アルストロメリアの百夜通い(2)
Spring:2
今日の私は、運が悪い。
テレビでやってたお天気お姉さんの占いから始まって、パンは焦がすわ、電車は寝過ごすわ、散々だ。
水たまりを踏んで靴下が汚れたかと思えば、すれ違いざまのクラスメイトに背中を叩かれて転びかける。
なんとか遅刻をまぬがれようと階段を駆けのぼっていたら、最上段を踏みはずした。
その途端にチャイムが響きわたって、結局、一時限目には間にあわず。今日に限って嫌味な数学教師の授業だし。課題は追加で出されるし。
憂鬱な気分で迎えた昼放課には、弁当を忘れたことに気づいた。
……ほんと、踏んだり蹴ったり。
「最悪だ……」
せれなが分けてくれたおにぎりをほおばりながら、ぐったりと机に伏せる。行儀悪いけど知ったこっちゃない。
「大丈夫? 凛」
「もうやだ。帰りたい!」
ゔあー。とうなって足をばたつかせる私に、せれなは苦笑した。
今朝からの災難についてはひと通り愚痴り終わって、もうなにか話す気力さえない。
「たしか、一昨日もそんなこと言ってたよね」
せれなが、人差し指をあごに添えて、うーん、と考えるそぶりを見せる。一歩間違えなくてもぶりっ子だけど、この子は嫌味なく自然にそういう仕草をする。
一昨日。考えなくたってわかる。忘れようもない。
「あれは、せれなが――」
「そうそう! シキ先輩に会いにいったんだよね! ……会えなかったけど」
せれなは、しょんぼり、と肩を落とす。非難の言葉を投げる気になれなくて、ため息とともに飲みこんだ。
なんていうか、憎めない。この子を前にすると、ムキになるほうが馬鹿らしく思えてくるのだ。ある種の才能だと思う。
よっぽどファンなんだな――と思いながら身を起こして、ちらりと、窓の外の桜木を眺める。
たった二日で、最後にしがみついていた花片は、ほとんど落ちきってしまっていた。いまは、新たな季節の幕開けを告げる新緑が、老木を飾っている。
瑞々しい立ち姿。パッと目を引く可憐さは失われても、やはりこの木は美しい。のびやかな枝ぶり。内側からにじみ出るような高潔さは、人々に愛されるにふさわしい。
輝く若葉に、綺麗なアーモンド型の猫目が重なって見えた。
会えなかった。せれなはそう言うけど、彼はいた。私は、シキ先輩の姿をたしかに見た。近藤先輩と並び立つ、すらりとした長身を。
「ねえ、せれな。シキ先輩の名前ってどんなの?」
「シキ先輩のフルネーム?」
せれなが、きょとんと首を傾げる。本当に、ふわふわっとした、お菓子のような女の子だ。見た目だけは。
柔らかいウェーブのかかった髪が揺れるしぐさが、よく似合っていた。自分が同じことをしたら、と想像して、ぞぞっと悪寒が走った。無理。絶対。
かといって、この友人がおしとやかかっていったら、もちろん違う。思いのほか、お転婆だってことが、よくわかってきた。
いまだって、せれなは、椅子に逆向きに腰かけて私の机に肘をついている。遠慮なく。
授業中ですら、ほとんど船をこいでいるか、つっぷしているような彼女だ。放課だって、姿勢よく座っているはずがなかった。
せれなの視線が、つい、と持ちあがる。
「前も言わなかったけ? サクラ、シキ。ちなみに妹ちゃんがアカネ、それから弟くんがジョウハ」
「いや、えっと、そうじゃなくて……」
案の定、リサーチが細かい。兄弟の名前まで暗記してるとか、……そういうものなの? 常識?
でも、聞きたい情報とは違う。どう言えばいいんだろう。しどろもどろになりながら、考える。
「字は、どう書くのかな、って」
せれなは、丸い瞳をぱちぱちとまたたかせた。
「めずらしー。凛、興味なさそうだったのに」
「うん、まあ……。せれな、知ってる?」
「もちろん! ちょっと待ってね」
語尾に星でもついてそうな口調だった。せれなは、すばやく身体をおこし、自分の机に向きなおる。
そのままゴソゴソと机のなかをさばくって、ルーズリーフを一枚取りだした。転がっていたシャーペンをつかんで、紙の上をなめらかに踊らせていく。
楽しそうな背中を、私はあぜんとして見守っていた。
「はい!」
目の前に差しだされたルーズリーフを、見下ろす。
――三倉志葵。
可愛らしい丸文字が、四つ。綺麗に並んでいる。
「三倉志葵……先輩」
音と、文字が、ようやく結びつく。
やっぱり、あのときの先輩は。
「――で、凛」
「へ?」
せれなのキラキラスマイルが、視界一面に広がる。
嫌な予感に、背筋が凍った。
「志葵先輩に、興味あるんだ?」
反論しようとして口を開けて、でも、なにも言葉が出てこない。
じわじわと上る熱が、首を侵して、顔に届く。
「わ、真っ赤! ……ね、凛。どういうこと? この前まであんなに興味薄そうだったのに。ねえ?」
「だ、……違……そうじゃ」
「りーん!」
身を乗りだしてくるせれなから、のけぞって必死に距離をとる。
だけど、せれなはどこまでも追ってきて、にへにへと――言っちゃ悪いがきみの悪い笑顔を浮かべている。
「話すまで逃がさないよ?」
蘭々と輝くせれなの瞳に、私は完敗を悟った。聞くんじゃなかった。
ほら、やっぱり……今日の私は、ついてない。
*****
「へえー。入試のときに? すっごいじゃん、それ! 運命感じちゃうよね? 惚れた? ね、凛。志葵先輩のこと、好きでしょ?」
「どうしてそうなんの……」
ひとりでテンションを上げるせれなに、疲れはてた声で突っこんだ。
もちろん聞く耳なんてもたずに、せれなは、きゃあきゃあと盛りあがっている。どうして女の子って、こうなんだろう。
ひとたび恋愛話となると、本人の都合なんてそっちのけで大騒ぎだ。真偽のほどはどうでもよくて、勝手な想像で話が進む。
毎度のことだけど、とてもついていけない。まして、自分が矢面に立たされるなんて。たまらなかった。
「そっかあ、生徒会だもんねえ。手伝いに駆り出されてたのかなあ」
「生徒会?」
ぽけー、と口を開けた私に、せれながピタリと動きを止めた。
「凛……まさか、知らない?」
信じられない! とせれなは両手で口をおおうけど、こっちこそ意味がわからない。
だって、私は、サクラシキという名前すら知らなかったのだ。学内の噂話に極端にうといのは自覚してるけど、せれなだってわかってるはず。今更だ。
「志葵先輩っていったら、信任投票で九割以上の得票した伝説の役員だよ! 一年生で補佐、二年生で書記。で、今年が副会長! 三年連続で役員についてるのなんて志葵先輩くらいだし、対立候補が出馬諦めるくらい圧倒的な支持を集めて――」
「わかった! わかったからちょっとストップ!」
とんでもないスピードで回転をはじめたせれなの口を、慌てて手のひらでふさいだ。
早口すぎて、半分以上聞き取れない。なにを言われてるのか全然わからなかった。
むすっとふくれっ面をするせれなに、なんとか拾えた情報の一つをたしかめる。
「志葵先輩が、副会長ってこと?」
伝説がどーのとか、支持がー、とか聞こえたけど、正直よくわからない。
今期の役員が選出されたのは、私たちの入学前のことであって、生徒会と関わる行事なんて、まだなにも行われてない。
だから当然、役員の顔なんて知らないし。そもそも、生徒会ってなにやる組織? ってレベル。裏方とか?
「そう! 入学式のとき、在校生代表であいさつしてたじゃん」
「うそ……寝てた……」
式の記憶がまったくない。来賓の話にあきあきして、たぶん、そのまんま。最後まで目覚めなかったんだろう。
せれなの話では、うちの学校の伝統で、学年首席の志葵先輩は壇上に立ったらしいんだけど……なんのことだか、さっぱり。
一年生のなかで志葵先輩の知名度が高いのは、その影響が大きいらしい。てっきり、部活かなにかで目立っているのかと思ってた。
そのぐらいしか、上級生との接点が思いつかなかったのだ。
「はあー。名前覚えてないだけだと思ってたのに」
あきれたように息をつくせれなは、そのままグーっと背筋を伸ばした。組んだ手を高くあげて、胸をそらす。
……意外に、大きい。
なにがとはあえて言わないけど。細っこくて華奢なわりには。
ブレザーの胸元をつい凝視してしまった私は、ハッと我にかえって視線をはずした。待て待て待て。なにを考えた、私は。
だめだ今日。頭が沸いてる。
べしり、と額を叩いて、会話の内容に意識を戻す。
「生徒会役員なんて、ぜんぜん知らなかった」
「うーん、ほんとは私もよく知らないんだよね。志葵先輩が副会長で、近藤先輩が会長ってことくらいしか」
おどけて肩をすくめるせれなには悪いけど、私はそこでもう一度固まった。
「近藤先輩って……一昨日の……?」
パクパクと口を開け閉めしながら、ちょっと強面で、でも笑顔が爽やかな先輩を思いだす。フレンドリーで、人気のありそうなひとだとは、思ってたけど。
――生徒会長のイメージかって言われたら、違う。
私の勝手な想像だけど、生徒会ってもっと、固っ苦しいというか、生真面目というか。
学校運営に力を注ぐっていう時点で、なんかもう、教員の言うことをハイハイって聞いてる優等生なイメージが浮かぶ。
眼鏡とかかけてたりとか。きっちり制服着てたりとか。いやもう、ほんと偏見だけど。成績優秀な人の内申点稼ぎじゃないの? って、どっかで思ってた。
ひねくれた見方だけど、私の中学では、少なくともそんな感じの組織だったのだ。たぶん。
「うん、近藤瑛二先輩。あの二人ね、生徒会関連でよく一緒にいるの」
「おなじクラスってだけじゃなくて?」
「そうだね。二人とも、他にすごく親しい相手は決まってないみたいだから……親友? なのかなあ」
親密そうに話していた様子を思いだす。
整った容姿で、しかも背の高い二人だから、並んでいるとかなり迫力があった。
あのときは余裕がなくて、周りなんかわからなかったけど、たぶん注目の的だったはずだ。割りこんでいこうとは思えない空気感。
孤立しているわけじゃないけど、まるで。
「……人気、あるんだね」
簡単には近づけないような、世界の溝を感じた。
どうしてだろう。近寄りがたさがあるわけじゃない。なのに、二人が揃うと、途端に遠くなる。
入試の日には感じなかった隔たり。三倉志葵。副会長で、首席で、かっこよくて。……とても、親切な先輩。
知れば知るほど、できすぎた存在に戦慄する。
そして、近藤先輩は、彼の隣にいても見劣りしないだけの魅力を持った人だ。太陽と月のように、違う種類の輝きをまとう人たち。
――遠い。
だって、私は、どうやっても志葵先輩のそばにいる自分を想像できない。
がやの一員として眺めることはできても。あるいは、ひとりの後輩として話しかけることはできても。
近藤先輩とおなじ位置に、自分が存在する状況なんて、考えられない。
「志葵先輩は……みんな、騒いではいるけど、本気で恋してるわけじゃないと思うよ? なんていうか、理想の王子様? みたいな」
せれなが、めずらしく言葉を選びながら、黙りこんだ私を心配そうに見つめている。
「ねえ、凛。……会いにいこう?」
無言のまま首をふって、否定する。
あの空間にもう一度近づくなんて、無理だ。
「でも!」
「私のことなんて、忘れてるよ」
「そんなことないってば」
「覚えてない。絶対」
「わかんないじゃん、会ってみなきゃ!」
がたり、と立ちあがったせれなが、私の手首をつかむ。
そのまま勢いよく引っぱられて、椅子から腰が浮く。机に手をついて、なんとかバランスをとった。
「せれな!」
「それに」
せれなのパッチリとした二重の目が、間近に迫った。
目尻が心なしかつり上がっていて、その迫力にすこしひるむ。
「名前は覚えてくれてるよ。近藤先輩が言ってたもん。覚えさせとくって」
「そんなの……」
「あのね、凛。志葵先輩って、人の名前すぐ忘れちゃうの。顔は覚えてるらしいんだけど、クラスメイトの名前聞いたってわからないんだって」
予想外のセリフに、思わず目を丸くした。
名前を……忘れる? 首席なのに? 生徒の代表、役員なのに?
あのとき、近藤先輩はたしか、「俺からのサービス」といってウインクをした。あの一言が、そんな意味を持つものだなんて思わなかった。
「わかる? これ、すっごいチャンスなんだよ」
せれなが、真剣な顔をして言うもんだから、とっさに言葉につまった。
だけど。
私はもう一度、首を左右に振った。
「行きたくない」
だって、遠いんだ。すごく、高くて、遠い。
見てほしいって、思うけど、そばにいきたいわけじゃない。覚えていてほしい? 名前を? 私を? そんなことない。忘れられてたって構わない。
見ていたいけど、会いたくない。
わがままな感情。
本音と建前がぐちゃぐちゃに混ざって、もうなんだかよくわからない。
……怖いんだ。たぶん。
臆病な私には、志葵先輩に忘れられていることも、覚えられていることも、同じくらいに怖い。
彼のなかの自分を、知りたくない。
「凛……」
「ごめん、せれな。私……無理だよ」
力なく笑った私に、せれなは泣きそうに顔を歪めた。
「ほんとにいいの?」
瞳を潤ませながら、より一層強く、私の手首を握る。
私はそれには答えずに、そっと、せれなの指をはずした。握力の弱いせれなの手から、簡単に手首は解放される。
行き場をなくしてさまよっていた白い小さな手は、やがて、ぐしゃりと私の髪をかき回した。
「……凛の馬鹿。嘘つき」
ごめん。声に出さないまま呟いて、しばらくせれなの好きにさせていた。
*****
そういえば、今日の放課後には、新入生歓迎会が予定されていることを思いだしたのは、五時限目が終わる間際だった。
退屈な時代背景を書き連ねていた国語教師が、チョークを置く。
「今日はここまでにするから、早めに移動してね。来週、課題忘れないように」
パンパンと両手の粉を落としながら言った彼女は、手早く教材をまとめて去っていく。
なんのことだか、一瞬わからなかった。おとなしく席についたまま、春色のカーディガンを羽織った背中を見送る。
……移動、するの?
「凛! 早く荷物まとめなきゃ、新歓はじまっちゃうよ?」
「あ、そうか」
せれなに急かされて、今朝の連絡事項を思いだす。
放課後、第一体育館、新入生歓迎会。
断片的な記憶だけど、とりあえずは十分な情報がよみがえる。
なんで忘れてたんだろう、と思い返して、そういえば遅刻したことを思いだした。……そっか。後からせれなに聞いたんだ。
机の中身を適当に放りこんで、鞄を閉じる。
私が立ちあがるタイミングに合わせて、せれなは絶妙なスタートダッシュを切った。
「早く、凛!」
「ちょっと、なんでそんなに急ぐの?」
わけがわからないまま教室を飛びだして、必死でせれなの背中を追う。
廊下を全力疾走。階段を駆けおりて、コーナーを曲がって、昇降口を抜けて。校門わきの第一体育館までの最短ルートを、駆けぬけていく。
「せれな!」
チェックのプリーツスカートが、膝上の丈で揺れている。油断するとめくり上がりそうで怖い。……どうせ下、履いてるけど。
ニーハイソックスを履いた細い足が、驚くべきスピードで前後している。
足にはそこそこ自身あったんだけど、なかなか追いつけない。せれなの運動神経はお世辞でも良いとは言えないから、かなり必死に走ってるんだろう。
重くなってきた足に鞭をうって、ようやくせれなに並んだ。
「っはあ……なん、……走……」
息がきれてうまく話せない。
「凛。新歓って、生徒会の行事なんだよ」
「それが……なに……」
あきれた。この子、ぜんぜん息切れしてない。
スポーツテストさぼってるのか、疲れさえ飛んでるのか、知らないけどどっちにしろすごい。
「――役員なら絶対、先に行って会場の準備してる!」
「なっ……」
まさか。せれなの言葉に、度肝をぬかれて足が止まる。もつれかけたところを、またまた引っぱられて、強引に前へ。
見た目お嬢さまなくせに、横暴だ。
「私、会いたくないって――」
「なにが? 私たちは、善意で、自主的に、お手伝い、しに行くだけだよ?」
「せれなあ!」
半泣きになりながら必死で踏んばっていると、もめ事に気づいたのか、体育館のなかから人がでてくる。
まずい。もう逃げれない――。
そのとき。
「どうしたの?」
「っふわあぁ!」
後ろから、ぽん、と肩を叩かれて、せれなは大げさに飛びあがった。不意打ちにあげる声まで女の子らしいとは、さすがお嬢。
そのすきに、素早くせれなの手を振りほどいて、距離をとる。
それからようやく、せれなの後ろに立つ人物を確認した私は、運命の女神の気まぐれさを恨んだ。さりげなく空を仰いで、真白い雲を睨めつける。
「三井先輩……」
ぼうぜんと呟くせれなの横で、赤縁の眼鏡をかけた三年生が、きょとんと目を丸くした。
セミロングの髪を、右耳の後ろでゆるくまとめた美人。こざっぱりとした雰囲気を持つ、あの時の先輩だった。
「あれ、私のこと――って、ああ! このあいだの。……ええっと、凛ちゃんとせれなちゃん?」
「知ってるんですか?」
思わず口をはさんだ私に、三井先輩はニイッと口角をあげた。イタズラっぽい笑顔。すこしだけ、近藤先輩の笑い方にも似てる。
「そりゃあ、瑛二がところかまわず口をすっぱくして言い聞かせてたからね。あれだけ言われれば、三倉じゃなくても覚えるよ。あんまりしつこいもんだから、挙句のはてに、三倉が『男にストーカーして楽しいか』って! あの瞬間の瑛二の顔は傑作――」
つらつらと言い連ねていた三井先輩は、そこで置いてけぼりの私たちに気づいた。
「と。ごめんごめん」
広げた手のひらで口を押さえて、一言。
「生徒会会計の三井縁です。今日は、楽しんでいってね」
爽やかな笑顔とともに頭を下げた先輩に、私とせれなは固まった。
それもそうだ。落ちついて考えてみれば、この場にいる時点でその可能性は高かった。
ほとんどの三年生は、新歓に参加しない。例外は、部活動の勧誘と――主催側の役員だけ。まして、開始前となれば、答えは明白だ。
でも、まさか、たて続けに生徒会関係者と接触するなんて。
「先輩、役員だったんですね」
「そう。ピンチヒッターだけどね。昨年度の会計が、春から留学行っちゃってさ」
三井先輩が、やれやれと肩をすくめる。
「瑛二に頼まれたから、仕方なく。そのくせ、あいつ仕事しないし……っあー、今のなしね。忘れて!」
言葉は不満げでも、先輩の表情は柔らかい。ただのクラスメイトと呼ぶには、どこか親密な気配がただよっていた。
せれなは、めずらしく浮かない顔。そのまま、ふいに視線をそらしてうつむいた。
視界の端に映った友人の様子に、ぐっと喉がつまる。
そうだ。せれなは、やっぱり近藤先輩のこと……。
「まだ開始まで時間あるけど、なか入ってる?」
三井先輩は、腕時計を確認しながら言った。
そのしぐさを見て、ここに連れてこられた原因を思いだす。
ぴったりと閉じられた体育館の扉の奥で、新歓の準備は進められているのだろう。予定時刻はわからないけど、かなり早めに着いてしまったようだ。
……たぶん、せれなの目論みどおりに。
「あ、いえ、準備の邪魔になっちゃいますから」
「いいよー。ちょうど、予定より早く終わっちゃって、前倒ししようか迷ってたところだから」
「でも」
「たしか、このあいだ三倉いなかったんだよね? おいで」
いまなら繋いであげれるから。そう言って、三井先輩が踵を返す。
――志葵先輩。
適当な理由をつけて断ろうと思っていたのに、その名前を聞いただけで、言葉がでてこなくなる。
会いたくないと駄々をこねても、姿を見たいという誘惑は、消えてくれなくて。
ためらいなく、体育館の戸に手をかけた三井先輩を、呼びとめることができなかった。
「――行こう、凛」
バシン、とせれなに背中を叩かれて、よろけるように足を踏みだす。
せれなは、泣いてはいなかった。強い光をたたえた瞳で、まっすぐ、三井先輩を見ている。
それは、敵意とも違う、毅然としたまなざしだった。
そうだった。見た目は気弱そうなお嬢さまでも、中身は苛烈な行動派。沈んでいるヒマがあったら突撃するのがせれなだ。
にっこりと、いつもどおりの可憐なほほ笑みを咲かせて、せれなは走っていった。
春の日差しが、目を焼く。
まぶたを絞って、あわててせれなの背中を追いかけた。
――まぶしい。
それは、立ちどまって考えこんでいるのが馬鹿らしくなるような、暖かい輝きだった。