月
野々宮さんは美しい。月みたいに青白い肌に、首筋の小さなほくろが映えるし、しなやかな髪は乾くことを忘れたみたいにいつも艶やかで、奥二重で黒目がちで、小さく笑うとその目は三日月みたいに細くなって、こっちまでたまらなく幸せな気分になる。
首から上の特徴は、そのほとんどが生まれ持ってのものかもしれないけれど、バレリーナみたくしなやかな身体を維持するのには、頑ななまでの節度を貫いているに違いなかった。たぶんきっと私が思ってるよか野々宮さんは自分自身に厳しい。妥協することは許されない雰囲気でいつも気を張ってるように思えた。そんなだからか、他人に対しても徹底的に厳しかった。言葉を飲み込むことを知らない。美しさっていうのは、外見だけでなく言葉になって溢れ出るものなんだ、と私は思った。
今朝も事務所にあるパソコンの電源が落とされてなかったのを見つけたみたいで、朝っぱらからよしときゃいいのに、自らで犯人を推理して突き止めて、問い詰めていた。
なぜ消さなかったのですか、から始まり、どうして忘れたのですか、急いでいて忘れた? 急いでいた理由はなんですか、その理由が発生した原因は、その原因に対する対処は、事前に処理できたのではないですか、なぜできないのか、そうなることはわかっていたはずですよね、どうして推測することができなかったのですか、と静かに、冷たいくらいの無表情を作って問いかける。核心を抉り出そうとする。謝罪の要求はしないし、相手を否定することもない。ただ、無能だと自白させ、自覚させる。たかだかパソコンを消し忘れたくらいで、あの追い込み方はけっこうきつい。でも美しかった。
私は偉いからその一連のやり取りをこっそりと盗み見していた。割って入ることはしなかった。だってそういうときの野々宮さんはいつも以上に美しいから。なんていうか、そうなっちゃったら見惚れちゃうしかないし、ドキドキしちゃって金縛りみたいになって、どうすることもできないし、ましてや口を挟むなんてのは、青い海に石油をぶち撒けるようなもんだよ、そんなことできるわけないじゃん。だからほとぼりが冷めるのを見計らってご飯に誘った。ほとぼってたのは私の方なんだけど。
「ほんと、あーいうところ、もうちょっとマイルドにならないの」
「なりませんよ。悪いのはあちらなんですから」
「まーそれはそうなんだけど」
「あーいう人にはあのくらいじゃないと効かないんですから」
「まーね」
野々宮さんは、正義を振り翳して気持ちよくなるような、そういう異常性癖のある自警団気取りの人たちとはまるで違うんだ。その闘争はあくまでも、個と個のぶつかり合いで、そこに男女もなければ上も下もない。それはいつも静かに人目のつかないところで行われているし、衆目を味方につけるようなやりかたは絶対にしない。潔癖だ。だから美しい。たまらない。だからこそ、その棘を全て私に向けてほしい。そう願ってる。
「誰にもでもさー、だらしなくて、どうしようもないところってあるでしょ。目についた粗なんかをいちいち潰してたらキリがないよ」
いま私の口周りには、テリヤキバーガーのソースだのマヨネーズだのがべっとりと塗りたくられたようについている。だらしないと汚らしいが混ざり合って地獄の底みたいになってるはずだ。野々宮さんは私と同じものを食ってるくせにその口元は普段と変わらず綺麗なままなんだから、理解できなかった。それがどういう原理なのか知りたくてしばらく観察してたけど、バーガー袋で肝心なところが隠れてしまってて結局わからないままだった。っていうか、私の口周りの汚れにはいっさい関心がないらしい。もしかしたらそれ以前に私という人間にまるで関心がないのかもしれないんだけど。
「細かいことなんですけど、許せないんですよ、あーいうの。人として」
「私は実害がないなら、他人のやることなすことなんかどうでもいいけどなぁ」
「私はそうは思いません。たとえ他人でも真っ当じゃないと、やっぱり許せません」
「そっかー」
「世界の平和を獲得するには身の回りの秩序を維持することから始めないとなんです」
なんかそれ危なかっしいなぁ、と思う。けど身の回りの他人である私の口元は無秩序の爆心地みたく汚れたままなんだけど。このままではこの痴態を周囲に晒し続けることになる。それは本望じゃない。私だってそろそろちゃんと秩序したいし。ソースだかマヨネーズはだんだんと乾いてきてるんだけど。本格的にカピカピになっちゃったら紙ナプキンで拭き取れなくなるし。だから一刻もはやく思い切り叱りつけほしい。あ、いや、でも、さっきから気にも留めてない感じしかしない。視線が私の口元にいってない。あー、だからって、さらに鼻の穴にポテトを突っ込むような荒技を披露するほどのたくましくハートは持ち合わせていないし、なにより、そんなあからさまなことをするような欲しがりな人間に堕ちたくはなかった。これはもう、自ら伝えるしかないみたいだ。私の口の周りベットベトなんだけど、なんか言うことないの、と。それだって分の悪い賭けだ。人としての尊厳をベットして、勝利して得られるリターンで私の欲求は満たされる。でも、負けてしまえば人ではなくなってしまう。リスクはある。だけど見合う。賭けるに値する。十分に。
「私の口の周りを見てなんとも思わないの? なんか言うことあるでしょ」
視線が私の口元に集中した。野々宮さんは私の唇を見ながら舌舐めずりをした。街中で髪が乱れてる人を見ると自分も同じようになってる気がしてきて無意識に髪を整えちゃうような、そんな感じなんだろけど、あまりにも不意のエロティックで直視することができなかった。
「百点、ですかね」
「え、なにが」
「他人を和やかするほど美味しそうに食べているので。だから百点です。かわいいです」
そうなんだ。なにをやらかしてもいつもこんな反応なんだ。きっと私は野々宮さんにとってミドリムシとかミジンコみたいに、なにをしても感知されず許される存在なんだと思う。なんとなくかわいいと言っておけばすまされる、その程度の存在なんだ。それも悪くない。悪くはないんだけど、そういうのは求めてない。
「おしぼりもらってきましょうか」
「あ、いや、大丈夫かな」
甲斐甲斐しく口元を拭ってくれるつもりだったんだろうけど、丁重にお断りしておいた。野々宮さんならそんな恥ずかしい真似も公衆の面前で平然とやってのけるはずだ。口元の汚れを拭き取る。それは誤った行為ではないけれど、なんていうかさ、ちょっとほら、みんな見てるし、羞恥心とかってあるでしょ――なんて私が言おうもんなら、恥じることをしてる覚えはないですし、あなたが思うほどにあなたのことを誰も意識はしていないです、とかってピシャリと言われちゃうわけだ。想像しただけで美しすぎてこめかみのあたりがドクドクと脈打つ。でもこのままじゃ埒があかないし、血管だって持たない。均衡は破るためにあるんだ。そう言い聞かせた。
「この際だからちゃんと言っとくけど、私は野々宮さんに叱られたいわけ。散々叱られた挙句、頭を掻きながらだらしなく、上目遣いで、へへへって笑って逆撫でしてまた叱られたいわけなのよ、わかる? エンドレスに叱られたいの」
「でも口元のそれって、意図した悪戯ですよね。わざとってやつです。あざとさを台無しにするほど無粋ではないです」
「完敗だよ」
野々宮さんはシェイクを飲みながら首を横に振った。ズゾゾ、なんて音はもちろんしない。まるでこの世に濁点が存在しないかのように、頬を凹ませて静かに吸う。そして容器をトレイの脇に置いて言った。
「いいえ、勝ち負けの話なら負けたのは私です。ここは形だけでも過ちを正すべきでした。ドジを叱るという様式美を徹底できませんでした。すみません、あまりにもキュートでしたから、美しさへの昇華というものを見失ってしまいました」
憎い。自分のあざとさが心底憎かった。
自然界に存在するいかなるものも、仕組まれたかわいさが天然の美しさに負ける道理がないんだ。しかしながら、現実はどうだ。野々宮さんは白旗をあげてしまっているではないか。この現象は一体なんなんだ。
「これってもしかして、LOVE――」
野々宮さんはストローを咥えながら、視線をそらして静かに頷いた。かわいい。百点だった。
「負けらんねぇな」
なにがですか、と訊かれたので、なんでもない、と答えた。野々宮さんの、きょとんとした仕草は美しもあり、さらには愛らしくもあった。進化した瞬間だった。私は狼狽するほどに打ちのめされてしまった。この人には敵わない。そう思った瞬間に全てを捧げた。清々しい気持ちだった。
「財布しまってください。なんのつもりですか」
「私の全てを」
「そういうのいいんで、いらないんで」
「じゃあどうすれば」
「そんなこと、言わなくてもわかりますよね」
俯いて赤面する野々宮さんの頭のなかは手に取るようにわかった。そういうことならそうと早く言ってほしかった。肉欲の塊め。
「じゃあ行こっか。いいんだよね」
違法と知りながら、少女をいかがわしい場所へと連れ込むおじさんみたいな私の言葉に、野々宮さんは酷く戸惑ってる様子なんだけど、それでもなにも言わずに一緒に店を出た。いま向かっているのが行きつけの雀荘だとも知らずに。ドアに手をかけたとき、どんな風に叱りつけるつもりか。さっきみたいに無視することなんて、できるはずがない。今度こそ私の勝利だ。そんなことを思いながら並んで歩いた。月明かりで、野々宮さんの横顔がいつもより輝いて見えた。笑っているのか、その顔には三日月もある。すこしだけ満たされた気がして、私は目的地を変更した。
(了)