縮まらぬ距離
煙草の吸殻を灰皿にしまいながら亜紀はブリーフィングに入ってきた。
「奴は六年前と同じように姿を見せた。あの時の再現を間違いなくしようとしてやがる」
「再現って……」
「亜紀、冷静になれ。例えそうだとしても真っ向から受けて立てば六年前と同じになる。ここは……」
「同じにしてたまるか!」
亜紀の怒声が千葉の言葉を掻き消した。
瞳に憎しみの色を滲ませ、モニターに映された目黒の写真を穴が開きそうなくらい睨みつけた。
「奴の好きになんぞさせねぇ。六年前もルデラリスのデータも、ブツも何もかも全て俺が消してやった。今度も俺が、この手で、全部始末する」
亜紀はルデラリス及び目黒率いるドープスの動向捜査、目黒の所有する全ての口座の金の出入り、それから企業との接触がないか、学生たちに流す大元の売人の捜索を指示し、そのまま踵を返して零号館を出て行ってしまった。
残された者たちは、頭に完全に血が上ってしまっている状態の亜紀を諫める術などないと既に理解しているのか、各々深くため息をついた。
蚊帳の外にされた蒼斗と言えば、
「~~っ!!」
目尻を吊り上げ、肩を震わせながら亜紀が去ったドアを恨めしそうに睨みつけた。
それから千葉の制止も右から左に流し、亜紀の後を足音をドスドスと立てて追った。
ぴしゃり、と叩きつけられるようにドアが閉まり、千葉、奈島、卯衣は咄嗟に片眼を閉じ肩を竦めた。
「あーぁ、珍しく蒼斗君がご立腹だ」
「そりゃあれだけ空気同然の扱いされたら、『亜紀さんの相棒です!』が口癖になっているアイツからすれば頼ってくれないと思って傷つくっスよ」
「でも、今回ばかりは彼でもお手上げだと思うよ。……なんせ、目黒が亜紀の言うように六年前の再現をするっていうなら、一番の犠牲は蒼斗君になるんだから」
「それは……っ、蒼君ならきっと……」
「――君たちも、本当に無駄話が好きだよね」
黙って聞いていた瀬戸が、漸く口を開いた。
卯衣たちの視線が集まるのも容易に予想がついていたのか、椅子の背凭れに身体を預け煙管を深く吸い、少し口を尖らせ白煙をゆっくりと吐き出した。
白煙が宙に霧散する様を眺めたのち、瀬戸はつまらなそうに目を細めた。
「今の君たちがやるべきことは亜紀の指示通りに捜査して、早期事態の解決のための情報を自分たちの持てるスキルで収集することだ」
「そんなの分かっているわよ!」
「いや、君は分かっていないよ、馬鹿ウサギ。馬鹿がつくだけあって馬鹿だよ」
「何ですって!?」
「何の結果にも繋がらないやり取りをしていたところで亜紀のためにならない。――僕はね、あんな状態の亜紀を、見ていたくないんだよ」
六年前の亜紀は、それは荒れるに荒れた。
あの事件が――ルデラリスが――『彼』の存在が、亜紀を悉く苦しめた。
第二皇帝として、APOCのナンバーツーとして亜紀を支えてきた瀬戸ですら、亜紀の負った傷を癒すことも、苦痛を取り除くことすらもできなかった。あの時ほど、歯痒いことはなかった。
それこそ時間が解決して、元の亜紀に戻った。
ルデラリス、目黒たちによって再び亜紀に危害が及ぶのだとしたら、全身全霊でそれを拒み、阻み、防がなければならない。
だから瀬戸に亜紀を――まして放置された蒼斗を憐れむ時間など一秒ですらもなかった。
亜紀が求めるものを、亜紀が望むものを一二〇パーセントの形で提示したかった。
「……相変わらず重いわね、その愛は」
「何とでも」
瀬戸は煙管をしまうとぽんと膝を叩いて立ち上がった。
ドアに向かう途中、何かを思い出したのか足を止め、顔だけ少し振り返った。その表情は前髪に隠れてよく見えない。
「――もっとも、バ可愛い亜紀は今の僕の気持ちなんて、知りもしないと思うけど」
瀬戸が零号館を出て行った。何処か寂しそうなその背中を隠すように、ドアがゆっくりと閉まった。
普段感情を露わにしない瀬戸に、卯衣は心臓が握り潰されるような苦しさを覚えた。
ああ言っているけれど、彼も彼で、決して言葉にしないが思うところはきっとあるのだろう。
卯衣は固く目を閉じ、唐突に両頬をぱちり、と掌で軽く叩いた。横にいた奈島はぎょっと目を見張り、赤くなる頬を見て顔色を変えた。
「う、卯衣さん!? な、何を……!?」
「癪に障るけれど、彦君の言うとおり、今は目の前の事件の解決に専念するしか、ないね」
「卯衣さん……っ、信者の瀬戸に言われるのは本当に気に入らないっスけど、六年前の摘み残しがあったなら……オレもやるしかないっスね」
「――じゃあ、我らがボスの意向に従って、これよりルデラリス及び目黒の捜査を開始しよう」
卯衣と奈島を見送り、零号館は千葉の城に戻った。
静寂を取り戻した館内は千葉の踵を鳴らす音だけが響き渡り、ピタリと止むと余韻を残した。
壁一面に立ち並ぶキャビネット。その内の一つの引き出しに指をかけ、ゆっくりと手前に出せば無数の書類サイズの茶封筒が整然と管理されていた。
保管されているこれらは、千葉が今までカウンセリングしたAPOC捜査官、それと狂魔に関わった者のカルテ。
裏面の左下の角には千葉がカウンセリングを始めた日付が記されており、その右側にはカウンセリング終了の日付も書き込まれていた。
灯の消えたような寂しさが千葉の胸にこみ上げ、ぐっと唇を噛んで堪えた。
「……いつになったら、君は……あの子を解放してくれるんだい?」
千葉が書類日付の隣に書かれた名前を見つめ、手から零れるように問いを投げた。
――しかし、その返答は、ない。
◆
怒り丸出しの顔で亜紀を追った蒼斗。
訓練生たちが行き交う学内を見渡し、亜紀の姿が粒ほどの大きさにしか見えない距離にあった。
このまま飛ばれてしまったら探すの大変なのは必至。
蒼斗は慌てて「すみません!」と片手を挙げて謝りながら人の波を軽やかに縫って駆けだした。
亜紀の強歩に対し、蒼斗は全速力。
大学からだいぶ離れ、訓練生たちが帰りによく遊びに利用する小さな商店街の入り口辺りで距離は縮まりつつあった。
筋トレよりも辛い全力疾走に息も絶え絶えになりながら、亜紀の背中にありったけの声を投げた。
「亜紀さん――っ!」
「――ッ!?」
思った以上に声が通ってしまった。
枯れた声で名を呼ばれ、亜紀はハッと勢いよく振り向いた。
――だが、亜紀の視界に蒼斗の姿がしっかりと映されたところで、亜紀はほんの一瞬だけ呆然とした。
驚愕から徐々に『落胆』の色に染まり、冷たさしか残らなくなった。
蒼斗はたったそれだけの表情の変化で悟った。
――今の瞬間、亜紀は蒼斗ではなく別の『誰か』を見ていた。
そんなにがっかりされるとは思いもしなかった故、心臓を針で刺されるような痛みが蒼斗を襲った。
――僕では、そんなに駄目だったのか?
亜紀との距離は十メートルもないのに、蒼斗は意図せず足を止めてしまった。
これ以上踏み込んだらいけないと、亜紀の顔を見て咄嗟に反応してしまったのかもしれない。
無口な亜紀に表情がないのはいつものことだった。けれど、それ以上に拒絶の意思がしっかりと肌でも感じ取れるのは初めてだった。
「……何だ」
「あっ……えっと、その……」
――どうして相棒の僕には何も言ってくれないんだ!
――どうして僕を頼ってくれないんだ!
追い付いたら文句の一つや二つ言ってやろうと鼻息荒く思っていた。
ところが、いざ本人を目の前にすると、頭の中が白いペンキで塗り潰されたように真っ白になって、何を言えばいいのか分からなくなった。
口ごもってしまった蒼斗に対して亜紀の苛立ちが募るのが目に見えて分かった。
口を利いてくれなくなる前に、蒼斗はややあと自分を奮い立たせ拳を握って叫んだ。
「――っ、コーヒー!! 飲みに!! 行きましょう!!」
「……は」
はた、と蒼斗は身体中の血が凍るような心地になった。
――な、なななな何この状況で口走っているんだ僕はああああ!!?
そして同時に頭を抱えて叫びたくなった。
だらだらと冷や汗をかく蒼斗に怪訝そうな目を向ける亜紀。
亜紀の言葉を待つのが怖くなり、亜紀が口を開く前に蒼斗は亜紀の両肩を鷲掴んで無理くりの引きつった笑顔を浮かべた。
「そっ、そうなんです! 亜紀さん朝からずっと仕事していて碌に休んでいないじゃないですか! ちょっとコーヒーでも飲んでゆっくりしましょう! ぼ、僕この商店街の中でにいい喫茶店があるの辰宮に教えてもらったんですよ!」
「おい、俺は……」
「あーっ! 今だったらケーキセットが安いんですよね! せっかくですから行きましょう、ねっ! 善は急げですよ、行きましょう!」
「おい蒼斗、お前!」
「あーっ! 聞こえません、聞こえません!」
両肩を掴んだ手で亜紀の身体の向きを反転させ、商店街の中にある辰宮が勧める喫茶店に強引に押し込んだ。
あまりにも今にも泣きそうなくらい必死な蒼斗に珍しく気圧された亜紀は、渋々と一番窓際の奥のソファー席に腰を掛けた。
すぐに備え付けの灰皿を手元に置き、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。
もくもく、もくもく。
すいーーっ。
天井に設置された小さな換気扇に白煙が吸い上げられていくのをぼんやりと見遣るのもそこそこに、蒼斗はメニュー表を開いてカフェオレとコーヒー、それから本日のオススメのケーキセットを二つ注文した。
兎にも角にも亜紀の口を開かせてはならない。
大学の講義のことや辰宮や篠宮たちとの他愛ない話など、何処から思いつくんだと自問したいくらいぺらぺらと、口が軽やかだった。
運ばれたカフェオレも、ケーキも、訳も分からず味がしなかった。いや、味を堪能する余裕すらなかったというのが正しいか。
「――蒼斗」
「……すみません」
話題も限界が来た。
亜紀がコーヒーを黙って一口飲んだところで、静かに名を呼んだ。
潮時だ――と、蒼斗は諦めたように両膝の上に拳を置き、俯き気味になって消えるような声で謝った。
六年前のことは、知らない。
その頃、蒼斗はオリエンスで真実を何も知らないまま、あの閉ざされた世界で生かされていたのだから。
訊きたくても、とても訊けなかった。
あまりにも、あの時の亜紀の顔が苦しくて堪らなそうだったから。
触れないで欲しい、そっとしておいて欲しい――この一件は自分一人で決着をつけさせてくれ。
全身からこみ上げてくる精一杯の訴えを、どうしていいのか分からなかった。
でも――……。
「……お願いです。少しでもいいんです。亜紀さんがどうしてそこまでルデラリス……ドープスに拘るのか……六年前に、何があったのか、教えて欲しいんです」
「……」
「御影を討った今、僕にできることなんて、狂魔を狩ることしかありません。でも、何でもいいので、亜紀さんの力になりたいんです……僕は……っ、ぼく、は……」
――亜紀さんの、相棒……で、しょう?
その一言が言い出せなくて、開きかけた唇が微かに震えた。
告げたことで、亜紀に否定されるのが怖かったのだ――「お前は俺の相棒なんかじゃない」と。