三話 移ろっている何か、そして悪くはない現状
「じゃあ、今からどうします?」
「ん?どうする、とは」
しばらく茜は考える素ぶりをしてから、3番の指を立てた。
人差し指、中指、薬指、と。
「まずは、ご飯」
そうして、人差し指を折り曲げ。
「それと、お風呂。もしくは寝るか、ですね」
残りの二本も順々に折り曲げた。
崇仁は思考する。といっても単純な選択なので、答えはすぐにでた。腕をすらっと伸ばし、その手のひらを開ける。その手のひらが捉えていたのは、茜の人差し指であった。
ふにゃ、と柔らかい柔らかい感触。男の指よりも、きめ細かく、そしてか細く、柔らかい。そんな茜の人差し指を崇仁の手のひらは握っていた。
もちろん、この行動が意味するのは一つだけ。
「ひゃんっ!」
可愛い悲鳴を上げている茜を横目に、崇仁は控えめな声で目の前の少女にこう言う。
「ご飯……だな」
ふと、崇仁が茜の方に視線を戻せば、その顔はほんのりと赤く染まっていて、勢いよく崇仁の腕を振り解き、人差し指をもう片方の手で握りしめていた。
「な、なに?どうしたの」
崇仁は状況を飲み込めてない様子。茜はそんな崇仁を睨むような目つきで、大声を張り上げた。
「な、なんでそういうことができるんですか」
「え、ちょっと待って。何に怒ってんの……っていうかまずそんなことって何だよ」
それを問い返され、茜は口ごもっていた。
「そういうことは、だからそう、いうこと………なんですよ!」
少し逆ギレ気味に崇仁に言葉を放つ茜。その表情は言動と打って変わって、楽しみに満ち溢れていた。
「なんで、俺怒られてんだよ」
「だーかーら、あなたが不用意に………そのぉ、」
女の子の手を握るから、は声に出ることはなかった。
そんな茜は、ふと、我に返り、崇仁に問いかける。
「ご飯、なんですね」
その挙動はモジモジと落ち着きがない様子で。崇仁はそんな茜に軽く首肯をした。
「じゃ、じゃあ。ちょっと待ってて。今、作ってくるから」
そう言い残して、茜はキッチンの方へと向かっていった。
茜は料理ができるようだ。慣れた手つきがその熟練度を物語ってる。
そして、極め付けはその形だ。エプロンを着けて料理するのは世間で一般的だろう。もちろん茜もその例に外れることはなく、エプロンを着けていた。
そのエプロンは赤単色でできているものなのだろうが、今そのエプロンは淡いピンクの色になっていた。
くすみがかかっていたのだ。長期間使われたことが伺える、そんか身なりであった。
だが、そのエプロンがまた茜にジャストフィットしている。茜が元々着ていた服は白を基調とする巫女装束だった。その白とエプロンのピンクがうまく組み合わさって、さらに茜の愛らしさを引き立てていた。
「かわいい」
慌てて口をふさぐのは崇仁。想像を超える茜の可愛さに一瞬思考がノックアウトしてしまったのだ。目をそらし、鼓動を落ち着かせ、改めて茜の方を見た。
「わー!きゃッ!」
見れば、そこには慌ただしく菜箸を動かす茜の姿があった。崇仁からでは顔の表情までは見ることができなかったが、茜の心拍数は上がって行く一方だ。
「あの、大丈夫?」
崇仁は優しく問いかけたつもりだったが。
当の茜は恨めがましく崇仁を睨み、顔を真っ赤にしている。
「黙っていてください」
「は、はい」
勢いよく言われ、崇仁は反射的にそう答えてしまった。
そこから数分が経った。
「よーとッ。出来ました」
キッチンの方からはとてもいい匂いが漂って来ている。その匂いは鼻腔を充満させ、崇仁により一層の空腹感を与えていた。
当の崇仁にとっては空腹感など、大して感じなくなっていたのだが。
「え〜と。メニューは白ごはんに、魚の塩焼き、キャベツの千切りに、味噌汁、なんですけど。大丈夫ですか」
「うん。別に問題はないけど」
「けど?」
「これ、美味しい」
その言葉の言い終わり直後に、崇仁の頭に拳が振り落とされた。もちろん、その拳はこの場にいる二人のうちの一人、茜のものであるが。
「別にいいんですよ。食べさせなくとも。住居不法侵入罪で訴えることだってできるんですよ」
「ああ、それはマジで勘弁してください。お願いします」
茜は腰が低くなった崇仁を見下ろすと、なにか良い考えを思いついていた。
「ね……ね、ねぇ。こ、これ食べた、い」
茜はその言葉とともに、崇仁の目元に食事をぶらつかせた。まるで、ペットで遊ぶかのように。妖艶な表情…………のような顔をして、艶かしく言葉を出そうと頑張っている。だが、まるで慣れていないご様子で。
「あのぉ、すまん。間違ってたらすまん」
崇仁は茜に一太刀あびせようとしていた。
「ちょ、言わない―――」
「なんで、SM女王みたいな演技してんだ」
すると茜は数秒の沈黙の後、顔を手で覆い子供のように泣き叫んだ。
「ああああああ!黒歴史です。やってしまいましたぁ」
「そんなこと言うぐらいなら、最初からやるなよ」
と、崇仁は本気で茜に同情した。しかし、その言葉を聞いた茜は余計に傷ついたか、叫ぶ声のボリュームが上がっていた。
「あのさ、そんなことよりもご飯はまだなの」
「そんなこと?!今、そんなことって言いました?!これは私のこれから生きて行く上で、大きく人生に左右する重要な事案なんですよ!」
崇仁は思わず叫びかえしていた。
「そんなもんあるか!あるわけないだろう!」
しばらくして、茜は冷静さを取り戻し、また新たな黒歴史を量産したことを自覚した。
「それじゃあご飯食べよっか」
茜はすぐに調子を取り戻し、言い放った。
崇仁はその言葉を聞き、料理が盛り付けられたお皿に手を伸ばす。
「じゃあ、いただきます」
え?と、崇仁はひどく混乱に陥った。『いただきます』と言う単語を、久しぶりに言ったような気がしたのだ。事実、一年間その言葉を口にしなかったのだから、当たり前なのだが。
そんな言葉があったのだな、と崇仁は懐かしく感じていた。
そして、まだその言葉が自分の中に存在していたのだということに驚きを隠せないでいた。
「どうしたんです?」
茜は突如固まってしまった崇仁に目を向け、そんな言葉を放った。
「い……や、何でもない」
そうだった、と。こんな感じだったのだな、と。
崇仁は徐々になにかを思い出していた。
「そう、ですか?じゃあ、早速食べましょうよ。いただきます」
そうして、茜は魚の塩焼きを箸で一口大に切り、白ごはんと共にまとめて頬張る。それにつられ、崇仁も同じ要領で箸を進めた。
口に入れば、広がったのは少し塩辛い魚の味と、それを緩和するようにある白ごはん独自の味。
「おいしい、な」
崇仁はそんな言葉を呟く。
「そ、そう。ありがとう」
そんなはにかんだ笑顔を見せる茜。一切の邪気を孕まない、そんな満面の笑み。
そんな笑顔すら、見ることは久しぶりだった。
しばらく無言が続いた。
服の布が掠れる音が、そこには渡り歩いている。
崇仁は魚の塩焼きのせいで乾いた喉を潤すため、味噌汁に手を伸ばす。
それを、手にして匂いが鼻に届いた時。
「え……あ」
なぜか、崇仁は唖然とした表情を取っていた。口からは絶え絶えにも音が漏れ、視線はその料理に釘付けになっている。
「どうしたの」
わからない、と崇仁は心の中で困惑の声を出す。でも、この料理の匂いを嗅ぐだけで、なにか懐かしい感覚が込み上げてくるのだ。
あの、濃厚な一年にかき消された、それ以前のことを。
「いや、なんで……も、ない…から」
茜はそれを聞いて、少し呆れ混じりにこんな言葉を崇仁に零していた。
「じゃあ、どうして、あなたはそんなに泣きそうになってるの」
わからない、わからないんだ。思い出せない。何かあったはずだ。これに関するなにかが、あったはずなんだ。でも、それが思い出せないで。どうして。
苦しい、けど。そんなに悪い記憶じゃなかった気がする。
崇仁はそんな感覚を覚えていた。軽く目をこすり、茜に向き直る。
「大丈夫だから」
「そう」
それからは本当に無言だった。なにも話さない。でも、それは別に険悪になったわけじゃない。
それは、とても心地のいい空間だった。
たしかに、今は何も思い出せてないかもしれない。
けど、これでいいんじゃないかと、崇仁は思っていた。
この現状は別に、悪くはないと感じていたからだ。