二
王都に帰還した数日後のことである。マーシャは、師であるマイカ・ローウェルの道場で行われている祝宴に参加していた。
これは、マイカの高弟でマーシャの兄弟子であるるデニス・クリフォードという男が、このほど独立して新たな道場を開くことが決まったため、それを祝うために開かれたものだ。クリフォード家はフォーサイス家の遠縁にあたる家であり、フォーサイス家当主たるギルバート・フォーサイス公爵も多忙の合間を縫って宴に参加している。
さて、飲めや歌えやの宴会も一段落し、参加者は皆親しい者同士で卓を囲みのんびりと談笑しているころ。マーシャもまた、マイカ、フォーサイス公爵と同じテーブルで話に花を咲かせていた。
「いやあ、とうとうわしの弟子からも独立する者が出るとはのう。娘を嫁に出す父親というのはこういう気持ちなのじゃろうか」
手塩にかけた愛弟子が独り立ちするのを喜ばぬはずがない。しかし、マイカの表情にはどことなく寂しげなものが混じる。
「まあ、仕方あるまい。わしとて、ミネルヴァが嫁に行くことを考えると胸が張り裂けそうになるわ」
言いつつ、フォーサイス公爵がマイカの杯に酒を注いだ。
「それにしても、デニス兄が新たに道場を開くとは。私はてっきり、ローウェル道場の跡を継ぐものとばかり思っておりました」
デニスはマーシャより十二年上で、マーシャがローウェル道場に入ったときには、既に気鋭の若手剣士として名を知られていた実力者だ。公式戦四十二連勝というシーラント史上八位の記録も持っている。普通に考えればマイカの後継者としての資格は十分なのだが――同じ道場にはマーシャ・グレンヴィルという存在があった。
マーシャの圧倒的な力を実感したデニスが、マイカの跡を継がずに独立を志したのも無理からぬことだが――マーシャはそのことを知らぬ。マイカとフォーサイス公爵は顔を見合わせると、肩を竦める。
「……まあ、本人が決めたことじゃ。わしとしても、『お主が継がぬのなら』デニスに継がせるのが一番と考えておったんじゃがのぉ」
お主が、という部分をマイカが強調する。
「ああ、シーラント無双と謳われた剣士がうちの道場から出て、やっとわしも肩の荷が下りたと思っていたのに。なあ、ギルバートよ」
マイカがマーシャに跡を継げと迫るのはとくある光景だ。しかし、この日のマイカは酒が入っており、いつもよりもしつこい。
「うむ。マーシャがこの道場を継いで、あとは婿を貰ってくれればわしら老体も安心してあの世へ旅立てるというものだ」
フォーサイス公爵もマイカに同調し始め、しかも結婚の話まで絡めてくるものだから堪らない。マーシャは慌てて話題の転換を試みる。
「そ、それよりも御師匠様。若いころのお話をお聞かせください」
老人の昔話、とりわけ武勇伝の類は、一度話し始めれば延々と続くものだ。これに付き合うのは忍耐が要るけれども、話題逸らしにはもってこいである。
「お二人は何度も名勝負を交わした好敵手であったとか。ぜひ、当時のお話など」
ときを遡ること三十年。
マイカ・ローウェルはその洗練の極みに達した剣技をもって数多の強者を打ち破り、国王から「清流不濁」の二つ名を授けられたシーラント屈指の剣豪であった。
一方のギルバート・フォーサイスは、恵まれた体躯から繰り出される剛剣は比肩する者なしと言われた実力者だった。マイカと違い二つ名こそ授与されていないが、これは単に公式戦での実績が不足していたからに過ぎない。七大公爵家の嫡男としての立場があったため、負傷は当たり前、ときには死者さえも出る武術の試合に出ることは実家から禁止されていたのである。実家の目を盗んで出場した大会ではいずれも素晴らしい成績を残しており、専門家の評価は高かったらしい。
二人の実力は伯仲し、「技のローウェル、力のフォーサイス」と並び称されていたとか。
マーシャが二人の間柄を知ったのは、近年になってからのことである。武術年間――毎年編纂されている、シーラント国内での武術試合の記録をまとめた書物である――の古い号を戯れに読んでいた折、偶然二人の名前を見つけたのだ。
「ううむ。まあ、とにかくギルバートの剣は凄まじいの一言に尽きた。まともに受け太刀しようものなら、木剣ごと持っていかれかねん。下手な遣い手が真剣をもって挑んでくるよりもよほど危険じゃった。一太刀避けるごとに寿命が縮む思いがしたものよ」
腕組みし、マイカが当時を懐かしむ。
「いやいや、あのころのマイカは恐ろしかったぞ。こちらがいくら打ちかかろうとも、いとも簡単にかわされてしまう。まさに流水を相手にするが如し、よ」
と、フォーサイス公爵もしみじみ語る。
「ギルバートとの対戦は楽しみではあったが――正直なところ、一戦終えるごとにもう勘弁してくれ、二度とこの男とは戦りたくない、と思ったもんじゃ」
「それはわしとて同じこと。マイカとの対戦の後は必ず怪我を負って屋敷に帰るものだから、父上からはそのたびにこっぴどくどやされたわい」
そう言うと、二人は声を揃えて笑った。
フォーサイス公爵は、前年まで国軍大臣として多忙な日々を送っていた。こうして二人でゆっくり語り合うのも実に数年ぶりということで、話は弾んでいた。
(好敵手、か。私にもそんな相手がいればあるいは――)
実力が伯仲する相手がいない――これはマーシャの慢心ではなく、誰もが認める事実である。その日常に飽いたがゆえにマーシャは秘密部隊「蜃気楼」に入ることになり、のちに大きな後悔を招くことになってしまうのだ。
「ともあれ、同世代の好敵手に恵まれたというのは幸運なことじゃよ」
「まったくだ。武というものは一人では成り立たぬ、互角に戦える相手があってこそだからな」
「まあ――互角とは言っても、通算対戦成績はわしの勝ち越しだったんじゃがな」
マイカの言葉を聞き、公爵の右眉がぴくりと動く。
「勝ち越し――?」
「左様。わしの八勝七敗じゃ」
「それは聞き捨てならんな、マイカ。わしの八勝七敗の間違いじゃないのか?」
「ほう。おぬし、未だにあの勝負を自分の勝ちだと」
「無論よ。あのときマイカはあばら骨を少なくとも三本は折っておったはず。試合が止められなければわしの勝ちは動かなかったろう」
「おぬしとて、鎖骨と膝の皿をやった上、右肩は脱臼寸前だったじゃろう。あのまま続けていてもまともに剣を振ることはできなかったじゃろうて」
「…………」
「…………」
なにやら雲行きが怪しくなってきた。二人の間に、剣呑な空気が流れ始める。
「お二人とも、仔細は存じませぬが落ち着いて――」
「マーシャは引っ込んでおれ!」
二人の剣幕に押され、マーシャが言葉に詰まる。
「よし。いい機会じゃ。二十五年前の決着、今ここでつけてくれる」
「望むところよ。しかし、無理はせんことだ。ポックリ逝かれてしまっては寝覚めが悪い」
「それはわしの台詞じゃ。勝負の前に、息子殿に職位を譲っておくことを勧めるぞ」
椅子を蹴倒さんばかりの勢いで、二人が立ち上がろうとする。
「二人とも、そこまで!」
と、鋭い制止の声が響くと同時に、二人の頭上から冷水が降り注いだ。
「いい歳した男がみっともない。歳若い門弟たちも見ているのですよ」
水差しを手に仁王立ちしているのは、マイカの妻メリッサであった。
「メリッサ……」
「これは、奥方……」
「少しは頭が冷えましたか?」
ぴしゃりと言い放たれ、途端に二人は大人しくなった。このメリッサという女性、普段は上品でおっとりした優しい人物だが、怒らせると鬼よりも恐ろしい。マイカと公爵はそれを充分に理解しているのだ。
「お二人の戦績は七勝七敗一分け。間違いないですね」
しゅんとして頷く老人二人。まるで、母親に叱られた子供のようである。
「……おほん。ギルバートよ、済まなかったな」
「いや、わしこそ大人気なかった」
握手を交わし、二人はふたたび着席する。
実際のところ、二人の戦績はメリッサの言うとおりで間違いない。唯一の引き分けとなった試合が行われたのは二十五年前。国王の生誕日に行われた御前試合七番勝負のうちの一戦だ。それまでの勝敗は七勝七敗の五分であった。
当時マイカは古傷の膝の状態が悪化していたため、一線を退く覚悟を決めたところだった。
一方の公爵も、先代からの爵位の引継ぎを直前に控えた時期であり――継承が済んでしまえば、当然もう剣術試合に出られる立場ではなくなる。実家の父親に頼み込んで、なんとか出場の許可を得たという。
二人とも、これが最後と心に決めて臨んだ一戦である。
その内容は凄絶を極めたもので、骨折・脱臼・打ち身を全身に負いながらも互いに一歩も譲らず、ついに時間切れ引き分けとなった。要するに、二人はわれこそがこの試合の勝者だと主張していたわけだ。
「好敵手といえば――ケヴィンのやつは今頃何処で何をしておるのかのう」
マイカが、ぽつりとこぼした。
「そういえば、ケヴィンが国を出ることになったのもあの時の御前試合が原因だったか」
フォーサイス公爵が、哀しむような、それでいてどこか懐かしむような表情を浮かべる。
「? お二人とも、ケヴィンとは」
思わずマーシャが尋ねる。
「ケヴィン・ウェンライト。マーシャくらいの年齢ならば、知らなくとも仕方があるまいよ」
マーシャの背後から答えたのは、酒宴の主役であるデニス・クリフォードである。各テーブルの客たちに酌をして回っていた途中のようだ。
「デニス兄はご存知か」
「ああ。マイカ・ローウェル、ギルバート・フォーサイス、そしてケヴィン・ウェンライト。私が子供の時分、武術を志すものは皆この三人に憧れたものさ」
「そういえば、武術年鑑で――」
現役時代は読書などまったく嗜まなかったマーシャであるが、ちかごろは暇をみてさまざまな書物を紐解くようになった。そこはやはり元武術家だけに、武術関連尾書物は特にお気に入りだ。
オネガ流宗家、ケヴィン・ウェンライト。マイカらが現役だったころの武術年鑑で、幾度となく見かけた名前だ。戦績はきわめて優秀、しかしオネガ流というその流派は、マーシャにとってまったく聞き覚えのないものだった。
「いったい、どのようなお人だったのですか」
マーシャの質問に、他の三人はにやりと笑う。
「あやつは、シーラントの武術史上でもマーシャ、お主に負けず劣らずの変り種じゃった。なんせ、己の拳足のみで武術界の頂点まで上り詰めかけたのじゃから」
「拳足のみ――それは、素手の格闘術で、ということですか?」
「そのとおりだ、マーシャ。徒手空拳ながら、わしやマイカと互角の勝負をしておった。もう一人の好敵手だったというわけだ。どうだ、驚いたか?」
「ええ、とても……」
現役時代のマーシャは、ほかの武術家や流派についてまるで無関心だった。他者の技の研究などせずとも、己の剣を高めていけば負けるはずはない、という考えを持っていたからである。慢心とも取れる姿勢だが、それで実際負けなしだったのだから誰もマーシャを批判することはできぬ。
今のマーシャは違う。さまざまな流派・武術家に興味を持ち、書物で知識を蓄えている。武術が生業でなくなり、心理的な余裕ができたことがマーシャの心境を変化させたのだ。
そんなマーシャであるから、徒手空拳でマイカたちと互角に戦ったというケヴィンなる人物に俄然興味を持った。
「お二人が嘘をついていると言いたいわけではありませぬが……俄には信じられぬお話です」
得物の有無――これば言うまでもなく大きな差だ。たとえば、鍛えこんだ強靭な男とごく普通の体力の女性が戦うとしよう。双方とも素手ならば、まず女性に勝ち目はない。しかし、女性が木剣一本手にするだけで結果は容易に逆転しうる。
ケヴィン・ウェンライトなる人物の場合、戦った相手は武術を極めた猛者たちである。その不利を覆すのは生半なことではない。
「オネガ流というのは、もともとはオネガ宗という宗派の僧侶たちが外敵から身を守るために編み出した護身術での。廃れてほとんど失伝しかけていたのを、ケヴィンの祖父が復活させ練り直したものなんじゃ」
「ケヴィンという男は、とにかく凄まじいまでの身体能力を持っておった。膂力だけならばわしにも分があったのだが、瞬発力に関しては奴に敵う者はいなかったであろう。武器を持つ相手と戦えたのも、その速度があってこそよ」
類稀なる速度をもって一気に間合いを殺し、打撃で勝負を決める。それがケヴィンの戦い方であったという。
「お師匠様たちとウェンライト殿の戦い、今思い出しても心躍ります」
「ううむ、デニス兄が羨ましい。しかし、私はいままでオネガ流なる流派については全く知らなかったし、オネガ流の武術家と対戦したこともなければ試合を見たこともない。これはどうしたことだろう」
「オネガ流は奴の祖父、父とその血筋にのみ伝えられていたんじゃよ。ほかに弟子を取るつもりがなかったわけではないらしいんじゃが……」
「恐らくは、ケヴィンの眼鏡にかなう素材が見つからなかったのであろう」
なるほど、とマーシャは納得する。半端な才の人間がオネガ流を身に付けたとて、武器を持つ相手に敵うはずもない。
実際、ケヴィンが武術界で活躍していたころ、彼を模倣しようとする者が多数あったらしい。しかし、その全てが大成することはなかったとマイカは語る。
「それにしても――そのウェンライト殿になにがあったのです」
「今頃どこでどうしているのか」、「国外に出ることになった」――マイカたちの言葉からすれば、ケヴィンはもうシーラントにいないということになる。
「それがじゃな。あ奴、とある試合で負けたのち、国を出てしまったんじゃよ」
その試合とは、マイカたちが死闘を繰り広げた御前試合七番勝負の最終試合であった。敗北を喫したケヴィンは、誰にも何も告げずシーラントを出奔してしまったのだという。
「いまだにわからんのだ。なぜ、奴が国を出てしまったのか」
フォーサイス公爵が唸る。
敗北を恥じて国にいられなくなった、というのがもっとも納得のいく説明である。しかし――いかなる実力者といえど、負けるときは負ける。マイカや公爵とて公式試合で数度敗北しているいるし、当のケヴィンとて敗北が記録されている。生涯無配などというふざけた記録を持つのは、シーラント史上マーシャのみである。ひとつの敗戦がケヴィンを出奔させた、というのは考えにくい話だ。
「確かに、対戦相手はケヴィンから見れば格下じゃった。それに負けたのを気に病む気持ちはわからんでもないが」
「試合はご覧に?」
「いや、わしは自分たちの試合で負傷し、医務室に担ぎこまれていたからのう。ギルバートも同じじゃろう」
公爵が頷く。
「その相手とは?」
「ファーガス・ドレイク。当時三十連勝を達成した気鋭の若手、という触れ込みじゃった。マーシャも名前は知っておろう」
王都レンの武術家にとっては有名な名前である。十あまりの道場を経営するやり手と評判の男だ。
「確か今は――そうじゃデニス、武術局の道場審査会特別顧問とかいう役職じゃなかったかの」
武術局とは、国内の武術に関するあらゆる事柄を取りまとめる公的機関である。ちなみに、前述の武術年鑑を発行しているのもこの武術局だ。
道場審査会はそのなかの一部署であり、新たに道場を開こうとするものはその審査を通過しなければならない。
シーラントは言うまでもなく武術大国だ。しかし半端な実力のものが好き勝手に道場を開いては、国全体の武術の水準の低下を招く恐れがある。また、一時は高名な剣豪の弟子を騙って門下生を募り、入門料を集めるだけ集めて雲隠れする、といった詐欺行為が頻発したこともあった。そのため、国による審査会が設けられたというわけだ。
審査では道場主としての実力は勿論、人格や運営能力までも問われるため、これを通るのは十人中三人に満たぬとか。
「お師匠様の仰るとおりです。私も審査会でお会いしましたが……」
デニスが苦笑を浮かべる。
「デニス兄、審査会で何か?」
「それがなぁ。この場で話していいものかどうか……」
「なんじゃ、そんなことを言われると気になるじゃろう。申してみよ」
「はい。実は……審査会で、袖の下を要求するような発言を」
デニスによれば、直接的に金銭を要求してきたわけではなく、言外に匂わせる程度だったとか。デニスがフォーサイス家の縁者であることを知ると、それ以上の要求はしてこなかったという。
「私も、ドレイクに関してはいい噂を聞かぬ。そして、そんな男にケヴィンが負けたというのが未だに信じられんのだ」
公爵の眉間に深い皺が寄った。マイカも同様の意見のようである。
「まあ、人品と実力は必ずしも比例するわけではないからのぉ」
「ともかく、それ以降のウェンライト殿の消息は掴めぬまま、ということですか」
マーシャの問いに、マイカと公爵が無言で頷いた。
「わしも八方手を尽くして調べた。結果、セルスの町で奴の姿を見たという、複数の証言が得られた」
セルスとは、シーラム島南東部――大陸とシーラントの間を隔てるアマダール海に面した港町で、シーラントの玄関口である。人口五十万、貿易で栄えるシーラント第二の都市だ。
「ウェンライト殿は、そこで船に乗った。そういうことですか」
「おそらくは、な。あくまで状況から判断しただけに過ぎぬが」
「今となっては、ケヴィンがなにを思ったのか知る術はない。息災でおることを願うばかりじゃよ」
マイカが、まるで遠い海の向こうに思いを馳せるような目をして言った。公爵も、これ以上話すことはないようである。
しかし、マーシャはひとり黙考していた。頭の中にあるのは、旅先で出会った少女――アイニッキのことである。
(たしか、シーラント生まれの師を弔うために大陸から渡ってきたと言っていた――そして、あの技だ)
ケヴィンとアイニッキ。二人になにか関係があるのではないか――そう考えるマーシャであったが、その場で口にするのは差し控えておいた。
(いずれレンを訪れるとも言っていた。真実はその時に明らかになろう)
そうして、マーシャたちはふたたびとりとめのない雑談に戻るのだった。




