第九話 過去と未来の境目に
──どのくらい眠っていたんだ? 目が覚めると知らない天井が真っ先に見えた。いや、知ってはいるが見慣れていない、と言った方がいいな。頭が冴えてくるとここがどこだかすぐに分かった。保健室だ。俺はベッドの上に居るんだ。
「あ、理生くん、起きた?」
声を掛けてきたのは早百合だった。隣で椅子に座っている。
「あ、れ……? 俺は……違う、茉夜だ。茉夜はどうなった? 茉夜はちゃんと無事か?」
「そっかそっか。やっぱり理生くんは先に茉夜ちゃんの事か」
「?」
なんだか思わせぶりな早百合だったが、その後すぐに俺の質問に答えた。
「茉夜ちゃんは保健室の外に居るよ。茉夜ちゃんさ、自分のせいで気を失ったのかもって言ってたよ。もしかしたらもう二度と目を覚まさないとか、柄にもなく随分と弱気なこと言ってて、必要以上に自分を責めて泣いてた」
「……そっか」
茉夜を守ることはできた。俺のことで泣いてくれたのも嬉しい。だけど、俺は茉夜を守ることはできても、泣かせないようにはできなかった。そんな悔しさが俺の胸を締めつける。
「屋上のフェンスが外れちゃったんだって? 危ないからって屋上はしばらく使用禁止になったよ。原因はなんなんだろうね?」
「さあな。俺にはよく分からない。それより今は何時だ? お前、授業はどうした?」
「授業って……もう放課後だよ?」
言われて窓の外を見てみる。確かに既に日が沈みかけていて、夕焼けが保健室に射し込んでいる。もうそんなに時間が経ったのか。
「よし、じゃあ帰ろう」
「え、理生くん、起き上がって大丈夫? 結構深く眠ってたから、体調とか悪いんじゃない?」
「俺なら全然平気だよ。俺より茉夜の心配をしないと……」
言いかけて戦慄が走る。そうだ、そうだった。俺は今まで『夢』を見ていた。なんで忘れていたんだろう。俺が見ていたのは予知夢だ。自分の発言で確信に至る。深層心理、というやつがはたらいたのかもしれない。
また茉夜の身に危険が及ぶ。だからこそ俺は予知夢を見るため眠りについたんだ。だけど夢の内容がすっかり抜けている。普通の夢じゃなかったことは確かなのに、どうしても思い出せない。
「茉夜……茉夜……」
大切な人の名前を呼びながら懸命に頭を回す。早く思い出さないと……次の瞬間には茉夜が一言も喋らなくなる可能性だってある。そんなのはもう、夢の中でたくさんだ。
「どうしたの? 理生くん。茉夜ちゃんなら保健室を出たすぐのところに居ると思うけど」
「あ? ああ、そうか……。じゃあ行くか」
思い出すことができないならせめてそばに居よう。何があってもすぐに守ってあげられるように。
──────────
帰り道、三人で並んで歩いて行く。この面子だと新鮮味がある。俺が真ん中なので両手に花の状態なのだが、さっきから誰も話そうとしない。暗い雰囲気を一新するため、ここは俺から話題を振ろう。
「腹減ってきたな。何か食べに駅前にでも行くか?」
そういえば結局昼飯を食べ損ねている。腹が減るのも当然か。
「そ、そうだね! 私もなんだかお腹空いちゃったなあ!」
早百合が応えてくれたが、どこか無理に明るく振舞っているように見える。
「ねえねえじゃあね、新しくできたクレープ屋さんがあるの。私、そこに行きたい! 茉夜ちゃんも食べるでしょ?」
「……うん」
茉夜のテンションが異様に低い。今の返事の仕方も、高校生になってからは一度も聞いたことがない。
変なところがあるのは早百合も同じだ。歩いている最中、チラチラと俺の方を見てくる。なんだか言いたいことがあるけど言いづらいみたいだ。
「なんだ?」
「あ、いや、なんていうか、その……えへへ」
早百合にしては歯切れが悪い。笑顔で誤魔化そうとするが、逆に気になっていく。
「なんか言いたいことがあるんだろ? 遠慮せずに言えよ」
「えっとぉ……ううん、やめとくよ。多分、私の思い違い。偶然だと思うから」
ん? どういう意味だ? 早百合は何か俺に隠していることがあるのか? それともただ単に茉夜には聞かれたくないのか? 分からない……。なんだか頭が言うことを聞いてくれないみたいだ。
それからはまたしばらく沈黙が続き、あっという間に早百合の言っていたクレープ屋に着いた。
「二人は何にするんだ? 俺が奢ってやるから遠慮するなよ」
「お? さっすが理生くん、太っ腹だね! んーと、どうしよっかな」
早百合は前屈みになり、ガラス越しに並べられた食品サンプルを眺める。
「茉夜は? 早く選べって」
茉夜だけ少し離れて見ていた。なので手招きをして呼んでみる。
「……私、イチゴクレープ」
近付いてはくれなかったが、メニューは決まっていたようで答えてくれた。しょうがない、代わりに俺が注文してやろう。
「すいませーん。イチゴクレープくださーい」
「あいよ! それならすぐにできるよ!」
気前のいいおじさんがテキパキとクレープの生地を焼いていく。すぐに独特の匂いが漂ってきた。
「早百合はまだ決めてないのか?」
「あー、ちょっと迷うね。チョコバナナにするかチョコマンゴーにするか……」
「いっそのこと両方頼めばいいだろ。支払いは俺持ちなんだし」
「いやいや、さすがにそれは食べ過ぎだよ。お腹が出てきちゃったら元に戻すのホントに苦労するんだからね?」
早百合もそういうところに気を使ってるのか。ちゃんと女の子してるんだな。……こんなこと言ったら早百合に怒られるだろうから黙っておこう。
早百合が悩んでいる間に茉夜のイチゴクレープが先に出来上がった。
「はいよ! イチゴクレープ!」
「どうも」
俺は支払いを済ませ、イチゴクレープを持って茉夜に渡しに行く。
「ほら茉夜」
「……はむ」
茉夜は受け取ると同時に小さくクレープに噛みついた。一口目なのに少しだけ口の周りにクリームが付いてしまっている。
「立って食べるなよ。あっちに座れるところがあったはずだ。早百合の分もできたら行くから先に行っててくれ」
俺は常備しているポケットティッシュで茉夜の口元を拭いてやる。ティッシュ越しに感じた茉夜の肌は、柔らかくてちょっと気持ち良かった。ずっと拭いていたい。
「……!」
茉夜は拭き終わったティッシュを俺から奪い取ると、俺が指定した場所へと走って行った。うーん、恥ずかしがったのかな? やっぱり茉夜が一番可愛いなあ。希望的観測じゃなかったらだけど。
「理生くーん! 決まったよー!」
後ろから早百合が叫ぶ。うるさいなあ、もう少し余韻に浸らせてくれよ……。あとで思い出し笑いでもしておくか。
「…………」
ふと悪寒を感じた。いや、これは悪寒か? 前にも似たような経験をしたことがある。なんだっけな……。
「──茉夜」
意識せずに出てきた言葉で理解した。そうだ、デジャブだ。俺は今、デジャブを感じたんだ。ということは、茉夜が危ない!
考えるよりも先に身体が動き出す。茉夜の元へと一直線に駆け抜ける。別れて間もなかったのが幸いし、すぐに茉夜の背中が見えてきた。
「茉夜! 戻ってこい!」
叫んでみるが届いていないのか振り向きもせずに遠ざかろうとする。なんでいつもいつもそんなに足が速いんだよ!
油断した。油断した。油断した。後悔の念が押し寄せてくる。だけど今はそんなことはどうでもいい。後悔なんて後からいくらでもすればいい。
「……っ!」
頭上で物音がした。ビルの屋上で何かが動いている。あれは……看板だ。看板が外れて……落ちてきている!? 茉夜を目掛けて重力に逆らわず真っ直ぐに落下する。脳裏に浮かんだのは、かろうじて当たらなかった腕だけを残した茉夜の姿だ。
「──」
思考がクリアになっていく。もう何も考える必要がなくなった。やっとの思いで追いついたこの背中を、思い切り押してやればいいだけだから。
「……あ」
触れられてようやく茉夜が振り向く。良かった……なんとか間に合ったみたいだ。俺は、そうだな……最後くらい、茉夜に自分の気持ちを伝えておけば良かったかな。




