三
それから三日ほど経った日のことである。
マーシャは、レン新市街の片隅にある、両替商『ギブスンズ』をおとなった。
『ギブスンズ』はフォーサイス家ゆかりの両替商で、マーシャが現在保有する私財のほとんどが預けられている。『ギブスンズ』はその金を運用し、得られた利益がマーシャに渡される仕組みだ。
マーシャの現役時代は短いけれども、国の頂点を極めただけあって、その年収は一般市民の十倍以上にのぼった。さりとて、当時のマーシャは剣のことしか頭になかったのだから、稼ぎ出した金はほとんどが手付かずであった。その収入のほとんどを、マーシャは『ギブスンズ』に預けているのだ。
「蜃気楼」での不祥事があって一線を退いたのちも、無駄遣いといったら酒くらいのマーシャである。桜蓮荘の家賃収入もあるため、『ギブスンズ』から金を引き出すことは少ない。
また、マーシャは『ギブスンズ』を介して定期的に孤児院や慈善事業への寄付を行っているが、現在のシーラントの好景気というのは凄まじいものだ。預けた金の運用益が寄付金の額を上回り、何もしなくてもどんどん金が増えていく。
使い切れぬ金を抱えていても仕方がない。この日マーシャは、寄付金の増額を依頼するために『ギブスンズ』を訪ねたのだ。
一時は、いっそのこと金の大半を寄付してしまおうとも考えたマーシャであったが――今のマーシャにはヴァート・フェイロンという存在があった。遠い北の地で修行に励んでいるであろうヴァートが、将来的にまとまった金を必要とするときが来るかも知れぬ。たとえばヴァートが武術家の道へ進み、自らの道場を持とうとするならば、相応の金が必要となるだろう。それを考えると、ある程度の金額は手元に残しておきたい。
(まあ――その前に、ヴァートは片付けなければならぬことがあるのだが。将来のことを考えるのは、いささか気が早いかも知れぬ)
ヴァートが平穏に暮らしていくために、解決しなければならない問題は山積みである。
(これが親の気持ちというものだろうか)
ヴァートのことを考えるとき、マーシャの口元にはいつも優しげな笑みが浮かぶのだ。
『ギブスンズ』からの帰り道のことだ。とある四つ辻で、マーシャの足が止まる。
「そういえば、バーグマン殿の道場はここを曲がった先だったか」
オネガ流の技を用い、幾人もの命を奪ったグレン・ウェンライトを、アイが成敗したのが秋のことだ。その際、グレンをおびき寄せるために、マーシャは開業前の道場を借り受けた。それが、バーグマン道場だ。
道場の認可が下りるのを阻んでいたファーガス・ドレイクは、既にこの世にない。バーグマンも無事道場を開業できたとマーシャは聞き及んでいる。
「そういえば、あの一件以来、挨拶のひとつもしていなかったか」
と、マーシャはバーグマン道場に足を向けた。途中の酒屋でそれなりに値の張るウイスキーを二本買い、手土産にする。
バーグマン道場から発せられた剣戟の音と気合声は、数軒先まで響き渡っている。中を覗かずとも、その盛況ぶりが察せられよう。
バーグマンは気さくで面倒見がよく、多くの後進から慕われていた男だ。なにより、腕前が優れている。三大賜杯である建国記念杯で四強入りが二度、マルグリット杯で準優勝一回という実績を持つ、確かな実力者である。道場の成功は、約束されていたようなものだ。
マーシャは道場の門をくぐると、庭の掃除をしていた老僕に姓名を名乗り、取次ぎを頼む。
ややしばらくして、バーグマン本人が玄関口に現れ、マーシャを迎え入れた。
「ご無沙汰をしております、バーグマン殿。その節は大変お世話になりました」
「いや、正直、助かったのはこちらのほうだ。道場を貸すだけのことで、一日あたり金貨三枚だからなぁ。少々貰いすぎたと思っていたくらいだ」
バーグマンは快活に笑う。
「さあ。立ち話もなんだ。上がってくれ」
マーシャの先に立ち、廊下を歩くバーグマンだったが、なぜか左足を引きずるようにしている。
「バーグマン殿、お怪我をされたのか」
応接室にて腰を落ち着けたのち、マーシャは尋ねてみた。
「ああ。一ヶ月ほどは安静にしろと医者に言われているよ」
「なんと……」
マーシャには、かけるべき言葉が見当たらない。
なにしろ、バーグマン道場は開業して間もない。そんな時期に、主が稽古の場に立てないというのはなんとも格好がつかぬ話である。バーグマンとしても、やりきれないだろう。
「その左足、いったいどうされたのですか」
遠慮がちな口調で、マーシャが尋ねた。
「……まあ、隠さねばならぬことでもなし。それに――少々不可解なことが起きたのでな。ちょうどいい、グレンヴィルの意見も聞いてみたい」
バーグマンが負傷したのは、二日前のこと。
その日の夜、バーグマンは独り酒場に繰り出した。この道場に移り住んでからというもの、行きつけとしている酒場だ。
「たびたび顔を合わせる常連客で、ドネリーという男がいる。俺と同じくらいの年頃なはずだ」
ドネリーは、武具類の蒐集家であった。とはいえ、本人に武術の嗜みはなく、珍しい武器を買い集めてはそれを鑑賞するのを楽しみとするのだとか。
「あの夜、ドネリーはその日買ったばかりだという剣を酒場に持ち込んでいた。ドネリーという男は、手に入れた武器を見せびらかすというか――誰かに武器を見せながら、ああだこうだと薀蓄を垂れるのが好きな男でな。過去にも何度か同じようなことがあったんだが――」
ドネリーは件の剣を鞘から引き抜くと、隣の卓に座っていたバーグマンに対し、剣の謂われなどを語りだしたのだという。
人の集まる酒場で、真剣を抜くというのはあまり行儀のいいことではない。しかし、ドネリーが店内で武具自慢をするのはこれが初めてではなかったし、咎め立てする者もいなかった。
「はじめは、またいつものことか、と思って聞き流していたのだが――だんだんと、ドネリーの様子がおかしくなってきたのだ」
「おかしい、といいますと」
「目つきがこう、据わってきたというか――ろれつは怪しくなり、剣を持つ手もぶるぶると震えだした」
「酒が回ってきたのではないですか?」
「いや、薀蓄を語りだしてから、ドネリーはほとんど酒に手をつけていなかったはずだ。それに、奴は相当な酒豪だ。ちょっとやそっとの酒ではああはならん」
「ほう。それで……」
「ドネリーが、突如けたたましい笑い声を上げた。まるで気が触れてしまったかのような――いや、今思えば、実際頭が狂ってしまっていたのだろう。奴は、ぎらついた眼で俺を見ると、いきなり斬りかかってきたのだ」
そこは、歴戦の武術家であるバーグマンだ。とっさにぱっと跳び退って、ドネリーの一撃を回避した。
「危ないところだった。なんせ、俺の座っていた椅子が、真っ二つに切り割られてしまったのだからな」
もしも、ドネリーの隣に座っていたのがバーグマンでなかったなら、凄惨な事態となったことだろう。
「初撃を避けた俺に対し、ドネリーはなおも剣を向けてきた。止せ、と叫んだものの、ドネリーはまるで聞く耳をもたぬ。周りの客たちに被害が及ばぬうちに、取り押さえねばならんと思ったのだが……ことはそう簡単ではなかった」
バーグマンは、輝かしい実績を残した武術家だ。そして、相手は武術の心得のない一般人である。たとえ真剣を手にしたとて、バーグマンに制圧できないはずはない。
ところが、である。
「ドネリーは尋常ではなかった。型もなにもない、滅茶苦茶な動きではあったが――とにかく剛く、速かったのだ。人間離れしているといってもいいくらいだった。加えて、その剣の切れ味だ。そうだな、このテーブルを見てくれ」
バーグマンは、応接室のテーブルを指し示す。厚手の木材でできた、どっしりとしたつくりだ。
「あの酒場のテーブルも、これと似たようなものだったが――バーグマンの剣は、それをまるでバターかなにかのようにいとも簡単に切り裂いたのだ」
防具をつけて酒場に行く愚か者などいないだろう。いかにバーグマンとて、一撃喰らってしまえば終わりである。
バーグマンは、混乱し酒場のドアに殺到するほかの客たちを背にかばうと、とうとう自分の腰から剣を抜いた。
「ずぶの素人相手に、恥ずかしい話ではあるのだが――無手でどうにかなる相手ではなかった」
バーグマンが剣を抜いても、ドネリーはまるで怯む様子を見せなかったという。猛り狂った獣のごとく、バーグマンに斬りかかる。
「実際奴の剣を受けると、その腕力は想像以上だった。俺はあの『剛剣崩山』アシュビーと何度も戦ったが、ドネリーの力はそれ以上だった」
ブライアン・アシュビー。バーグマンと同世代の武術家で、国王から二つ名を与えられた剣豪である。山をも崩すとの二つ名が示すとおり、人並み外れた膂力から繰り出される剛剣で、数多の武術家を圧倒してきた。そんな男と比較されるほど、ドネリーの力は凄まじかったのだ。
「腕や足の一本で済ませられれば、とも考えていたが、甘かった。ドネリーは、まるで子供の喧嘩のように剣を振り回すだけだったが、易々と間合いに入ることもできん。ほかの客たちを逃がしながら戦ううち、とうとう左の腿に一撃もらってしまった」
「なるほど、それが……」
「俺も、死を覚悟したよ。しかし幸運なことに、奴が振り回した剣が、酒場の太い柱に食い込んで抜けなくなったのだ。その隙に、俺は奴の心臓を貫いた」
バーグマンの表情からは、自責の念がありありと見て取れた。初めて人を手にかけたときの気持ちは、マーシャも重々承知している。
バーグマンは、殺人の容疑で一応は警備部の調べを受けたけれども、ことが正当防衛であるのは明白であった。酒場の客による多数の確かな証言もある。バーグマンはほどなく釈放されたという。
「……とまあ、そんなわけだ。それでだ。不可思議なことと言ったのは、ドネリーの様変わりについてだ」
「突如気が触れたようになって、襲い掛かってきたことですか」
「それも解せんことではある。しかし、俺は人の精神のはたらきについては門外漢だ。病気かなにかで、突然頭がおかしくなるということもあるかもしれんしな。気になったのは、奴が見せた不自然なほどの凄まじい力についてだ」
武術家の眼から見て、明らかに異常なドネリーの力。バーグマンにとって不可解なのは、そこだった。
「木剣を振ったこともないような男が、突如俺をも圧倒するほどの力を発揮する――グレンヴィル、果たしてそんなことがあり得るのだろうか。いや、自分の身で体験したことではあるんだが、今でも信じられんのだ」
「ふむ……そのドネリーとやら、もともと体力のある男だったのですか」
「いや、それはない。なにせ、不摂生が服を着て歩いているような男だったからな。家の階段を登るだけで汗だくになってしまう、などと本人が言っていたほどだ」
「ううむ……特定の薬物によって、身体の機能を一時的に引き上げる術があるという話は聞いたことがありますが、そこまで極端な効果はないはずです」
春にマーシャが成敗した通り魔。あの男は、麻薬「キラート」の服用により、身体能力を向上させていた。しかし、階段を登るのも難儀するような男が歴戦のつわものを圧倒する――いくら「キラート」とて、そこまでの薬効はない。
「やはり、グレンヴィルもそう思うか。そうなると――『魂喰らう魔性の剣』か。ドネリーの言葉も、あながち出鱈目ではなかったのかもなぁ」
嘆息とともに発せられたバーグマンの言葉に、マーシャははっとした。
つい先ごろ、心中で死んだバックスの口から、まったく同じ文言を聞いている。
「バーグマン殿、『魂喰らう魔性の剣』とは?」
「ん? ああ、あの夜ドネリーの奴が持っていた剣というのが、そんないわくのあるものだったらしい。馬鹿馬鹿しいと思っていたが、奴の豹変ぶりを見るに、あるいは本物の魔剣だったのかもしれん……どうした、怖い顔をして」
覚えず、マーシャの表情は強張った。
ごくごく当たり前の体力しかなかったはずのバックスが、妻女の胴体を両断したという事件。バーグマンが語った話の内容と、合致するところが多い。
「ドネリーが、どこでその剣を手に入れたのかお聞きになりましたか」
「ええと、確か、なじみの古物商から買ったとか。なんといったかな、その古物商――」
「バックスと言いませんでしたか」
「おお、そのバックスだ。どうしてわかったのだ」
「いえ、バックスは私の知己でして。そのような触れ込みの剣を取り扱っていたのを思い出したのです」
マーシャは、バックスが不審な死を遂げたことは話さなかった。
「ほう、意外な縁があったものだな」
「……長居をしてしまったようですね。私はそろそろお暇いたします。ご自愛ください、バーグマン殿」
言い置くと、バーグマンが引き止める間もなく、マーシャは席を立った。
気がかりなことがある。バーグマン道場を出たマーシャは、早足で歩き始めた。