第4話 行くもならず、帰るもならず
「ん……っ……くぅ……!」
散策を始めてから30分。
アリアの尿意は、予想を上回る速度で膨れ上がっていた。
(どうしよう……っ……我慢できなくなりそう……っ!)
迎賓館で済ませた分はごく一部に過ぎなかったのだろう。
6杯の紅茶は、確実にアリアの下腹部を蝕んでいた。
まだ平静は装えているが、よく見ると手にはかなり力が入っており、歩く足も、幾分内股気味だ。
(あぁっ……さっきのトイレに……っ……行っておけば……っ!)
実は、トイレは20分ほど前に一度見つけている。
だが、いざトイレを見つけたアリアは、声を上げることができなかったのだ。
アリアのトイレに関する羞恥心は筋金入りだ。
今では、家族以上に気を許している学園の親友達にすら、尿意を告げるには相当な覚悟と勢いが必要になる。
メロネだけなら兎も角、あまり面識のなかったミーアと、男性のディオンがいる前で、
真っ先に『トイレに行きたい』と言い出すことは、アリアにとってこの上なく恥ずかしいことだった。
せめてメロネかミーアが、トイレ休憩を申し出てくれれば……。
だがその思いは虚しく、2人はトイレの看板すら目に入っていないかのように歩みを進める。
『まだ大丈夫、次のトイレの時こそ言えばいい』
その時はまだ、今ほど切羽詰まっておらず、トイレも割と簡単に見つかった。
後ろ髪を引かれながらも、アリアは赤いマークを見送ったのだ。
それから尿意は加速度的に高まり、今や我慢のならないところまで、アリアを追い詰めている。
トイレは、その後一つも見つかっていない。
(私の馬鹿っ! あの時ちゃんと言ってれば……っ……こ、こんなことには……っ!)
アリアはもう、『銀の魔人』を探してはいない。
もし出会えたとしても、込み上げる尿意でまともな会話はできないだろう。
だからと言って、自分の騎士達にすら尿意を告げられないアリアが、憧れの英雄の前で、『トイレに行きたい』など言える筈もない。
そこでもし、『ゆっくり飲み物を飲みながら』などと言うことにでもなれば……彼の前で、本当に最悪の失態を演じてしまうかもしれないのだ。
だがグレンと遭遇しなかったとしても、このままトイレが見つからなければいずれは……。
(だっ、だめっ! 弱気になったら……なったら……っ! あぁっ、どうして見つからないのっ!?)
額には薄らと汗が滲み、潤む瞳はトイレを探してキョロキョロと動き回る。
本当は、今すぐにでも迎賓館に引き返し、トイレに駆け込みたい。
が、あそこまで鼻息荒く魔人捜索に乗り出したアリアが、まだ日の高いうちに『帰ろう』などと言えば、必ず理由を聞かれてしまう。
(だめ! そんなの……っ……言えない……!)
工房区は迷宮のように入り組んでおり、さっきのトイレの場所はもうわからない。
そもそもアリアに、『さっきのトイレに戻りたい』など言える筈もないのだ。
このまま歩き回り、新たなトイレを探すしかない。
(大丈夫……大丈夫よ……っ…・絶対……絶対見つかるから……だから……っ……くぅぅっ!)
だが、それからまた15分歩き続けても、トイレは一向に見つからなかった
(あ、あぁっ、どうしようっ!? もう……っ……我慢できないっ!)
尿意の増加も止まるところを知らず、先ほど自室のトイレに駆け込んだ時と同程度には強まっている。
もう長くは持たない。
だがそれでも、アリアは『トイレに行きたい』の一言が言えずにいた。
仮に今すぐトイレを願い出たとしても、最早間に合うかは、神のみぞ知るところだ。
(どうしたらいいの……っ!? 私……っ……もう……っ!)
完全に進退窮まった。
アリアは口をキュッと結んで体を震わせ、ホットパンツの裾を強く握りしめる。
そうでもしないと、無意識に下腹を押さえてしまいそうなのだ。
そんなアリアの様子に、ようやくメロネが気が付いた。
「アリア様っ!? どうなされたのですか! どこか、お体の具合が……?」
顔面蒼白の主人の様子に狼狽えるメロネ。
だが、言ってはなんだが女性としては少々大雑把な彼女は、まさかアリアが尿意を堪えているとまでは思っていない。
単純に、体調を崩したと思っているのだろう。
「え、ええ……ごめんなさい。実はさっきから少し、き、気分が悪くて……」
アリアとしても、この勘違いは都合がいい。
我慢の仕草もある程度は誤魔化せるし、メロネなら自分が体調不良を訴えれば、迎賓館まで戻ろうとするだろう。
「気付くことができず、申し訳ありません! すぐに迎賓館まで戻りましょう」
予想通り帰還を即決し、地図と睨み合うメロネとディオン。
僅かながら光明が見えたアリアだが、まだ油断することはできない。
ここから迎賓館までどれだけ時間がかかるのか。
歩いた時間なら、そろそろ2時間に達する。
さすがに同じ時間かかるとは思えないが、今のアリアはあと10分耐えられるかすら怪しい状態なのだ。
そんなアリアに、運命は無慈悲な沙汰を下す。
「……アリア様、申し訳ありません。どうやら地図が少し古かったようで……現在の位置を把握するまで、今暫くのご辛抱を」
「っ!? ……え、ええ、わかったわ」
(待つ……待つって……何? どれくらい……待てばいいの……?)
ここに来て、帰るまでの時間がわからない。
それはアリアにとって、死刑宣告に等しい。
心中の狼狽を抑え込み、何とか言葉を返したアリアに何かを感じたのか、メロネは最早持ち点僅かなミーアにアリアを任せ、ディオンと手分けして周囲の確認を始めた。