23:55
◇
「おっつかれー」
いつもの席につくなり、お通しと同時に届けられた生ビールのジョッキを掲げて雑にぶつけ合う。こぼれかけた泡が手を濡らす前に、慌ただしく口に流し込んだ。
「ありえない。今回オッズ調整きつすぎ」
「答え合わせしようぜ。さっさと評価シート出せ」
支給品のスマートフォンを突き合わせ、胴元に送ったものと同じ最終評価シートのデータを交換する。賭けの配当や払い戻し額がどうなろうがバイトの実入りは一銭も変わらないが、こうして酒の肴にするのが恒例行事だった。
女性参加者だけで20名を超える大規模イベントだ。写真の一つもないエクセルシートに、参加者番号・名前・年齢・職業と、記号化された簡素なプロフィールがずらりと並ぶ。画面をスクロールするまでもなく、すぐに目当ての名前は見つかった。
「なにちゃっかり3位につけてんだよ」
「はあ? この顔とスタイルなら妥当でしょ」
枝豆の莢を片手に持ったまま、わざとらしく胸とくびれを強調するポージングをしてみせる相方を、鼻で笑う。
「三十路のババアが過剰評価すんな痛々しい」
「今日のあたしはぴちぴちの26歳よ。あんたこそ堂々と自分を1位にする神経を疑うわ」
「今日の俺は年収4桁のスーパーエリート様だぞ。妥当だろ」
それも安定性に欠ける経営者ではなく大手商社勤務の営業マンだ。爽やかさを演出しつつ上品にまとめた短髪、嫌味のない笑い方、決めすぎず自然に着こなしたオーダースーツ、靴や鞄といった革小物に至るまで、なにひとつ抜かりなく演じきった。
「いまどき女も男の年齢みるのよ。わかってないわねオジサン」
「ぴちぴちとかいう死語、会場内で使ってねーだろうなババア」
「あんたこそ頭と口の悪さ露呈してんじゃないでしょうね」
睨み合う机の真ん中に、ほかほかと湯気が立つ明太入りのだし巻き卵の乗った皿が置かれる。
「ほらよ。また洒落た服着て、式場帰りかい? あんたたち、もう結婚すれば」
「「それはない」」
食い気味に否定する声が重なり、舌打ち。ジョッキを呷って忌々しげにため息をつくところまで、一連の動作がぴったりと揃った。
「……大将。エイヒレ追加で」
「あと梅水晶と軟骨」
「――だそうだ」
やれやれという顔で肩をすくめて、これ以上の野暮は言わないよと、すっかり顔なじみになった店主が厨房に消える。
「……ま、10年前なら考えたかもね。顔だけは良い男でも」
「あー、わかる。10年前に会ってたらな。顔と身体だけは――っ!」
狭い机の下で、ピカピカに磨き上げたストレートチップの革靴の甲を、煌びやかな装飾のついたパンプスのヒールが器用に踏み抜いていった。
「おいこらやめろ汚れるだろ」
「今さらないわ。同じ空間で息をするのも無理」
「言ったな今すぐ息止めて死ねや」
「こういうところ、最悪」
「てめえで言い出して被害者ぶんな」
「荒っぽい男って嫌ね」
「どの口が――」
「それと、あたし今回でやめるわ」
いつも通りの軽口を叩き合った流れで、相方はさらりと口にした。
「あ?」
「結婚するの」
一瞬遅れて、嘘にまみれた女から真剣な交際を申し込まれ、すべてを許した奇特な男の存在を思い出す。
「ああ……前々回の参加者だっけ。うまくいってんの?」
「それなりにね。あんたもいい加減に籍を入れたら? 子供産まれるんでしょ」
「あいつは気にしてねーけどな」
守秘義務を盾に濁してはいるが、役者くずれの男が羽振りのいい恰好をして週末に出かけるのだから、何年も同じ部屋で暮らして気づかないはずもないだろう。今回の仕事にしても、犯罪じゃなければいいよと笑って送り出されてきた。
「馬鹿じゃないの。子供の父親が婚活パーティふらふらして気分いい女がいるわけないでしょ」
「もし旦那がこういう仕事してたらどうすんの?」
「刺す」
「はは。こえー。理解ある彼女に感謝だわ」
「そうやって甘えてるうちに捨てられてもしらないわよ」
お前みたいに? などと、笑えない冗談は酒とともに喉奥へ流し込む。誤魔化すように机いっぱいに並んだ料理に箸をつけ、なんどか喉を上下させた後に、手元を見つめながらつぶやいた。
「……ま、たしかに潮時か。今更お前以外と組むのも考えらんねーし」
「あらそう。いい趣味してるじゃない。今夜だけは同意してあげる」
嘘を塗り重ねたプロフィールシートは何十枚も交わしてきた。実際の住所も職業も知らない。互いに明かしているのは、おおよその年齢と、業務連絡に記載された一度も呼んだことのない名前だけ。それすら偽りかもしれない。
「あんたのそれ、一口ちょうだい」
「半分もってきやがったなお前。自分で頼め」
同じ酒を回し飲み、同じ皿の料理をつつきあっても、結婚式の招待状など送り合う間柄ではない。
どれだけクダを巻いても終電までには別れてきた。
昭和スターのポスターと手書きのメニューに半ば埋もれかけた壁時計が示す、現在時刻は夜23時。
日付が変われば、二度と会うこともないだろう。
「そんじゃ、我々の前途を祝して――」
「乾杯」
何杯めかわからないハイボールの入ったジョッキを打ち鳴らす。
最初から最後まで、赤提灯をさげた場末の居酒屋が似合わない女だった。夜景の見える高層ビルの窓際でワイングラスを傾ける仕草の方が、よほど似合っていた。
こいつと結婚するという本物のエリートビジネスマンの男は、煙草くさい狭い店内で水っぽい酒を次々と飲み干す一面を知っているのだろうか。
「じゃあな、相棒」
「――お元気で」
最後の会計もきっちり割り勘をして、ヒラヒラと片手を振りながら、安酒の気配を微塵も感じさせない足取りで颯爽と歩く背中が街角に消えるまで、もう二度と来ないであろう店の入り口に立って見送った。
外しそびれた借り物の高級腕時計が示す時刻は、23時55分。
終電にはまだ少しだけ時間がある。