?」
死ぬほど緊張しているのに、不思議と気持ちは穏やかだ。今ならきっと、言える気がした。
……今、言わなくちゃいけないと、思った。
「はじめまして。俺は、三倉紹巴です」
一生機会をなくした挨拶から、もう一度。
「高槻中学の三年で、帰宅部でした。あ、でも、運動はそれなりに得意です」
なんだそれ、もっと他にアピールできることないのかよ、ひとつくらい。
「特技は、ピアノ。『bloom』って、知ってますか? あそこ、俺ん家なんです。ちまっこいカフェなのに、母さんの趣味でピアノ置いてるんですよ。ちっちぇー頃から習わされて、最初は嫌いだったんですけど、……今は、結構好きです。兄貴みたいに完璧じゃないけど、それでも、好きです」
自分のバイト先のことを知らないはずがない。
わかってる。嫌になるくらい、わかってる。
俺が兄貴に勝てることなんてひとつもない。
「俺、兄貴いるんです。5つも離れてるけど、すっげえ優しくて、頭良くて、カッコ良くて、なんでもできる自慢の兄です。4つ上の姉もいます。姉貴は怖えしうざいから苦手だけど、でも、嫌いじゃないです。なんだかんだ言って、可愛がってくれてんだと思います」
「……うん」
咲乃さんの声は優しい。いつも優しい。
だから兄貴に届かない。
兄貴は酷いやつなんだ。本当に酷いやつなんだ。
そんなことに安心していた俺は、もっと酷い。
「兄貴の卒業式の日、貴女を見かけました。すごく悲しそうで、でも、笑ってて。なんていうか、――綺麗だと、思いました」
ずっと、気になってしかたなくて。
「一年後の春、姉の高校で、貴女に会いました。同じ満開の桜の下、友達と、とても楽しそうに笑い合う、貴女がいました。思わず声をかけて、でも言葉が続かなくて、俺は、逃げ出しました。……覚えて、ませんよね?」
ごめんね、と謝られる前に息をつぐ。謝られたら俺は死んでしまう。
「俺は、覚えてます。このまま死ぬんじゃないかってくらい、緊張して。初めて聞いた貴女の声が、ずっと、耳に残って。ああ、どうしようもなく好きだなあ、って、気づきました。強く、穏やかに微笑む貴女に、焦がれて、憧れて、ずっと、見てました」
見てたってなんだよ。見てたよずっと。気持ち悪いかな。気持ち悪いよな。最初は陰から盗み見るだけで、声もかけられなくて。兄貴や姉貴を介して顔を合わせれば、憎まれ口叩くくらいしかできなくて。俺はいつも逃げてばかりだった。
「今日は、もう、逃げません。あの日聞き損ねた貴女の名前、教えてもらえますか?」
「咲乃。……須藤、咲乃です」
「須藤咲乃さん。俺は、貴女が好きです。今でもずっと、好きです」
咲乃さんの顔が見れない。
「本当は、俺じゃだめですかって、言いたかったんですけど。でも、俺、そんな度胸なくて。でも、知って欲しくて。ただ、……知って欲しかった、から。だから」
堰を切ったように溢れ出した言葉は、不恰好で、とりとめもなくて、途中でやめたら二度と話せないと思って。
「あの」
言葉が喉に絡まる。
だめだ。もう。これ以上は。
「やっぱり、俺じゃ」
おい馬鹿わかってることを聞くなよ。せめてこの人を困らせるな。
「よくないよ」
優しい死刑宣告。
おそるおそる目線を上げれば、穏やかに、柔らかく、ほんのすこし寂しげに、咲乃さんは笑う。
ほら。だって俺が知ってるのはそんな顔ばかりで、いつもその視線は兄貴の背中を追っていた。泣くなよ。咲乃さんだって兄貴の前では泣かなかったのに。糞兄貴なんて泣いて困らせてやればよかったと思うけど、咲乃さんはだめだ。誰かのために傷つける人だから、この人はいけない。
「よくないのに、……ずるいなぁ」
「ぅえ?」
涙声をごまかそうとして情けない音が出る。なんだ今の。締まらないにもほどがあるだろ。
「私ね、少し前に志葵さんと話したの。どうして俺だったの? って聞かれて、私は答えられなかった」
我が兄ながらなんて意地の悪い。あの野郎、と思いつつ、志葵なら言いかねない。凛さんと付き合いだす前だって酷いものだった。
「たぶん、憧れ、だったんだと思う。それ以上のなにかだったのか、私にも、わからなくて。……だから、紹巴くんは、すごいね」
嘘だ。咲乃さんがどれだけ真剣に兄貴を想っていたか、俺は知ってる。あなたより知ってる。あんなに酷い兄貴のことを、いつも優しい目で見守っていた、あなたの方がずっとすごい。
「ごめんね。酷いこと言ってもいい?」
「なんでも、いいですよ」
鼻をすすり、やけっぱちな気分で言う。煮るなり焼くなり好きにして。あなたが何をしてもしなくても、俺の心臓は勝手に跳ねる。2年間拗らせた思いの丈をぶちまけて、抜け殻みたいに萎れた俺に、咲乃さんは言った。
「あなたを選んでみたいと、思ってしまった」
2013年頃、書きたくて書いた紹巴の告白シーン。