三
翌々日のことである。
この日マーシャは、自らの師であるマイカ・ローウェルに会うべく、朝からヴァートを伴いレン郊外のローウェル道場を訪ねた。
マーシャがマイカと面談する間、ヴァートはすっかり顔なじみとなったローウェル道場の門下生たちとともに汗を流し、昼餉をご馳走になったのちローウェル道場を辞した。
いくつかの買い物を済ませつつ、桜連荘のすぐそばまで帰り着いたふたりだったが――不意にマーシャの足が止まった。
「どうしたんですか、先生」
「いや……ほれ、なにやら怪しげな男がだな」
マーシャの視線の先には、たしかに怪しい人影があった。桜蓮荘の門の前を行き来しつつ、時おり門の中をちらりと覗き見したりしている。目深に帽子をかぶっているため、遠目からはその人物の顔かたちを見極めることはできない。
「……? なんなんでしょうか」
桜蓮荘に用事があるのだが、なにか入ることがためらわれる事情がある。ヴァートには、男がそんなふうに見えた。
似たような動きをする人たちを、ヴァートは見たことがある。マイカの実子、アイザックが命を狙われた一件で、とある娼館に用心棒として潜り込んだときのことだ。そういった店に入るのが初めての客は、決まって今桜蓮荘の前にいる男と同じような動きをするのだ。娼館に入りたいのだが、入る勇気が持てず門をくぐる踏ん切りがつかないという状態である。
「とにかく、声をかけてみることにしよう」
マーシャは大股で男に歩み寄ると、にっこり笑って声をかけた。
「もし、そこのお人。うちになにか御用ですか――む、あなたは?」
不意に声をかけられた男は、一瞬動きを止めた。そして、のそのそとした動きで帽子を取るとマーシャに向き合った。
「久しいな、グレンヴィル」
男は、ヴィンス・リゲルであった。これには、ヴァートも驚きを隠せない。
「これは、リゲル殿――お久しゅうございます。して、いったいどうしてここへ?」
「うむ……実は、そちらのヴァート・フェイロンに用があってな」
リゲルはそう言ってヴァートに視線を向ける。
「この間はエリオット様が失礼をしたな。ずっと本国のお屋敷で育ったお方ゆえ、ああいった場での振舞いに慣れていらっしゃらないのだ」
「いえ、それは別に気にしていませんけど……」
「しかし、わざわざそれだけのことを謝罪しにいらしたというわけではないのでしょう?」
「うむ。どうしても確かめたいことがあったゆえ、武術局の伝手を頼ってこの住所を探り出したのだ」
大会の申し込みの際、ヴァートは桜蓮荘の番地を現住所として記入している。リゲルは、それを頼りにここへやって来たということだろう。
「ともかく、立ち話もなんでしょうから、中にお入りください。というより、中でお待ちくださればよかったものを」
「いや、その……敵情視察に訪れたと思われるかもしれんからな。なんともばつが悪く、入りづらかったのだ」
高名な武術家であるリゲルが、弟子のためにわざわざ対戦相手の偵察に来る――たしかに、体裁が悪い話である。しかし、リゲルの口ぶりからするに、彼の目的は違うらしい。
マーシャはリゲルを先導し、中庭にしつらえられたテーブルへと案内した。ニレの若木が枝葉を伸ばし、テーブルの上に木陰を作っている。夏場は、桜蓮荘の室内よりもこの木陰のほうが過ごしやすいのだ。
「いま、茶の準備をさせますゆえ、少々お待ちを」
「いや、それには及ばぬ。用件はすぐ済むのでな」
と、リゲルはマーシャの後ろに控えるヴァートをじっと見つめた。
「単刀直入に聞く。ヴァート・フェイロン、シーヴァー・ナイトという人物に心当たりはないか」
ヴァートの両眼が見開かれる。心当たりもなにも、シーヴァー・ナイトといえば今は亡きヴァートの実父である。
「俺は、お前がナイト殿の血縁すじに当たるのではないかと思っているのだが」
しかし、リゲルの質問に馬鹿正直に答えることはできない。ヴァートがシーヴァーの子であることは、表向きには伏せられているからだ。
ヴァートの出生の秘密が広まれば、ことによってはシアーズ家のお家騒動にも発展しかねない。それだけに、この話題は慎重に扱わねばならぬ。
問題なのは、ヴァートが内心の動揺を顔に出してしまったことだ。優れた武術家であるリゲルが、それを見逃すはずもないだろう。
しまった、どう誤魔化したものかと思いつつ、ヴァートは視線でもってマーシャに助けを求めた。
「ヴァート、リゲル殿は信頼のおける立派なお方。みだりに秘密を漏らしたりはするまい――まあ、話すかどうかはお前自身で判断することだ」
マーシャが、そう耳打ちする。
ヴァートはリゲルの表情を窺う。リゲルのまなざしは真剣そのもので、一片の悪心も感じられぬ。
しばしの黙考のすえ、ヴァートは決を下した。
「……これからお話しすることは他言無用に願えますか」
「よほどの事情があるようだな――わかった、このヴィンス・リゲル、国王陛下より賜りし『幻影之剣』の名にかけて、必ず秘密を守ると誓おう」
「ありがとうございます。それで――シーヴァー・ナイツはたしかに俺の父です。今は理由あってヴァート・フェイロンを名乗っているんですが」
「……なるほど。いったいどういう仔細か、聞いてよいだろうか」
「申し訳ありませんが……それはお話できません」
「ふむ……お父上はご健在か」
「……いいえ、四年ほど前に不慮の事故で」
「そうか、惜しい人を亡くしたな」
しばしの沈黙ののち、今度はヴァートがリゲルに質問を投げかけた。
「リゲルさん、どうして俺がシーヴァー・ナイトの血縁だとわかったんですか」
リゲルの質問にろくに答えなかった自分が、逆に質問するというのはいささか失礼にも思える。しかしヴァートは、どうしてもこれだけは聞いておきたかったのである。
「何を言う。今のお前の顔かたちは、まさに若かりしころのナイツ殿そのままだ。違うのは、そうさな――瞳の色くらいなものだ」
「何度か言われたことはありますが、それほど似ていますか。でも、ということは――若いころの父をご存知で?」
リゲルは頷いた。そして、ヴァートが聞くまでもなく、シーヴァーとの出会いについて語りだしたのである。
「あれは、俺がまだ二十三歳だったころのことだ。俺は先代当主、サミュエル様――エリオット様の祖父にあたるお方だ――の命により、諸方を回って剣の腕前を磨いていた。いわゆる、武者修行の旅というやつだな。その途中、アトリード領に立ち寄ったのだ」
アトリード領といえば、ライサ島にあって、ヴァートの実母クローディアの生家であるシアーズ家が治める地だ。シーヴァーもアトリードにて生まれ育ったとヴァートは聞き及んでいる。
「当時のシアーズ家ご当主、アンドレアス殿のご厚意により、俺はシアーズ家の邸宅に逗留させていただくことになった」
シアーズ家も、フラムスティード家ほどではないにせよ、武術の振興には力を入れてきた家柄だ。フラムスティード家お抱えの剣士が自領にやって来たとなれば、領主がその剣士を屋敷に招くというのも当然のなりゆきであろう。
そこで、リゲルとシーヴァーは出会った。
「たしか、歳は俺のひとつ上だったはずだ。その若さでシアーズ家の指南役に抜擢されたというのだから、驚いたものだ。なにしろ、俺と違って二枚目だったということもあってなぁ。正直なところ、世渡りの上手さでアンドレアス殿に取り入ったのではないかと思ったよ――いや、これは失言だったな。気を悪くしたのならすまん」
「いえ、お気になさらず」
ともかく、リゲルの抱いた疑念は、すぐさま打ち砕かれることになる。
「シアーズ家に滞在した十日間の間、ナイト殿とは九度手合わせをし、俺は辛うじて二本を取るのが精一杯だった。まず、完敗といっていいだろう」
まだ若かったころのこととはいえ、のちに国王から二つ名を授けられることになるほどの男相手に、七勝二敗というのは生半のことではない。シアーズ家の元侍従、ダンカンからもシーヴァーの腕前のほどは聞き及んでいるけれども、ヴァートは驚愕を禁じえなかった。
「とにかく、一つ一つの型、基本というものが完璧といっていいほどに整った剣士だった。俺も、ナイト殿との立会いで、自らの未熟を思い知らされたよ」
と、リゲルはしみじみ語る。
「その後、二度とナイト殿とお会いすることはなかったが……あれほどの腕前を持つお方が早くに亡くなられたとは……いや、実に惜しい」
国内屈指の大剣豪にここまで言われ、ヴァートも誇らしい気分である。わずかに頬を緩ませたヴァートの頭に、マーシャがぽんと手を置いた。
「いまひとつだけ聞かせてくれ。ヴァート・フェイロン、お前はやはりシーヴァー殿に剣の教えを?」
「はい。でも、父が亡くなったのちは、こちらの先生――もとい、マーシャ・グレンヴィル、そしてラルフ・ハミルトンに師事しました」
ヴァートの言葉に、リゲルは眼を丸くする。
「これはつくづく不思議な縁よ。ハミルトン殿も、結局俺が雪辱を果たせぬまま表舞台を去ってしまったお人だ」
リゲルとハミルトンが、好敵手として数々の激闘を繰り広げたのは前述のとおりだが――二人が最後に戦ったのは、三大賜杯のなかでも至高とされる、トランヴァル杯の決勝戦においてである。「シーラント武術史にも類を見ないほどの」、とまで言われた大激戦のすえ、紙一重の勝利を収めたのがハミルトンであった。これは、のちにヴァートがファイナから聞いたことである。
トランヴァル杯ののち、ハミルトンは北の寒村・エディーンでの隠棲生活に入ってしまい、ふたりの再戦はかなわなかった。
「実に面白い。代理戦争を気取るつもりはないが、ナイト殿の子で、ハミルトン殿の直弟子が、俺の愛弟子の前に立ちはだかろうとはな――しかし、今度ばかりは勝たせてもらうぞ」
リゲルが不適に笑う。
「ほう。よほどの自信がおありのようですな、リゲル殿」
「ああ。師匠である俺が言うのもなんだが、エリオット様は天賦の才をお持ちだ。いずれは、この俺をも遥かに超える剣士になるだろうと思っている」
自信たっぷりに言い放つリゲルの言葉に、ヴァートの闘志は俄然燃え上がった。
「でも、俺だって負けるつもりはありませんよ。父や、ハミルトン師匠、そしてマーシャ先生に教わった剣はやわじゃないですから」
気合も露に、ヴァートはリゲルを睨みつける。リゲルもまた、ヴァートの視線をしっかと受け止める。数秒の沈黙ののち、リゲルは破顔した。
「ハッハッハ、いい眼だ。そうこなくては面白くない。では――俺はこの辺で失礼する。ヴァート・フェイロン、大会を楽しみにしているぞ」
快活に笑いながら、リゲルは去っていくのだった。




