そのキャンセルされた予約は、ツインルーム一晩でした。
10人は余裕で掛けられるような机。俺からすると大きいものだが、豪華なこの屋敷の中ではむしろ少しこじんまりとした、それでいて貧相さを感じさせない、アットホームな食事が取れる空間を演出している。
とにかく全体的に品が良い席についているのは、俺を含めて4人。トリスの両親と彼女自身で、兄姉たちは既に独り立ちをしていたり、今日は忙しかったりとのことだ。
「母なる恵みを与えてくださる精霊様、見捨てられし私どもへのお導きと、本日の糧に感謝いたします」
俺と彼女はアンバランスな関係ではあるけれど、彼女の家族にはとても良くしてもらっている。
まぁ、俺の実家は帰るのに2日はかかる山奥だし、学園に入ってからは彼女の家族のが会ってるくらいだ。1年上でそもそもが実家な彼女はともかく、新入生の俺からするとここに帰ってくるほうが帰省という気持ちになるほどに。
だから食事会にも緊張はなく意識しないで接することができて、非常に気が楽だ。これが他の貴族だったらこうは行かない。
「デリック君はもう学園には慣れたかい?」
「はい、ブラックモア子爵様。トリス先輩も含め色々な方のおかげで」
「ははっ、そうだろう。なにせ学園は身分の差を忘れさせてくれるからな」
子爵様は我が両親以上に、俺のことを目にかけてくれている。若い頃の父によく似ているとの事だが、贔屓目みたいなものだろう。とはいえ、我が家の男性は代々小柄で筋肉質なため、今でこそ背の低いオジさんの父と似ていると言われても強く否定はできない。
それはなんとなく、父もこんな感じで内心は苦労しながら友人になったのかもしれない。なんて馬鹿らしい想像が思い浮かぶほどに。
「トリスも、学園はどうなんだい?」
「変わらずお友達の皆様には良くしていただいてますし、なにも問題はございませんわ」
「勉強はそろそろ選択科目も始まっただろう?」
「そちらも順調です。楽勝です」
まぁ、実際彼女は内向的な女性達のグループにいるようだ。流石に学年も違うし、学園ではあまり俺に会ってほしくなさそうだ。1年も学園に通えば人間関係もあるだろうから仕方がないし、アンタも友達をしっかり作りなさいと彼女から言われれば、その通りなので従うしかない。
用事がないと会いに行けないから、彼女の様子の殆どは人伝に聞いた程度だ。
そんなトリスは成績も実は上位グループに入っている。成績優秀者だけが張り出される試験結果のリストに名前が入っていたくらいだから。
「そうか、食事はちゃんと……取ってるみたいだね」
「……お父様?」
「貴方もそう思います? トリスったらまたドレスの採寸をし直しましたのよ」
「お、お母様まで!」
「前回はともかく、今回は腰回りよ、未婚の女性としてどうなのかしら?」
これに関しては、俺はノーコメントでいる程度には愚かではない。ただまぁ、それは俺も感じてたことだし、全く不満はなく、むしろ喜ばしいことだが、口に出すことはしない。
兎も角。家での彼女は、まあご実家での令嬢という感じなのだろう、学園で学友といるときや、俺といるときとも違う。カジュアルよりもアットホームという感じか。ちなみに言うと俺の実家はサバイバルという感じだ。学園に来るまではそれが普通だったが、今ではもう大分おかしかったのかはわかる。
「まぁトリスは貰い手がいるし、問題はないだろう?」
「貴方、それはその通りですけど。学園生として最低限の摂生はするべきでしょう?」
「なぁに、今年でもう二人とも16歳を過ぎる、何時結婚してもおかしくないじゃないか」
「また、その話? 私、学生結婚はしたくないんだけど」
だが、正直当人同士の関係が一方通行な婚約者の前で、あけすけに結婚を勧めてくる義両親(予定)というのは、結構困る。流石に親の前で直接俺を否定することは言わないけれど、やはり肝が冷える。
彼女が思い切り『俺に興味はなくて、学園に気になる人が何人もいる』と言ってしまえば、俺はどうなってしまうのだろう? 彼女が学園に行ってからは本当にそんな悪い想像が頭から離れなくなる。
だけど、優しい彼女はそう言わないだろう。それは長い付き合いで俺が確信できていることでは有る。だが、その優しさだけで成り立っている関係は、俺の心を痛くする。
「二人に任せるが、まぁ後悔はしないようにな」
「何かあれば言ってくださいね、デリックさん」
「ありがとうございます、子爵様、夫人」
お礼をしっかり述べてから、気持ちを切り替えるように俺は食事に取り掛かる。少しでも食べて身長に変える必要があるからだ。こちらを不満気に見る彼女のその不満を少しでも減らせるように、まだ『逆転』の希望は有るのだから。
「なるほど、やはり犬笛は良い物を揃えたほうがよいのだな……」
「はい、猟犬は何よりも戻ってくることが大事ですから、っと」
食事もとっくに片付き、食後の会話もかなり弾んでいたが、そろそろ夜も更けてきている。
出されたお茶で唇を湿らせながら話していると、気がつけば子爵様と彼の趣味である狩猟の話で質問攻めにされてしまい、いつの間にか夫人もトリスもいなくなっている。
彼と会うたびにこうなってしまうのは、なんというか苦笑しかない。まぁ我が家みたいな山奥の人間は、金持ちの貴族が使いやすい猟場なんかも整備するといい収入源になるし。俺は殆ど狩猟をやらなくても詳しくなっていってしまうから仕方がないだろう。これも貧乏の悪いところではあるが、ある意味家業を学んでいるとも言える。
兎も角、明日は残念ながら朝から予定が有るために、今日はもう帰らなければいけない。
「子爵様、すみませんそろそろお暇させていただきます、奥方様にお礼をお伝え下さい」
「ん? そうか?」
酒が回っているのか、いつもより少しのんびりとした声に改めて頭を下げて、部屋を後にする。少々礼を欠いている自覚は有るが、正直言って今更である。小さい頃は俺一人で泊まりに来た位なので、恐れ多いが親戚のおじさんに近い感覚なほどなのだ。
帰りの支度と言っても、俺にはというより我が家には、荷物持ちや付きの侍従などいるはずもないため、何時でも自分で持ち運びできる荷物しかない。そもそも今日はお土産以外なにも持ってきていない。
外套だけ身に纏い慣れた道順を玄関ホールへと、見つかっても怒られない程に急ぐ。実家とは違い、広くて平らな廊下は落ち着かないほどに清潔で埃一つない。それが彼女との差をまた感じてしまうが、これもやっぱり今更だ。
初夏の足音が聞こえるとはいえ、山間の実家ほどではないが街でも夜の冷えは馬鹿にならない。自身の体を大事にできないやつは、何もできないのだ。そう思いつつ玄関のドアを開けると案の定少しばかり肌寒い空気が頬に当たる。
いつもなら誰かしらがいるというのに、妙なまでに静かな屋敷に少しばかり疑問を覚えるものの、すぐに軽く流して。最後に彼女の部屋のある二階の一室の窓に明かりが灯っていることを確認して屋敷を後にするべく歩きだす。
「で、デリック様! しょ、少々お待ち下さい!」
「……副侍従長さん? いかがなさいましたか?」
しかし、慌てたように駆け寄ってきたブラックモア家の従者服に身を包んだ、銀のフレームのモノクルをかけた女性が声をかけてくる。あまり名前を覚えるのが得意でないが、顔と役職は知っている程度には馴染みがある人だ。
「お、お嬢様のお見送りがまだでございます!」
「トリス先輩の?」
昔は兎も角、ここ最近はわざわざ俺を見送りに来ることなど有ったであろうか? そういえば、彼女が入学する前位の頃は朝食まで頂いた後に、彼女の画材や彫刻の材料の買い出しをして解散という流れだったはずだ。
それでも見送りをしたいとひっついていたのは、小さい頃から自分側で。彼女はいつもあっさりとしていたと思う。それでも困ったように笑いながら、また来ることを約束してくれたのだ。
昔から、そういう優しいところは変わっていないのに、どうして気がつけばあんなに余所余所しくなってしまったのだろう。なんて少しだけ気持ちが重くなるが、表情にはもう出ない。これくらいは飲み込めるのだから。
「なにか用事があるのですか?」
「い、いえその……こんな時間に帰られるのですか?」
妙に歯切れ悪い彼女の態度に、俺は少々戸惑ってしまう。曖昧な記憶だが、副侍従長はなんというかハキハキと話をする手際の良い人だったと思う。こんな言い淀むなんてことはそうそうない。はずだ。
「はい、明日は用事がありまして……」
「で、でしてもお嬢様の婚約者を、お見送りもなしに返すわけには行きません!」
「いえ、大丈夫ですよ。旦那様にはご挨拶させていただきました。お疲れのご様子でしたし、なによりほら、寒いですし。既に部屋着になっていたら、風邪をひいてしまいますよ?」
上着もなしに女性があたるべき風の温度ではないのは、こういうことはまだ勉強中だという自覚の有る俺でも理解できる。
「そうよデリック。どうせ式典委員の力仕事かなにかを押し付けられただけでしょ? そんな事の為に私に寒い中玄関まで行かせるつもり?」
降ってきた声に上を見上げると、彼女の部屋の空いた窓からトリスが声をかけてくる。彼女によく似合う黄色いナイトガウンの袖が少しだけ見える。そんなに大きな声で話していなかったのに、気がついたのは使用人の誰かが知らせたのだろうか?
「それでも、頼まれてしまいましたから」
「アンタ先週も同じ事言ってたじゃない。別に足りなきゃ教員がやるからいいのよ。だからそんな事よりもわ────」
「あら、デリックさん? お帰りになられるの?」
玄関から出てすぐのところで、2階の彼女と話し込んでしまっていると、丁度通りかかったのか階段の上より子爵夫人が近寄りながら声をかけてくる。トリスにそっくりでいながら、優しそうな夫人にご迷惑をかけるのは大変心苦しい。
「はい、明朝に所用がございますので、御暇させていただきます」
「先程主人と話していたから、お泊りになると思い馬車を帰してしまいましたわ」
「いえ、大丈夫です。学園まででしたら、大した距離ではないので走って帰ります。体も温まりますし!」
まぁ日付が変わるまでにはつけるであろう。兎にも角にも副侍従長も含め女性3名を夜風に晒すのは良くない。何よりトリスの心象をこれ以上悪くしたくない。
「では、失礼いたしました!」
ということで、ブラックモア邸を後にする。婚約者の家に来て一番長く話したのが婚約者の父親というのは、長い目で見れば良いことなのだろうが、長い目で見れる関係になるのか、俺は内心不安だったが、それを振り払うように脚に力を入れて風を感じるのだった。
「────も、申し訳ございません!」
誰かのそんな声が、聞こえた気がした。