いいえ、ミルクとガムシロップは必要ありません。
別に俺もずっと、彼女と一緒にいるわけではない。
そもそも学年が違うし、俺達の本分は学生だ。基本的には同じ授業なんてものはない。選択式の講義で、既に実家の家庭教師に習ったので、上のクラスに混ざるなどの例外を除けばだが。
当然実家が山奥の貧乏代官ではそんなものはなく、特待生の商家生まれの奴らのほうがいい生活をして、良い教師に学んできていたと思う。
そんなわけで、俺は正直言うと勉強、というよりも座学が苦手だ。赤点は気にしないけれど平均点が分厚い壁として目の前にあるくらい。
そんな優等生ではないが普通の学生である俺が、もうそろそろ新入生と呼ばれなくなり、1年生と呼ばれるようになった頃。教室でテキトーな話題に話を咲かせていた。
やれ、あの講師は厳しいだの、学食のどのメニューが美味いだの。どうでもいい話がほとんどだが、中には過去問を手に入れてきたなどの有益な話もあるので、俺は隅の方で頷いていることが多い。別に混ざるのが苦痛というわけではなく。
「つーか、デリックその席で板書見えるの? 前のやつの背中で隠れね?」
「うるさい、殴るぞ」
「おーこわいこわい」
「実際痛いからなぁ、一昨日の奴で二の腕まだ違和感あるんだけど」
「それは、お前が人の飯を勝手に全部食うからだ」
俺の言葉に、周りも笑いながら同意する。あまり自分から話題を作るのが得ではないだけで、話を振られれば話す。お互いの家柄に大きすぎる差はないが、ある程度はバラバラのこの集まりでは、自然とこうなる。
何より俺は、空いた時間に男友達が時間をつぶすのに外で体を動かさないことに、結構ショックを受けてしまったほどに、学園の一般層と感覚が違ったのだから。
というわけで、付き合いながら話を聞いてるのが俺の常になっている。
そして、だいたいこの手の話は結局の所行き着く話は、女の話になる。
「てか、やっぱこの学園の女子レベル高いよな?」
「先輩達とかマジでやばいよな」
この手の話は、誰を狙っているかの探り合い及び牽制、有る種の紳士協定という意味合いのそれと。本当に単純にあの娘が可愛いという中身のない物がある。
今日のは自分が学園で一番気になる女子というテーマのようだ。まぁ、もうすぐお客さんではない初めてのダンスパーティーもあるし、誰を誘うのかという話でもあるのだろう。
「やっぱ、目立つのはあの編入してきた先輩だよね」
「いや確かに可愛いけど、あの周囲を見てまで行きたくないべ」
「だなぁ。おれはやっぱアリスちゃんだな、ほら隣の魔法学科クラスの」
「ああ、あの娘いいよなぁ……」
「僕は司書のお姉さんですねぇ!」
まぁ、なんとなく面子の好み的な物のはわかってきてるから、これは探り合いではないのだろうなーと思いつつ推移を眺めていると、一周意見を出し終わったのか、各々の審議の段階に入る。
というか、俺には発言のタイミングがなかったぞ。
「まぁ、1年はアリスちゃんで決まりだなぁ……どうしたデリック?」
「いや、別に」
「安心しろよ、お前の大好きな先輩は対象から外してるからさ、悪い意味じゃなくな」
「……そうか」
釈然としないが、別にいつものことだ。何よりここの連中には特に隠してもいないし、彼女も俺の贔屓目を抜いても人気の出るであろう女性だが、学園1を決めると成れば候補より外れるのもまぁ、わかる。
本当に、あの早口で意味不明なことを言うのがなければと思う。
「いいよなぁ、デリックには相手がいて」
「本当だよ。オレの婚約者はなぁ……うん、まじで学園中が勝負だし」
こいつらは人の気持ちなんか知らずに、羨ましいと言ってくる。婚約者がいるのが羨ましいと。それが可愛い人だということが。ダンスパーティーに誘うパートナーが有る意味で内定しているからか。
本当は、誘っても来ないということを考慮しないといけないのに。
「俺以外にも、婚約者がいる奴もいるだろ」
「そうじゃねーよ、デリック」
「お前だけじゃねーか、真面目に恋してるの」
「……真面目に恋?」
だが、帰ってきた言葉は、俺の考えと少し違った。あんまり俺の婚約者は掘り下げていなかったから、こんな風に言われるのは初めてだ。
「入学した時から、お前だけ普通に恋愛してるの」
「むっちゃ目立ってたよな、皆探り合いと情報収集しつつ、入学前の知り合いで固まるのに」
「どういうことだ?」
何を言っているのか、理解ができなかった。いや感覚でなんとなくはわかる、しかしそれがどういう意味なのかがわからないのだ。
「いいなぁとか、そういう憧れとか。婚約者だし好きになろうとしてとかじゃなくて、お前あの先輩の事好きだろ?」
「それが、何か?」
「それがすごいんですよ。僕達はただ気になる娘の情報を集めて距離を測ってるだけですからね」
「初恋だろ? 親が決めた婚約者に。なんともロマンチックだな」
言われた言葉を噛み砕く。それは思ってもいなかったことだ。
「俺はただ、ずっとトリス先輩が好きなだけだ」
「10年近いんだろ? よくもまぁって感じ」
「だからなのかねー」
俺等位の年齢ならば、当然異性への興味が強く有る。俺もそうだし彼女と結婚したらやりたいことはたくさんあるし、この場で言えないようなことも有る。
だから、別におかしく思わなかったけれど、そんなに変なことなのか?
「まぁ、お前はそれで良いんじゃね? 先輩もその辺わかってそうだったし」
「それなー、んじゃ次は2年のNo.1を決めるか」
ぐるぐると言われたことが頭を回るけど、結局何も変わらなくていいということだったので、俺は思考を切り上げて、話に加わるのだった。
前にも言ったが、そろそろ学園は夏季休暇前の大きなイベント、ダンスパーティーがある。
元々は、貴族同士の社交場という意味合いも強かった学園なので、当然その手の催しは多く有るのだが、これと卒業記念のパーティーは別格である。
というのも、今の校風の恋愛主義になったのも、このダンスパーティーのおかげだからだ。
下級貴族の娘が、自身と想い人の家紋を刺繍でいれたハンカチを、身分の高い生徒に送って気持ちを伝えた所、それに感激した男子生徒がそのハンカチをポケットチーフ代わりにして、彼女をパーティーに誘ったとのことである。
まぁそういう言い伝えのようなものが有るため、パーティーの誘い文句は男性は、君のハンカチを貰えないかで、女性側が家紋入りのハンカチを渡すことである。
まぁこの手の習慣に対して盛り上がれるのは、恋愛における強者達だけだ。
俺にはあまり関係ない。
このダンスパーティーは新入生ではなく、学園の一員ということで、強制ではなく自由参加。パートナーを連れてくることは必須ではないが、推奨されている。
学園のためそこまで堅苦しくはないが、この前またドレスが入らなくなった彼女は行きたがらないであろう。
「あれは……トリス?」
そう思いつつも、放課後に中庭を歩いていると、2階の教室の窓から彼女が見えたので足を向けてしまう。なにせ針と糸を片手に持っていたのだから。
いや、まさか彼女に限ってそんな事。普通はこの時期から気になる相手の家紋を調べるところで、皆盛り上がるらしいのだが。あいにく俺も彼女も何も見ないで相手の家紋を書ける程度にはお互いの家が繋がっている。
少しばかりの期待と、えも言えぬ不安を覚えながら、早足に彼女の居たであろう教室に向かう。少なくとも、俺には彼女から誘われて断る理由は塵一つない。乗り気でないであろうトリスを誘うのは気が引けていたが、彼女から行きたいというのならば、何をしてでも行く。
だが、彼女がもし別の誰か、そう想い人がいて。そいつの為に作っていたのだとしたら。
俺はどうすればいい?
乾く喉を無理やり唾を飲み込んで抑えつつ、ついに教室の前にたどり着く。半開きの扉から身を隠しながら覗き込むと、意外にも彼女は一人ではなくご友人の方と一緒にいるようだ。
何度か顔を見たことが有るのでわかる。よくトリスと一緒にお茶会を開きながら盛り上がっている先輩たちだ。
そして、全員が手元の刺繍に集中しているが、お喋りをしながら和気あいあいと和やかな雰囲気だ。別におかしなところはない。この時期には学園の多くの場所で見られるであろう光景のはずだ。1年の俺ですら既に何度か似たようなものを見ていた。
刺繍は嫁入りの礼儀作法の区分に入るので、ほとんどの女性ができるらしいが、得手不得手もあり一緒に教え合いながら作っている。それは学園の初夏の風物詩らしい。
だが、この場で一つだけ違和感が有るとすれば、彼女たちの横においてある布の山であろう。
「え、何その枚数?」
「ん? って、デリックじゃない? 何? 見ての通り今忙しいんだけど?」
思わず猫を被るどころか、自分が覗きに近いことをやっていることを忘れて声が出てしまい、当然のようにこちらを見る彼女に見つかってしまう。
しかし、仕方ないであろう。彼女達の真ん中にある机には、無地の布の山が積み上げられており、それぞれの手元には何枚か重なって刺繍済みのハンカチが有る。
「あら、デリック君来たの?」
「それじゃあ、休憩にしましょう。トリスさん私達は飲み物でも買ってきますので」
「私達20分ほどは戻らないからねー」
「余計なお世話よ!」
事態を飲み込む前に、トリスを除いた先輩方は反対側の扉から出ていってしまう。必然的に俺と彼女の二人だけが、大量の布が置かれた机を挟んで向き合っている。
どういう状況だろうか?
「あの、トリス先輩、そのハンカチは?」
「見てわからなかったら、正直ドン引きなんだけど、ほら」
そう言って彼女が一枚刺繍が終えたハンカチを渡してくる。そこに描かれていたのは俺は当然として、この学園の者であれば、どういう意味の家かは一目瞭然の紋章だった。
「……王家の紋章じゃないですか」
「ええ、だってまだ公爵家になられてないじゃない、アルベルト様」
ハンカチを返して、他の物を見れば彼女の手元に有るのは全て王家の紋章の物であった。他の先輩方のも王家の物が多く、いくつかは別の紋章だ。しかしそれはよく見ると見たことの有る名門の家の物であったりする。
そして何よりも、1つの紋章しか────彼女たちの紋章はなく────渡される側の物しか刺繍されていないのだ。
「あの、結局これは何ですか?」
「見てわかるでしょ? 皆で刺繍してたのよ。ハンカチの話は知ってるでしょ?」
「はい、勿論です」
そう、先程からしっかりわかっている。これは女性側から男性を誘う事のできる数少ないパーティーで、その手段でもあり、事実上のアプローチである事を。
「女子の多くは好きな人にハンカチを渡すでしょ? だから、毎年人気のある方は、多くのハンカチを受け取られるの。だから何時からか、バロメータになったのよ」
「バロメータ?」
「基準の事よ。ハンカチをもらった数、即ちイケメンランキングになるの!!」
また、彼女はわけのわからないことを言い出した。いや、今回は何となく分かる。友人の先輩方も付き合っているだけあって、ある程度学園基準であってもおかしくないことなんだろう。
「つまり先輩方は、ハンカチの刺繍をたくさん作っていたと」
「ええ! これは乙女のプライド賭けた戦いよ! 愛の形はないけれど、見えるのは数字! ならば推しに捧げるはNo.1 じゃない!! 食べ物を送るのは色々問題あったし、これは良い催しよ!! 集計は委員会がやるし、そっちに提出だから、彼らの重しにもならないし。女の子たちは練習で作った刺繍をそのまま提出もできて本命にはよくできたのをくれる、無駄がないわ!!」
つまりは、いつもの発作だったようだ。
彼女は、いや彼女たちは、自分の好きなこの学園の中心人物達へ好意を伝えているのだ、ハンカチに込められた気持ちではなく、送られたハンカチの枚数という形で。
そして、この行いはある程度慣習化していると。
「王家の紋章は誰でも諳んじてるし、2か3番目に習うものですもの。そして大量投票の場合自分の気持ち、つまり自家の紋章は刺繍しないで済む、つまり誰でも量産が簡単にできる! つまりアルベルト様が有利!! だけど、油断はできないの!! ライバルは多いわ! 私が目移りするほどにね!!」
「それは大変ですね、トリス先輩」
目をキラキラさせながら彼女はそう語る。本当に楽しそうだ。
相変わらずズレているし、もしかしたら、この教室の今日の集いは彼女から言い始めたのかも知れない。なので、説明が面倒になり、先輩方は俺にトリス先輩の相手をするように逃げていったのだろう。
どっと疲れながら、これは少なくとも今日は誘う空気でもないし、俺にハンカチをくれそうな気配もない。今日は出直そうかと思い肩を落とすと、入り口から誰かが入ってきた気配がする、もう戻ってきたのかと思い振り向くと、そこにいたのは意外な人物だった。
「楽しそうな声がすると思えば、ドビンス君でしたか」
「他の教室まで声が聞こえる、余暇活動は自由だが多少は慎め」
今まさに話していたアルベルト殿下と。銀縁の眼鏡をかけた冷たい彫像のような印象を受ける、殿下のご友人の一人エイドリアン先輩だった。
「アッ! アルッアル!! アルベルト殿下様!! エイドリアン様まで!?」
案の定、隣のトリスのテンションはMAXを超えてキャパシティーをオーバーしている。殿下は気さくな方で、この前の一件といいいろいろな人に話しかける社交性をお持ちだが。エイドリアン先輩はあの『編入生の先輩』や昔なじみだという殿下やバクスター先輩たち以外には本当に冷たい。俺の友人も誰もいない廊下を走っていたら注意されたらしい。
「落ち着いて下さいレディ。同学年ですし殿下は結構ですよ」
「またか、そのアルベルトの懐柔策。卒業後の足場硬めはわかるが、さっさと終わらせてくれ」
「エイディー、君は冷たすぎなんですよ。ドビンス君、彼女が君の?」
「え、ええ。はい。以前お話させていただきました、婚約者です」
正直殿下を前にすると、俺はあまり冷静でいられない。この前みたいに普通に俺だけで合うのならば兎も角、トリスを会わせたくない。だってそうだろ。こんなハンカチの山を用意する程、殿下のことを────
「レディ、私は貴女をどうお呼びさせていただけますか?」
「あ、あのベアトリス・ブラックモアです!! どうぞ、私のことはビービーとお呼び下さい!」
「え、ええ。ブラックモア子爵の……なるほど承知しましたミスビービー」
「あ、やば、まじでハンドル呼び。やば、つら、むり、顔光ってる、後光見える」
完全にテンションが振り切り始めて、いつも以上にわけのわからない事になっているトリスを見て、俺は思わず少しだけ腰を落とす。本当に無意識に握っていた拳を緩めながら。
「それで、そのハンカチは……おやエイディー君のもありますよ?」
「興味無い」
「ふむ、そうですか。これだけ情熱的に誘われてしまえば、王子である前に一人の男として答えなければ……」
その先は、言わせてはいけない。
その言葉だけは、彼女に届かせはさせない。
この後どうなるかなんて頭からもう抜け落ちてた。俺は半歩前に出て────今日はヒールがないので、俺より少しだけ小柄な────彼女を後ろに隠す。
元々俺はそんなに口は回らない、だから態度で示す。それしかできない。
「と、思いましたが。ナイトが怖いですし、お邪魔者は退散しましょう。ミスブラックモアも、子爵によろしくお伝え下さい」
「はいぃ! アルベルト様!!」
しかし、するりとではなく、ふわりと殿下は距離を取って、そのまま教室の扉へと足を向ける。
完全にからかわれていたのはわかった。だが、それでも俺はそうせざるを得なかった。エイドリアン先輩もこちらを一瞥すると興味なさげに殿下に続いていく。そして横のトリスは夢見心地で、手を上品に振っている。
「ああやば、顔が良すぎる」
俺は二人が扉を閉めたの確認すると、そのまま呆けたように同じ場所を見つめ続ける彼女をもう一度見る。
そして覚悟を決めた。
いや、正しくはもう何も考えられなかった。あんな風な王子様のような態度で近づけないような所作の差とか、卒業後の地盤作りの一貫で中級位の貴族の支持を得ようと動いているからであろうとか。ずっと呆けていたトリスとか。そんなのは後から思い出してわかったものだ。
ただ、彼女の廊下に向けて振っていた手の手首を握って、俺の前に持ってきた。
「きゃ! って、デリック、何する────」
「トリス、俺と一緒にダンスして」
彼女の鳶色の瞳に俺の顔が映る。彼女の顔をみたら怯んでしまいそうだから、瞳に映る自分の顔を覗き込むように顔を寄せる。
「え? ちょ、ちょっと待って」
「やだ、待たない。トリスが良いって言うまで、俺は離さない」
猫を被ることを忘れた事も、彼女が少しだけ痛がっていることも、全部後から思い出して気づいた事。
本当に今は、何もなく此処で離したら彼女がどっかに行ってしまうような、そんな気持ちで真っ直ぐと、ほとんど同じ高さの瞳を覗き込んで俺はそう言った。
「あ、あの、その、私その日は……」
「だめ? トリス、俺のこと嫌い?」
「いえ、そんなことはないのよ? ただ、そのね?」
「じゃあ、一緒に行こう?」
「……あぁう……そ、そうね! わかったわ! 一人じゃ不安でしょうし先輩の私が案内してあげるわ!!」
その言葉を聞いた時俺はきっと安心して笑ってしまったのだろう。
急に頭に登っていた血がふわっとどこかに行ったような、そんな気持ちになったのはよく覚えている。
「うん、嬉しい。トリスと一緒にダンスだね、楽しみだ」
「はぁ……えぇ、そうね。久しぶりじゃない」
浮かれた気持ちで、彼女の手を軽く引いて椅子に座らせて。
俺は走り出したいほどの気持ちで、その場をあとにした。
「じゃあ、俺は帰るね? バイバイ」
今夜はよく眠れそうだなという晴れやかな気持ちと、頑張って学園生として振る舞っていた演技が殆どできていなかった恥ずかしさ。そして癪だけれども殿下への少しだけ感謝しても良いと思えるそんな気分だった。
途中すれ違った、飲み物片手に戻ってきた先輩達に笑顔で会釈して、自室に戻るのだった。