回想:起きている時のような鮮明な夢は、しばしば人を混乱させます
夢を、夢を見ていた。
懐かしい記憶だ。
これは、誰の夢だろうか……?
夏の日差しがてる時期、高原にあり手入れされた森に囲まれたドビンス家の領地は、避暑地としては知る人ぞ知ると言った地域である。逆に言えば狩猟と避暑以外売りがない地域でもある。
ドビンス家が住んでいる屋敷よりも大きいサマーハウス(別荘)が何軒も建っているが、彼らが落とすお金が、この地域のかなり重要な収益になっているほどに。世知辛い田舎の代官の収める地域の、だがありふれた光景だ。
そんな避暑で滞在中のブラックモア家のサマーハウスの庭に、小さな影があった。
「トリスちゃん! トリスちゃん! これっ!!」
夏の日差しを吸収して、暑くなっているであろう黒色の髪には、急いできたのか葉っぱやなにかの種がついている。浅黒く良く焼けている小麦色の肌と合わさって、そこら辺の平民に見違うような少年。
彼はしきりに庭に設置された東屋で、年不相応なまでに落ち着いた様子で読書と洒落込んでいた少女に向けて話しかけている。栗色の髪が東屋を抜ける風に揺れている少女は、少しだけ苦笑を浮かべながらすっかり懐かれてしまった少年に向き直る。
「あら、どうかなさいました? デリック様」
「あのねっ! あっちの村の外れの森で見つけたから、トリスちゃんに」
そう言って誇らしげに彼が差し出したのは、棘を落としてすらいない一輪の桃色の薔薇。夏の時期故に花びらの枚数も少なめで、そうでなくとも持ってくるうちに少しよれてしまっている。有り体に言えば、花屋には並ばないレベルの花が一輪だ。
「まぁ、ありがとうございますデリック様。素敵なお花を」
「うんっ!」
それでも彼女はニコリと笑みを浮かべて、ハンカチでそっと花を受け取る。前回の春に初めて会ったときは恥じらってあまり近づいてこなかったが、それでも興味はあるのか滞在している間に物陰から良くこちらを観察していたのを思い出す。
それに比べれば、今はもう随分懐かれたものだ。
「ですが……」
「何? 」
「御髪に色々ついてしまっておりますよ、どうぞこちらに」
彼女は、自分の隣の椅子に少年を座らせて髪を整える。このぐらいの年頃の子供だからかそれとも彼の気質なのか。
外見を整えるということをせずに、この場まで来てしまっているのであろう。
女性へのプレゼントというアプローチとしては、全体的にかなり甘めに採点しても赤点かも知れないが、ただ素直に好意を向けられることが嬉しくはあった。
「ありがとっ! トリスちゃん」
「いえいえ。とんでもないですわ、私のためにご用意頂いたのでしょう?」
「うん、トリスちゃんが好きだと思ったんだ」
娯楽の少ない田舎だ。時折年の近い子供が遊びに来ることはあっても、御付きの従者等がいる家がほとんどだ。
そんな彼にとっての遊び相手は、年の近い地元の子供達だけだった。しかし街の子供達はたいてい家の手伝いが有るため、彼といつも一緒に居られるわけではない。
だから夏の間だけとはいえ、遊びに行けば何時でも一緒に居てくれる彼女のことが、彼は大好きだったのだ。
「ありがとうございます。でもあまり危険なことはしないでくださいね、怪我されたら、私は悲しくて泣いてしまいますわ」
「えっ!? 泣いちゃうの?」
「はい。会いに来てくれなくなったりもしたら、とてもとても悲しくなってしまいますよ?」
彼女も、少年のどこまでも素直な態度に、柄にもなく育ちの良い令嬢として、憧れのお姉さんとして振る舞っていた。両親にマナーなどの授業をもっと真面目にやってもらえればと言われるほどに、彼女は大人しくそして優しくしていた。
「わかった、危ないことはしないね」
「はい、約束です……指切りしましょ?」
「うん、これだねっ」
少年の差し出してきた小指に自分の小指を絡ませて、彼女はニコリと微笑む。すると少年も返すように大輪のような笑顔を向けてくる。
いつか、こんなに年の離れた自分ではなく、もっと良い人を見つけたときに。この日のことを思い出すことはないのだろうと。少しだけ寂しく思いながら。彼女は彼へ教えた通りの歌を口ずさむのだった。
「あっ、トリスっ!」
「デリックじゃない、おはよう」
「もう、昼だよ。トリスはお寝坊だ」
赤い絨毯の敷き詰められた豪華な屋敷。そのサロンにて少年は、やってきた少女に向けて明るく声をかける。
客分として招かれている彼は、朝の散歩も朝食も終えて、ブランチとして食後のティータイムを取っている。そこにしっかりと身なりを整えてこそいるが、朝食の席にも居なかった少女がやってきた形だ。
「本を読んでいたら、本が書きたくなったの。そして書いてたら、読みたくなっての繰り返しよ」
「ちゃんと寝なよ? 体に悪いよ」
「わかってるのだけどねぇ、やめられたらこうはなってないのよ」
「んまったくもぅ」
そろそろ変声期なのか、少しだけ声を出しづらそうに彼が呆れを表しつつも、表情に責めるようなものはない。手慣れたやり取りであった。彼が招かれてこの屋敷に寝泊まりする一月の間に、既に何度もかわされたやり取りだからだ。
「子爵様も心配してたよ? 今度やったら侍従長に折檻させようって、奥様が言ってたから」
「それは、勘弁ね」
流れるように彼の向かい側に腰掛けて、自分の手ずからに飲み物を用意した彼女は、ごまかすように笑顔を作って彼に話しかける。それもまた、手慣れた様子だった。
そしていつものように懐柔策をさらりと実行に移すことにした。
「そうだ、デリック。あなたの見たがってたサーカスのチケット。知り合いのご婦人からもらってきたわよ」
「えっ! 本当!? ありがと! トリス!! 俺象使いが見たかったんだ!!」
「それはよかったわ」
コロコロと表情を変えて、無邪気に感情を隠すこと無く表す少年を微笑ましげに眺めながら、彼女は内心安堵する。心が落ち着くと余裕ができて悪戯心が芽生えるものだ。
ひとしきり彼の喜びが落ち着くと、彼女は頬を差し出すように、体をテーブルの上へと乗り出す。
「ほら、お礼をいただけないかしら?」
そして、右手で頬を強調するように軽く叩いてそう告げた。すこしだけからかう様に笑顔を浮かべて。
「っ! トリス!! それやめてよ!」
「あら? 貴方の感謝の印だったじゃない? もうしてくれないのかしら?」
それは前にもう少し幼かった彼が、どこからか覚えてきたのか。もう何だったかは覚えてないほどの些細な何かのお礼と称して、彼女の頬に軽い口づけをしたころから起因する。
その時は少しだけ驚いたものの、幼い少年が大人の真似事をするさまに、思わず口が綻ばせてしまい、後ろから搔き抱いて彼の頭に顔をうずめてしまったほど。
それから何度かその習慣は続いたが、いつの間にか誰かが入れ知恵したのか、彼女にしてこなくなったのを、時たま彼女はからかっているのだ。
「もう!! 知らない!!」
怒ってあっと言う間に走り去ってしまった彼の、昔よりも大分大きくなった背中を見ながら。彼女は少し冷めたカップに口をつけ思い耽る。
「もう、思春期かぁ……早いわねぇ。子供の成長は」
ついこの間まで拳2つ分はあった身長の差は、拳1つほどに。声だって本格的ではないにしろ、前よりも低くなった気がする。たしかにまだサーカスに目を輝かせるような子供っぽいとことはある。
それでも、異性に対する恥じらいがすっかり芽生えた。軽く抱きついてみれば、恥じらうように逃れようとするし、彼女の家の女性の侍従へと話しかけるのをためらったりしてる。
幼い頃から見知っており、婚約者でもある少年は。彼女にとって年の離れた弟のような、親戚の子のような存在だったので、その感覚もひとしおだ。
「婚約……ねぇ? 親の決めた関係かぁ……」
ずっと一緒に居たのだ。憎からず以上に思ってくれているのはわかる。それでも、彼女からしてこれはフェアでなかったのだ。こんな、行き遅れも良いところの相手への刷り込みに近いかたちは。
「まぁ、なるようになるかしらね」
色々と思うところはある、だが、元来が楽観的で刹那的、享楽的な彼女は深く考えずに。どうやって母親に告げ口をした場合の言い訳をするかを考えることに思考を移した。
「それで、それでね。本当にやばいの!! まさかまさかよ。本当に本物の王子様がいたの!! 」
赤らめた顔で興奮気味に語る女性が居た。彼女は自分と同じほどの背の高さの少年に。詰め寄るようにして熱く語りかけている。
きっかけは些細でなくとも、大げさなことではなかった。毎年のように、だが去年よりも大きく遅れてサマーハウスへと避暑に訪れた彼女。彼に連れ出された先は、毎年代わり映えはしないが、それでも彼女が好んだ眺めの良い丘の中腹にある、大樹の影。周りに人はおらずともすれば逢瀬中の二人にも見えるが、その実は全く異なっていた。
始まったばかりの学園生活。集団生活を覚えるためだからなのか、長期休暇が限られているため、今までのように夏以外にも訪れることはできなくなってしまった彼女が、その学園生活の仔細を話していただけだった。
仲良くなった友人の話、学食の美味しいメニューの話。とめどなく溢れるそれは、久方ぶりに会う親しき人へと共に共有したいがためであった。
そこでできた友人の話が、いつの間にか彼女が同じ学年となった数多の目立つ学園生の話となり、そしてそれが弾けたのである。
「……王子様かぁ」
「それ以外も色々居たのだけどね。本当に入学したら世界が広がったわ……はぁやばい」
「そっかぁ……」
彼女は彼がなにかを思い悩む様子に気がつくこともなく、ただ彼女がたった数ヶ月で随分と目まぐるしい生活を送るようになったことを改めて思い直す。学園に通う前は二桁に届くかどうかだった顔と名前の一致する以上に仲の同年代の知己が、数倍以上に膨れ上がった。
彼女からすれば懐かしさすら覚えるほどの学園生活は、多くの若者にとっては刺激的な毎日であり、その余波を受けた形なのであろう。
だから、そう。彼女自身無意識のうちに変わってしまったのかも知れない。
そして、もしかしたら彼もまた変わってしまうかも知れない。
なにせ、彼女が確信を持てたほどにあの【学園】だったのだから。
「ねぇトリス。王子様って、どんな感じ?」
「そうね、まずは何よりも立ち振舞が────」
そして、彼に聞かれる形で件の王子様の話を学園の友人にするように話していると、どこか安心する自分がいることに彼女は気づいた。
なんの事はない、彼女も久方ぶりに会えた彼へと。まだ背丈こそ小柄なままだが、成長期を迎え随分手足に筋肉が付き、体が逞しく育った彼に対して、少しばかりの不安があったのだ。お互い変わらずには居られないのだと。
馬車に揺られて、ドビンス領家に来る時から漠然と思っていたのだ。学園前までは仲の良かった婚約者同士が、入学を境に環境や交友関係の大きな変化に揺られて、ぎくしゃくしたり場合によってはなかったことになる。それはありふれている学園の風物詩だった。たった数ヶ月の夏季休暇までの期間ですら、起こり得る。
だからこそ、会うたびに少しずつだけど、確実に男性になっていく彼が。学園に入ったらもっと成長するのであろうことを、自分の周囲の変わりぶりから感じ取っていたのかも知れない。
それが、彼のためになるのだというのは理性的な彼女はわかっているし、そうしてきた。だが、このままで居てほしいという彼女自身がいることは眼を瞑るべきなのだ。
なにせ、彼女を彼女たらしめているものが、そういった変化を好意的に受け入れるべきだとしている。
「トリスは本当すごいよ。昔から、なんでも詳しい」
「そうかしら、好きなものには一生懸命になるでしょ? それだけよ。だから学園生の期間くらいは、一度全力で好きなものを探してみなさい?」
だから、彼女が言えることはそれだけだった。元来好きなものに溺れる程度しか能のない自覚があるのだ。その結果がどうであれ。
「私はもうなるように、好きにするしかできないもの」
二人の間に風が吹いた。つられるように地平線まで続く眺めへと目を向ける。
相変わらずなにもない。人だって周囲の村をあわせても、彼女の住んでいる街の10分の1ほどしかいない。そんな狭い場所で育ってきた彼にとって、彼女はきっと素敵なものに見えているのであろう。
そう見てもらえると嬉しいから、そう接してきた自負が彼女にはあった。
だからこそ、学園というあの人の集まる恋愛信仰の場で。一度彼がどんな身の置き方をするのかを見ないというのはあまりにも不公平であった。
そんな崇高とも言えない、使命感を脇において。
ひとまず彼女は心の赴くままに、学園で実際に見れた魅力的なあらゆる事柄を事細かに彼へと話す。
その話題の選択が過分以上に彼女の好きが詰まってしまっていることには、あまり深く考えることはなかった。
そんな晩夏の一時であった。