8話
目を覚ますと灯はベッドに横になっていた。辺りはすっかり暗くなっており、ディアナ達の寝息が聞こえてくるだけである。たまに遠くから鳥の高く鳴く声が響いたが、夜の喧騒は無いようでどうやら今は夜中のようだった。身体を起こして窓の外を見るが、街灯のないこの街では唯一の頼りの手持ち火が1つも無い暗闇の中はあまりよく見えなかった。
軽く頭を振って眠る前の事を思い出す。アーシュリンからきっぱりハッキリと「帰れない」と断言されて、途端に意識が遠のいてしまった。あれが昼頃の事だったから、軽く12時間は気絶していたということになる。ベッドはディアナの順番だったはずだが、どうやら灯へ譲ってくれたようである。床で気持ちよさそうに目を閉じているのが月明りで見えた。
起こさないように小さな動きでベッドから降りると、そっと部屋から出ていく。トイレへ行き、水を飲もうと井戸へ向かうと人影が見えた。驚いて物陰に隠れると人影が自分の方へ向かってくるのが分かった。逆光になっていて全く顔が見えない状態だったため、心臓がドクドクと音を立てる。
「・・アカリ?」
「デュオルク?」
そこに居たのはデュオルクであった。灯がホッとして物陰から出ると手招きをされる。
「水、飲みに来たんだろ」
「うん。喉が乾いちゃって」
「・・ほら」
デュオルクが木のコップを差し出してくれる。そこに入れられた水が月の光を反射してキラキラと輝いている。「ありがとう」と受け取ってから一気に飲み干すと、何も言わずにもう一度水を汲んでくれる。それを半分まで飲んだところで一息ついて、なぜデュオルクがここに居るのか疑問が出てきた。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「いや、部屋を出た気配がしたから。飯もろくに食ってないのに出歩いて倒れられても困るしな」
「・・うん、すごくお腹すいてきた」
「ククッ。これ食えよ」
腰につけられた小さな布袋からいつもの干し肉を取り出し灯に渡す。その途端に「くー」と鳴りだしたお腹に赤面しながらもありがたく食べる。何度も食べてきた干し肉だが、さすがに2食抜いた後のものは格別に美味しかった。
「・・ショックだよな」
「ん?あー・・うん、まさかあんなにストレートに言われるなんて思わなかったから」
「アーシュリンさんも悪い人じゃないんだけどな。上で決まった事なら仕方がないと言えば仕方がないんだ」
苦々しげに言うデュオルクに苦笑を返し、しばし干し肉を堪能することにする。それを何も言わずに眺め、半分ほどお腹に入ったところで灯は話し出す。
「私も、さ。この世界の事はちっとも分かんないし、なんか分かんないけど追いかけられるし、知らない人種がいてすごく・・すごく混乱してる。ファンタジーな世界には憧れてたし、そういう小説もたくさん読んだよ。でもいざ自分がってなるとこんなに何も考えられなくなるもんなんだな、って」
「・・ああ」
「帰る方法が無いってストレートに言われた時は、実際気絶しちゃうぐらいショックだったんだけど。・・でも心のどこかで、とっくにその答えが出てたような気がしてたんだ」
こうして食事を摂り、排せつをし、動き回り、痛みを感じ、涙する。全て自分が居た世界でもしてきたことが違う世界で繰り返されている、ただそれだけなのだと灯は思っていた。黙ってそれを聞くデュオルクの顔は逆光で見づらかったが、真剣な顔をしているように見える。
「・・私さ、この世界に来て1週間ぐらいになるよね?ちょっとずつ元居た世界の事を忘れてるような気がするんだ」
「どういうことだ?」
「うーん、具体的に何を忘れた!とかは分かんない。だってもう気付いた時には忘れてるんだから。でも頭の隅っこの方から砂がサーッと落ちていくみたいに、抜けてってる気がする」
デュオルクが不思議そうな顔をしていると、灯は苦笑した。
「実は気付いたのはさっきなんだけどね。こっちには水洗トイレっていうのがあるの。水でジャーッて全部流してくれる機能のことなんだけど、それをするには何か手順があったはずなんだ。でもここには無いでしょう?この世界に順応してきてるって言えばそれまでだけど、その手順の名前をさっき忘れちゃったんだ」
それは些細な事だった。ろうそくの明かりが灯る廊下を抜けてトイレで用を足し、そのまま出てきたのだ。もちろんこの世界ではそれが正しいことなのだが、少し歩いてから小骨が喉に引っかかったような違和感があった。
そしてその違和感の正体が、ぼんやりとだが脳裏によぎった。それは白いツヤツヤとした陶器のようなものに付いているシルバーの何かを、どうにかしなければならないという漠然としたものだった。だがそれ以上思い出すことが出来ずに水を飲みに来たが、木のコップの取っ手を見て思い出したのである。
「でね、思い出したからって何ってわけじゃないんだよね。ああ、そういうのもあったなーって思っただけ・・。なんだか不思議な気持ちだよ。砂がサーッと抜けて行った隙間に、違う何かが入り込んでくるような感覚・・って分かんないよね」
「・・あんまり」
「だよねー。でも帰る方法が無いって断言されたらさ、探したくなると思わない?」
灯が力強く言うとデュオルクも頷いた。
「記憶がどこまで無くなるか分かんないけど、覚えてるうちに戻れる方法探すことにする。大輔にも忍にも・・会いたいから」
「ディアナが」
「え?」
エイエイオーと月に向かって気合を入れると、デュオルクが遠慮がちに話しかけてくる。振り返ると真っ直ぐと灯を見ていた。
「ディアナがアカリが元の世界に戻れる方法を探そうって」
「・・え、でもデュオルク達もすることがあるんだよね?」
「ああ。だがそれと並行して、いろんな街で情報を集めればいいじゃないか」
「だけど何も分からない私なんかが一緒じゃ、二人のお荷物になっちゃうし」
願っても無い提案だったが、先々で起こりうる困難は多いはずだ。灯は断るが、デュオルクは一歩も引かずにいる。むしろ数歩しかない距離を一歩ずつ縮めてくる。月明りが少しずつデュオルクの表情を暴いていくと、その顔は悲しそうにしていた。どうしたのかと聞く前にデュオルクは灯の手を取った。
「迷惑だと思ったことは無い。今俺たちと離れたところでアカリは生きていくことが出来るわけがない。間違いとはいえ召喚してしまったのは俺たちだ。俺たちは最後までアカリを元の世界に返す事を諦めたりはしない」
「・・うん、そうだよね。諦めちゃダメだよね」
「前を向いていれば必ず糸口は掴めるはずだ」
灯は頷いてデュオルクの手を握り返す。ニッと笑うとデュオルクも灯の手を強く握ってから手を離した。二人はそれから揃って部屋に戻ると、再び眠りに就いた。
12時間も続けて眠っていたため眠れないかもしれない、と思いきやしっかりと深い眠りに就いていた。起きた時には陽が昇っており、皆身支度をしていた。灯が身体を起こすと同時にディアナが気付いて近寄ってくる。
「アカリ、気分はどうだ?気分が悪いとか無いか?」
「大丈夫。ご心配おかけしました・・それよりベッド使わせてくれてありがとう!2日連続床だと身体痛いよね、今度は私が連続で床で寝るから」
「ちょっ、そんな心配なんてしなくていいって!それより、ほら・・昨日は、その・・」
言いづらそうに言葉を濁して俯いてしまう。確かにディアナからは言いづらい話題かもしれない、と思い灯が口を開く前に隣のベッドの方から声がした。
「帰る方法ないなんてぇ、すっごーくカワイソォだね」
心配そうな顔を装ったハルティアがそう言うと、ディアナの顔からサッと血の気が引いた。どのように声を掛けようかと悩む中でのそのストレートすぎる言葉は、口に出すのが憚られていたに違いない。
そんな様子に思わずディアナの手を握ると、ハッとした顔でこちらを見た。灯は極力笑顔で答えた。
「ハルティアの言う通り、帰る方法が分からない可哀想な私だけど・・旅の邪魔にならないようにするから、一緒に連れていってもらえるかな?」
「・・!デュオルクから聞いたのか?」
灯が笑顔のまま頷くと、ホッとしたように握っていた手から力が抜けた。そしてすぐに力強く握り直す。
「ったりめーだろ?あたしらがアカリを連れて行かない訳がないってーの!」
「フフッ、ありがとう!少しずつこの国の事を知って、いずれは自立出来るように頑張るからね」
「何言ってんだ、アカリの一人ぐらいあたしらで充分一生食わして行けるって。なぁデュオルク!」
同意するように一度頷いて返すと、ハルティアが頬をぷっくりと膨らませる。自分の思ったような展開にならなかったのが悔しいのか、はてまたデュオルクが灯に笑顔で返したのが気に食わなかったのか。
「デュオルク様までぇ・・アカリさんが自立出来るようになるまでぇ、どれだけ時間がかかると思ってるんですかぁ?」
「時間がかかってもいいんじゃないかな、僕たちはいつまでいてくれても構わないと思っているよ」
爽やかにそう言われてしまうと、ハルティアは一瞬きょとんとした顔になる。だがデュオルクが「ハルティアも、そう思うだろ?」と笑顔で付け加えた瞬間に顔が真っ赤になる。
「そ・・うですよねぇっ!流石デュオルク様ですぅ」
キャハッと言っていつものポーズをする。今更のような気もするが、ハルティアの気持ちは逸れたようであった。目をハートにしながらデュオルクの隣でもじもじしながらお喋りに夢中になっている。普段愛想があまり良いとは言えないデュオルクの、外の顔は常に爽やかな微笑みを口元に浮かべているのだ。
そしてハルティアだけではなく、情報屋の既婚未婚に関わらず女性を惹きこむことを得意とする。分かってはいるがディアナと灯はお互いに顔を合わせて苦笑した。
「・・あー、取り込み中悪いが今後の方針を話したい」
「ねぇ、ディアナ。二人は元々何を目的に旅してるの?」
灯はパーティに加わって二週間以上経っていたが、まだ二人の旅の経緯を詳しく聞いたことはなかった。聞いたところで話してくれるかは分からないが、自分が異物ということを重々承知していた為詳しい事を聞くのを避けていたのだ。
だがこれから灯の目的である「元の世界へ帰る方法」を探るために、本当のパーティを組んだことになる。そうなれば元々二人の目的を知っておくのは至極当たり前のことのように思えた。ディアナは灯を見てからハルティアの方を見る。その目は「どこまで話せば良いのか」と推し量っているように見えた。
「そんな目で見ないでよぉ。ハルはぁ、デュオルク様の行くところならどこだって行っちゃうもんねっ」
「ハルティア。あたしらはアンタに感謝している。あの時に転送してもらうことが出来なかったら、今こうしてここで話すことも出来なかっただろうな。だがそれとこれとは話が別だ」
「こわぁい・・。ねっデュオルク様ぁ?」
「・・その点に関しては、ディアナに同意なんだ」
寄り添うようにしてデュオルクの腕に絡めた手を解くと、ハルティアと少し距離を置いた。ハルティアのおかげで助かったのは事実だったが、旅の目的が明確になった今が距離を取るタイミングだと思っているようである。
ディアナとデュオルクの会話を聞いたわけではなかったが、なんとなくそのような空気を出しているのが伝わった。灯にも伝わっているということはハルティアにはかなりハッキリと伝わっているはずなのだろうが、気にする様子も無く頬を膨らませる。
「なんでぇ?わたしだけここに置き去りにされちゃうわけぇ?」
「置き去りにするつもりはない。ヘルホースで1つ前の街まで戻れば、あとは馬車を乗り継げば二日もあれば着くはずだ」
「そんなのぜぇーったい、ぜぇーったいにイヤだからねっ!わたしもパーティに入れてよ!」
デュオルクの服の裾を掴んですがるようにしている。あえて距離を取っているのに自分をぶつけてくるのは初めての事だったが、ディアナとデュオルクは渋い顔をしている。それもそうだろう、共に生活したのはたったの1週間なのだ。本当に信頼出来るかどうかはまだ分からない。
灯はその必死な姿を見て、元の世界に残してきた忍の事を思い出した。そういえば誕生日には戦隊シリーズのグッズを欲しがって、おもちゃ屋さんの前でああして灯の服を引っ張っていたものだ。子供だからと侮ってはいけない、普段自己主張しない子がそう言いだした時は「それ」を手中に納めるまでは頑として譲らないのだ。
帰宅しても、誕生日までの4か月間も、ずっとその事で頭がいっぱいなのだ。欲しいと決めたものを必ず手に入れるまで折れないという顔をハルティアはしていた。思わずクスリと笑いを零すと、あまりにその場に相応しくない笑顔に3人が不思議そうな顔をしている。
「ごめん、息子の事思い出しちゃって・・。ディアナ、デュオルク。たぶんハルティアはパーティに入れないって言ったら、一人でも後ろからついてくるタイプだと思うよ」
「でもアカリ、コイツは・・」
「フフッ。ハルティアは自分の意思をしっかり持ってる子だと思う、私は信じてあげたい・・かな。それにいざと言うときの為に転送魔法があるって、すっごく心強いと思わない?また前みたいな事態になることがあったら次はどうなるか、分かんないし」
思わぬところからの援軍にハルティアが罰の悪そうな顔をする。だが灯の言葉を肯定するように合間に力強く頷いていた。灯の言葉の意味はディアナとデュオルクにとっては重々承知のことであった。もし前のように追手が来た場合、灯だけをこの広い世界に逃がすわけにはいかない。
だがどう頑張っても魔法を使う事の出来ない二人にとって、ハルティアの持つ転送魔法は最終手段としては最適なものであった。デュオルクはディアナとアイコンタクトをして1度頷く。
「・・分かった。ハルティアもパーティに入ってもらおう」
「ほんとぉっ!?嬉しいっ!!」
ハルティアが満面の笑みで喜ぶ。嬉しそうに部屋の中をクルクルと回ると、黒と白のフリルのついたスカートがふわりと舞った。最後に恥ずかしそうに灯の方をチラリと見ながら小声で「アリガト」と言うと、そそくさとデュオルクの影に隠れてしまった。
そんな姿すら忍と重ねていると、ディアナが真剣な顔を向ける。
「あたしたちの旅の目的だが、それはただ一つ」
緊張した声で一度区切ってから、一度デュオルクとアイコンタクトをする。それからはっきりと言い放った。
「獣の王への復讐だ」