十二
ミネルヴァがホプキンズとともに病室に入ってきたとき、パメラの表情はいつも通り――感情の動きを感じさせぬそれに戻っていた。
「あら、サディアスはまた眠ってしまいましたのね」
ホプキンズはサディアスの呼吸や脈を診ていたが、特に大きな異常はなかったらしい。
「ときに、そこのお嬢さんはこの男の関係者かね?」
「はい、娘にございます」
「ここはうちのファイナに任せて、奥の空き部屋でしばらく休むとええ。この男はしばらくはこの状態が続くじゃろう。なにかあれば起こしてやる。マーシャと、金髪のお嬢さんもな」
わずかに逡巡したパメラであるが、ホプキンズの言葉に頷いた。一瞬とはいえ、パメラがためらいを見せるのも極めて珍しいことだ。
診療所の奥には、簡易的なな寝台が四つ据えられた病室があり、マーシャたちはそれぞれ寝台に横たわった。
ミネルヴァは、粗末な寝台にはじめは困惑していた様子であるが、半端な時間に起こされたこともあって、すぐに静かな寝息を立て始めた。
マーシャはというと、清代に横になりしばらく事件について思いを馳せていたが、やがて眠気が襲ってきた。目を閉じると、じきに眠りの世界へと落ちていった。
どれくらい時間がたっただろうか――マーシャは、ふいに眼を開いた。彼女の感覚だと、寝入ってから十分と経過していないくらいか。
マーシャが目を覚ましたのは、誰かが寝台から身を起こした気配を感じたからだ。
気配の主は、パメラであった。
マーシャの訝しげな視線に気づいたパメラは、小さく嘆息すると右手で病室のドアを指し示した。マーシャは頷くと、ミネルヴァを起こさぬよう足音を殺しつつ、パメラとともに病室を出る。
「あの状況で私の動きを感じ取るとは――さすがにございます」
診療所を出たところで、パメラは足を止めてそう言った。
マーシャは、自嘲めいた笑みを浮かべる。睡眠時でもあたりの気配に敏感に反応するという、野の獣じみたマーシャの習性は、かの秘密部隊『蜃気楼』在籍時に身につけたものだ。平和に暮らしていくぶんには、まるで必要のないものである。
パメラは、しばらくの間黙考したのち、意を決したように口を開いた。
「グレンヴィル様――大変厚かましいこととは存じますが、お願いしたき儀がございます」
と、頭を下げたのである。
パメラが他人に頼みごとをするなど、まさに前代未聞の珍事である。マーシャも目を丸くする。
「頼みとは――」
「私は、理由あってしばらくお嬢様のそばを離れねばなりません。屋敷に使いを出して警護の者を呼ばせますゆえ、その者たちが到着するまでの間、お嬢様の御身をお護り願いたいのです」
「そのくらいはお安い御用だが――理由を聞かせてくれるか」
「それは――お答えできません。グレンヴィル様には此度の件で多大なお迷惑をおかけしましたゆえ、大変心苦しゅうございますが」
「怪盗の首魁――隻眼の男を追うつもりか。あの男、オクリーヴ一族の人間だな」
パメラの沈黙が、マーシャの言葉が正しいことを雄弁に物語る。
マーシャは先ほどの戦闘で怪盗たちが見せた技から、「影法師」がオクリーヴの一族となんらかの関わりがあるという、確信に近い思いを抱いていた。
そう考えれば、サディアスが怪盗の首魁と一対一で戦うことを望んだ理由も、おぼろげではあるが理解できる。
「詳しくは聞かぬが――それは、ミネルヴァ様にも語れぬことなのか?」
ここでもまたパメラは口をつぐんだ。
「ミネルヴァ様を巻き込みたくない、そういうことか」
パメラは小さく頷いた。
ミネルヴァの関知せぬところで、ことを片付けてしまいたいというパメラの気持ちもマーシャには理解できる。
何しろ油断のならぬ相手であるし、たとえばサディアスが警備部の詰め所に忍び込んだように、怪盗を追うために非合法な手段をとらざるを得なくなる場合も考えられる。ミネルヴァを関わらせたくないのも当然のことだ。
マーシャは眉根を寄せて考える。これは確かミネルヴァとパメラ二人の問題である。しかし、あのミネルヴァの独白――パメラと友になりたいというミネルヴァの胸中を知ってしまった以上、このままパメラを行かせるべきではないという気持ちが、マーシャの胸中には生じていた。
「しかしパメラ、ミネルヴァ様のお気持ちも考えたのか? もし、後になってミネルヴァ様がこのことを知ったなら、きっと悲しまれることだろう」
「かもしれません。しかし、それでもお嬢様の御身の安全がなによりも大事です。あのお優しいお方のこと、知れば必ず私をひとりで行かせようとしますまい」
「まったく、その通りですわよ」
診療所のドアは開くとともに、凛とした声が早朝の路地に響き渡った。
「ミネルヴァ様……!」
パメラが絶句する。まさか、ミネルヴァが話を立ち聞きしているとは思わなかったのだ。しかも、自分に気取られることなく、である。
「ミネルヴァ様を侮ったな、パメラ」
マーシャがにやりと笑う。
この頃のミネルヴァは、対戦する相手の「意」に敏感になったということは、前述した。同時に、彼女は自らの発する「意」というものをある程度制御できるようになっている。自らの「意」を消すということは、また気配を消すことにも通じることなのである。
診療所の壁近くに立っていたマーシャには、距離があるパメラよりも建物内部の物音が聞こえやすい。なので、少し前からミネルヴァの気配に気づいていた。気づいたうえで、パメラとの会話を続けていたのだ。
パメラがミネルヴァの接近に気づかなかったのは、彼女としては実に珍しいことだが――マーシャとの会話に気を取られていたこともあろう。
「私が先生を連れてサディアスの部屋に戻ったとき――パメラ、あなたは何かに苦しんでいた。平静を装ったつもりだったのでしょうけど、私にだってそのくらいのことはわかりましたわ」
ミネルヴァの言葉に、パメラは目を伏せる。
「パメラ、こちらを向きなさい」
うつむくパメラに、ミネルヴァは鋭い口調で命令した。そんなパメラの両眼をしっかりと見据える。
「あなたにとって、私はそれほど頼りない主ですか」
「いいえ、決してそのようなつもりでは――私はただ、お嬢様の安全が――」
パメラの歯切れは悪い。
「いえ――言葉を変えましょう。パメラ、あなたは私を頼ってくれないのですか」
「お嬢様……」
ミネルヴァはパメラに歩み寄ると、その両肩をしっかりと掴んで引き寄せた。
「パメラ、あなたは覚えているかしら――あなたを私の家臣にすると決めたとき、私が誓ったことを」
ミネルヴァの言葉に、パメラの両眼は見開かれた。その目尻に、うっすらと涙が浮かぶのを、マーシャは見た。
「お嬢様――忘れるはずもございませぬ。お嬢様のほうこそ、お忘れになっているものかと――」
「苦しいことも、悲しいことも、辛いことも――すべて私が背負ってあげます。その誓いを果たすべく、私はここまで努力を重ねてきましたわ」
剣術のみならず、学問や舞踏に音楽、礼法にいたるまで、ミネルヴァは己を高めるための努力を惜しまない。それは、すべてパメラとの誓いを果たすためだったとミネルヴァは言う。
「確かに、いまの私にはまだ、パメラの苦難を背負って歩く力はないかもしれません。でも、その苦しみの一部を分かち合うことくらいならできるつもりですわ」
そう言うと、ミネルヴァはパメラを優しく抱擁した。
「お嬢様――申し訳、ございません――」
パメラの頬に、一筋の涙が流れる。
しばらくして、パメラはミネルヴァから身体を離すと、その場に跪いた。
「お嬢様――やはりあなたこそ、私が仕えるべき主。もし、此度の独断専行をお許しいただけるのなら、改めて私めをお嬢様の家臣にお加えくださいませ」
「当然ですわ」
ミネルヴァはパメラの手を引き立ち上がらせると、ふたたびその身体を抱擁する。
マーシャは二人を気遣い、少し距離を取ってそのやり取りを傍観していた。会話の内容は聞き取れなかった――いや、あえて聞こうともしなかったが、二人の様子からは以前にもまして強い絆が感じられる。
(なにがあったのかはわからぬが――パメラの「友」になりたいというミネルヴァ様の望みも、一歩二歩前進したようだ)
と、マーシャは微笑を浮かべるのだった。
それは、十年前のことだ。
当時パメラは十歳、ミネルヴァは七歳。フォーサイス家の所領であるエージルでの出来事だった。
パメラはエージル領内のトーガ村で修行に明け暮れる日々を送り、ミネルヴァはというと年の四分の三ほどを王都レンで暮らす生活であった。
そのとき、フォーサイス公爵家の一家は、揃ってエージルに帰還していた。
パメラは、当主腹心の部下であるサディアスの娘だ。なので、公爵一家が帰郷したさいには必ずその本宅に出向き、家族ともども挨拶をする。ミネルヴァとは歳が近い同性ということもあり、たびたび遊び相手を務めるという間柄だった。
この帰郷に際しても、パメラはフォーサイスの屋敷に出向き、ミネルヴァとともに過ごしていたのだが――その様子がおかしいことに、ミネルヴァは気づいた。
「パメラ、今日はどうしたの? なんだか元気がないみたい」
「申し訳ありません、お嬢様。でも、なんでもないのです」
と、パメラは微笑んだ。
「うそ。だってさっきからパメラ、泣いてるみたいな顔してる」
パメラの感情を殺す技術が未熟だったのか、それとも幼いミネルヴァの洞察力が優れていたのか――ともかく、パメラはその内心を見抜かれていた。
確かに、このときのパメラは、泣きじゃくりたくなるほどの苦悩に苛まれていたのである。
「わたしでよければ、話してみない?」
無邪気に言うミネルヴァであったが、パメラは口を開かない。
「困ったわ――ここままでは、お父様に叱られてしまいます。ミネルヴァは、苦しんでいる人間に対してなにも力になれなかったのか、って」
本気の困り顔を見せらえては、パメラも話さないわけにはいかなくなってしまった。
パメラの中に、誰かに自分の心情を吐露したいという気持ちがあったことも否定できぬ。一族の教えに従い、常に冷静に、感情を乱さぬようにと訓練してきたパメラであるけれども、彼女の中に積もった懊悩は、自身では抱えきれないほど大きくなってしまっていた。
そこへ、ミネルヴァの言葉である。
「実は、とある男――一族の人間を傷つけてしまったかもしれないのです」
つい、ぽろりと口にした。
「けがをさせたの?」
「そうではありません――傷つけたのはこころ、矜持というものでしょうか」
「きょうじ……誇りのことかしら」
パメラが頷く。
「パメラは十歳なのに難しい言葉を使うのね――でもそれなら、誤って仲直りすればいいわ」
「いえ、お嬢様――それはできないのです」
「どうして?」
「その相手は、もう亡くなってしまったのです」
「うーん、それは難しい問題ね」
ミネルヴァが、そのあどけない顔の眉間に皺を寄せた。唇に人差し指を当てて考え込む仕草は大変に可愛らしく、傍目から見ればほほえましい光景であろう。しかし、このときのパメラにはミネルヴァの様子にこころ和ませる余裕はなかった。
「実は……そのことのみならば、私は思い悩んだりはしませんでした」
密偵の世界では、誇りなどというものはなんの役にも立たぬ。オクリーヴの人間同士ならば、矜持を傷つける、もしくは傷つけられるという行為に対して一切感情的になる必要はない。そう教えられる。
「――その男が、矜持を傷つけられたことがもとで、さらに多くの人を傷つけててしまったかもしれないのです」
「多くの人を傷つけた? 誇りを?」
「いえ――こちらはこころのほうではありません。物理的に、直接的に――つまり、殺害してしまったのです」
「さつがい――殺してしまったの?」
パメラは重々しく頷く。
「どうして……」
矜持を傷つけられたことと、それが原因で多数の人間を殺害することとの因果関係が掴めぬミネルヴァであるが、これは仕方あるまい。パメラの物言いはどこまでも具体性に欠けており、相手が大人だったとしてもこの説明だけで理解せよというほうが無茶である。
ともあれ、多数の人間が死んだというのは、幼いミネルヴァにとっては衝撃的な事実であろう。その表情は青ざめ、瞳は誰かに助けを求めるかのように揺れ動いている。
「っ! 申し訳ございません、お嬢様――」
水をかけらたように、パメラの思考が一瞬にして醒めた。
相手はわずか七歳の少女である。しかも、主家の令嬢だ。ミネルヴァのほうから請うたこととはいえ、血なまぐさい話を聞かせてよいわけがない。
今更ながらにそのことに気付いたパメラの頭からは、血の気が引いていた。
しかし、いくらオクリーヴの修行を受けている身とはいえ、パメラにしても十歳の少女である。精神的に問題を抱えていることもあるため、決して彼女を責められないだろう。
ミネルヴァを怖がらせてしまったことに対し、どうすればよいのか――パメラの口からは、とっさに言葉が出てこない。
「パメラ」
ミネルヴァが先に口を開いた。震えは残っているものの、凛として芯の通った声音である。
「お、お嬢様……」
「パメラ、お聞きなさい。誇りを傷つけられたからといって、ほかの人を殺すことなんて許されません。多くの人が殺されたのは、その男が悪いのであって、あなたが悪いわけではないわ。ちがいますか」
パメラの言葉が真実ならば、何人もの人間が殺害されたことに、間接的には彼女にも責任があるかもしれない。しかし、その責はあくまでも殺害犯ひとりが負うべきものである。幼さゆえに言葉は足りないが、ミネルヴァの言わんとするのはそんなところだろう。
「し、しかし……」
間接的な責任というものは、言ってしまえばほとんど無関係である。しかし、そう簡単に割り切れぬのが人間である。ことがことだけに、なおさらだろう。
「それでも、あなたが苦しむのだとしたら――そうね、パメラ、わたしの家来におなりなさいな」
「お嬢様、それは……?」
「お父様がおっしゃっていたわ。領主とは、家臣の、そして民の苦しみも悲しみも、すべて代わりに背負って立たなければならないって」
いかにもギルバート・フォーサイスらしい言葉であろう。ミネルヴァは、なおも言葉を続ける。
「いまのわたしはお父様ほど大きくないし強くもないから、みんなの悩みをぜんぶ代わってあげることはできないけど――でも少し待ってて。もっと強くなって、パメラひとりの悩みくらいなら、背負ってあげられるようになるから」
まっすぐ自分を見つめるミネルヴァの瞳から、パメラは目を逸らせずにいた。父親同様、多くの人間を惹きつける力を、ミネルヴァは齢七歳の幼い身に備えていた。
そして、その言葉に、ミネルヴァは救われた気がした。
他者の悩みを肩代わりするなど、まさに言うは易し行うは難しであろう。ミネルヴァの言葉も、幼さゆえの安易な慰めとも取れる。
しかし――相手は誰でもいい。誰かに赦されること、それが、十歳のパメラにとっては一番必要なことだったのである。
パメラのこころに蟠っていたものが、一瞬にして霧消した。
そしてパメラは確信する。この少女こそが、自らの身を捧げるべき主であるということを。
「光栄にございます、お嬢様。パメラ・オクリーヴは、お嬢様にこの命を捧げ、一生忠義を尽くすことを誓います」
パメラはその場に跪くと、深くこうべを垂れるのであった。
これは、マーシャ――いや、二人以外の誰一人として知らぬことである。
ミネルヴァはこの幼き日の誓いを果たすため、日々パメラにふさわしい主たらんと精進してきた。
一方のパメラも、この日抱いた想いを片時も忘れることなく、日々ミネルヴァの成長を見守ってきた。
サディアスさえも首をかしげるほどの二人の強い信頼関係は、こうして作られたのであった。




