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「マリアンヌ・アンリエット・エリーザベト・ド・ボルドー! 余はそなたとの婚約を破棄する!」
言い放った。何度目だろうか。彼女に婚約破棄を宣言するのは。
告げられた側は涼しい顔をしている。「そんなことを言っても決定は覆らない」。そんな事実を思い知らせるかのように。
「そうですか、殿下。ですが、それは殿下のお父上である国王陛下が許さないと思いますよ」
「ちっ、父上のことは余がなんとかするっ! とっ、とにかく余はそなたとの婚約なんて断固として認めぬっ!」
そんな僕を見て、彼女は柔らかく微笑む。いつだってそうだ。その微笑みを見て、自分が子供であるということを痛感させられる。
十二歳にしては小さな身体を精一杯大きく見せようと、つま先立ちする。尊大な態度を取れば彼女の思いが翻ると信じて、敢えてマナー違反と知りつつも彼女を指さす。
そんな僕を見ても彼女は、「あらあら」とでも言いそうな笑顔を崩さない。
「はいはい。わかりました。そういうことは陛下のご許可を賜ってから言ってくださいましね」
それどころかやんわりと窘められる始末だ。その笑顔が僕をなんとも言えない気分にさせることを、目の前の女性は理解しているのだろうか。
始まりは父上とボルドー公爵の口約束だと聞いている。たかが口約束。されど口約束だ。
王族の言葉は重い。一度口にしたことは余程のことが無い限りは取り下げられない。有言実行を良しとする父上であればなおさらだ。
初めてマリーと会ったのは六歳の頃だったろうか。
僕にとっての女性はマリーと会う少し前にお隠れになった母上と、乳母くらいなもので、うら若い女性と接する機会はほとんどなかったように覚えている。
そんなある日、突然父上から紹介された女性、それがマリーだった。「婚約」という言葉の意味も知らなかった僕は、「将来そなたはこの娘と結婚するのだ」と告げられ、その上で目の前で跪く六歳年上の彼女を見て目を白黒させたものだ。
ややあって、顔を上げた彼女の姿を見て、思わず息を呑んだことはこびりついて離れない記憶の一つだ。
腰にまで届きそうな長くしなやかな、翠色に輝く黒髪。柳眉はたおやかな性格を想起させるように緩やかに弧を描き、その下のくりっとした目は翡翠色に輝いていた。
胸元が大きく開いたドレスを着ており、細く折れそうな全身とは裏腹に母性の象徴である双丘はしっかりと主張している。
一目惚れ、というやつなのだろうか。目を奪われて離せなかった。彼女と出会った後の記憶がほとんどないのは、彼女を目にした後全力で浮足立っていたからなのだろう。
しかし、そんな喜びも数年の間だった。僕はマリーには相応しくない。そんな思いが胸を占めるのにそれほど時間はかからなかった。
まず僕は身体が小さい。同年代の男子と比較してもその差は一目瞭然だ。
それから、身体を動かすのが得意ではない。よく転ぶし、剣術もからっきしだ。
そして何よりも、彼女と六つも歳が離れている。僕がリアルに恋心を受け入れるには、彼女は歳が上過ぎた。
僕は子供。彼女は成熟した大人。貴族令嬢の結婚適齢期についてもちゃんと調べた。僕が彼女と結婚するのは、十六歳になってから。その時には彼女は二十二歳。今が花盛りの十八歳の女性を縛り付けておくわけにはいかない。それぐらいは子供の僕でもよく理解していた。
だから言うのだ。何度だって。
「とっ! とにかくっ! 余はそなたとの婚約など認めないっ!」
「よく理解しました」
何度も何度も告げた婚約破棄は、またしてもマリーの柔らかな笑顔に有耶無耶にされてしまった。自分の思い通りにならない憤りと、子供扱いされていることに対するいたたまれない気持ちに思わず地団駄を踏む。
そして地団駄を踏みそこねて、僕は盛大に転んだ。「ああっ!」、と驚くマリーの悲鳴が鼓膜を震わせる。
「……うぅ、いたい……」
打ちどころが悪かったのか、酷く痛む。無理やり被った尊大な皇太子という仮面が剥がれ落ちる程度には痛い。痛みもそうだが、彼女の前で転んでしまった情けなさに涙さえ出てくる。
パタパタと彼女が僕の元に駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか? そんな、激しく動くからですよ。見せて下さい」
「うん……」
こうなってはもう、彼女には勝てない。手早く傷の手当をされ、あれよあれよという間に言いくるめられ、僕はおぶられていた。
情けないことこの上ない。だが、彼女の身体の温もりに、鼻腔を刺激する爽やかな香りに喜んでいる自分もいることは事実だ。
「マリー」
「なんですか? 殿下」
「そなたは、余との婚約が嫌ではないのか?」
普通に考えて嫌がるものだ。こんな子供との婚約だなんて。貴族の娘であったとしても。それが常識だとしても。
僕に彼女は相応しくない。
あれこれとマリーが僕との婚約を嫌がりそうな理由を挙げるも、どれもが一言でいなされる。
「殿下は私のことがお嫌いですか?」
そんなことはない。そんなはずがない。
「そっ! そんな……ことは……ない」
「なら、それで良いではありませんか」
「でも……マリーの気持ちが……」
言いよどむ僕をマリーがゆっくりと背中から降ろす。精一杯に気遣われていることがわかってそれがまた情けない。
そして、マリーがくるりと身体を翻して、僕の顔を見た。
「殿下?」
「なんだ?」
「殿下のお言葉に対する私の答えです」
その言葉を聞いた瞬間に体中が柔らかな感触に包まれる。どうやら僕は抱きしめられているらしい。
背中に回された腕が、顔に押し付けられ柔らかく形を変える双丘に、僕の身体は固まってしまう。
あぁ。彼女には敵わない。敵いそうもない。
「さぁ、帰りましょう、殿下」
§
「殿下に折り入ってお話がございます」
十四歳の誕生日を迎えてしばらくした頃。この一年ほどで見違えるほどに伸びた身長がようやくマリーを超えた。意中の女性よりも背が低いというのは男としてどうにも情けない。それを脱することができた。
その事実に歓喜してから数日経ったある日、マリーが余の元を訪ねてきた。
遊びに来たのだろうか、と少しばかり心が躍ったものだが、次の一言で思考が凍った。
「私との婚約をお考え直していただくことはできませんでしょうか?」
「は?」
マリーの顔は真剣そのものだった。余のことを嫌いになったのだろうか、と嫌な予想が心中で首をもたげる。
しかし即座にその考えを否定する。彼女とは長い付き合いだ。その考えは何となく把握できる。女心というものは理解できないが、マリーが考えていることであれば理解は可能だ。
彼女は余が幼かった頃と変わらない微笑みを湛えている。
嫌われているわけではない。そもそもが、余とマリーの婚約は「好き」だとか「嫌い」だとかそういう次元の話ではないのだ。
父上の言葉は絶対だ。このことが知れたらボルドー公爵家はまずいことになる。
「理由を尋ねても?」
「……独りで生涯生きていくのも悪くは無い、ここ最近そう思い始めたのです」
嘘だ。余は彼女の仕草を良く記憶している。それだけ彼女を見てきた。
彼女が明確な嘘を吐く時、長い黒髪をくりくりと弄り回す癖があることを余は知っている。現に今、彼女は所存なさげな左手で自身の髪の毛を弄んでいる。
「ならぬ。今まで何度もそなたとの婚約を否定してきた余が言うのも変な話したが、父上の言葉は絶対だ。故に、そなたと余の婚約も絶対だ」
「殿下はそれでよろしいのですか?」
「とうに覚悟は決めている。余は皇子。そなたは公爵令嬢。是非もあるまい」
「そうですか」
そう言って、彼女は笑う。
「では、殿下のお気持ちが変わるまで、何度も申し上げようと思います。日を改めてまた参ります」
そう言ってから一礼し、マリーが余の部屋から出ていった。
何度言われても、もう余の気持ちは変わらない。あの日、抱きしめられた時から微塵も違わずに心は固まっている。
それを誤魔化すために、何度だって婚約破棄と告げてきた。彼女が受け入れないだろうことを確信しながら。
マリー。余はそなたを離す気はない。
今までの余の「婚約破棄」を受け入れなかったことを十二分に後悔するが良い。
その後も定期的にマリーから、あの手この手で「婚約を考え直せ」との申し出があったものだが、余が首を縦に振らなかったのは言うまでもないだろう。
§
いよいよこの日がやってきた。
大きな式典だ。少しばかり緊張する。
隣にはマリーがいる。変わらず美しいその顔を見つめて、微笑みかける。余は上手く笑えているだろうか。
「殿下? 緊張しておられます?」
マリーはいつだって余を子供扱いする。それはそうだろう。六つも年の差があるのだ。余と彼女の戦いは九割彼女の勝利で終わる。
だが、譲れない戦いもあった。それは彼女との婚約だけは破棄しない。その一点だ。
その戦いに勝利したからこそ、今余の隣に彼女がいる。
マリーが心配そうに余を見る。心から余を心配しているその瞳に精一杯強がった答えを返す。
「余が緊張などするわけないだろう」
彼女はクスクスと笑う。彼女には敵わない。今までもこれからも敵いそうにない。
「それは重畳でございます。行き遅れの私を皆の前で披露なさることに抵抗があるのかと思ってしまいました」
そんなはずが無いだろう。
もしそんなことを思っていたなら、とうにこの婚約は駄目になっていたに違いない。例え父上の言葉がどれだけ重かろうと。
「まだそんなことを言っているのか? そなたから初めて『婚約破棄』を宣言されたのは、いつのことだったか」
「二年前でございます。殿下の身長が私を追い越した時ですね」
良く覚えている。同時に、余との思い出を大切にしてくれているような気がして、天にも昇る心地がする。
「そなたは良くそこまで覚えているな」
「他ならない殿下のことですから」
想いは通じ合っているのだろう。彼女は余を大切に思ってくれている。余もマリーを大事に思っている。
だからこそ、今は笑おう。いつの間にか緊張等どこかへ行ってしまっていた。
「そうだな。あの時まで余はそなたに何度も『婚約破棄』を突きつけてきた」
「はい」
そう。幼い自分のプライドを守るため。彼女に嫌われるのが怖くて、何度だって嫌われようとした。それでも彼女は余を嫌ってくれはしなかった。
マリーが「婚約の再検討」を申し出した時も、それが彼女の本心でないことは重々に承知したいた。
「だが、それでも、そなたは余の隣にずっといてくれた。支えてくれた」
「それは……」
いくら歳が離れていようと。彼女が余を子供扱いしようと。
余は男で、マリーは女だ。
なればこそ、こういったことは余からはっきりと言葉にするべきもの、だと思った。
「愛している。マリアンヌ。余の妃になってはくれまいか?」
言ってから恥ずかしさが込み上げてきた。こんな数秒ほどの台詞をはっきりと直接伝えるのに思えば長い時間がかかった。
マリーからの答えを余は知っている。今までずっといっしょにいたのだ。そもそもが、その問いに「否」と言うつもりなのであれば、彼女はここにいはしまい。
だからこそ。これはけじめだ。婚約破棄を突きつけたことから始まり、婚約破棄を突きつけられた、余と彼女の関係に対する。
「は……い。喜んで」
ふとマリーの顔を見ると、初めて見る顔をしていた。恥ずかしそうな、それでもなお嬉しそうな、真っ赤になったふにゃふにゃの顔だ。余にそんな顔を見られるのが恥ずかしかったのか、彼女は咄嗟に余から顔をそむけようとした。
しかし、そんな顔をされて、男が黙ってられると思うだろうか?
愛しい女性の見たことのない愛らしい仕草に、胸をときめかせない男などいるだろうか。
衝動的にそむけようとしているその顔に、その頬に優しく左手を添えて。
瑞々しい苺のように赤い唇に、そっと口づけた。
想像していたよりもずっと柔らかで。
想像していたよりもずっと幸福だった。
「は? え?」
驚きに染まったマリーの美しい顔貌にとんでもないことをしでかしたことに思い当たる。婚前交渉はご法度。王族であればなおさら。今この瞬間、余とマリーはまだ夫婦ではない。
ただそれ以上に驚いた彼女の表情が余りにも可愛らしくて。
自分でしでかしたことが原因であるものの、恥ずかしさといたたまれなさが最高潮に高まり、顔が熱くなる。思わず顔をそむけた。
そんな状態でありながらも、いつかの彼女の言葉が蘇る。
――殿下のお言葉に対する私の答えです。
彼女はその行動を以て、私に確かに伝えてくれていた。
であれば余が告げる言葉も、これが正しいのであろう。
「そっ、そなたの言葉に対する余の答えだ」
短いお話でした。
皇子様はマリーさんの真の姿を知りません。
知らないほうが良いことだって、あるよね。
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とーっても励みになります。
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