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「マリアンヌ・アンリエット・エリーザベト・ド・ボルドー! 余はそなたとの婚約を破棄する!」
幾度と無く聞いた台詞に、私は「あぁ、またか」なんて思いながらも、興奮する自分を抑えるのに苦労していた。
ルカ・シャルル・オリヴィエ・ド・プロヴァンス殿下。プロヴァンス王国の第一皇子。彼を目の前にした私は平静を装うのにそれはもう必死だ。
頭一つ分ほど違う身長。凛々しさの中にいたいけな面影を残した顔貌。さらりとした金糸は少しだけ長めに切りそろえられており、その隙間から覗かせた耳がなんとも美しい。
彼を見下ろして私はにっこりと微笑む。
「そうですか、殿下。ですが、それは殿下のお父上である国王陛下が許さないと思いますよ」
「ちっ、父上のことは余がなんとかするっ! とっ、とにかく余はそなたとの婚約なんて断固として認めぬっ!」
精一杯背伸びした言葉を選んで私を指差す殿下。愛しくて愛しくてしょうがない。
まず、王族らしい華美な装飾が施された服装。少しだけ彼の背丈よりも大きく、着られている感が物凄い。非常に庇護欲をそそられる。特に袖口なんかは素晴らしい。腕よりも長い袖から指先だけが「こんにちは」している様は尊いを通り越して神が遣わした天使なのではないかと錯覚するほどだ。
そして極めつけは初夏だということもあってか、その脚の半分ほどしかないパンタロン。殿下は最近お年頃なのか真っ白なタイツがお気に召さないらしく、麗しいお膝が見え隠れしている。
そんな彼が、精一杯短い腕を伸ばし私を指さして、顔を真赤にしながら、あらん限りの威厳を出そうと努力して、何度目かわからない「婚約破棄」を私に宣言しているのだ。
抱きしめたい。この可愛い生き物をもふもふして、くんかくんかして、もみくちゃにしたい。だが、そこはそれ。彼は王族。私は公爵の娘。貴族の中での位は高いとは言え、身分の差がある。抱きしめるなど不遜だ。それがなんとももどかしい。
「はいはい。わかりました。そういうことは陛下のご許可を賜ってから言ってくださいましね」
心中の色々なあれこれを必死で隠し通しながら、私は澄ました顔でそう告げる。この婚約は国王陛下と公爵である私の父との間で決められた由緒ある誓約だ。殿下が何を言っても陛下はお認めになられないだろう。
勿論、万に一つもありえないが、私がどんな文句を並べようとも、その婚約は覆ることはない。父に一蹴されて終わりだ。「何を馬鹿なことを言っている」なんて言う、厳しい顔が容易に想像できる。
そりゃ、ルカ殿下が嫌がる気持ちも少しは理解できる。彼は弱冠十二歳。私は十八歳。王族や貴族の結婚は早い。結婚は彼が十六歳になった頃になるだろう。その時私は二十二歳。今でも貴族令嬢としての結婚適齢期をとうに過ぎているのだ。二十二歳ともなると行き遅れ以外の何者でもない。
それでも彼と私の婚約が成ったのは、従兄弟同士である陛下と父の口約束が発端だ。私が生まれた頃、父が陛下に「ゆくゆくは娘を陛下のご子息に嫁がせたいと存じます」なんて言って、陛下も「それは良い」なんて言ってしまったのだ。
その約束からしばらくの間、陛下にお子が授かることはなかった。十二年前、ようやく生まれた皇子。それがルカ殿下なのである。
父も何度か陛下に打診はしたらしい。「流石に婚約の話は無かったことに」と。しかし、陛下は有言実行する剛毅なお方だ。「一度した約束は破らぬ」の一点張り。
そんなこんなで、私が十二歳の時だ。六歳のルカ殿下と初めてお会いしたのは。
確かに私も最初は「なんだかなぁ」という気持ちだった。子供の六年というのは非常に大きい。父から話だけで聞かされた幼い婚約者に対して私は特別な感情を持ち合わせてはいなかった。
しかし、会ってみて理解した。私はこの方とお会いするために生まれてきたのだ、と。
世の中には小さいお子様が好きな女性も存在すると話には聞いていた。自分はそうではないと思っていた。現に、殿下以外に心をときめかせることは無い。
殿下は特別なのだ。その存在の全てが、私の心の琴線を激しくいじくり回してくる。「ドントタッチミー」とでも叫びたい気分だ。
陛下の精悍な顔立ち、その血筋を感じさせる凛々しさと愛らしさが同居し、得も言われぬマリアージュが私の心の全てを鷲掴みにして離さない。
お年頃らしく目一杯背伸びしたその様子が、また乙だ。それだけでもうお腹いっぱい過ぎて、殿下とお会いした日は食事が喉も通らない程だ。
「とっ! とにかくっ! 余はそなたとの婚約など認めないっ!」
「よく理解しました」
そんな言葉に、もう私はニコニコするしかない。ただただ微笑んでいる私を見て悔しそうにしている殿下もまた良い。地団駄を踏んでいる様など、筆舌に尽くしがたい。
「あっ!」
あらやだ、大変。殿下が地団駄を踏みそこねて転んでしまった。ここは王城の中庭。地面は石畳である。
「……うぅ、いたい……」
涙ぐむ殿下。悶絶しそうになるのを堪える。
「大丈夫ですか? そんな、激しく動くからですよ。見せて下さい」
「うん……」
殿下がその可愛らしい膝を私に向ける。なんだろう、これは。どうにでもしてと言っているのだろうか。涙目で私を見つめないで欲しい。理性のダムが決壊寸前だ。
「擦りむいてしまってますね。膿んでしまったら大変です。少しだけお待ち下さいね」
そう言って、私はお誂え向きに傍にあった噴水。そこに懐から取り出したハンカチを浸す。
「少し沁みますよー」
ハンカチで血の滲んだ膝を拭い、砂利を取り除く。結構な勢いで転んだようだ。擦り傷にしては傷が酷い。
もう一度ハンカチを清めてから、小さく愛らしいそのお膝にハンカチを巻きつける。あぁ、私のハンカチと殿下のお膝が仲良しこよしだ。少しだけ……じゃない。もう心の中を駆け抜ける嬉しさで私はどうにかなってしまいそうだ。勿論顔には出さない。
「立てますか? 歩けますか?」
「とっ、当然だっ!」
虚勢を張って、殿下が立ち上がろうとするが、やはり痛むらしい。「うぅ……」なんてうめき声を上げながら生まれたての子鹿のように、足をプルプルさせている。
――神は……天使は……ここにおわした……。
「ま、マリー?」
「あ、はい。申し訳ございません。ちょっとだけ考え事をしていました」
「考え事?」
「取るに足らないことでございます」
にっこりと微笑みかけながら、私は殿下に背中を向けてしゃがむ。
「さ、行きますよ」
「なっ! 余にそのような気遣いは不要だ!」
殿下が私を無視して歩こうとする。だがやっぱり痛いのか、すぐによろけてしまう。大変だ。行動は迅速に。さっきは失敗したけど、今回は手が届く。
「っと。気をつけて下さい」
「い、今のはっ! 少しよろけただけだっ!」
「そうですか。殿下はお強くていらっしゃいますものね」
「そうだぞっ!」
少しだけ思案する。
「お強い殿下は、自ら歩く等なさらなくても良いのですよ。殿下はこの国の皇太子なのですから」
「そ、そうか?」
「そうですよ。だから、はい」
私はまた彼に背中を向けてしゃがむ。恐る恐るといった様子で殿下が私の肩に手をかけた。至福の時だ。
殿下のお尻の下に手を差し込み、体重を前に。俗に言うおんぶというやつだ。決してやましい気持ちは無い。手のひらに伝わる柔らかい感触に思うところなんて一つもない。いえ、嘘です。私は嘘を吐きました。
そんな心中はおくびにも出さずに、王城に歩き出す。
「マリー」
「なんですか? 殿下」
「そなたは、余との婚約が嫌ではないのか?」
愚問である。
「嫌ではございませんよ」
「でもっ。余は、そなたと比べて、小さいし」
「すぐに私の身長なんて追い越します」
「こうやって迷惑をかけているし」
「迷惑なんて思ってもございません」
「親同士が決めた婚約だ」
「私は貴族の娘。当然のことでございます」
「だがっ!」
思わず声を荒らげた殿下が、つられて少し暴れてしまって、背中からずり落ちそうになった。よいしょ、と体勢を整えて、正負い直す。
「殿下は私のことがお嫌いですか?」
「そっ! そんな……ことは……ない」
「なら、それで良いではありませんか」
「でも……マリーの気持ちが……」
しょうがない殿下だ。私はゆっくりとしゃがみ、殿下を降ろし、そしてくるりと一回転。殿下の顔を見る。見れば見るほど端正な顔立ちだ。尊い。
「殿下?」
「なんだ?」
「殿下のお言葉に対する私の答えです」
はっきり申し上げます。やっちまいました。
衝動が抑えきれませんでした。今は反省しています。不敬ですよね。そうですよね。
小さなその体をぎゅうっと抱きしめる。さらりと鼻先に触れた髪の毛から、甘い香りが漂う。汗の香りと混じったそれは、私の大好きな香りだ。
華奢ではあるが、もうすぐ青年らしい身体つきに向かっていくのだろうアンバランスな体躯が、それでも折れそうな感触を腕や胸一杯に伝えてくる。
「まっ、マリー!?」
慌てる彼の声がなんとも愛らしい。
ややあって、ゆっくりとその身体を開放する。もう少し堪能していたかったが、我慢だ。
「さぁ、帰りましょう。殿下」
「……そういうところが、ずるい……」
「え? なんておっしゃいましたか?」
「なっ! なんでも無いっ!」
よく聞こえなかったが、まぁ良い。
痛みで歩けない殿下をお部屋までお運びするのが私の今のミッションだ。しゃがんだまま、もう一度一回転。
「さ、またおぶって差し上げます」
「もっ、もう必要ないっ!」
「あら。殿下は女性に恥をかかせるおつもりですか?」
微笑みながら顔だけ背中に向けて、殿下を見遣る。
「そ……そういうことであれば……しっ、仕方ないなっ! うむ!」
「賢明なご判断です」
殿下をおぶって歩く。
結婚するまで、あと何度「婚約破棄」を宣言されるのだろうか。
その度に私は、何度だって微笑むのだろう。
彼は私の愛すべき婚約者なのだから。
「殿下?」
「なんだ? マリー」
「お膝は痛みますか?」
「それほどで……いや、まだ痛む」
「そうですか」
§
今日は殿下の結婚式。まだ戴冠が済んでないとは言え、王族は王族だ。式は盛大に執り行われる。
私は別に小さな少年だから殿下を好いていたのではない。そのことは今の私が証明している。
凛々しく成長した殿下が私を見て少しだけ微笑む。頭一つ分ほど違った身長。今も頭一つ分であることは変わりないが、あの頃とは逆だ。殿下を見上げる。その笑顔が少しだけ引きつっているのを感じ取り、「あぁ、緊張しているのだな」と思った。
「殿下? 緊張しておられます?」
「余が緊張などするわけないだろう」
「それは重畳でございます。行き遅れの私を皆の前で披露なさることに抵抗があるのかと思ってしまいました」
彼が歳を取るたびにそんな思いは強くなっていった。今では私が婚約破棄したいくらいだ。というか実際に彼にそう提案したこともある。何度もだ。
「まだそんなことを言っているのか? そなたから初めて『婚約破棄』を宣言されたのは、いつのことだったか」
「二年前でございます。殿下の身長が私を追い越した時ですね」
「そなたは良くそこまで覚えているな」
「他ならない殿下のことですから」
私の言葉に殿下が笑う。今度は引きつってはいない。
「そうだな。あの時まで余はそなたに何度も『婚約破棄』を突きつけてきた」
「はい」
「だが、それでも、そなたは余の隣にずっといてくれた。支えてくれた」
「それは……」
「愛している。マリアンヌ。余の妃になってはくれまいか?」
顔が熱い。数年間でこうも立場が逆転するとは思わなんだ。
「は……い。喜んで」
私は真っ赤になっているだろう顔を殿下に見せないように、顔をそむけようとした。だが、それは他ならない殿下の御手によって遮られた。
唇に触れる、柔らかな感触。
「は? え?」
突然のことに驚いていると、殿下が顔をそむけていた。よく見ると耳まで真っ赤になっている。
「そっ、そなたの言葉に対する余の答えだ」
筆休めに書いたら思ったより楽しかったです。
しかし、このヒロイン。
やべー奴じゃん。
次は皇子様視点です。
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