1話
「ただいまー」
「おかえり、ちゃんと手洗いうがいしなさいよー」
「はあい」
立原 灯の一人息子の忍は、小学生になってからめっきりと手がかからなくなってしまった。つい4か月前に卒園するまでは毎月のようにある幼稚園の行事がめんどくさいと思っていたはずなのに、小学生になった今では授業参観ぐらいしか楽しみがない。
「プリント出しなさい」
「えー、後で出すー」
「いーまーだーせー」
プリントも何のひねりもない、報告書のようなプリントばかりだ。飾っていても可愛くなくなってしまい、キッチンの奥に適当に張り付けるようになってしまった。出されたプリントを読んでいると、もうじきプールが始まるらしい。
「プール道具って、学校で販売とかあるって?」
「しらなーい。おかーさんおやつは?」
「もー。ハイこれ、特製手作りマフィン」
息子の適当さに呆れながらも、近所のママ友にさっそく連絡を入れてみる。そこの子は女の子だったため、学校での連絡事項はもちろん何でも話して聞かせてくれるらしい。忍は学校を出て3分で忘れて帰ってくるため、あてには出来なかった。
「ごちそうさま!遊びに行ってくるー」
「ちょ、どこ行くの!?」
「太陽んち!いってきまーす」
返事を待たずにバタンとドアは閉められる。ママ、ママ、と幼稚園に行くのをグズっていた息子と同一人物だとは思えない。小学生に上がってからはお母さんと呼ぶようにもなった。「はぁー」と無意識に漏れるため息は、空しく部屋に響くだけだ。
夕方に忍が帰って来て、夜になると夫が帰ってくる。早速戦いごっこを仕掛ける息子を軽くあしらうと、早々に晩酌を始めた。
「うめぇー。今日は3本ぐらいいいだろ?」
「ダメ。忍がもうすぐプール始まるんだって、揃えないといけないから」
「ちぇ。ケチケチかーちゃんだ」
「ケチー」
2対1だと分が悪い。そろそろ次の子を考えたいところだが、なかなか授からないのが現実だった。
「ご飯、食べてくれなくても結構ですけど?」
「え!?ご、ゴハンオイシー!つまみも最高だよーおかーさん」
「おとーさん、それってテノヒラガエシって言うんでしょ?」
忍の言葉にしどろもどろになる夫の大輔は、果たして父親としてどうなのだろうか。そう考えていると、大輔が苦し紛れに話題を振ってくる。
「そうだ。この前の同窓会、どうだった?友達に会えたか?」
「あ、そうそう。そろそろ子供も落ち着いてきたし、いつもの4人で温泉旅行でもどうかなーって話してたんだけど」
「温泉ー?あー、まぁ・・最近は家族旅行ばっかりだったもんなあ」
「僕も行きたい!おかーさんずるい!」
忍がそう言うと、珍しく大輔がそれを諌める。不満げにしているが大人しくいう事を聞く。
「家族旅行もいいんだけど、ね。たまには行きたいなって」
「んー。いいよ、行っといで。息抜きしておいで」
「えっ、そんなにあっさりといいの?」
驚いて目を見開くと、夫は「ただしー」といつものおねだりの顔になる。
「今月のお酒、もうちょっと増やしていい?」
「う・・うーん、許可しましょう!」
「ヤッター!」
「おとーさんやったね!」
二人で嬉しそうな顔をしているが、忍に一つも得は無い。忍はご飯を食べ終えると、少しテレビを見てから自分から部屋へ寝に行ってしまった。幼稚園児の頃と違って、そこだけは小学生になって良かったと思えた。
「・・ねぇ、本当に行ってもいいの?」
「ん?いいよ、旅行好きだったもんね。灯ちゃん」
夫婦の時間は子供が眠ってからしか持てない。二人でソファに隣り合って座ると、大輔が灯の方に手を回してくる。その手を払うことなく、甘えるようにわざと頬を寄せると嬉しそうな顔をしている。
「うん、嬉しいなー。お土産いっぱい買ってくるから、忍の事お願いね」
「僕は地酒でいいからね、たくさんお願い」
お酒ばかりを欲しがる大輔に苦笑しながらも、少ししてから灯達も眠りに就いた。
翌朝、さっそく同級生たちに連絡をすると「絶対灯の旦那ならオッケーしてくれると思ってた」とそれぞれ返事がきた。そして1か月後に温泉に行くことに決定した。旅行の支度の為に広告を見ていると、そこにプール道具が安く出ていた。
「あっ、プール道具買いに行かないと」
「もー!お母さん温泉ばっかり考えてないで、ちゃんと僕の事も考えてよね!」
「ゴメンゴメン、買ってくるから」
結局プール道具を買いに行ったのは、1週間後になっていた。後2日でプール開きになるという時だったため、かなり忍に怒られてしまった。ついつい温泉でどこを回るか、などを考えていると旅行に行った時に快適に過ごせるように、と家の中の事を片づけてしまうのだ。
考えに没頭している時は、集中力がいつもよりも増して何をするにも楽しく感じる。つい先月30になったばかりだったが、子供に付き合っていると体力をつけないとそのパワフルさにも負けてしまう。家中を掃除することで、体中が鍛えられておりどうにか小1男児に負けずにいられるのだ。忍のアクロバティックな動きについていくのを見て、近所の人からはとても羨ましがられている。
そうこうしている間に、あっという間に温泉へ行く日になった。家まで迎えに来てもらうと、夫と忍も玄関先まで見送りに来る。
「奥さん借りてくねー、大輔くん」
「いいお湯してきてね。気を付けて」
「お姉ちゃん達!僕にもお土産だよ!絶対だよ!」
「いってきまーす」
何の問題も無くスタートした道中、わいわいと車中で同窓会で話せなかった事に花を咲かせる。結婚しているのは4人中3人で、更に子供が居るのは2人しかいない。だからと言って話題に事欠くわけでもなく、学生の時の気持ちが蘇ったようで楽しかった。
そういう時間はあっという間に過ぎるもので、夜になって懐石料理を堪能する。さすが海沿いの温泉宿で、焼く、煮る、湯がく、揚げる、とにかくバラエティ豊かな魚料理が出るがどれも美味しかった。少し休憩してから、寝る前に温泉につかりに行くことにする。
「ね、私もう一回温泉入ってから寝ようかなー」
「んーあたし明日の朝一で入りたいかも」
「私もちょっと動くのしんどいー」
「露天風呂で朝日見たいから、もう寝るー」
どうやら灯だけが温泉に行くようであった。朝日を眺めながらの露天風呂も良さそうだったが、ご飯を食べてから少し時間が経ったため足先が冷えてしまっている。「先に寝ててもいいよー」と声をかけてから部屋を出る。
部屋着を脱いで露天風呂のドアを開けると、そこには誰もおらず貸切状態になっていた。
「わっ、ラッキー!」
かけ湯をして浸かると、肌触りの良いお湯がさらさらと心地よかった。6月の空気はとてもしっとりとしていて、お湯と馴染むと顔からつま先まで気持ちがよかった。空には雲が少しあったが、月がよく見えた。ニンマリと笑っているような半分よりも少ない月の形が可愛らしく、思わずしばらくそれを眺めてしまう。
どれぐらい時間が経ったのだろうか、入り口がカラカラと音を立てて開いた。中からは初老にかかったぐらいの女性が出てきて、ゆったりとした動作で灯の隣へ腰かけた。二人でぼんやりと月を眺めていると、少し頭がクラクラとしてくる。
「ね・・あなた、大丈夫?少し顔が赤すぎるみたいよ、そろそろお出になった方がいいかもしれないわね」
「へ?あ、もう1時間も入りっぱなしでした!じゃあすみません、お先に」
「湯あたりに気を付けてね」
笑顔で見送られると、灯は脱衣所へ入っていく。すっかり温まり過ぎた身体を部屋着で包むと、顔がより上気したのが分かった。これは少し外を散歩した方が良いかもしれない、そう思い一度部屋にケータイを取りに行くとすでに3人は眠りについていた。
音を立てないように部屋から出てしばらく歩く。少し先の庭にベンチを見つけ、座ってケータイをチェックすると何通かメールが届いていた。全て夫からの他愛のないものばかりだったが、そのどれもに写メが添付してあり「これから公園」や「これから昼飯」など一言だけ添えてあるものばかりだった。
思わず家が恋しくなったが、最後のメールには忍の寝顔が写されていた。本文には「灯ちゃんがいないと、寂しいなう」という言葉と共に泣いている猫の絵文字が入っていた。こっそりとそのメールにロックをかけると、返事として自分の首から下を送る。勿論撮る前に周りを見て、人が誰も居ない事は確認済みだ。
「露天風呂上がりなう、と・・寂しがりだなー。私のケータイは日記じゃないっつーの」
すると1分もしないうちに電話がかかってくる。
「もしもし、楽しんでるんだね。こっちは忍が大変だったんだけど」
「すんごーく楽しいよ、ありがと大輔さん。お土産の地酒、楽しみにしてて。試飲したけど結構辛口で美味しかったよ」
「おっ、いーねぇ。さすが灯ちゃんは僕の嗜好を分かってらっしゃる」
「フフ。何年一緒に居ると思ってるの」
こうして電話をしていると、子供が出来る前の事を思い出す。付き合っている時も、新婚の時も、一目瞭然で大輔の方が灯の事を溺愛していた。最初はその勢いに引いてしまう部分も多かったが、今となっては素直に好意を受け止めることが出来るようになった。
付き合い始めてから早10年になるが、年々想いが熱く、重くなっていくような気さえしていた。それはお互いにそう感じているようで、些細な喧嘩はあったが大きな喧嘩に発展することは無かった。周りに「愛だねぇ」などと冷やかされながらも今日まで来ている。
「外に居る?虫の声聞こえてる。ていうか友達は?」
「良く分かったね。友達はもう皆寝ちゃった、露天風呂も一人で入ったよ」
「えっ、僕と一緒に入りたかったってこと?」
「どこをどう聞いたらそうなるの」
灯がおかしそうに笑うと、電話の向こうでも同じように笑い声が聞こえた。火照っていた身体もそろそろ冷えてきたため、電話を切り上げようとするが中々大輔が切ろうとしない。
「風邪ひいちゃうんですけどー」
「僕が看病してあげるから、安心してね?いつでも倒れてくれてオッケーだから」
「もう。切るね!明日夕方帰るから」
「ほーい、気を付けて帰って来て」
電話が切れると、虫の声がより大きく聞こえだす。風が木々を揺らして立てる音と重なって、自然がしゃべっているようにも見えた。ベンチから腰を上げてもう一度月を見るが、もう雲に隠れてしまって見ることは出来なくなっていた。
部屋に戻ると少し寝相が悪くなった3人が居た。
「みんなオヤスミ」
小声でそう言ってから灯も寝床へ入る。旅館で準備される布団に腰を下ろし、掛布団を少し整える。それからゆっくりと頭を枕に沈めると、そのまま頭が沈んでいく。それどころか首や肩、背中もどんどん沈んでいる事に気付く。
「え、え、なになに、えっ!?」
ずぶずぶと泥の中に沈み込んでいくような感覚で、起き上がろうともがけばもがくほど体は動かなくなっていく。かなり大きな声を出しているが、誰一人目を覚まそうとはしなかった。このまま顔まで沈んだら息が出来なくなってしまう、と大きく息を吸い込んだところで何かに流される感覚がした。
異常事態に頭が付いていかない。目を開けているはずなのだが、辺りは真っ暗で何も見えない。感覚では流されているようだが、体が濡れているわけでもない。灯の身体はスライダーを滑っている時のようにどんどん下って行っているようだった。若干の浮遊感に気持ち悪さを覚えるが、その感覚はしばらく続いた。
突然スポン、とどこかから出るような感覚を受ける。うっすら目を開けると、そこには一面の砂の山が広がっていた。