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砂場  作者: 本宮愁
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不協和音

 黒い要塞は、記憶の中では主役面をして、リビングの一角に鎮座していた。

 今は薄く埃かぶった布に全体を覆われ、ちいさく居心地悪げに縮こまっている。


 寂れた門扉のように垂れ下がるピアノカバーの合わせ目に手を差し入れて、そっと左右に取り払う。


 艶やかな黒壁はまだそこにあった。


 中央の鍵穴は、一度も鍵をさされたことがないまま、ぽっかりと口を開けている。

 子供の細腕にはずっしりと重たく、厳重な封印のように思えていた鍵盤蓋は、たいした力を込めずとも、あっけなく開いた。


 ガタついた鍵盤に指を這わせる。


 黒鍵は、いまだに取り澄ました顔で整列しつづけている。

 それに比べて、不規則な隙間の目立つ白鍵は無残なものだ。


 全体はほのかに黄ばんでいた。数個おきに浮き上がっては沈み込む歪な様子から、年老いた親の口内に並ぶ歯を連想して、苦い気持ちを噛み締める。


 実家に眠るアップライトピアノを最後に弾いたのは、いつだっただろう。

 調律しておいたから、という言葉さえ聞かなくなって、何年経ったのか。

 今年は帰ってくるのかと、遠慮がちに問われる声に、耳を貸さなくなって――。


 身体の正面の定位置に五指をつけて、深々と息を吸い、そのまま吐き出す。


 ――弾けるわけがない。


 あの頃の真似をして指を立ててみたところで、考えるよりも早く、縦横無尽に跳ね回っていたはずの指先は、ピクリとも動かない。


 凝り固まっていた肩の力を抜いた途端、情けなく手首が垂れ下がる。

 耳に痛いほどの静寂の中、自分の呼吸の音だけが嫌に大きく聞こえた。

 まだ、みっともなく、息をする。

 なにをしているんだか。

 昔の感覚のまま椅子を引いて立ち上がろうとして、頭が天板に触れた。


「っ…………!」


 大した衝撃ではなかったが、じんと鈍い痛みに額を抑えた直後、形容しがたい不協和音が鳴り響いた。


 思わず両耳を塞ぎながら、転がり落ちた原因を見下ろした。透明なアクリル板にコピー用紙が挟まれただけの簡素なつくりの、作曲コンクールの盾だ。天板の上に飾られていた始まりの栄光が、狂った鍵盤を勢いよくかき鳴らし、足元まで落ちていったのだろう。


「ふ。はは」


 こんなものがまだここにあったとは。


 酷い音だった。

 それでも、音が鳴った。

 泣きたくなるほど懐かしい不協和音。

 まだこのピアノは、音を鳴らせるのか。

 家の中に弾き手がいなくなっても、まともな手入れをされずに忘れ去られ、無惨な有り様を晒しても、まだ。


 後ろに下げた椅子を引き戻して、ピアノの前に座り直す。

 最後にいつ誰が使ったのかもわからない椅子は、高さが合っていなかった。


 両手を組んで手首を回す。


 目いっぱい両腕を広げて、振り上げた指を鞭のように叩きつける。

 人間の聴き分けられる音域ギリギリの高音と低音を同時にかき鳴らす。

 耳をつんざく悲鳴や怨嗟のような、とち狂った音色。


 こんなに酷い演奏は聴いたことがない。訓練で音感を磨いた俺ですら気持ち悪くてどうにかなりそうだと思うのだから、絶対音感の持ち主ならば発狂するだろう。


 鈍く沈み込むだけで鳴らない鍵もある。

 一度押したきり戻ってこない鍵もある。

 かろうじてまともな音階を奏でる鍵もある。

 正しい音に何の価値もなくなっても。


 それでも指が動いた。


 見ず知らずの偉人が遥か昔に記し残した譜面をなぞるためでもなく、まっさらな五線譜に斬新なフレーズを書き込むためでもなく、舞台照明の下で喝采を浴びるためでもなく、誰よりも傍にいた聴衆の笑顔を見るためでもなく、輝かしく美しい音色に満ちていた日々の面影を上書きするように、ただの音が鳴る。


 踊れ。踊れ。踊れ。

 どうせここにはなにもない。


 とても演奏とは呼べない騒音を鳴らしつづけ、すっかり日が暮れて黒鍵と白鍵の見分けがつかなくなった頃、重たい両腕をぶら下げて、ようやく息をついた。


 ブー、ブー、と床に投げ捨てた上着が震えていた。

 今度こそ椅子から立ち上がり、どこかのポケットにつっこんでいたはずのスマホを探す。


「やっと出た。兄さん。週末の面会のことなんだけど、やっぱり無理しなくても――」

「行くよ」


 意識するよりも早く、するりと声が出た。


「……行くから」

「あ、そう? ていうか今どこに……は? 実家? なんでまた」

「鍵の場所はお前も知ってるだろ」

「知ってるけどそうじゃ、聞いてないでしょ、お兄ちゃん!」


 通話を終えたスマホを耳から離して、ロック画面に映りこむ不格好な自分に、笑った。

2024年9月、元神童企画後の雑談より。筆者は「ピアノを弾きたかった」との供述をしている。

音楽描写で遊びたかったけど、かつてそこにいた家族が誰もいなくなった部屋に残されたピアノの方に関心が流れてしまったので仕方ない。

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