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剣雄綺譚  作者: 田崎 将司
外伝
49/138

賭博士

 先代国王フェリックスの名は、この物語でもたびたび登場する。

 故人であるフェリックスが、マーシャ・グレンヴィルによって紡がれる物語に直接関わることはない。しかし、フェリックスが行った数々の改革は、うねりのようにシーラント社会を大いに動かし――それに起因して起きたいくつかの事件には、マーシャグレンヴィルも巻き込まれることになろう。

 そんなフェリックスという男の人物像が垣間見える挿話を、ここに記す。

 フォーサイス家現当主、ギルバート・フォーサイスは、今でもその時のことを鮮明に覚えている。まだ公爵位を継承していなかった頃だから、三十数年も前のことだ。当時の国王、フェリックスとの会食での一幕である。

 急病で臥せった父の名代として登城した若かりし頃のギルバートは、細かい事情は省くけれども、いくつかの偶然が重なり国王フェリックスの昼食の席に呼ばれることになったのだ。

 当時のフェリックスは既に六十歳を越えていたが、背筋はしゃんと伸び、いささかも衰えを感じさせぬ。ギルバートほどではないにせよ、丈高く肩幅も広い。

 自らも武術を嗜み、かなりの腕前だといわれているフェリックスは、豪腕の剣士として知られるギルバートをいたく気に入っており、機会があれればギルバートに対し言葉をかけるなどしていた。しかし、こうして二人きりで会食というのはギルバートにとって初めての経験である。いかに剛毅なギルバートとて、緊張を禁じえない。

 しかもこのフェリックスという人物は、言葉では言い表せぬ独特の空気を纏っていた。ただそこにいるだけで、周りの人間を平伏させるような存在感――王者の風格というものを、フェリックスは持っていた。

 熊のような体躯を縮めて畏まるギルバートの様子がよほど可笑しかったとみえ、フェリックスはからからと笑い声を上げた。

「剣術試合に出るときとはまるで別人であるな、ギルバートよ。そうそう、試合といえば、先月のローウェルとの一戦、まことに見事であった」

「っ!? 陛下、あの試合をご覧になられたので――」

 それは王城の練武場で行われた、非公式な立会いであった。相手はギルバートの好敵手であるマイカ・ローウェルだ。実力伯仲の二人だけあって見物人も多かったが、国王が観戦していたとなればギルバートも気付かぬはずがない。

「うむ。余の書斎の窓から遠眼鏡で北を覗くとな、ちょうど尖塔の間から練武場が見えるのだ」

 読書の合間に、兵士たちが技を磨く姿を見るのが、王の密かな楽しみなのだという。

「それは存じませなんだ……しかし、お恥ずかしい限りにございます。あの立会いでは、マイ――もとい、ローウェル殿(・・・・・・)にしてやられましたゆえ」

「いや、余の目から見てもあれは名勝負であった。謙遜には及ばぬよ」

「なんとも、勿体無いお言葉……恐悦至極に存じます」

「しかしマイカ・ローウェルはまこと恐ろしい遣い手よ。いつか、国の頂点に立つ武術家となるであろう」

 国王の武術を見る眼は確かだ。陛下にここまで言わせるとは――好敵手が褒められ、ギルバートも悪い気はしない。

「さて――そなたの父君も、そろそろよいお歳だ。後を継ぐ覚悟はできているかな」

「それは……まぁ……」

 珍しく、ギルバートが口を濁らせた。

 領民を正しく導き、有事あらば国を守る盾となる――それがフォーサイス家当主の役目であることは重々理解しているし、それをやり遂げる覚悟もある。しかし、ギルバートには「政治」というものがまだよくわからない。そう、正直な気持ちを口にした。

「そんなことで悩んでおったのか」

 と、フェリックスが笑い飛ばす。

「難しく考えることはない。政治も武術も同じことよ」

「武術と、ですか」

「状況を冷静に見極め、然るべきときに然るべき手を打つ。武術とまったく同じではないか」

 こともなげに言ってのける国王だが、その「然るべきときに」というのがいつなのか判断するのが一番難しいのだ。

 ギルバートも、先日のマイカとの戦いで失態を演じている。立会いの途中、マイカの構えが若干緩んだように見えたギルバートは、これを好機と勝負に出た。しかしそれはマイカの罠であり――攻め気にはやったギルバートにできた隙を、逆にマイカに突かれてしまったのだ。

「どうも私は、読み合いが不得手なようでして」

「ふむ……では、ひとつ問題を出すとしよう。今ゲトナーとサリーリャ公国との二国間で起きているいくさ、存じておろう」

「はい」

 二国間の国教付近にあるカリアーニ地方の領有権を巡って起きたこの戦争は、のちの世にカリアーニ戦争と呼ばれることになる。

「ギルバートよ、わがシーラントはどちらの国に肩入れすべきと思う」

 交戦中の二国は、周辺諸国に同盟ないしは援助の要請を送っている。海を隔てたこのシーラント王国にも、二国からの使者が秘密裏に送られていた。

 ギルバートは考える。

 噂によれば、戦局は現状サリーリャ有利だとか。サリーリャはもともとの国力で勝っていることに加え、支援を受けている国の数もサリーリャが上だ。

 今のところフェリックス王ははっきりと意志を表明していないが、貴族たちの間ではサリーリャにつくべきではないかとの声が上がっている。

「勝ち馬に乗ろうとするのなら、サリーリャに肩入れすべきかと思われますが……」

「それも一理ある。しかし、サリーリャには多くの国が支援を行っている。戦後、シーラントが得られるもの――分け前は、そのぶん減るだろう」

 味方が少ないゲトナーに支援をし、そのゲトナーが勝利することができれば、シーラントが得るものはサリーリャに肩入れした場合よりも多いだろう。それは国王の言うとおりだ。しかし、シーラントの支援によりゲトナーの劣勢が覆るとは限らない。いや、その可能性は低いだろうというのが大方の貴族の予想であった。

 人気は高いが倍率の低いサリーリャと、人気はないが倍率の高いゲトナー。競馬や武術試合で行われる賭けと同じ構造だ。

「ううむ……」

 ギルバートは、眉間に皺を寄せて考え込んでしまう。

「はっはっは。余や宰相たちが日夜頭を悩ませ続けてもまだ結論が出ておらぬ問題だ。この場で答えを出せというのも酷な話であったな。ただ、ひとつ覚えておくといい」

「はい」

「武術にしても政治にしても、勝負の決め手となるのは『運』だ。それが難しい戦いであればあるほど、運がものを言う」

 数々の改革を実行し、シーラントを破綻から救った名君が発するには、あまりに身も蓋もない言葉であった。

「……では、陛下のなされた改革が成功したのも運だと仰いますか」

 ギルバートは、感じた疑問をそのまま言葉にした。言ってしまってから、拙い、と思ったがもう遅い。国王を怒らせてしまったかもしれぬ、と恐る恐る国王の表情を覗う。

 国王は、笑っていた。

「その通りだ。わが政策は、ほんの少し時流を読み違えれば逆に国を窮地に陥れたかも知れぬ、いわば劇薬のようなものがほとんどであった。無論、慎重に状況を読み、思案に思案を重ねて決めたことではあるが――それらの成功を決めた最後の決め手は、運であったよ」

 天運――ギルバートが思い浮かべたのは、この言葉であった。たしかに、眼前の国王は天に愛されているのかもしれない。シーラントの窮状を救ったその手腕は、しばし奇跡にたとえられている。

「さて、少々つまらぬ話をしてしまったな。さあ、次の料理を運ばせるとしよう」

 こうして、二人はとりとめのない歓談に戻るのだった。


(いけない、このままでは……)

 凄まじい強敵であった。

 マーシャ・グレンヴィルの額に、大粒の冷や汗が浮かんでいる。

 あのマーシャが、追い詰められている。ここまで苦戦を強いられたのは、久方ぶりのことである。

 なんとか、この状況を打開する方法はないものか――必死に思考を巡らせるマーシャであったが、目前の敵が次にどのような手に出てくるのか、どのような手の内を隠し持っているのか

(まったく、予想できない……)

 のである。

 目前の男は、勝負の大詰めの局面にありながらいささかも表情を変えることはなく、平静そのものだ。類稀なる観察眼を持つマーシャであったが、これではどうにもならぬ。

 しかし、いつまでも考え込んでいるわけにもいかない。唇を噛みつつ、マーシャはとうとう次の一手を繰り出した。

 その瞬間――マーシャの背筋に悪寒が走った。鍛えられた剣士としての本能が警告を発したのだろうか。いけない、と頭ではわかっていても、一度動き出した手は容易に止まらぬ。

 そうしてマーシャがカードを場に切った(・・・・・・・・・)瞬間――対面の男の声が上がった。

「そいつだ……『三連星』に『月下之華』、『大君主』と親権が付いて七十五点だな」

 マーシャが出したチップを、男は両手で手繰り寄せた。マーシャの手元には、わずかに一枚のチップが残されたのみ。

 小柄な男だった。歳は六十を越えているだろう。すっかり白くなった髪を短く刈り込み、長い口髭を生やしている。目も口も鼻もこじんまりとしており、あまり人の印象に残らない顔立ちなのだが、その小さな目に宿る眼光は異常に鋭い。

「……まだ、続けるかい?」

 男の問いかけに、マーシャは苦笑しながら首を横に振った。

「俺も、このくらいにしておくか。邪魔したな」

 男は席を立つと、背を向けて去っていく。

「あれが、噂に聞いた『イートン街の狼』、か。聞きしに勝る凄まじさだな」

 呟き、マーシャは大きなため息を一つ吐いた。

 冬の寒さも和らぎ始め、春の訪れももうすぐかという頃。とある賭場での一幕であった。


「先生、セドリック・デイモンとやったのは初めてかい」

 卓を離れたマーシャに、顔なじみの初老の男が話しかけてきた。

 下町はイートン街にあるこの賭場にマーシャが顔を出すようになってから、随分経つ。見知った顔も多くなった。

「ああ。まったく歯が立たぬとはこのことだ」

「そこはやはり、剣とは勝手が違うってことか」

「うむ。カードの押し引きは武術と同じ、とはよく言われるが、実に奥が深いものだ」

 マーシャがやっていたのは、エージと呼ばれるカード遊戯の一種だ。一から十五までの数字がふられたカードを一組として、それが花・星・月・太陽の四種の図柄のぶんだけ、合計六十枚。それを二組、全部で百二十枚のカードを用いる。基本的に参加者は四人で、配られたカードをやり取りしながら特定の組み合わせ――「役」をつくり、上がりを目指す。

 マーシャが最初この賭場を訪れたのは、五年前のことだ。桜蓮荘の店子のひとりであるとある女性に連れられて来たのが始まりであった。

 この遊戯の醍醐味のひとつに、特定の条件を満たせば対戦相手が捨てた札を拾い、自分の手札に加えることができるというルールがある。

 敵を利するようなカードを極力捨てないよう留意しながら、自分の手を揃える――この駆け引きがなかなかに面白く、マーシャはすぐにエージの虜になってしまった。

 無論、金銭を賭けなくともこの遊戯は成立するし、実際そういう遊び方をしている者は多い。しかし、金銭がかかるのとかからないのとでは、参加者の本気度が段違いだ。まるで真剣勝負のような緊迫した空気を味わうため、マーシャは月に数度は賭場に通っている。

 最初は負けが込んでいたマーシャも、最近では勝率も上がり、今ではこの賭場で上位の実力者である。しかし――この夜の対戦者、セドリック・デイモンにはまるで敵わなかった。

「まあ、俺もこの界隈の賭場に通い始めて三十年以上だ。デイモンの勝負も数え切れないほど見てきたが、奴が負けるところは見たことがねぇ。相手が悪かったな」

 噂によれば、エージという遊戯において、デイモンは三十五年間無敗であるという。

 カードの引きには運が絡む。どんなに理詰めでカードをさばこうと、運が悪いととんでもない大敗を喫することもある。エージに限らず、カード遊戯全般に言えることだ。

 武術の試合と違い、誰かが記録をつけているわけではないので、無敗という噂の真偽は不明だ。しかし、この男のように、デイモンが負けるところは見たことがない、あるいはデイモンに勝ったことがないと証言する人間は多い。

「イカサマをしている、というわけでもない。不思議なものだ」

 デイモンのカードさばきに怪しいところは見られなかった。マーシャが言うのだから間違いはない。

「まあ、ああいうのを天運、って言うんだろうさ」

「天運、か」

 現役時代のマーシャならば、受け入れがたい言葉であった。実力こそがすべて、運が悪かったなどという言葉は実力不足の言い訳に過ぎぬ、当時のマーシャはそう考えていたものだ。しかし、今のマーシャは、

「そういうものもあるのかもしれないな」

 と、素直に運というものの存在を受け入れることができる。それだけ、心持ちに余裕ができているのだ。

「面白い男だ。またまみえたいものだ」

「物好きだな、先生。俺はデイモンとは二度とやりたくねぇよ。大損こくのが目に見えてるからな」

 男の言葉に、マーシャは苦笑を浮かべた。


 デイモンとの再会のとき――それは思いがけず、すぐに訪れた。

 賭場を出て帰路についたマーシャは、夜道にあるまじき喧騒を聞きつけた。複数の人間が争う音であることは間違いない。

 時間が時間であるから、酔っ払い同士の喧嘩である可能性は高い。しかし、ヴァート・フェイロンの一件もある。罪のない人間が傷つけられそうになっているのならば見過ごせぬ。

「あれは――セドリック・デイモン!?」

 物音のする場所に駆けてきたマーシャは、そこにセドリック・デイモンの姿を認めた。

 デイモンは三人の男――それも、手に手に棍棒のような得物を携えた――に囲まれ、袋叩きの目に遭おうとしているところだった。

 争いの原因は知れぬ。しかし、老齢の男を三人でよってたかって叩きのめそうというのは、いかにも理不尽だ。

「待て、止さぬか!」

 マーシャは、男たちを鋭い声で制止する。

 突然の乱入者に、男たちは一瞬動揺を見せるが、相手が女性と分かると途端に余裕を取り戻した。

「おい姉ちゃん、あんたには関係のないことだ。怪我したくなかったら大人しくうちに帰りな」

「怪我したくなかったら、か。それはこちらの台詞だ。私を本気で怒らせないうちに、立ち去ることだ」

「あぁ?」

 マーシャの言葉が気に障ったのか、男の一人が怒気もあらわにマーシャに詰め寄る。マーシャの胸倉を掴もうとした男の右手が空を切ったかと思うと、次の瞬間男の身体は背中から地面に叩きつけられていた。

「っ、なにしやがる、このアマ!」

 残る二人がマーシャに殺到する。マーシャは腰に剣を吊っているが、この程度の相手に剣を抜く必要はない。

 一人目の男の突進を軽やかに回避すると、背後に回りこみ男の背を軽く押す。それだけで、男は前のめりに倒れた。そして、男が倒れこんだ先には、先ほどマーシャに倒された男が横たわっている。

「死ねやあッ!!」

 残るひとりが、棍棒を大上段から振り下ろす。無論、そのような大振りの攻撃が、マーシャに通じるはずもない。

 悠々と棍棒を避けると、マーシャは男の懐に潜り込む。男が棍棒を振った勢いをそのまま利用し、男の身体を腰に乗せる。

「ふッ!」

 マーシャの鋭い呼気とともに、男の身体は高々と宙を舞った。背負い投げによって飛ばされた男が落下した先は、重なり合って倒れる二人の男。

「ぐえぇっ!?」

 一番悲惨だったのは、最初にマーシャに倒された男だろう。大の男二人分の体重が、もろに浴びせかけられたのだから。

「どうだ、まだやると言うのなら――」

 マーシャは、腰の剣に手をかけてみせる。

「す、すまねぇ、勘弁してくれえっ!!」

 男たちはよたよたと立ち上がると、尻尾を巻いて逃げ出した。

「大丈夫ですか、デイモン殿」

 デイモンは、マーシャが差し出した手は借りず、自力で立ち上がった。

「このとおり、一発も殴られちゃいない――あんたは、さっきの」

「先ほどは世話になりました、デイモン殿」

「助けてくれたことは感謝する。しかし、その殿、ってのは止してくれ」

 デイモンはそう言って顔をしかめた。

「わかりました、デイモンさん」

「さて……あんたにゃ礼をしなくちゃならんな」

 礼など不要、そう言いかけたマーシャだが、このデイモンという男には興味がある。できることなら話を聞いてみたい――そんなことを考えていたマーシャだったが、不意に酒場のものらしき看板が視界に入った。

「では――せっかくですから、一杯ご馳走になりましょうか」

「遠慮がねぇな。まあいい、俺も一杯やってから帰ろうと思っていたところだ」


 連れだって酒場に入った二人は、店の隅にあるテーブル席に腰掛けた。適当なつまみと、ビールを注文した。

「では、ありがたく頂戴します」

 ビールを半分ほど飲み干したマーシャは、先ほどの揉め事について尋ねてみた。

「あの男たちは何者ですか」

「見覚えはある。大方、どこかの賭場で俺に負けた連中だろう」

「逆恨みというわけですか」

「まあな。よくあることさ」

 金銭が絡むカード遊戯で連戦連勝と言われるデイモンのことだ。恨みを持つ人間がいてもおかしくはない。

「物騒な話だ。一人歩きは危険なのでは?」

「そうかもしれんな」

 まるで他人事のような言い草だった。

「命の危険を感じたことはないのですか」

「ある。数え切れないくだいにな。しかし、いままで無事にやってこれたのだから、これからも大丈夫だろうさ」

 何度も命を狙われながら、生き残ってきた――しかも、この老人に武術の心得などがないことはマーシャの眼には明らかだ。

「まあ、馬鹿に襲われて死ぬくらいなら、俺の運もそこまでだったということなのだろう」

「なるほど、運ですか」

 天運――その言葉が、ふたたびマーシャの脳裏に浮かんだ。

「ときにデイモンさん――あなたは三十五年間負けたことがないと聞きましたが。本当なのですか」

「まあ、よく聞かれることだな。しかし、さすがに無敗というのは誇張が過ぎる」

「では、負けたことがあると」

「当たり前だ。しかしこっぴどく負けた、ってのはほとんど記憶にないな」

 自らが劣勢と判断したのなら、傷が浅いうちに引く。博打の世界で生き残るために大事なのは、その押し引きの判断力だ。

「なるほど。しかし、ほとんど、ということは」

「……後にも先にも一度だけだ。三百点以上も負け越したことがある。もう三十年以上前になるか」

 自分をこてんぱんに負かしたこのデイモンが大敗――俄然興味が湧いてきたマーシャである。

「よろしければお聞かせ願えませんか」

「まあ、別に隠さなきゃならん話じゃないが……あんたには恩もあるしな」

 と、デイモンは語り始めた。


 それは、三十数年前のこと。

 当時デイモンは三十手前で、博打を始めて七年目だった。しかし、その若さにしてすでに、デイモンはイートン街屈指の実力者として名が知られていた。「イートン街の狼」なる異名がついたのもそのころだ。

 負けなし、とまではいかなかったが、月ごとの収支は常に大きな黒字。積極的にデイモンの相手をしようという人間も減ってきた、そんなある夜のことであった。

 ひとりの男が、ひょっこりと賭場に現れたという。

 歳は現在のデイモンと同じくらい。体格はよく、隠しても隠しきれない品のよさを醸し出す男だった。

 商人風の衣服を身につけていたが、それは変装であるとデイモンは見抜いた。「人間を視る力」、それは賭博士にとって重要な要素である。

 おそらくは貴族か。相当高い身分にいる人間なのは間違いない。それがデイモンの見立てだった。

 貴族の坊ちゃんなどが、戯れに一般庶民の集う賭場に顔を出すのはそう珍しいことではない。いわゆる「ちょっとした火遊び」というやつだ。

 しかし、齢六十にもなろうという身分ある男が、下町の賭場に姿を見せるのは異例のことだろう。

「君が『イートン街の狼』か。大層強いらしいじゃないか」

 男はそう言って、デイモンと同じ卓についた。

「君と勝負がしたい」

「どうしてこんな場所まで博打を打ちにきた。理由を聞かせてもらう。でなけりゃ打つことはできん」

 いかにも不自然な男である。なにか特別な理由がるのだろう。その理由自体に興味はないが、余計な揉め事に巻き込まれるのはご免である。

「運試しだ」

「なら、こんなシケた賭場に来る必要はねぇ。運を試したいならほかにいくらでも方法はあるだろう」

「私はいま、とびきり難しい問題を抱えていてね。自分がどうすべきか、九割九分腹は決まっているのだが、残り一分の確信が持てない。そこで、強敵と闘い、自分の運を試そうと思ったのだ」

「とびきりの難問、か。それはなんだ」

「私には、二人の友人がいる。私にとっては二人とも友人だが、その二人は互いに競合する商売敵だ。このほど、二人からほぼ同時に融資の依頼が舞い込んだ」

 二人の友人を、仮にジョンとポールとしよう。ジョンとポールは、現在とある事業の入札で争っている。男がどちらに融資するかで入札の結果は大きく変わるが、両方に融資するのは不義理となる。

「いまのところ資金的にジョンが有利だ。ポールは、私の融資を受けても入札に勝つことが微妙な状況で、彼に金を貸しても最悪元金すら回収できない可能性がある。部下たちはジョンに融資するべきだと進言してくるが、私はポールに融資したいと考えている」

「なぜ、そのポールに金を貸そうと思った」

「理由はいくつかある。が、一番大きいのは『勘』だな。部下たちは大反対しているが」

「当たり前だ」

「ともあれ、私は自分の直感を信じたい。だから、こうして最強の賭博士といわれるあなたに挑戦しにきたというわけだ」

「なるほど、俺に勝てば運はあんたに味方している、そう思えるってことだな」

 男は微笑を浮かべ、頷いた。

「いいだろう。勝負してやる」

 その賭場でやり手と言われている実力者二人を加え、カード遊戯エージは開始された。デーモンの対面にれいの男、右側にはネッド、左側にはドニーという男が座る。

 勝負が始まった途端、男が纏っている空気が一変した。まるで巨大な巌がそこにあるかのような、圧倒的な存在感――同卓の二人は、額に冷や汗を浮かべていた。

 第一戦。

 男は一巡目から、絵札――エージに使われるカードは、十以上の数字の札が絵札である――を切った。絵札は多くの役と絡めやすく、上がったときの得点も高くなりやすい。

(どういうつもりだ……?)

 絵札は、普通対戦者たちの様子を覗いつつ切っていくものだ。特別な役を狙う場合を除き、初手から絵札を切るのは愚策とされる。

 いぶかしむデイモンをよそに、男は躊躇いもなく絵札を切っていく。完全に、勝負を降りた人間のカードの切り方である。

「上がりだ。『剣』のみ、ひとり五点だな」

 と、デイモンの右隣のネッドが宣言した。

 なにかこちらの裏をかくような手を狙っているのか――デイモンの予想は外れであったようだ。

(素人だったか……? いや、油断は禁物だ)

 第二戦。デイモンはどこまでも用心深く、自分の手を作る。

 三順目。

「すまないな、諸君。『君主』に『勝利の女神』、『大行軍』もついたか。ひとり頭三十点いただこう」

 わずか三順で、目の飛び出るような高い役を完成させた男に、デイモンも仰天する。

「いやあ、ついていた。自分でも驚きだよ」

 口ではそう言っているが、デイモンには男が心底驚いているようには見えなかった。その男の様子がどうにも気に入らず、デイモンは思わず舌打ちした。

「次だ」

 第三戦。

 男のカードの切り方の意図は、明らかであった。点数は安いが、とにかく速度重視の役を狙っている。

(ここで調子付かせるのは拙い――が、間に合わねぇ!)

 五順目で、男は上がりを宣言した。点数は低い。

 デイモンの左側の男が、わずかに口を歪めた。

(ドニーの野郎、相当いい手が入っていたようだな。この男……まさか……?)

 第四戦。

 デイモンの札はかなりいい。安手でよければすぐに上がれるし、手を伸ばして高目を目指すことも可能だ。

 いつもなら対戦者の捨て札を見ながら、数順は様子を見る場面だ。しかし、不気味なのは対面の男の存在だ。

 悩んだ末、デイモンは速攻での上がりを目指すことにし、六順目で当たり札を引いた。点数はわずか十点であった。

 ふとデイモンが顔を上げると、対面の男は涼やかな微笑を浮かべていた。高目を諦めて安手で上がったということを見透かされているようで、苛立ちを覚えるデイモンだった。

 第五戦。

 第二戦と同じ展開だった。男は、あっという間に高い手を仕上げ、早々に上がってしまった。

 こんな調子で勝負は続く。

 男は、誰かが安手を狙っているときはあっさりと上がらせる。誰かが大きな手を狙っている場合は、速度重視の安手で場を流す。ここまでは、ある意味基本に忠実な打ち筋である。男の状況判断は実に見事だった。

 問題は、男にいい手札が入ったときだ。その場合、男の下にはまるで何かに導かれるかのように必要な手札が集まり、手を完成させてしまう。

 そして、男の打ち筋には一切の迷いがない。

(まるで、先のことが見えているような……)

 デイモンは、そんな気さえしてしまう。

 場は進み、十二戦目。一般的なルールならば、これが最後の戦いとなる。

 カードが配られたが、最初にカードを切らねばならないはずの男は動かない。

「おい、長考もいいがはほどほどにしてくれよ」

 とネッドが声をかけたそのとき、男は手札を開いた。

「『十二勇士』だ」

 もっとも難しく、そしてもっとも美しいといわれるエージの役の最高峰。男はそれを、初期の手札の段階で揃えてしまったのだ。

 これには、同卓の三人も目を丸くして驚くほかない。

 十二戦を戦った結果は――男の一人勝ちであった。

 デイモンにとっては、賭場に通い始めたころ以来、およそ六年ぶりの大敗である。

「ありがとう、実に楽しかった」

「そりゃあんたは楽しかったろうよ。で……運試しとやらにはなったかい」

「ああ。これで私も決断が下せる」

 男はそう言うと、帽子を被り賭場を後にした。同じ卓で戦ったドニー、ネッドは呆然としてその背中を見守るのみである。

「デイモン、あの爺さんは何者だったんだ」

 ドニーの質問に、デイモンは答える術を持たない。

「知らんよ。だが……とんでもない運の持ち主、ってことだけは確かだ」

 と、デイモンは肩を竦めるのだった。


「ほう、そんなことが……それで、そのときの男の正体は判明したのですか」

「いや。あの男を賭場で見たのは一度きりだからな」

 どこか遠いところを見るような目をしながら、デイモンが述懐する。

「いまの俺はあのころよりも腕を上げているはずだ。しかし――いまあの男と打っても、勝てる気はしねぇな」

 上には上がいるとは言ったものだ。世界は広い。マーシャは感嘆する。自分が手も足も出なかったデイモンを、完膚なきまでに叩きのめすことができる人間がいるというのだ。

「昔話は終わりだ。俺はもう帰るぜ」

 硬貨を数枚テーブルに放り、デイモンは去って行った。

「いったい何者だったのだろう。まあ、年齢的に存命であることは考えにくいが」

 デイモンとの対戦時六十前後だったというのだから、生きていれば九十歳を越えることになる。そこまで長寿の人間はレンでも数少ない。

「興味は尽きないが……考えても詮無きこと、か」

 と、マーシャは嘆息した。


 余談。

 カリアーニ戦争が激化したころ、ゲトナー・サリーリャ両国から支援の要請を受けた先代国王フェリックスは、熟慮の末当時戦局不利と見られていたゲトナーへの支援を決断。

 シーラントは、金銭以外にも武器弾薬、食料を惜しみなくゲトナーに提供した。

 結果ゲトナーは、劣勢を覆し勝利。

 シーラントはゲトナーに貸し付けた戦費を利子つきで回収したほか、戦争の火種となったカリアーニ地方のいくつかの利権を委譲された。

 シーラントが得た利益は、ゲトナーへの援助に費やした費用の数倍にもなったといわれ、シーラント経済は大いに潤ったという。

 カリアーニ戦争でのフェリックス王の決断は、彼の五十年に及ぶ治世においても一、二を争う英断であったと学者は語る。

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