庇護されし星霜
「……蒼斗、俺はな」
新しい煙草を取り出し、火をつけた。
天井に向けて吐き出された白煙の中に、迷いが伺えた。
顔を戻すと、亜紀は蒼斗から視線を逸らし、ふと愁いを帯びた瞳を浮かべた。
「俺はな、お前に信頼を置かれるような人間じゃないんだ」
互いの利益の為に動き、常に打算的な人間関係を築いて、不要であれば切り捨て、一人で生きて行くのが相応しい。
まして、仲間だの、相棒だの……そんなものは、必要ない。
「それ、説明に……」
「――きゃあああ!?」
「!!」
店内が騒がしくなった。
ガシャン、とガラスの割れる音と、女の悲鳴――それから獣のような狂った男の呻き声。
二人の目が狩人の眼になった。
緊張が走り、発生源を確認すれば、蒼斗たちが座る反対側の壁側奥のテーブル席に男が一人いた。その横には若い女性が右手を掴まれていた。
キッチン側では店員が顔を真っ青にして電話を手にしていた。
彼からすれば、男が若い女に暴行を働いているとしか見えないだろうが、蒼斗たちからすれば今にも腕をへし折られそうな状況だった。
「行くぞ」
「はい!」
幸いこの時間帯の客は彼らと自分たちしかいなかった。
亜紀のアイコンタクトで蒼斗は大きく一つ頷き、大鎌を取り出した。柄をしっかり握り、しっかりと視える男の境界線を捉えた。
男の死角を狙って飛び込んだ亜紀は、男が亜紀に気付いて驚いている間に鳩尾に拳を叩き入れた。
卯衣の比にならない威力。苦しさから息を吐き出した男の女の手を掴む力が緩んだ。
亜紀は女の肩を抱き寄せ床を蹴ってその場から離脱。
「蒼斗」
「了解!」
亜紀の言葉を合図に待ち構えていた蒼斗はそのまま大鎌を境界線に向かって下から薙ぎ払った。
確かな手応えを感じ、振り返れば蒸気を発しながら元の姿に戻った男が真っ白な顔で倒れていた。
「狂蟲レベル〇、オールクリアです」
「よし」
「すぐにSTRPを呼んでください。あと救急もお願いします」
事態が収拾したことで店の周りには人だかりができた。
粗方の指示を出し終えたところで、亜紀の背後へ被害に遭った女性が近づいてきた。
「あの、助けていただいてありがとうございました。何か、お礼を……」
「俺たちはAPOCだ。当然のことをしたまでだ、気にするな」
「そういうわけにはいきません、亜紀さん」
「……?」
――どうして亜紀の名前を知っている?
そう不審に思い二人して同時に振り返ると……亜紀は目を見張った。
「花園……?」
「え、お知り合いですか?」
花園と呼ばれた菊柄の淡い朱色の着物、桃色と黄色の帯、深緑色の袴を着た女性は、助けてくれたのが間違いなく亜紀だと分かると満面の笑みを浮かべた。
「まさかここで会うとは思わなかった」
「亜紀さん、この人は……?」
「あぁ、コイツは――」
「助けていただき、ありがとうございました。私は花園香織と言います。亜紀さんの紹介で星霜院の長をしています」
「あ、亜紀さんの部下の工藤蒼斗です。……星霜院とは?」
「第一皇帝が造ってくださった孤児院です」
「……孤児院?」
ちらと亜紀を見れば、亜紀は腕を組み、至極面倒臭そうに顔をしかめていた。触れるな、ということだろうか。
「お時間があれば、是非ウチにいらしてください。お礼もしたいですし」
上着の袖をそっと指先で摘みながら微笑まれ、実質逃げられなくなったことを察した亜紀は、深い溜息をつくと出口へと歩き出した。
にこりと花園はその後に続き、現場に着したSTRPに状況と措置を伝えて引き継ぎ、三人は店を後にした。
◆
「あーっ! あきだ! あきがいるーっ!」
「ほんとだ! あきだ!」
「おみやげー!」
「お前らいい子にしてたかよ?」
「あたりまえでしょー!」
施設の門をくぐると、庭で子どもたちがボール遊びをしていた。
花園の隣にいる亜紀に気が付くと、一人の子どもが叫び、それに続いてどんどん子供の数が増えていく。
終いにはその勢いのまま亜紀の元へと駆け出し、瞬く間に亜紀の周辺は子どもでいっぱいになった。
亜紀はこうなることに慣れているのか、袖裾を引っ張られ揉みくちゃにされても喧しそうに顔をしかめても、されるがままになっていた。
庭に設けられた茶会の席に腰を下ろした蒼斗は、その様子を奇妙な目で眺めた。
「随分、懐かれていますね」
「亜紀さんは第一皇帝の代理としてこちらに来ていただく度に子どもたちと遊んでくれますので」
「あの悪魔と恐れられている亜紀さんが……」
盆にティーセットを乗せて戻ってきた花園は、きゃっきゃとはしゃぐ子供たちの嬉しそうな声につられて笑みを浮かべた。
蒼斗は横に並んだ彼女の方を振り向き、石化したように固まった。
なんせ、先程の袴姿から修道院の服に衣替えしていたのだから無理もなかった。
眩しそうに微笑む花園はまさにシスターそのもので、あまりのギャップとその美しさに思わず見惚れてしまった。
「工藤さん?」
「へ!? あ! いえ、その……っ、修道院の服を着ていたので、思わずびっくりしてしまいました……すみません」
「ふふ、よく言われます。私は元々袴を着る習慣があったもので、ここにいる時以外は袴なんです」
「そ、そうなんですね……」
ドキドキ、と胸の鼓動が騒がしいと己を叱咤した蒼斗。
今は仕事中!
「あきー! だっこー!」
亜紀は子どもの一人の両脇を抱えるとそのまま肩車し、「ぎゃーっ!」と悲鳴のような歓喜の声を上げるのを聞くと鼻で笑った。
他の子どもたちからはずるいと不平の声が飛び交い、強請る手を止めない。
一歩間違えば虐待と勘違いされて通報されるのでは……。
亜紀はやはり亜紀だと呆れる蒼斗をよそに、花園はソーサーに乗ったカップに紅茶をゆっくり注ぎ、それを蒼斗の前に差し出した。
「ありがとうございます。……あの、亜紀さんはよくここに来るんですか?」
「月に一度、いらしてくださいます。多い時は二度ほど」
「この孤児院は第一皇帝が造ったと言っていましたが……」
「亜紀さんの部下ということは、全てご存知ということですよね」
「それは、この国の生い立ち――ということも含めて?」
「えぇ。……その様子であれば、大丈夫でしょう。――この孤児院は、ゼロ・トランスで両親や家族を亡くし身寄りのない子どもたちのためにできたものです」
ゼロ・トランス――御影が行おうとしていた錬成実験、最期の審判計画を阻止した代償として起きた巨大災害。
オリエンスとペンタグラムが誕生するきっかけとなった災害。
人々は多くのものを喪った。
両親、兄弟姉妹、恋人、子ども――訳も分からず、戦いの渦中に巻き込まれた、最大の被害者。
親や家族を失い、路頭に迷った子どもがたくさんいた。
一人で生きて行くには犯罪に手を染めるしかない。
窃盗、略奪、売春――未来あるものが、大人たちの勝手な都合で引き起こした傷跡に巻き込まれ、体内に蓄積させた狂蟲を成長させ、ついには狂魔となって後に戻れなくなってしまう。
――それを何としても避けたい。救いたい。
――何人にも、その尊い個人の生命、身体、財産を犯されてはならない。
そこで第一皇帝が七年前に星霜院を造った。
道を間違えないように、自分の足でしっかりと立って、何が良くて何が間違っているのか見極め、前を向いて歩いて欲しいという願いを込めて。
「陛下は、亜紀さんを自分の代理に見守ってくれています」
「亜紀さんが、代理で……」
まさか肩車をして、両腕に子どもをぶら下がらせてぐるぐると回って遊ぶ亜紀が、星霜院を造ったその第一皇帝だなんて、知ったら一体どういう顔をするだろうか。
彼女は皇帝を崇拝しているようだが……。
「――あぁ、それにしても、亜紀さんのあんな風に子どもたちと遊ぶ姿を見ていると、彼を思い出します」
「彼……?」
懐かしそうに目の前の光景を見つめる花園は、何処となく他を見ているようにうかがえた。
「工藤さんのように、亜紀さんに連れられて……というよりついて来た、でしょうか……? 明るくて、元気で、まだ若い捜査官でした」
「亜紀さんと一緒に……」
「あれはもう何年前になるのかしら……六年……?」
そんなの、初めて聞いた。
自分のように、という言葉も気になるが、亜紀に一緒に行動する若い捜査官がいただなんて亜紀や他の幹部たちの口から一言も聞いたことがなかった。
六年前ということは、今頃は経験も積んで現場に出て活躍していることだろう。
けれど……今まで亜紀と共に摘発してきたが、亜紀と親しい捜査官など何処にもいなかった。
――待てよ。六、年前……?
「彼は仕事の合間にもよく顔を出してくれて、子どもたちもとても喜んでいたんです。……私も……、子どもたち以外の方とお話をする機会が少なかったので、新鮮でした」
胸騒ぎがした。
やっと落ち着いてきた鼓動が、また騒ぎ始めた。
六年前だなんて、こんなタイミングよく……。
「……その捜査官は、今は……?」
声が、知らずに震えた。
花園は眉を下げ、寂しそうに顔を俯かせ、一言呟いた。
「――亡くなりました、大きな事件の捜査中に」
ずがん、と鈍器で頭を殴られたような衝撃が走った。
これだけ偶然が重なるなんて、ことはない。
間違いなく、亜紀がおかしいことと、目黒率いるドープス……そして、六年前に亡くなった捜査官は一本の糸で繋がっている。
「捜査官の、名前は……?」
知りたい。
――知りたくない。
亜紀を乱すくらいの捜査官なんて、いるのか。
――そんなの、いるわけがないだろう。
答えて欲しい。
――答えないで、欲しい。
蒼斗の中で葛藤が続いた。
一度口から出た言葉は戻せるわけもなく、ただただ複雑な気持ちで花園の返答を情けない顔で待った。
「――剣崎……剣崎、千草さん」
剣崎千草――それが、捜査中に亡くなった、亜紀がかつて連れていた捜査官の名前。
知りたかったはずなのに、蒼斗は何故か胸の内が息苦しくなった。
APOCの仲間として、亜紀の相棒として一緒にこれまでやってきたというのに、結局は亜紀との間なんて微塵も縮まってなんかいなかった。
そんなことを不意に思ってしまった。
「……どうしたら、いいですか……」
様子のおかしい蒼斗に花園は彼の名を呼び掛けた。
だが、蒼斗に花園の姿は映っていない。
蒼斗はそっと嵌められたグローブに触れ、可細く名を呼んだ。
「……近衛さん……僕は、どうしたら……っ」
蒼斗の頭の中には、霊園で永遠の別れを告げた悪魔のような愛しい女。
彼女は蒼斗の問いに答えるわけでもなく、ただこちらを見て額に口付けた時の笑みを浮かべていた。