三
さて、アイザックが歴史の講釈を続ける間にも、レンの市街地は近づいていく。人通りも徐々に増え、そろそろ気を引き締めねば、と考えていたヴァートの目に、見知った人物の姿が入った。
「おはよう、ヴァート。夕べは大変だったようでござるな」
アイニッキ・ウェンライトがいつもの屈託のない笑顔で言った。
「アイさん? どうしてここに……」
「人通りの多い場所では、ヴァートひとりでは護衛が大変だろうと先生が仰ったゆえ。某が手伝いを買って出たのでござる」
「ヴァート君、そちらは?」
「お初にお目にかかりまする。某、アイニッキ・ウェンライトと申す者にござる。お父上――ローウェル師には日頃大変な厚意を賜っておりますれば、ご子息の危急に対し、微力ながら助力いたすべく馳せ参じた次第」
アイは胸の前で手を組み、自らの流派であるオネガ流の作法で一礼した。
「おお、あなたがあのケヴィン・ウェンライト殿の――いや、父から話はよく聞いておりますよ。その若さでありながら、オネガ流を極めた当千のつわものであるとか」
「勿体無いお言葉にござる。してヴァート、尾行などはされておらぬだろうな」
「はい、大丈夫だと思います。なんせこの見晴らしですから」
市街地が近づいているとはいえ、周囲にはまだ農地が多いし道はほぼ真っ直ぐな一本道だ。夜間ならともかく、朝ならばアイザックの長話を聞きながらでも尾行に気づかぬわけがない。
「うむ。それではローウェル殿、お供仕る」
「アイザックで構いませんよ。言ってみれば、あなたと私は従兄弟同士のようなものなのだから」
「わかりました、アイザック殿。では、参りましょうぞ」
三人はレン市街に入ると、予定通り馬車を拾い、王城に向かった。アイは御者台に座らせてもらって周囲を見渡し、ヴァートは座席でアイザックの隣に陣取る。
この日は恐れていた襲撃もなく、ヴァートはアイザックを無事王城まで送り届けたのだった。
「ヴァート、お手柄だったな。よくやったぞ」
マーシャ・グレンヴィルは、珍しく早起きで――とは言っても、普通の勤め人ならばアイザック同様とっくに出勤している時間であるが――桜蓮荘に戻ったヴァートとアイを出迎えた。
「おおよその話はエドの部下から聞いているが――お前の口から、詳しく話しておくれ」
ヴァートはできるだけ詳細に、昨晩の一件について語った。
「やくざ者が雇ったごろつき、か。とりあえずは、その程度の相手で幸運だったな」
ルーク・サリンジャーの事件でヴァートを狙ったような、職業的暗殺者が相手なら、ことはそう簡単にすまなかったはずである。
「しかし、なぜザックが狙われたのか」
その件については、前日ローウェル道場でも議論がなされた。
まず、アイザックは人から恨まれるような人間ではない。加えて、女よりも書物のほうが恋しいという学問の虫である。人から金を借りたこともなければ、貸したこともない。怨恨や金銭問題が原因とは考えにくい。
次に考えられたは仕事関係だ。残念なことではあるが、王国に仕える者たちの中にも、不正や汚職を働く者は存在する。国家の中枢たる王城で働いているうちに、ときに本人がそれと知らぬまま不正の証拠を握ってしまう。そういったことは起こりうる――いや、実際に頻繁に起こっていることであり、王国が成立して以来、口封じのために殺された役人は数え切れぬ。
しかし、アイザックに言わせれば
「いや、うちの研究室に限ってはそんなことはあるまいよ。ほかの部署とはほとんど繋がりはないし、同じ王城内で働いていても、存在すら知らぬ者がほとんどという地味な役どころだしね」
とのことである。
研究室には資料集めのために予算が割り振られているが、それば国全体の支出からすれば無視して差し支えないほどの額だ。アイザックは管理職ではないから、予算を動かす権限もない。
「結局、これといった理由は思いつかなかったんですよね。でも、スタンリー一家のハーラン、だったかな。殺し屋の雇い主を捕まえてしまえば全部わかるんじゃないですか」
「さあ、どうだろうな」
「えっ? どういうことですか」
「そのハーランとやらが依頼主について吐くとは限らない、ということだよ」
「でも――いざとなったら昨日みたいに」
「いや、ヴァート。ハーランとやらは、そもそも依頼主について知らぬ、その可能性が高いということでござるよ」
「知らない――?」
「うむ。ああいった犯罪組織にとって一番まずいのは、末端の小物が捕まり、組織の内情を警備部に証言することで組織の上層部にまで捜査の手が伸びることだ。それを防ぐため、危険な仕事を請け負う場合は複数の人間を経由して命令がなされるのだ」
殺しのように重大な仕事を依頼された場合、ある程度の規模を持った犯罪組織ならば、幹部がその直下の部下へ命令し、命令を受けた部下がそのまた部下に命令し、というように何人もの人間を経由して実行犯に指令が送られる。
この場合、依頼人について詳しい情報を知るのはたいてい一定以上の立場にある人間だけである。今回の事件の場合ハーランは情報を知る立場にない可能性がない、ということだ。
「じゃあ、そのハーランって奴は、なにも知らないまま組織から切られるってことですか」
ヴァートは、憤懣やるかたなしといった表情である。たとえ悪党でも、仲間を切り捨てるような真似が許せないのだ。
「気持ちはわかるでござるよ。しかし――所謂蜥蜴の尻尾切り、というものは犯罪組織に限ったことではない。役人の世界にしても、商いの世界にしても、上司の失態の責を部下が取らされる、などということはよくあることでござる」
アイという人物は、亡師とともにさまざまな国、地域を旅してきた。数多くの人と出会い、数多くの経験をしてきた彼女は、世の中の綺麗な部分も汚い部分も知り尽くしている。子供と間違われるほど幼い顔立ちながらも、時として真理を突く発言をすることがある。
「じゃあ、ハーランを捕まえてもアイザックさんが安全になる、ってわけじゃないんですか」
「残念ながら、な。無論、警備部もそのことは承知しているだろう。これを機に、スタンリー一家の上層部に手を入れることも考えてはいるだろうが」
「差し出がましいことかもしれませんけど……僕たちにできることはないでしょうか」
アイザックはどこか飄々として掴みどころのないところはあるが、強い意志と理想を持った人物であることはヴァートにもわかった。マイカの息子ということを抜きにしても、どうにか助けたいと思う。
「某も同じ意見にござる。警備部を信じぬわけではござらんが、われわれが尽力することで少しでも解決が早まるならそれに越したことはない」
「私は最初から肩入れするつもりだったよ。それにしても――ヴァートは随分ザックのことを気に入ったとみえる」
「ちょっと変わってるけど、面白い人ですよね」
「ああ、まったくだ。しかし――ザックにエド、それにリックか。あの鼻たれ三人組も、いまや立派にそれぞれの道を歩んでいるのだから不思議なものだ」
アイザックから若かりしころのマーシャの話を聞いていたヴァートは、思わず苦笑を漏らす。
「ん? なんだ、その顔は。さては、ザックから私の悪口を聞いたのだろう」
「いえ、悪口なんて、そんなことは――」
「誤魔化さなくてもいい。ザックが喋りそうなことなど、大体想像がつくさ」
今度はマーシャが苦笑を漏らすのだった。
「さて……当面はザックの身辺を護ることだな」
命が狙われているとわかれば、警備部から人間を出してもらうこともできる。しかし、その役目をヴァートたちが負うならば、そのぶんの人員をスタンリー一家の捜査に割り振ることができる。
「なんでも大きな仕事――二、三日前どっかの貴族から大量の書物の寄贈があったとかで、研員総出で中身を改めなきゃならないそうです。アイザックさんも何日かは研究室にこもりっきりになるって話でした。その間は城に泊り込むって」
いくら身辺警護といっても、王城内においそれと部外者が立ち入れるわけではない。そもそも、王城内でアイザックの命が奪われるようなことになれば、これは王国の一大事である。
「城を出るときは桜蓮荘に使いを寄越すように申しておいたでござるよ」
「それでいい。あとは殺しを依頼したのが誰なのか、その動機はなんなのか。これが明らかにならぬ限り、アイザックに平穏は訪れない。さて、どうしたものかな」
「今の段階では、情報が足りぬでござるよ」
「パメラの手を借りられれば良かったのだが」
パメラ・オクリーブは表向きはミネルヴァ・フォーサイスお付きの侍女である。しかし、彼女の生家であるオクリーブ家は、代々フォーサイス家に仕える密偵の家系だ。パメラもまた幼少時から密偵としての訓練を受けており、情報収集は彼女の専門分野なのだ。
しかし現在、ミネルヴァは父である公爵ギルバート・フォーサイスに連れられ、フォーサイス家の所領であるエージルに赴いているところだ。当然ミネルヴァ専属の侍女であるパメラもその間レンを留守にすることになる。半月ほど向こうに滞在するとかで、レンに戻る日取りはまだはっきりとわかっていない。
「まあ、いない人間を当てにしても仕様がないな。ともかく、スタンリー一家について情報を集めねばなるまい」
しばし考えてから、マーシャがなにか閃いたようだ。
「ひとつ、心当たりが見つかった。ヴァート、一緒に来い」
レンという街は、もともと水運の中心地として栄えた商業都市だ。その歴史は古く、都市としての形が整ったのは、百六十年前の現王朝成立よりもさらに四百年は遡るという。
港を基点に広がったレンであるから、港湾部に近ければ近づくほど街の歴史は古くなる。
桜蓮荘のあるあたりから港方面――北に進むにつれ町並みがどんどん古びて行くのは、ヴァートの目にも明らかであった。
ヴァートがマーシャに連れられて向かったのは、レン港にほど近い場所にある、一軒の寂れた古美術商であった。
「先生、そろそろ行き先を教えてくださいよ」
「裏社会のことは、裏社会の人間に聞くのが一番さ」
マーシャがこれから訪ねるのはオーギュストといい、若くして犯罪結社アルマン党の大幹部にまで上り詰めた男なのだとか。もっとも、オーギュストとは組織内での呼称であり、本名がなんというのかはマーシャも知らぬ。
「どうしてそんな男と知り合いに?」
「まあ、少し前色々と、な。お前がエディーンの村で修行していた間のことだ。そのうち機会があれば話すとしよう――着いたぞ、ここだ」
曲がりくねった路地の先に店を構えているその古美術商は、一応営業中のようなのだが、通りに面したガラス窓にはカーテンが下ろされ中の様子は見えない。およそ商売に向いているとはいえない立地だし、店構えも小汚く、とても一見の客が足を踏み入れる気になるような店ではない。
「失礼するよ」
と、マーシャは店の扉を開いた。
店内は外装からヴァートが抱いた印象通り、暗く薄汚かった。申し訳程度に絵画や彫刻が飾られているが、被った埃の厚さから察するに、数年以上ずっと放置されているようだった。
「……なんだ、あんたか」
店番らしき陰気な男は、マーシャの顔を認めると顔をしかめる。歓迎はされていないようだ。
「オーギュストに用があるのだが」
「ちょっと待ってろ」
軽く舌打ちし、男は店の奥に消えて行く。程なくして戻ってきた男は、無言で奥に続く廊下を顎でしゃくった。入ってよし、ということなのだろう。
「邪魔するぞ――今日は武器を預けなくてもいいのかな?」
「あんたがその気になりゃ、武器を持っていようがいまいが大して変わらねぇ、と兄貴が仰せだ」
「高く評価されていると思っていいのかな」
「知るか。さっさと行け」
廊下の先には階段があり、ヴァートはマーシャに続いて三階まで上がった。
三階の一番奥の部屋で、マーシャはドアをノックした。
「入れ」
低い声が響く。マーシャはドアを開いた。
「久しぶりだな、オーギュスト」
「あんたのほうから俺を訪ねてくるとはな。どういう風の吹き回しだ」
三十代半ばと思われる、長身の男だった。顔立ちは整っており、身につけているものも瀟洒で様になっている。一見すると優男ふうだが、纏っている空気はさすがに堅気のもののそれではない。
「ちょっと聞きたいことがあってな」
「……まあいいだろう。あんたには恩義があるからな。それで、そっちの小僧は」
「これは私の弟子、ヴァート・フェイロンだ。今回尋ねたい件については私よりもむしろヴァートが当事者ゆえ、連れてきたというわけだ」
「まあいいだろう。本題に入ってくれ。俺はこれでも忙しいんだ」
「スタンリー一家のハーランという男を知っているか」
「知らんことはない。ドレン街のあたりを縄張りにするチンピラだな。そいつがどうかした」
「ハーランの口利きで、私の知り合いの命を狙った者がいるのだ」
そこで、マーシャはアイザック襲撃事件について語った。
「なるほどな。連中、最近暗殺者ギルドの評判がガタ落ちなのをいいことに、殺しの分野に手を広げようと躍起になってるらしい」
「暗殺者ギルドって、あの――」
「なんだ小僧、ギルドを知ってるのか。こんな小僧にまで存在を知られているようじゃ、確かにギルドは終わりかもしれんな」
「評判が落ちてるっていうのは?」
かつてギルドに命を狙われたヴァートとしては、興味を持つのも無理からぬことだ。
「ん? なんでも今年の春、素人数人を相手に三十人だかの人員を繰り出した挙句、返り討ちに遭った――そんな噂が裏じゃ流れてるのさ」
言うに及ばず、これはルーク・サリンジャーの一件のことだ。
ヴァートがマーシャの表情を覗うが、まるでそ知らぬ顔で微笑するのみである。
「まあ、ギルドが弱ったの機に、市場拡大を狙おうってことだろう」
「まるで人事のような台詞だが――アルマン党はやらぬのか?」
「殺しは割りに合わん。たしかに一件の実入りはでかいが、失敗でもしようものなら大赤字だ。その学者が襲われた件のことを考えてみろ」
捕えられた男は、ひとり金貨十枚で雇われたと証言しているから、スタンリー一家は金貨四十枚を費やしたことになる。依頼主からいくら支払われたのかは不明だが、確かに失敗したときの損害は大きいといえる。
「俺たちはこれでも商売に関しては堅実なのさ」
オーギュストは気障なしぐさで髪をかき上げつつ言った。
「話が逸れたな。ハーランだったか。今からそいつを探しても無駄だと思うぜ」
「無駄って……どうしてですか」
「デカい仕事をしくじったんだ。スタンリー一家の幹部連中が慈悲深い奴らなら、ハーランはすでにどこかに高飛びしていることだろう。しかし、奴らにやくざ者としての真っ当な職業意識ってものがあるのなら――今ごろハーランはレンの港に沈んでるだろうぜ」
失態の責任を取らせると同時に、秘密の漏洩を防ぐ。非合法の世界に生きる者にとっては、当然の処置であろう。
「ハーランに指示を与えた者が誰なのか、わからないか」
「――同業者を差すのは俺たちの業界じゃご法度なのを知っての質問か?」
「ああ。しかし、答えたくないというのなら無理強いする気はない。別を当たるさ」
オーギュストは、眉間に皺を寄せてしばし考え込んだ。そして口を開く。
「わかった、今回だけは特別だ」
「いいのか?」
マーシャが驚いた顔をする。駄目でもともと、くらいの気持ちでオーギュストを訪ねたのだ――のちに、マーシャはそう語っている。
「受けた借りを返さなけりゃ、いつまで経っても寝覚めが悪いままだからな」
「すまない。恩に着る」
「これで貸し借りなしってことだ。礼は要らん。それで――ハーランに命令できるとなりゃ、直上の幹部バーレットあたりだろう。無論、ほかの幹部がハーランを動かすこともあるだろうが、バーレットは荒事専門でのし上がった男だ。殺しの依頼がバーレットの受け持ちとなる可能性は高いだろう」
「その男の居場所は?」
「フェナー街の外れにある歓楽街で、傘下の娼館を転々としているらしい、という噂だ」
「なるほど……しかし、身内でもないのに随分詳しく知っているものだな」
「スタンリー一家と俺たちアルマン党は、今のところ対立しているわけじゃないが、仲良しこよしってわけでもない。いつなんどき戦争になってもいいように備えているだけだ」
「やくざ者の世界も、情報が命というわけだ。わかった、参考になった」
部屋を出て行こうとするマーシャの背中に、オーギュストが声をかける。
「バーレットはお頭のほうはちょいと足りないが、配下には三十からの荒くれ者を抱え、いざとなりゃ手段を選ばん男らしい。せいぜい気をつけるんだな――いや、あんたにゃ要らん世話だったか」
「その忠告、ありがたく受け取っておくよ」
今度こそ、二人はオーギュストの古美術商を後にするのだった。




