奇跡の輪、太陽の岬
「今度の連休を使ってミュージック・ビデオの撮影に行こう」とリタは僕に提案した。そろそろ新曲が溜ってきたので、フラッタ・リンツ・ライフはEPの制作に向けて動き始めていた。そのリードトラックの為に映像を撮るのだ。「いいね。しかし、僕やリタは祝日などとは無縁だろう。平日の方が人混みに巻き込まれなくて済む」と僕は言った。「確かにそうだね。カレンダーに左右される芸術活動なんて金太郎飴より味気ない」とリタは頷く。「ところで、ムービーを作るならば被写体とカメラマンが必要だろう。どうするのさ」この頃のバンドのレギュラーはリタと僕の二人だけだった。僕がアクターやムービーメイカーになるなど到底不可能である。「以前話してくれた女の子はどうだろう。映像の方は任せて。今日日スマートフォンがあれば事足りるよ」
こうして各々役割が決まった。カメラマンはバンドマスターのリタ、女優は僕の知り合いのメグ。僕の任務はメグをエスコートすることである。集まった三人の身なりには僕は思わず笑ってしまった。皆、殆んど手ぶらだったからだ。少なくともこれから動画撮影に行くようには見えない。リタに言わせてみれば、大掛かりな撮影道具など前時代的で非効率的だった。神聖なる芸術行為に対して天は機嫌を良くしたらしい。絶好の行楽日和だった。
メグとは哲学サークル“奇跡の輪”で知り合った。奇跡の輪は宗教や哲学、思想、心理学などを学ぶ有志の学習教室だ。サークルの創始者である“リーダー”は元々友愛組織の情報局長で、僕が幼い頃にはよくテレビの討論番組に出演していた。頭の回転が速く、弁の立つ男だった。最近は本部での震災復興支援活動に忙しくしているようだった。僕が足を運んだのはアートビレッジから国道を挟んだ丁度反対側、風俗店のひしめく路地にある雑居ビルだった。メグはそこの支部長で、周囲からは先生と呼ばれていた。先生という呼称にはいささか若過ぎやしないかと思ったが、それは僕の彼女も同様だった。メグもまた聖職者なのだ、と僕は思った。フラワーロードで彼女は宗教勧誘に遭ったと言っていたが、実は僕もそれに声を掛けられたのだ。4月の穏やかな白昼夢は「ヘイ、ニーチャン」と僕を誘惑した。奇跡の輪は厳密には宗教団体ではなかった。これは僕の個人的イメージなのだが、哲学サークルの運営マニュアルは宗教施設のそれを参考にしているのではないか、と思ったことがある。とにかくメグや僕は学習活動に励んだ。と言っても普段は書写をしたり、動物の群れの映像を観たり、コーヒーを飲んだりして過ごした。誕生日にはケーキが用意されて僕は皆に祝福された。月に一度、“月朔の祈り”といって『ハリー・ポッター』のミネルバ・マクゴナガルのような人物が訪れて、一人ひとり詩歌を詠んで黙想した。詩は書籍からの引用でもいいし、自作のものでもよかった。僕はもちろん後者を実践した。メグはヘルマン・ヘッセの詩集にあった言葉を熱唱した。僕の大好きな詩人だった。そんな風にして僕はメグに好意を抱き、メグも僕に興味を持ってくれた。メグは金髪のボブカットで、シスターのような黒服を身に纏っていた。耳にヴィヴィアン・ウエストウッドのピアスを着け、左手の中指には刺青が施されていった。十字架の刺青は僕にその罪状を語ろうとはしなかった。シスターというよりゴシック・アンド・ロリータと言っても差し支えないだろう、と僕は思った。「本業は薬剤師なのよ」とメグは言ったが、僕には風俗帰りの大学生にドラッグを密売している姿しか思い浮かばなかった。いつか譲ってもらおう、と僕は思った。もちろん冗談である。
リタとメグと僕は環状線と私鉄を乗り継いで目的地を目指した。乗客は行き先に近付くにつれて続々と減少していき、とうとう三人だけになってしまった。降り立ったのは乗降数/日が100人に満たない無人駅だった。設置されたボックスが三枚の切符を回収した。それからリタの提案で近くの喫茶店に入った。シティ派の若者にとっては精彩に欠く店だったが、腹ごしらえするには十分だった。「おにぎりの後にコーヒーなんて、信じられない」とメグは僕を非難したが、同じくおにぎりを食したメグは美味そうにオレンジジュースを飲んでいた。リタは煙草の紫煙で輪を作って遊んでいた。
ミュージック・ビデオの撮影は翌日の早朝に決行することとなった。夜明けの海が美しいからだとリタは言ったが、実際は三人とも長旅に疲れ切っていた為だった。それに忍び寄る気温の低下は体温を確実に奪っていった。リタとメグと僕はストロベリーファームというロッジに一泊することにした。この時期、小さな宿の経営は果たして成り立っているのだろうか、と僕は心配だった。僕とリタは二段ベッドの小屋を使い、メグはワンランク上の部屋に入った。尤も等級などあってないようなものだったが。日はとうに暮れ、海岸の方から黒々とした夜が染み込んできた。こんな静かな土地も悪くないな、と僕は思った。リタは苺狩りに行ってくる、と言ってどこかへ出掛けていった。もちろん冗談だろう。僕は引き出しで見つけた新約聖書を捲りながら、恐ろしく硬いベッドの上で眠気がやって来るのを待った。
「この世で最も簡単に死を手に入れる方法をご存知かしら」とエリカは尋ねた。カーテンから滑り込む月明かりに照らされた、限りなく透明に近い少女を僕は見た。「ピストルを準備する」殆んど乾ききった声で僕は答えた。「“生きること”それが答えよ」そう言ってエリカは僕の服を丁寧に脱がせた。抵抗も反駁も屈託も懸念も嫌厭も、僕を制圧するに至らなかった。エリカは現れた僕のそれを手に取り、その重量を計測したり反応を観察することにしばらく集中していた。そして、呼吸以外の口腔の機能を思い出したように、僕の陽物を口に含んだ。メグは僕が放ったリビドーを一心不乱に受け入れていった。
誰かの叫び声がして僕は目を覚ました。その声の主が自分であることに気付いた頃には、僕は驚きよりもむしろ安堵感を覚えていた。時計を見る。午前四時五十二分。ベッドを出るには早過ぎるし、どこかへ出掛けるのにも早過ぎると思った。リタが梯子から降りてきたので仕方なく僕も起きることにした。「苺狩りは上手くいったかい」と僕は尋ねてみる。「うん。季節はずれの苺で一財産築くことができるよ。誰にも内緒にしてね」リタは笑ってそう言った。
リタとメグと僕は険しい崖を手を取り合って進み、空と海を別つ岬へと向かった。なだらかな岩場で寝そべったりもした。地面が少し湿っており、僕は彼女に買ってもらった外套を汚してしまった。月はとっくに退勤していたが、太陽はようやく身支度に取り掛かろうというところだった。「リタはどうしてリタというの」道中でメグは尋ねた。「それはね」と僕。「リタの名前から取った渾名だよ。な、リタ」リタは風向きを観測していた。「そっか。素敵な名前ね。空を発つ者を見送るような」メグは嬉しそうに目を細めた。
この日、僕の肩書きに脚本家が加わった。僕が書いたのは至ってシンプルなドラマだった。岬を行くメグの後姿、昇り出す朝日、煌めく夜明けの海。最後に女優は振り返って笑う。他に類を見ない抒情的な画は低予算で実現可能だった。リタもメグも僕の脚本を喜んでくれた。振り返る前に裸になる、と言い出したのはメグだった。リタは「寒いよ」と注意した。メグに露出願望があったことなど僕は知らなかった。が、メグは「見返り美人って言うじゃない。うなじを見せるのよ」と言った。確かに服を脱ぐという演出は悪くなかった。秋ものの黒いコートと夜明けの岬は不釣合だと僕は思った。予定調和に作戦は上手くいった。歩きながら衣服をするすると脱ぎ捨てるメグ、スマートフォンを片手にそれを追うリタ、女優が最高の笑顔を見せる為のギャグを考える僕。薄暗い地上に光が差し込む。細やかな風の音、静かなる潮騒の囁き、美しき生命の躍動。太陽が眩しかった。クライマックス。メグはこちら側に振り返り微笑む。その姿は神々しかった。リタは空いている方の手を振った。合わせて僕も手を振る。メグはあちら側に向き直り、空を見つめた。
そして、翼を広げて、飛んだ。
音楽はフェードアウトし、メグはどこか遠くへ飛んでいった。僕は歌詞をリライトし「DIVE TO BLUE」というタイトルを付けた。笑ったメグの顔は殆んど泣いているようにも見えた。