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砂場  作者: 本宮愁
2/17

アルストロメリアの百夜通い(1)

※2014年春、マツさん主催の新生活企画に寄稿した原稿です(原文ママ)

Spring:1


 春の訪れを告げた桃色の花片が、その役目を終えて風に飛ばされていく。

 舞いあがり、そして、散りつもる。


 私は、教室の机に頬づえをついて、その様を見送っていた。


 窓の外。校舎のわきに根を張って、大ぶりな枝を広げる桜木――うっすら苔むしたおじいちゃんは、校庭を静かに見守っている。


 窓際、前から数えて三つめの席。はじめの席替えの結果、クジであてがわれた。真正面に臨める桜の老木を眺めることが、いつしか日課になった。


 今年の開花は、特別遅かったらしい。4月のなかばにさしかかっても、まだ最後の花が落ちきらない。


 目に突きささる新緑の葉は、花が揃わないうちから木を覆いはじめた。どこか不恰好だけれど、生命力は過分に漏れている。元気なおじいちゃんだ。


 しゃがれた鐘の音が、鳴り響く。四度くりかえされるお決まりの主旋律を、ぼけーっと聞き流していた。



「起立」



 続くクラス委員長の号令に、ふと現実へ引きもどされる。ありがとうございました。クラスメイトにまぎれて、私もあわてて立ちあがり、心にもないあいさつを口にした。


 真っ白なノートと、几帳面な字の並んだ黒板を見比べる。書き写すことは早々にあきらめて、教科書一式をまとめて机の中に放りこんだ。


 そうして席につくなり、目の前の紺色のブレザーが勢いよく振りむいた。ウェーブのかかった癖っ毛が、軽やかに揺れる。ほのかに漂う甘い匂い。


 一拍遅れて、女の子らしく華やかな明るい声が届いた。



「――サクラシキ先輩って知ってる?」



 脈絡のない問いかけに、私は、きょとんと目を丸めた。

 朝の気だるさが抜けきらない、一時限目の終了直後。にわかに浮つきだした教室内での第一声が、それ。


 机をはさんだ向こう側。いつになく明るく顔を輝かせた少女、久澄ひさずみせれなが、ぐっと身を乗りだしてきていた。



「は?」

「あ、やっぱり知らないんだ。凛、そういうウワサ興味ないもんね。あのね」



 ぽかん、と口を開けた私に、せれなは続けてまくし立てる。お嬢様ちっくな名前に甘やかな容姿。ブレザーの襟もとからのぞくピンクのリボンが、よく似合う。


 がさつで化粧っ気のない私と、乙女嗜好のせれな。なにもかも正反対な彼女とは、もちろん趣味も合わない。


 どうして一緒にいるのかいまだにわからないけど、そういうものなんだろうな、とも思う。


 冷めたところのある私は、結局、女の子とはうまくかみ合わないのだろう。


 ……そう思うんだったら話すのやめればいいのに。


 ほら。いまだってそんな、いじわるな思考が湧いて出る。


 そんな角が立つようなこと、口には出さないけど。表情に出ちゃうのはご愛嬌。朝が苦手なことを免罪符にして、不機嫌を貫く。



「ね、凛。聞いてる?」

「んー」



 生返事をする私に、せれなはむっと頬を張った。心なしかつきでた唇は桜色。


 美人という枠には収まらないけど、子どもっぽいくせが嫌味にならない程度には、可愛らしい女の子だ。やっぱり、私とは似ても似つかない。



「だから、シキ先輩!」

「だれ? それ」



 もー! と声を張り上げるせれなは、三度その名前を口にした。


 サクラシキ。


 めずらしい名前、っていうより、どなたの芸名? ってかんじ。源氏名とまではいわないけど、なんとなく華やかな名前だ。


 女の先輩だろうか。二年生か三年生か。入学したての私たちにまでウワサが届くくらいだから、きっと有名人なんだろう。


 名前だけじゃなく、本人も目立つのか。そう考えると、すこし笑えた。



「また聞いてないしー。せれな、今日初めてシキ先輩見たんだよ? 本物! すごく綺麗だし、かっこいいの! ウワサ以上だった」



 ふーん。と適当な相づちをうちながら、シキ先輩とやらを想像してみる。


 きっと、きっぷのいい姉御肌。才色兼備にちがいない。後輩の女の子に慕われるような、嫌味のない迫力美人で――なんだかどんどんおかしくなってきて、とうとう吹き出した。せれなの視線が痛い。



「凛!」

「ごめん」

「実物見れば絶対気が変わるって。昼休みあいてる? あいてるよね?」

「え、……まあ、うん」



 勢いに押されて、うなずいたのが運の尽き。


 嫌な予感に頬を引きつらせた私に、にっこりと、満面の笑みを浮かべる友人。――そして案の定。



「3年の教室で待ち伏せるよ」



 せれなは、堂々と、とんでもない宣言をした。



*****



 宣言どおり、午前終業の鐘が鳴るなり、せれなは教室を飛びだした。左手に、私の手首をしっかりと握りしめて。


 近頃ようやく道を覚えてきた校舎の廊下を、ずんずんとつき進む。見覚えのない領域にまで、ためらうことなく。その背中へ、私はあわてて声をかけた。



「ちょ、ちょっと。せれな、本気?」

「あったり前でしょう。ここまできて、帰るとかいわないよね? 凛」

「帰りたいよ!」



 手を離してもらえるのなら、いますぐに。



「だーめ」



 ステキな笑顔で一蹴したせれなは、とうとう三年のクラスルームが並ぶ廊下へと足を踏み入れた。突きささる上級生の視線に、いたたまれない思いで肩をすくめる。


 校舎のつくりはおんなじなのに、どうしてこんなにも異空間に感じるのか。入学して一月も経たないひよっこだっていうのが、一番大きいんだろうけど。


 まだ部活も決めていないし、三年生にしりあいなんてひとりもいない。


 偏差値の高いこの学校には、推薦でなんとか滑りこんだ。学力でついていけるのか、いまだ不安がつきまとう。あの難関試験をくぐり抜けた人たちかと思うと、それだけで怯んでしまう自分がいた。


 逃げるように視線を流した窓の外を、桜の花びらが舞っていく。――散り際の桜。若葉を残し、すっかりみすぼらしくなった木の足元には、咲き誇った痕跡がなみなみと積もっている。


 一瞬の栄華のあとには、せつない末路をたどる。でも、だからこそ愛される、美しくはかない花。


 強くて気高くて、私には似合わない。前にですぎない、一歩引いた楚々とした立ち姿は、優しげな和風美人のイメージに近い。


 シキ先輩。ひょっとしたら、桜みたいな人かもしれない。だったらきっと、私とは合わないな。勝手なことを想像して、苦笑いした。



「あ、ここだよ。3-E!」



 当然のように、所属クラスまでリサーチ済みらしいせれなに、ぐっと手を引かれる。


 軽くよろめいて、なんとか柱に手をついて体制を整える。ふう、と息をついた直後。――まさに、3年E組の戸口をふさぐように立っていることに気づいて、ぎょっと目をみはった。


 ずらり、とならぶ机には、思い思いに昼食をとろうとしている生徒たち。女子生徒が多く目につくのは、今ごろ男子生徒の多くは購買にダッシュしているからかもしれない。


 ブレザーの襟もとで揺れる、緑のリボン。さすが、県下随一の進学校なだけあって、目立った校則違反者は見当たらない。


 そのおかげもあって、怖いとか、そんなことはないんだけど。どうしよう、……気まずい。



「新入生、だよね。だれかに用事?」



 身がすくんで固まった私を見かねて、近くにいた先輩が声をかけてくれた。


 セミロングの髪を簡単にまとめた、優しそうな人だ。赤縁の眼鏡が似合っていて、さりげなくオシャレ。美人とまではいかなくても、なんていうか、愛嬌があって、ふしぎと目を惹かれるタイプだと思う。



「あ……、えっと」



 口ごもった私の横から、せれなが身を乗りだした。普段はおとなしいくせに、こういうときの行動力ったらない。



「シキ先輩いますか!」



 元気よく唱えたその名前に、赤縁眼鏡の先輩はパチパチと目をまたたかせた。それから、すぐにわけ知り顏でうなずく。



「なるほど、サクラ目あてね」



 せれなと私を見比べて、くすり、と笑む。私たちはふたりで顔を見合わせた。シキ先輩というのは、予想以上に有名人なのかもしれない。


 「ちょっと待ってて」と言って教室内に消えた先輩を見送ったとき、ふと、イントネーションの違いに意識が向いた。


 ――サクラ。桜。ちょっと違う。佐倉、かな?

 やがて、先輩はひとりの男子生徒を連れて戻ってきた。



「ごめんね、サクラいまいないみたいなの。こいつなら知ってると思うんだけど」

「あつかいひっでーな」



 ぶすくれた声をだす彼のタイは緑色。やはり、三年生のようだ。


 私が小柄なこともあって、見上げるほど背が高い。痩せ型ってわけでもないけど、縦に長いぶんだけすらりとした印象がある。


 こころなしか茶色がかった髪は、あきらかにワックスで遊ばせていて、なんとなく制服も着崩れてみえる。


 明るいムードメーカーっぽい雰囲気がする。垢抜けた容姿は、ひとまわり大人にみえて、でもそれが、なんだかちょっと近寄りがたい。


 「あとはよろしく」と言いのこして、赤縁眼鏡の先輩は席にもどってしまった。呼びとめる間もない。


 後姿もすらりとしていて、サバサバした感じがカッコいいな、と思った。姉御肌って、ああいうのを言うんだろうか。


 とり残された男子生徒は、やれやれといったしぐさで頭をかいた。こういうの、普段からよくあるやりとりなのかもしれない。



「きみら一年生? 三井の後輩?」

「ミツイ先輩……?」



 せれなが、きょとんとした声をだす。私にも聞き覚えのない名前だ。そっと首をかしげる。



三井縁みついゆかり。さっきまでここにいた、赤い眼鏡かけてたやつ。そうか、あいつお節介だもんな」

「え……あの」



 アイコンタクトでうながされて、せれなの代わりに答える。そういえばこの子、敬語苦手だって言っていた。



「困ってたところに、声かけてくれたんです。お礼伝えておいてください」

「いいよいいよ、そんなの」



 ひらひらと手をふった先輩が、適当な返事をする。



「で、シキに用があるんだって?」

「用があるっていうか、なんていうか……」



 助けを求めて、今度は私がアイコンタクトを送る番だった。だって、用事なんてないし。面識すらないし。私が会いたがっているわけでもない。


 一体、なにをしにこんなところまできたのか。せれなに流されるままにひきずられたこと、すくなからず後悔しているっていうのに。



「えっと、近藤先輩だ、です、よね」



 せれなが盛大に言いまちがえる。しまった、という顔をしてあわてて言いなおした彼女に、先輩は苦笑した。



「俺のことまで知ってるんだ? すげーね」

「あの、シキ先輩と、よく一緒にいるから」



 グレーゾーンな敬語を駆使して、せれなは精一杯頑張っていた。


 努力が伝わってくるから微笑ましいけど、ちょっとアウトなレベルだろう。敬語覚えたての中学生じゃないんだから。これ、大丈夫なの?


 ハラハラしながら見守っているのは、ちょっと胃が痛い。口を挟むつもりは、ないけど。



「先輩たち目立つから、有名です」

「喜んでいいのかな、俺?」

「え、いや、悪い意味じゃなくて! その」

「ごめん冗談。俺だけならまだしも、シキがセットなら安心ってね」



 いたずらっぽく笑った近藤先輩は、たしかに人気のありそうな容姿をしている。華があるというべきか、チャラいというべきか、微妙な線の。ただ、笑うと近寄りがたさが緩和されて、ぐっと親しみやすい印象になるんだけど……。


 そもそも二人の関係ってなんだろう。恋人? そんな甘い雰囲気は感じないけど、直接見たわけじゃないからわからない。美男美女カップルってなったら、そりゃあ目立つだろう。そうでなくても、並んで歩けば、きっと人目を引く。



「昼、うちのクラスにいないんだよ、シキ。去年までは教室で食べてたんだけど」

「そうなんですか?」



 思わず口をはさんだ私に、近藤先輩の視線が流れた。


 うん、まちがいなくイケメンだ。それも素材の生かし方をわかってるタイプ。きっと、モテるだろうな。私は苦手だけど。


 私の内心なんて露知らず、近藤先輩は、ひょいと肩をすくませた。



「妹が、今年から弁当作ってくれなくなったんだと」



 うわさのシキ先輩は、どうやら購買派に切り替えたようだ。


 うちの学校の昼食争いは、わりと熾烈なことで有名で、新入生には近寄りがたい。というか、シキ先輩って意外とアグレッシブ?



「まあ、そのうち戻ってくるとは思うけど」

「じゃあ、また出直します!」



 いないなら仕方ない。完璧な名目を手に入れた私は、真っ先にそう声をあげた。落ち着かない三年のクラスを離れて、はやくいつもの空間に戻りたい。


 ……ここで待つとか、言い出されたら冗談じゃないし。



「ありがとうございました」



 ぺこり、と頭を下げて、せれなの腕を引く。気が変わらないうちに、帰ろう。


 近藤先輩が出てきてからのせれなは、なんだか普段よりひとまわりおとなしい。扱いやすくて助かるけど、ちょっと調子狂うなあ。



「ふたりとも、名前は? シキに伝えとくから」

「伝えても、わからないと思いますよ。私なんて、会ったこともないので」

「俺からのサービス。あいつに名前覚えさせておくってどう?」



 ぱちん、と綺麗なウインクを決めた近藤先輩に、思わず笑ってしまった。


 キザっぽい仕草がサマになってるわけじゃないんだけど、不思議と似合う。ふざけてやっていることが、はっきりわかるからかもしれない。


 さっきから、ずっと黙っていたせれなが、ぱっと顔をあげた。



「久澄せれな!」



 キッパリと言いきって、どことなくキラキラしたまなざしで近藤先輩を見上げる。



「せれな、です。よろしくお願いします!」



 元気のいい宣言だった。うっすらと頬を染めながら、にっこりと笑った顔は、同性から見ても可愛らしい。


 思えば、あれだけ細かくリサーチ済みのくせに、昼どきに教室内にシキ先輩がいないことを知らないとは思えない。


 あれ、――もしかしなくても、せれなの目的って。


 邪推をめぐらす私をよそに、近藤先輩が、くしゃりと笑う。ああ、そっか。この人、笑い方に嫌味がなくて爽やかなんだ。外見のチャラさが薄れて、だから親しみやすくなるのかな。



「オッケー。任しとけ。そっちの子は?」

「私は、別に」

「凛! せっかくなんだから、ほら」



 せれなの右手が、私の背中をバシンと叩く。なんだこのテンション。しかもちょっと痛い。お嬢様なせれなはどこに消えたのか。……いや、この子もともとこんな子だっけ。



「……足立凛あだちりん、です」

「せれなちゃんと凛ちゃんね」



 渋々フルネームを口にした私にも、にこやかに近藤先輩は応じる。優しい人なんだろう。これだけ見目が良くて性格もいい。そりゃあモテるわけだ。


 せれなには悪いけど、関わりすぎるとかえって面倒になるかもしれない。すぐにそんなことを考える私は、大概計算高くて、ひねくれている。



「失礼します」



 もう一度軽く頭を下げて、掴んだままのせれなの腕を引いた。早く教室に戻らなきゃ、お弁当を食べそこなう。


 今度こそ、と踏みだした足は、数歩もいかないうちに縫いとめられた。



瑛二えいじ



 たった、一言。なのにどうしてか、全身の意識がさらわれてしまう。


 求心力のある声、とでも言うんだろうか。理屈ではなく聞きいってしまいそうな、甘い響き。一瞬、鳥肌が立った。


 それは、一度聞いたら忘れられないような。

 忘れたくなかった、だけかもしれない。


 ――だって、私は、この声を知っている。


 廊下の人ごみにまぎれながら、肩ごしにそっと振りむく。そうして、すぐに後悔した。



「昼、まだ食ってなかったりしない?」

「まだだけど、とり損ねたのか」

「いや。差しいれ貰ったんだけど、弁当あるから食えなくてさ」

「へえ。珍しいな」

「紹巴が弁当持ちだからついでにって、今日に限ってあるんだ」



 吸いよせられるように、その人を見つめてしまう。


 近藤先輩と並んで立つ、長身。紺色のブレザーの襟ぐりには、緑色のタイ。頭が小さい。足の長さに対する比が、普通の人とあきらかに違う。


 跳ねあがる心臓。

 一目惚れなんて、ただの幻想だと笑うだろう。

 いままでの私なら。


 ……でも、ダメだ。まるで圧倒的な光だった。そこにいるだけで場が華やぐような存在感に、目が惹きつけられる。



「そういや、シキ。さっきまでお前に会いにきた一年生の子が――」



 近藤先輩の言葉が終わらないうちに、あわててその場から逃走を試みた。キュッと踵を鳴らして、猛スピードでUターン。回れ右して、走る。



「え、ちょっと、凛?」



 困惑するせれなを引きずって、できる限りの速さで足を動かす。来たときとは逆だ。廊下を全速力で駆ける一年生に、周りの視線が集まるけど、かまっちゃいられない。



「急ごう、せれな」



 急がなきゃ。いつもの空間にまで戻ってしまえば、きっと見知らぬ感情はついてこない。


 ――シキ先輩。あの人が、サクラシキ。


 姉御でも大和撫子でもない。アーモンド型の猫目が印象的な、綺麗な人だった。困ったように垂れた眉も、ほのかにつりあがった唇も、絶妙なバランスで胸を騒がせる。


 欠点のつけようがない完璧な美貌とか、そういうのとは違って。ピカピカの芸能人みたいな近寄りがたいイメージでもなくて、……なんていうか、そう。


 ――万人を虜にする奥深い魅力は、どこか桜木にも似ていた。


 走る。走る。走る。

 めまぐるしく変わる景色に酔いそうだ。


 早鐘を打つ鼓動は全部、駆けぬけるこの衝撃のせい。息が乱れて、言葉にならない。苦しい。でも、立ち止まるつもりはなかった。


 あの人は、私の名前を覚えるだろうか。

 どうでもいいと思っていたのに。本当に、ついさっきまでは、そう思っていたのに。


 いまは、望んでしまう。


 ――三倉さくら先輩。桜でも佐倉でもなく、三倉。


 覚えている。あの日、死ぬほど緊張して立ちすくんでいた私の背を押してくれた、優しくて甘い声。穏やかな笑い顔。


 だって、まさか。

 あなたが、シキ先輩だなんて。


 ほんの一瞬、うつりこんだ横顔は、記憶に違わない。いつかの、名前も知らなかった先輩そのものだった。


 忘れもしない。忘れられるはずがない。

 でも、きっと――あなたは、忘れたのでしょう。


 荒い息をのみこんで、唇をかたく結ぶ。じわじわとこみ上げてくる涙は、嬉しさからくるものなのか、寂しさからか。


 わき目も振らずに逃走して、ようやく教室にたどり着く。戻ってこれた。やっと、いつもの空間に。いつもの私に。



「凛?」



 せれなの声に、はっとして腕を放した。ここまでおとなしく引きずられてきた友人は、きょとんとした目で私を見つめている。


 気がぬけて、そのまま崩れおちそうになる。なんとかこらえて、自分の席に、腰を落ちつけた。せれなも、遅れて自分の椅子を引いた。



「……なんでも、ない」



 言いながら、肘をたてて重ねた両手に、額をあずけてうつむく。


 まだ昼食をとっていない。急がないと、午後が始業してしまう。だけど食欲は、あまりわかない。


 ――どうした?

 ――午前の受験生? あー、時間まちがえたのか。いいよ、待ってて。

 ――俺? ここの生徒。

 ――大丈夫。間にあうから。

 ――ほら、泣くなって。自信もっていってこい。


 くりかえし思い浮かぶ、その姿。その声。その表情。もうダメだと思った。どうしたらいいのかわからなくなって、あきらめかけてた。


 そんなときだ。たまたま通りかかった見ず知らずの先輩に、救われた。追いつめられた心に、何気なく差しだされた手が、飾らない好意が、どんなにまぶしく思えたか。


 頭ん中ぐちゃぐちゃで、ろくに思いだせなかった当時の光景が、まざまざとよみがえる。


 ――よくあきらめなかったな。大丈夫。来年、会えるよ。


 紺色のブレザー。緑色のタイ。たったひとつの手がかりは、胸元にとまった「三倉」という名札。数少ない記憶のピースが、はまる。



「シキ、先輩」



 無意識に口をついて出た名前。とっさに口もとを押さえて、音を飲みこむ。熱がのぼっていく。首から、顔、耳。じわりじわりと、微熱が侵す。


 慌てて、コイバナに目がないせれなの様子をうかがう。こんなつぶやき聞かれた日には、根掘り葉掘り質問ぜめだ。


 せれなは、振りむくことなく、鞄をさばくって弁当を探している。聞こえなかったんだ。ホッと息を吐いて、顔をそらした。


 窓の外を流れる薄桃色の花びらを目で追った。散り際の桜は、それでもやはり美しい。どうどうとした老木に、目を奪われる。


 あれほど似合わないと思った楚々とした立ち姿が、いっそうまぶしく、輝いてみえた。


 たとえ合わなくても近づきたい、なんて。

 いまさら現金な、感情。


 理屈の通らない衝動は、異空間をぬけてもまだ、私のなかに巣食って心を焦がさせている。


 くすぶる想いは、静かに狼煙を上げて。

 ――火照る熱が、ひかない。

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