アルストロメリアの百夜通い(3)
暗幕を閉めた体育館内は、薄暗かった。
十分、なかの様子は視認できるけど、授業で立ち入るときとはかなり雰囲気が違っている。土足で踏み入れるように、床に敷きつめられたシートのせいかもしれない。
館内へ入ってまもなく、数歩もいかぬうちに、焦った声が私たちを迎えた。
「三井先輩! どこいってたんすか」
駆けよってくる生徒に見覚えはないけど、たぶん、生徒会の関係者だろう。
首もとに締めるタイは青色。――二年生だ。
さっぱりとした黒の短髪に、くりっとした瞳が純朴そうな印象を与える。
彼に着目してすぐ、制服の左袖に輝く、蛍光イエローの腕章に気づいた。三井先輩とおなじもの――ということは、役員の目印なのかな。
「はいはい。なに? トラブル?」
「プロジェクター映んねえんですけど」
「嘘。テストのときはちゃんと映ったよ」
体育館のロフトから吊りさげられたスクリーンには、無愛想なエラーメッセージが表示されている。
光源をたどって、ノートパソコンに接続されたプロジェクターが目に入った。
運びこまれた折りたたみ机の上に、いくつかの紙の束とならんで、鎮座している。
となりのパイプ椅子には、せわしなくキーボードを叩いて操作を試みる女子生徒の姿も。
リボンの色はわからないけど、左腕に輝く腕章が彼女の立場を伝えてくれる。ツインテールの髪を前方に垂らしながら、パソコン画面とにらみ合っている様子は真剣そのものだ。
男子生徒が指さす方向を眺めて、三井先輩は、額を押さえた。
「あー、それパソコン違うわ。もう一台はどこやった?」
「まじ? やっべー、会室置いてきた……」
心あたりがあるのか、サッと顔色を変えた男子生徒は、おどおどと視線をさまよわせた。
「先輩。どうしますか?」
会話を聞いて、パソコンから目をあげた女子生徒が、三井先輩の指示をあおぐ。
身体の向きが変わって、見えたリボンの色は青。――彼女も二年生、らしい。顔だちはやや幼めで、うっかりすると中学生にも見えてしまいそうだ。
壁時計をすばやく確認した三井先輩が、きっぱりと指示を出す。
「まだ間にあうよ。和樹。すぐいって」
「や、でも」
「大丈夫、適当につなげるから。20分で戻ってこれるね?」
「すんません。お願いします」
ペコリ、と頭を下げた男子生徒――和樹先輩というらしい――は、私とせれなをチラリと一瞥して、慌ただしく駆けていった。
その背中を、二年生らしい先輩が呼びとめる。
「和樹! 鍵!」
「うわ、そうだ。先輩、誰が持ってるかわかります?」
「たぶん三倉が――」
三井先輩の声にかぶさって、体育館の扉がガラリと開いた。私たちの入ってきた正面入口とは違う、下駄箱を経由しない後方の扉だ。
誰かが、戸口に立っている。外の光を背にしているせいで、顔の判別はできない。ここからは、距離もあるし。
……でも。
すらりと縦に長いシルエットを見て、私の頭は即座に答えを導きだしていた。
あるいは、希望的観測ってやつかもしれない。
「志葵先輩! ナイスタイミングっすね」
戸口のそばに迫っていた和樹先輩が、叫びながらすっ飛んでいった。
まるで、飼い主をみつけた犬。全力で左右に振られる尻尾の幻覚を見た。たぶん、犬種は、ゴールデンレトリバー。
「タイミング?」
やっぱり、志葵先輩の声だ。大きくはないけど、凛と響いて、よく通る中低音。柔らかく甘みを帯びた声色に、どきりと胸がはねた。
さりげなく後輩を退けた志葵先輩は、戸口の前で立ち止まっていた。よくわからない状況に戸惑っているようだ。
「鍵! 会室の鍵持ってません?」
「あるけど……開始まで、30分切ってる。そろそろ誘導の準備だろ?」
「いや、そうなんすけど、とりいくもんがあって……」
しどろもどろに言いつなぐ和樹先輩は、自分の失態を適当にごまかしておきたいようだった。
穴の空いた説明は要領を得ない。志葵先輩があらためて問う前に、きっぱりとした声が割って入った。
「スライドショー用のパソコン間違えたんだって。とりにいかせるから、鍵渡してやって」
いつのまに近づいたのか、三井先輩がふたりの間にはいる。
「間にあうの?」
「多少押しても、なんとかつなげれるでしょ? 無理ならプログラム入れ替えてもいいし」
「……ちなみに、つなぎ役は?」
「瑛二と三倉」
さらり、と答えた三井先輩は、当然でしょう? といわんばかりに首を傾げる。
ため息を返答に変えた志葵先輩は、そわそわと所在なさげにしていた和樹先輩へむけて、なにかを投げた。
反射した金属光。たぶん、あれが鍵だろう。
「和樹、ダッシュ」
「すみませんいってきます!」
受けとった和樹先輩は、今度こそわき目も振らずに飛びだしていった。
彼を見送ってから、くるりと踵を返した三井先輩は、置いてけぼりの私とせれなに向けて手のひらを合わせた。
簡単な謝罪のジェスチャーに、あわてて首を横にふって答える。
一連の流れがあまりになめらかで、すっかり観客のように見入っていたのだ。さすがは三年生の役員というべきか、トラブルへの対処が淀みない。
パソコンを閉じたツインテールの先輩が、パイプ椅子から立ちあがった。
「私、外で待機してますね」
「ありがとう、麻友。一年生がきたら、連絡してくれる?」
麻友、というらしい二年生の先輩は、三井先輩の言葉にうなずくと、私たちの入ってきた入口から外へ出ていった。
最初から最後まで、私とせれなの存在には一切触れないまま。黙ってキーボードに向きあっていた様子からして、かなり冷たい印象を受ける。
大人しい、というよりはクール。容姿は幼くも見えたけど、迷いない足どりはキビキビとしていて、第一印象をことごとく覆す。
……あの人も、生徒会役員なんだろうな。
「迫力ロリ……」
ボソッと呟いたせれなの言葉に、うっかり吹きだしかけた。
リアルお嬢さまが、なにを言う。
幸いなことに、私以外にせれなの声を聞いた人はいないみたいだったけど。
「ごめんね。ちょっとたてこんじゃって」
苦笑しながら、三井先輩が戻ってくる。その後ろからは、志葵先輩もついてきて、思わず身がこわばった。
一歩一歩、近づくたびに、緊張感が増す。
右隣に立つせれなの視線は、志葵先輩に釘づけだ。網膜に焼きつけるような勢いでガン見している。
私にはとても真似できなくて、逃げるように視線を三井先輩へ固定した。
トレードマークの赤縁眼鏡をくいっと持ちあげて、三井先輩は息を吐きだす。
「はあー、今回は完璧にいけると思ったんだけどなあ」
「始まる前からなに言ってんの。ツメが甘いのはいつものことだろ」
「だよねえ。あーあ、さっそく反省会の議題が増えた」
がっくり、と大げさに肩を落とした三井先輩を、志葵先輩がクスクスと笑っている。
うっわ、笑顔。すこし口角をあげただけで、ほとんど喉が震えてるだけなんだけど。視線が吸い寄せられる。
パーツの配置が完璧なんだ。ひとつひとつとっても十分に及第点を超えるけど、なにより全体の調和。バランスがずば抜けている。
あらためて近くでみれば、本当に粗がない。整然とした美形っぷりに、せれなとふたり、ボーっと見とれていた。
……うん、わかるよ。気持ちはわかるけど、せれな。興奮ぎみに腕叩くのやめて。痛い。
目尻の跳ねたアーモンドアイと、不意に視線がぶつかる。
「一年生?」
志葵先輩が、いぶかしげに尋ねる。一度、視線がすこし下がったのは、私たちのリボンの色を確認したんだろう。
ああ、ほら。やっぱり私のことなんて、覚えてない。彼にとっては、なんてことない小さなできごとだから。
わかってはいたけど、少しだけ胸が痛かった。
口内にただよう苦味を飲み下して、なんとか愛想笑いを形づくる。
それでも、もう諦めてしまおうという気持ちは湧いてこなかった。
志葵先輩が目の前にいる。彼の視界に、彼の世界に、入っている。現金な心臓は、それだけで足踏みを早めていく。
ああもう、どうしようもない。
惹かれてるんだから、しかたない。開きなおって、志葵先輩の視線を正面から受けとめた。
「そう。体育館の外で見かけたから、ナンパしてきちゃった」
ペロリ、と舌を出して答える三井先輩に、焦ったのは私たちのほうだ。
「すいません、あの、私たち」
「いいよ。どうせ三井が引きずりこんだんでしょ? こいつ、後輩フリークだから」
「ふりっ……」
言葉に詰まって、三井先輩をあおぎ見る。
当の先輩は、志葵先輩の言葉を気にする風もなく、私の肩を捕まえた。思いがけず密着するかたちになって、戸惑う。
反対側の腕には、せれなが捕まっているようだった。先輩の身体の影でよく見えないけど。私たちの間へ、後ろから割りこんだ体勢になっているんだろう。
「かっわいいなあ。ね、三倉。後輩って、なんでこんなに可愛いんだろう?」
「三井。困ってる」
あきれた口調で、志葵先輩が言う。
眉をひそめた表情ですら様になる。イケメンって得だなあ。――って、違う。見惚れてどうする。
じわじわとのぼる熱を感じながら、おっかなびっくり口を開いた。
「えーっと、……。準備、途中ですよね。なにか、手伝うことありますか?」
なにか会話を。と思ったのに、とっさに浮かんだのは『善意の手伝い』という、せれなに用意された口実だけだった。
きょとん、と目を丸くした志葵先輩は、くすりと笑う。
――笑った!
今度こそ笑った。ちょっと目もとにしわを寄せて、ひょいと口の端をつり上げて。この表情には覚えがある。
ほんの少しだけ思案するような、柔和なほほ笑みが、いつかの面影とピタリと重なった。
「いや、もう終わってるよ。あとは誘導くらいだけど、新入生にやらせるわけにはいかない」
会場の設営はもう終わっていて、残っているのは、スライドショーの準備だけなのだという。
つまり、さっき走っていった和樹先輩が戻ってくるまで、なにも進めることができない。
それで、開会の前倒しをするわけにもいかなくなったから、宙ぶらりんな時間ができてしまったようだ。
肩にまわされた三井先輩の腕に、わずかに体重がかかる。
「そうそう。だから、ちょーっと癒し成分補給させてよね」
ふたりまとめて抱きつかれて、身動きがとれなくなる。より密着した背中から、温かい人の体温と、女性の柔らかい感触が伝わってくる。
そうして、満足げにくっついていた三井先輩は、ふと思い出したように顔をあげた。
「あ、三倉。この子たちの名前わかる?」
とつぜんの流れに、ギョッとして暴れるけど、離してはもらえない。
当然のように志葵先輩は、けげんな表情を浮かべた。
「名前もなにも、初対面なのに知るわけ――」
「忘れたの? あれだけ瑛二に言われたのに」
反論しようとしていた志葵先輩が、ぴたりと閉口した。
薄く引きむすんだ唇が、まさか。と音にしないまま形をたどる。目頭を押さえ、記憶をたどるようなしぐさをして――。
「『セレナ』と『リン』?」
ひとそろいのテンプレートのような口調で、彼ははっきりと口にした。
……どきり、と心臓がはねる。
なんて、現金な。きっと、その半分も口が正直だったなら、もっと楽に生きられるのに。
「正解。どっちがどっちかは?」
「わかるわけないだろ」
あきれた口調で言い捨てて、志葵先輩は、肩をすくめる。
「私が、せれなです。久澄せれな。こっちが、足立凛」
一歩。せれなに背中を押されて、よろめきながら前にでる。
「え!?」
――なにするんだ、この見掛け倒しお嬢さま!?
私は、完全に硬直していた。
「あー、……まあ、覚えておくよ」
あいまいな微笑を浮かべて、志葵先輩は、いってしまった。たぶん、誘導のほうに、向かうんだろう。
「三倉! ついでに、瑛二ひっぱってきて」
「了解」
振りかえらないまま答えて、志葵先輩は、体育館を出ていく。
「じゃあ、ふたりも、そろそろクラスの方に行ってもらっていい?」
「あ、……でも」
結局、なんの手伝いにもなっていない。
目を見合わせた私たちに、三井先輩は、華麗なウィンクを飛ばした。
「今日は、あなたたちがお客さま。まずは、この会を楽しむこと! それが一番の仕事」
軽やかに言いはなった三井先輩は、それから、すこしだけ真面目な顔をして、つけたした。
「それで、もし、生徒会に興味があるんだったら、補佐やってみない? 来年以降の引き継ぎもあるし、仕事をみて覚えてもらえるなら、すごく助かるなあ」
「え、……いいんですか?」
「補佐の枠は、だいたい空いてるからね。やりたがる人もそんなにいないし……って、こんなこと言ってちゃだめか」
いたずらっぽく笑った三井先輩が、私たちの背を押す。
「返事は急がないから、ゆっくり考えて。――さ、いってらっしゃい。楽しんでくれるとうれしい」
そのまま追いたてられるように、体育館を裏口から出た。
2012年の短編『散りゆく徒桜に、微笑みを。』主人公・紹巴の兄・志葵と凛の高校時代の話。
このへんで少女漫画を描きたい欲が満足した。