おはよう
僕の部屋のカーテンは黒い。
陽の光なんか見たくない、太陽なんて出てこなくていいんだ。そうしたら世界は凍りついて何もかも動かなくなるのに。いつもいつも思っている。
それでも僕のお腹は空く。時計を見ると時刻は朝の七時。ちゃんとした世の少年少女は起きて学校へ通う支度をしている時間なのだろう。
カーテンの隙間から漏れる朝日が忌々しかった。あいつはきっと今日も来るんだ。
僕がそう考えた瞬間、僕の思考を読んだかの様に僕の部屋の窓の鍵がカチ、と音を立てて開き、窓がガラガラ外から開いた。きちっと閉めていたカーテンを乱雑に開け、あいつが窓枠を超えて僕の部屋に入ってきた。
「洋介、おはよう!」
長い黒髪をおさげにした隣家の幼馴染、リサが満面の笑みで挨拶をしてきた。
「……僕、鍵してた筈なんだけど」
「予め隙間に紙を挟んでおいてね、それをスライドさせると」
「そういう事言ってるんじゃないんだけど」
「いいじゃん別に」
よくねえし、そう心の中で呟いて僕はまた布団を被った。すると、リサが遠慮なく僕の布団を剥いできた。キラキラと朝日を浴びて反射するリサの大きな目が僕を威圧する。
「ねえ、一緒に学校行こうよお」
「嫌だよ、面倒くさい」
「だってえー折角同じクラスになったのにー」
「語尾伸ばすなよ気持ち悪い」
「だってクラスメイトにも会ってないじゃん!」
「いいよ、会わなくても」
毎朝毎朝この繰り返しだ。というか、隣の家から屋根を毎回伝ってくるこいつをリサの親は何も思わないのだろうか。ここは二階だぞ。中学の制服はスカートなのに気にならないのか。
「ちょっと行きづらいのは分かるけどさーちょっと離れただけじゃん」
「うるさいな」
僕はまた布団を被った。リサが何と言おうと僕は学校に行く気はない。
去年、急な病を患った。余儀なく休学させられ、学校に雇われたのか教育委員会に雇われたのかは知らないが遅れない様にと教師が病院まで派遣されてきていた。なんだ行かなくてもいいんだ、ついそう思ってしまい、治った後にはもう僕の行く気は完全になくなってしまった。誰が何かをした訳でもなく、でもただ行きたくなくなった。
「でた、疎外感」
カチン、と来て僕は咄嗟に起き上がるとリサに向かって枕を投げつけた。リサが枕をキャッチすると、枕の後ろから悔しそうな目で僕を見た。
嫌いだ。
「出ていけ!」
段々と声変わりが始まった声で叫んでみたが、大して大きな声は出なかった。お腹空いた。
「……ちゃんと起きるんだよ」
「うるさい、もう来るな」
しょんぼりとしたリサが、入ってきた窓から出て行った。あ。
「おい! 僕の枕!」
しかも窓は開けっ放し。外の忌々しい風が僕の部屋と外界を遮断する境界線のカーテンをふわりと巻き上げた。
どうすんだよ、枕。
僕は途方にくれたが、仕方ない。溜息をついてクッションを枕代わりにする事にした。
リサは毎日毎日やってくる。しかも窓から。ちゃんとチャイムを鳴らして玄関から入ればいいのに。
唯一やってこないのは雨の日だ。だから僕は雨の日が待ち遠しかった。雨の日は、リサのあのキラキラした太陽みたいな目を見なくて済む。
あれは僕には眩しすぎた。
「枕……あーもう!」
枕がないと寝れない。でも実はもう沢山寝たから寝れない。僕の親は始めは一所懸命僕を学校に行かせようとしていたけど、無理に行かせて何か間違いがあってはと誰かに聞いたらしく、その後は腫れ物を触る様に接してくる様になった。
だから、リサが来なければ後はその日は平和なのだ。
どうしても体が動こうとしない。僕の焦りは体にはシグナルとして伝わらない様だった。
本棚から何度も何度も読み返した本を取り出した。今日はこれを読もう。
僕は何もかも忘れて小説の世界に没頭する事にした。
◇
次の日は雨だった。天気予報通りだった。
窓から差し込む外の明かりは暗く、それが僕を安心させる。すると、ガリ、と窓の外から音がした。
いや、まさかな。雨の日はリサは来ない筈だ。僕は音に気付かなかったフリをすると、今度は窓が外からドンドン! と叩く音がした。
何で今日来てるんだ。
僕は慌ててカーテンの隙間から窓の外を覗くと、そこには案の定リサが居た。びしょ濡れだ、何やってんだ。
それでも窓を開けようとしない僕に、リサは手に持った大きなごみ袋を振ってみせた。僕の枕だった。成程、昨日枕を持って帰ってしまったので、今日は雨だけどそれを返しにきたらしい。なら、まあ、窓を開けるくらいならいいかな。
僕はカーテンと窓の隙間に手を伸ばすと鍵を開け、窓を少しだけ開けた。
「……何で持って帰ったんだよ」
「あ、つい」
てへ、と笑うリサの目は今日は輝いてなくて、その所為か僕はいつもよりも穏やかな気持ちでリサを見る事が出来た。
「滑るから、中入って玄関から出たら」
「あは、心配してくれてるの? 優しいじゃん洋介」
「自分ちの敷地で死体を見たくないだけだよ」
「うわ、ひっど」
リサは笑うが、それでも入ってこようとはしなかった。
「ほら、早く」
僕は苛々する。普段はいいと言わなくても遠慮なく入ってくる癖に、どうしたんだこいつ。
リサはにこ、と笑うと僕にビニールごと枕を押し付けた。
「これごめんね、返す」
僕は枕を受け取るとベッドの上に投げ、リサに手を伸ばした。
「ほら、危ないって言ってんだろ。早く来いよ」
「いやーははは、枕でバレちゃって」
「は?」
リサが何を言ってんだか分かんねえ。僕が思い切り不思議そうな顔をしたからだろう、リサが照れくさそうに説明しだした。
「実はさ、洋介の部屋に毎日忍び込んでるのがバレちゃって、そしたら男の部屋に忍び込むなんてそんな娘に育てた覚えはないぞーって昨日大変なことになり」
「だから玄関から来ればいいだろ」
「おばさん入れてくれないもん」
え、そうなのか?
「でも洋介におはようは言いたいし」
「放っとけばいいだろ」
「やだよ」
「何で」
僕が聞くと、リサの顔がみるみる内に真っ赤になった。どうしたんだ、雨に濡れて熱でも出たんじゃないか。
「おい、リサ」
「……洋介が学校に来たら教えてあげる」
「じゃあ一生知ることはないな」
「何で? 興味ないの?」
雨足が強くなってきた。僕はもう一度手を伸ばした。
「リサ、一瞬で通れば大丈夫だろ? ほら、危ないから来いってば」
「やだ!」
「ああもう面倒くさいな! じゃあ勝手にしろよ!」
本当は気になったけど、リサは頑固で一度言い出したら聞かないのは幼馴染の僕はよく理解していた。それでも背中を向けたら追ってくるかな、そう思ったのだけど。
「……勝手にする」
リサはそう言うと踵を返して自分の家の方に向かい出した。いやだから危ないって。
怖くて目が離せない。でも這いずりながら戻るリサに下手に声をかけて滑っても怖い。僕はハラハラしながらリサを見守った。
殆ど接しているリサの家の屋根の方に行く為、リサが立ち上がった。ああ、そんなに急に立ち上がったら――
ズル!!
リサが滑った。
「うわっ!」
「リサ!」
斜めになった僕の家の屋根に沿って、リサがコントの滑り台を滑る芸人の様に足から滑って行った。
「……馬鹿! だから言ったのに!」
僕は大慌てで部屋の鍵を開け、階段を滑る様に駆け下りて行った。母さんが驚いた表情で廊下の先から顔を覗かせたが、今はそれどころじゃない。敷地内に死人を出してたまるか、リサなんか絶対化けて出て僕の部屋に居着くに決まっている。
玄関には僕の靴もサンダルも出ていなかった。当然だ、もう長い事家の外に出ていなかったのだから。
玄関の鍵を開ける。どっちが開けるんだったかすら一瞬分からなくなっている自分に、僕は苛ついた。何やってんだ、急がないとリサが落ちるぞ。
ガチャ、と裸足のまま雨の裏庭に出た。
「リサ!」
上を見上げると、屋根のヘリにリサがぶら下がっていた。足の先は僕が手を伸ばせば届く位か。
スカートの中身が見えたが、うん、なかなかいい足だけど、いやそうじゃないそれどころじゃない。
「リサ、僕が受け止めるから!」
「……やだー!」
リサの泣き声が頭上からご近所中に響き渡った。何やってんだこいつ。人が集まったら僕以外の奴にもスカートの中身を見られるっていうのに。
「我儘言うなよ! 何が嫌なんだよ!」
えぐ、えぐ、とリサが泣いている。ああもう、滅多に泣かない奴が泣くと困るから嫌なんだ。僕の眉毛は今情けない程に垂れ下がっているに違いない。
「だって、そしたら洋介またお部屋に戻っちゃうでしょ!」
「いいだろ別に! 僕の部屋だろ!」
すると、リサが先程よりも更に大きな大きな声で叫んだ。
「やだもん! 私、洋介と一緒に登校するのが夢なんだもん!!」
「――は?」
何言ってんだこいつ、こんな時に。
「待ち合わせとかして『遅刻するよ早く』とか急かして一緒にキャッキャウフフ言いながら『あの二人付き合ってんのかな』とか噂されたいんだもん!」
「おい」
僕の顔がかあっと熱くなった。人んちの屋根にぶら下がって何言ってんだ、本当に。
見てる間に、リサの左手がへりから外れた。
「リサ!」
「……登校するんだもおおおおん!!」
滅茶苦茶だ。スカートの中は相変わらずチラチラ目に入ってくるし、人の頭上から勝手に人との夢を見て、今度は意地になってへりにしがみついて。
ちら、と周りの家を見ると、ヤバい、斜向いの家の二階からおばさんがニヤニヤして見ている。いやいや、ニヤニヤしている場合じゃないだろう、こいつ落ちかけてるんだぞ。
どんな羞恥プレイだ、ご近所に知れ渡ってしまう。
僕は焦った。焦って、つい口走ってしまった。
「わ、分かった!」
すると。
「え! 洋介本当!?」
「行く! 今日は無理だけど、明日! 明日一緒に学校行こう!」
「本当!? 嘘つかない!?」
「つかない、つかないからもう叫ばないでくれ!」
僕は懇願した。こいつは昔からこうなんだ、結局いつもこうやって僕を巻き込んでしまうんだ。
「ほら! 手を離して!」
「うん!」
するとリサが合図も何もなくいきなり降って落ちてきた。
「ぐお!」
今から手を離すとか何とか言えないのかこいつ! 頭に来たが、僕の上にリサが乗って潰されたので言えなかった。
少ししてようやく息が整ってきてリサを見てみれば、肩を震わせて泣いている。何だか胸をぎゅっと掴まれた気になってしまい、僕はそっとリサの頭を撫でようと手を伸ばすと。
玄関からは母さんが「あらまあ」という顔をして覗き見をしていた。その視線が、僕とその上を行ったり来たりしている。
まさか。
僕が慌ててリサの家の方を見ると、塀の向こうからリサの父さんがこめかみに血管をピキピキさせて仁王立ちしていた。
「あ……、おはようございます」
それが大人にした久々の挨拶だった。
◇
昨夜、母さんは「恋の力って偉大ね」と言いながら嬉しそうに僕の伸びた髪を切り、制服にアイロンをかけ直してくれた。いや、何か僕とリサが相思相愛みたいになっているが、否定をするのは涙ぐんでいる母さんにそれを言うのも憚られて、やめた。
次の日の朝、さすがに僕は緊張していた。何となく行かなくなってしまった学校。クラスメイトの顔も分からない。同級生と話なんて出来るんだろうか。
ピンポン、と玄関のチャイムが鳴った。僕の鼓動が早くなり、口から心臓が飛び出してきそうだった。
もたもたとして僕が玄関を開けようとしないので、母さんがドアを開けてしまった。だって仕方ないじゃないか、靴が小さいんだから。
「あ、おばさん、おはようございます」
「リサちゃんおはよう。ほら、洋介」
「分かってるよ」
窮屈な靴は歩きにくかったが仕方ない。僕は立ち上がって玄関に向かった。
すれ違いざま、母さんが耳元で囁いた。
「リサちゃんを逃がすんじゃないわよ」
「ばっ!!」
昨日までは人の顔色を窺うようにしてたのに、そういえばこの人は元々こういう人だった。僕が気を遣わせてしまっていたんだな、そう思って、でもごめんなんて言えなくて。
「……分かったよ」
つい、そう返事をした。
玄関を出る。嬉しそうに頬をほんのりピンク色に赤らめているリサが立っていた。陽の光を浴びて、今日もリサはキラキラ輝いている。すると、リサが照れくさそうに言った。
「洋介、目がキラキラしてて綺麗」
「何言ってんだよ」
「だって、ずっと見たかったんだもん」
そう言えば、リサが学校に言ったら教えてくれるって言っていた事は何なんだろう。まさかな、という予想はしてるけど、違ったら恥ずかしいから聞けない。
リサが僕を真っ直ぐ見た。
「おはよう、洋介」
少し前までは僕と同じ位の背丈だったはにかむリサの顔は、僕より下にあった。
「おはよう」
僕には、そんなリサが可愛く見えた。