十七
夜更け。
賭け試合の会場であり、ヴァートに送られた脅迫状指定の場所でもある練兵場跡では、三十人のほどの男が屯していた。
広場の奥には丸太で組まれた櫓が建てられている。高さは大人の男の身長二人分といったところか。櫓の上には複数の人影があった。
「さて、準備は整った。奴は来るだろうか。まあ、来ないなら来ないで、次の手を考える楽しみができるというものだが」
ひとりは、ルーク・サリンジャーである。篝火に照らされた顔には、醜い火傷の跡が見える。
「……来るさ」
答えたのは、剣士マット・ブロウズだった。
「なぜそう言える。あからさまな罠だぞ。自分可愛さに、この女を見捨てるかもしれん」
ルークは、足下に転がされたファイナをつま先でつつきながら言った。
ファイナは、手足を縛られ猿轡を噛まされた状態だ。目元には、泣き腫らした跡があった。
「面を見ればわかる。それに、あのハミルトンの弟子が、ケツをまくって逃げるとも思えん」
「そんなものか。私には理解できない世界だな」
「俺も、あんたにわかってもらえるとは思っておらんよ」
ルークは鼻を鳴らし、ファイナに目を落とした。たわわに実った胸部に目が止まる。
「上玉と聞いて、手下どもに手を出さぬよう言いつけておいたのは正解だったな」
好色そうな笑みを浮かべると、ルークはファイナの着衣に手を伸ばした。しかし、ファイナに触れるか触れないかのところでその手が止まる。
「ブロウズ、貴様……!」
ぎらりと光るブロウズの剣が、ルークの首筋に突きつけられているのだ。
「俺は女を力づくでものにしようとする奴には反吐が出る。俺の前でこれ以上くだらない行為を続けようというのなら、斬る」
「貴様、この私に向かって、無礼な……!」
「実家の威光を傘に着ているだけの男が、何がこの私、だ。笑わせる」
ルークの首筋にぷつりと剣先が刺さり、滲み出た血が球を作る。
「くッ……」
ルークは、震えながら引き下がるしかなかった。
「言っておくが、俺はあんたに雇われたわけじゃない。面白い相手と真剣勝負ができると言うから、あんたに手を貸している。あんたはできるだけ戦力が欲しかったから、俺を引き入れた。俺たちは、利害の一致から手を組んだ、ただそれだけの関係。忘れるな」
ブロウズの強烈な殺気に当てられ、ルークは二、三歩後ずさった。
「貴様、一度吐いた言葉はもう飲み込めないのだ。私に大層な口を聞いたこと、後悔するときが来るぞ」
ルーク精一杯の反撃を、ブロウズはまったく顧みない。遠くにうっすらと見えるレンの王城を見やり、呟く。
「早く来い、ヴァート・フェイロン。わが剣も、久しぶりの獲物を待ち焦がれておる」
戦の支度を整えたヴァートたちは、桜蓮荘を出ると一路練兵場跡に向かった。
新市街の外れまでは馬車で、そこから先は徒歩である。
ヴァートの装いは、いつぞやの試合のとき身につけた剣術着姿だ。ハミルトンから贈られた愛剣を腰に吊るしている。重武装をすることも考えたが、普段着け慣れていない防具はかえって動きの邪魔になる恐れがある。結局、鉄製の手甲のみを身につけることにした。
アイは、薄手の鎖帷子の上に、詰襟の僧服の袖を肩から切り落としたような道着を身につけている。アイの操るオネガ流は、もとは僧兵が自衛のために編み出した技術体系だ。ゆえに、オネガ流の拳士の正装は僧服に似ているのだ。両腕に、硬い樫の木で作った手甲をはめている。
ミネルヴァは、真紅のドレスの上から、磨き込まれた鋼鉄の胴鎧と手甲、足鎧を身につけている。戦いに赴くにしてはいささか奇異な出で立ちだが、これは祖先の故事に由来する、フォーサイス家の女子にとっての正しい戦装束なのだとか。背中には、長大な両手大剣を背負っている。
マーシャはというと、これがいつもとまったく変わらぬ普段着姿であった。ただ通常と異なっているのは、腰から剣を二本吊るしているところである。
一行は新市街を抜け、田舎道に入った。このままの歩調でいけば、約束の刻限に若干の余裕を持って到着できるという具合だ。
しばらく歩いたところで、ヴァートは周囲に漂う気配に気付いた。
「先生……」
「いまごろ気付いたか」
「出発したとき、既にわれわれには尾行がついていたでござるよ」
考えてみれば、敵が桜蓮荘を監視していないはずはなかった。それに気付いていなかったのはヴァートだけだったらしい。
「どうします」
「放っておけ」
マーシャはまるで気にも留めない様子で、悠然と歩みを進める。
周囲の気配は、進めば進むほど増えていった。ヴァートが察知したその気配が二十を超えたところで、さらに道の前方から何者かの集団が姿を見せた。数は十人ほどか。
「止まれ」
暗闇から声が響く。同時に、周囲の気配がヴァートたちとの距離を一気に詰めた。都合三十人ほどに囲まれたことになる。全員が全員、黒装束に身を包んだ怪しげな男たちである。
「すまないが急いでいる。道を開けてくれ」
マーシャが告げると、前方の人垣に隙間ができた。
「小僧だけは通す。女は全員殺す」
「それが、貴様らの飼い主の命令か。いいだろう。ヴァート、行け」
「先生、でもそれじゃ……!」
「ここで手間取っていては約束の刻限に間に合わぬ。いいから早く。私たちは心配いらない――どうした? 私の言葉が信用できないか?」
多勢に囲まれながらも、マーシャは動揺したそぶりを見せない。それに、ヴァートにとっては世界一信頼できる人物の言葉だった。
「……わかりました。ご無事で」
「馬鹿者、誰にものを言っている」
ヴァートは襲撃者たちの間を抜けると、振り返ることなく走り出した。
「アイ、ミネルヴァ様。すまないが前方の道をふさぐ者どもだけはそちらで処理してくれ。そして、突破口が開いたら先にヴァートを追ってもらいたい」
背中を合わせて立つ二人に、マーシャが囁いた。
「……わかりました。ではアイさん、後衛をお願いしますわ」
「承知」
ミネルヴァは大剣を抜き放つと、肩に担いだ。大きく息を吸い、気合声を発した。
「行きますわよ!!」
「応!」
ミネルヴァは鋭く踏み込むと、一気に大剣を振り下ろした。
一番前にいた男はそれを避け切れず、肩口にミネルヴァの剣がめり込んだ。血は出ない。刃引きがしてあるのだ。切れないとはいえ、ミネルヴァの大剣は巨大な鉄の塊である。肩周辺の骨が微塵に砕かれ、男は倒れた。
「……っ!」
男たちの隊列に乱れが生じる。しかし、それは一瞬のこと。各々刃を抜くと、ミネルヴァを数で押しつぶすべく、二人一組になって襲い掛かった。
しかしミネルヴァは次の斬撃の体勢に入っている。鋭い横薙ぎを放ち、男たちを近寄らせない。
「隙あり!」
ミネルヴァの斬撃を大きく跳んで避けた一人の男に、アイが肉薄。両の脇腹に、続けざま三発の拳を叩き込んだ。
「ゲハアッ!?」
男は血反吐を吐いて崩れ落ちた。ただでさえ強烈なアイの拳が、樫の手甲で覆われているのだ。男のあばら骨を易々と砕くほどの威力であった。
「はあああッ!」
さらに、ミネルヴァが大剣を振り回す。ミネルヴァの攻撃を避けようとして敵に生じた隙を、すかさずアイが狙う。
長い間合いで敵を寄せ付けぬミネルヴァと、小回りが利き手数の多いアイ。二人の連携は絶妙であった。
真紅のドレスを翻し剣を振るうミネルヴァと、それに寄り添い拳を振るうアイの姿は、まるで剣舞を踊っているかのようだ。
わずかな時間のうちに倒された男の数は、五人に上る。
「今だ、二人とも!」
マーシャの剣が閃き、また一人の男が倒れた。そのとき、包囲にわずかな綻びが生まれる。
「ミネルヴァ様、先に!」
アイが叫ぶと、ミネルヴァはひときわ大きく剣を振るった。包囲の輪が割れたところに、すかさずミネルヴァが走り出た。
続いてアイも走る。追い縋る男の顎に振り向きもせず裏拳を入れると、アイはミネルヴァを追った。
数人の男が二人を追って走り出した。
「待て」
一人の男がそれを制した。どうやら、この男が頭領格らしい。
「しかし、隊長」
「思っていたより手強い。一人一人確実に仕留める」
男たちは包囲を突破した二人を無理に追おうとせず、まずマーシャ一人に標的を絞るようだ。
「ふむ、戦力を集中させ各個撃破を狙うか。戦術としては間違っていない。及第点をやろう」
周囲にはまだ二十人からの男たちが残っている。しかし、マーシャは余裕の笑みを崩さぬ。
マーシャの態度に堪りかねたか、隊長と呼ばれた男が声を上げた。
「この人数相手に随分な余裕ではないか。我らを舐めているのか」
男の言葉を、マーシャは一笑に付す。
「貴様らは暗殺者ギルドの者どもだろう。貴様らの同類とは、現役時代飽きるほど戦ったよ」
暗殺者ギルドとは、その名の通り金次第でどんな相手でも殺してのける、暗殺者たちの共同体である。街の盛り場を仕切るやくざ者や禁制の品を扱う闇商人でさえも、彼らを前にしては泣いて命乞いをするという。そして、一旦彼らの標的になってしまえば、いかなる命乞いも懐柔も通じない。シーラントの裏社会を恐怖で支配する存在――それが暗殺者ギルドだ。
「はったりを。ギルドの者と相対し、生きていられるはずがない」
「そう思うのはそちらの勝手だ」
仮に一度暗殺に失敗しても、標的が死ぬまで第二、第三の刺客を送り続けるのがギルドの流儀だ。ギルドの暗殺者と戦い、いまなお生きているのはありえない――隊長がそう思うのも当然だ。
しかし隊長は、言いようのない不安を抱いていた。十数年暗殺ギルドの仕事に従事し、殺してきた人数は五十に上る。そんな隊長が、なぜか眼前のマーシャから感じる凄みに圧倒されているのだ。
暗殺者にとって、獲物を前に余計なお喋りなどもってのほかの行為だ。隊長がこうしてマーシャと言葉を交わしているのは、焦燥感の表れでもあった。
「さあ、お互い時間がないはずだ。無駄口はこのくらいにしておこう」
そう言って、マーシャはもう一本の剣を引き抜いた。左右両手に一本ずつ、剣を構える。
「かかって来い」
マーシャの全身から、剣気が噴き出した。
隊長のこめかみあたりに、一筋冷や汗が流れる。
マーシャのことは、予めギルドの情報網を駆使し調べ上げている。数年前まで国内最強と言われていたとか、公式戦百何十連勝無敗だとか――しかし、命のやり取りの場において、そんな実績は何の意味も持たぬ。
武術家とは何度も戦った。矜持だけは一人前ながら、試合で勝つことしか考えぬ道場剣術のぬるま湯に浸かった甘い連中ばかりだった。マーシャもこちらの思惑通り、安い挑発に乗ってのこのこ仲間を引き連れてきてくれた。実に甘い。先ほどまで、隊長はそう考えていた。
なのに、眼前のマーシャから感じる濃密な血の臭いは何なのだ。自分が発するそれよりも何倍も濃い、むせ返るような死臭は。
いや、気のせいだ。取り逃がした二人の腕前が予想以上だったため、弱気の風に吹かれてしまったのだろう。頭に浮かんだ不安を振り払うと、隊長が片手を上げた。暗殺者たちが隊列を組む。
「殺れ」
隊長の合図に、男たちは動き出した。
襲い来る暗殺者たちをねめつけるマーシャの唇が、三日月のように大きく切れ上がった。
にわかに空が陰り始めた。
立ち込める暗雲が月影を遮り、じっとりと湿り気を帯びた風は嵐の到来を予感させる。
ヴァートは一人疾駆していた。
約束の刻限までは、まだ若干の余裕がある。しかし、一刻も早くファイナのもとに辿り着きたい、その想いがヴァートを急きたてた。
(みんなは大丈夫だろうか……)
マーシャら三人は、いずれもヴァートをはるかに凌ぐ力量の持ち主だ。しかし、三十もの敵と戦って、果たして無事でいられるのか――
いや、今はそれを考えるときではない。必ずファイナを助ける、それがヴァートの使命であり皆に共通した願いなのだ。
自分のせいでミネルヴァたちまで巻き込んでしまった、という考えは既にヴァートの頭から消えている。武術家である彼女たちが、自分たちで参戦を決めたのだ。うじうじとそのことで思い悩むほうが、皆に失礼というものだ。
ヴァートは、もう前しか見ていない。
道の先に、開けた空間といくつもの灯りが瞬くのが見えた。
「よく来たな、ヴァート・フェイロン。その無鉄砲は父親譲りか」
広場の奥に組まれた櫓の上から、居丈高に言い放つ男が一人。櫓の周りを、多数のならず者たちが取り囲んでいる。
「……お前がルーク・サリンジャーか」
猛り狂う激情を抑え、ヴァートはルークを睨みつける。ルークは高所からヴァートを見下ろすと、唇を歪めた。
「まったく、こして実物を見てみると――憎らしいまでにあの男そっくりだ」
ルークは、醜い火傷の跡を指でなぞった。
「暗殺者ギルドもあてにならぬ。奴の血を引く者全て根絶やしにしろと命じたのだが……やはり、自分の目で見ないことにはなにごとも信じてはならぬな」
芝居がかった身振りで、ルークは語る。
本来なら敵のお喋りに付き合う義理などないのだが――ヴァートは我慢強くルークの言葉を聞く。
「お前が、俺の家族を殺したのか」
既に知っていることながら、ヴァートは改めて問うた。少しでも時間を稼ぎたいのだ。本来なら、このような男と交わす言葉などないのだが。
「ああ。私を拒んだクローディア、そして、私に傷を負わせたシーヴァー・ナイト……今でも忘れるものか、あの日のシーヴァー・ナイトの顔! 奴は、まるで虫けらを見るような目でこの私を見た!」
突如としてルークが激昂した。それまでの皮肉めいた態度はどこへやら、おそらくはこれがルークという男の本性なのだろう。
目は爛々と獰猛な輝きをたたえ、横に大きく開かれた口元はまるで飢えた獣だ。その顔が酷く醜いのは、シーヴァーに付けられたという火傷の跡のせいではない。こころの歪みが、そのまま表情に現れているのだ――そうヴァートは見取った。
「絶対に許せぬ! 奴がこの世界に存在していたという痕跡を、全て抹消する! そうしなければ、この右手の、この左足の、そしてこの火傷の痛みはいつまで経っても治まらぬのだ!」
ルークには、自業自得だという発想はまったくないようだ。鼻息も荒くまくし立てた。
「おい、いい加減に本題に入ったらどうなのだ」
ここで口を開いたのは、それまで押し黙ってルークの後ろに控えていたマット・ブロウズだった。
「ブロウズさん!? どうしてあなたが……」
ヴァートの言葉に、ブロウズは答えない。代わりに縛られたファイナの襟首を掴み立たせると、ヴァートに見せ付けた。ファイナは、猿轡の奥からくぐもった悲鳴を上げる。
「小僧、お前はこの女を助けに来たのだろう」
不愉快この上なかったが、ルークが自分から長々と喋ってくれるのなら、それだけ時間が稼げたのだ。しかし、ブロウズが割って入ったことでルークは多少落ち着きを取り戻している。
ヴァートは頷くしかない。
「約束どおり来たんだ。ファイナさんを解放しろ」
「さて、『女を助けたくばここへ来い』とは書いたが、『来れば女を返す』とは書いた記憶がないが」
ルークが、下卑た笑みを浮かべる。
「くっ……」
ヴァートが唇を噛む。しかし、この程度のことは想定内だ。相手が卑怯で目的のために手段を選ばない性格であることは、容易に想像できた。
予想外だったのは、ルークの傍に控えるマット・ブロウズの存在だ。
(素直にファイナさんを放すとは思っていなかったが……まずいな)
ブロウズが櫓から動かなければ、ファイナを助けるための算段が崩れてしまう。
「ブロウズさん、どうしてこんな男の味方をしているんだ」
ヴァートは、ブロウズに問いかけた。
「この男は俺に勝負の場を用意することを約束した。それも、俺を一生飽きさせぬほどのな」
「勝負? どうしてそんな……あんたほどの腕なら、望めば大きな試合にだって出られるだろう」
「木剣での試合など遊びだと言ったろう。俺が望んでいるのは、真剣勝負よ。互いに覚悟した者同士の命の取り合い、そうでなければ勝負とは呼べん」
ヴァートは、ホーキング邸で交わした、ブロウズとの会話を思い出す。特に、別れ際の一言。武術家の真価は、木剣での試合などでは量れぬ――
「近頃は、自分よりも弱い相手としかまともに勝負をしようとしない腰抜けばかりでな。真剣勝負の相手を探すのにも苦労していたのだ」
「まさか、修行の旅って……勝負の相手を探して回っていたのか!?」
「察しがいいな」
ブロウズの表情は、ホーキング邸で見たときとはうって変わって、冷酷そのものだった。血を好む性格であることは、普段隠していたのだろう。
「真剣勝負はいいぞ、小僧。斬り捨てた相手が俺の剣の血肉となるとき、たまらぬ快感を覚えるのだ」
そう言ったブロウズの表情。ヴァートは、同じような表情をした人々を知っている。この場所で行われていた賭け試合に熱狂する観客たちのそれと、まるで一緒だった。
「あんた……シアーズ伯爵がそれを知ったら終わりだぞ」
「まあ、殿ならば俺を許さんだろうな。しかし――」
と、ルークが愉快そうに嗤った。
「残念なことだが――義兄上はつい先ほど、心の臓の発作により逝去された。したがって、私を止められる者もおらぬということだ」
「っ!? 貴様、まさか――!」
ルークは嗤うのみで答えない。
ヴァートの頭に、かっと血が上った。自分の家族のみならず、実の伯父であるアンドレアスにまで手をかけたというのか――!
「許さない!!」
ヴァートの手が、剣の柄にかかる。
「待つでござる、ヴァート!」
ヴァートの肩を掴んだのは、アイだった。ミネルヴァの姿もある。包囲を突破した二人が、ヴァートに追いついた矢先の出来事だったのである。
「ファイナさんのことを考えなさい、ヴァートさん!」
ミネルヴァの言葉に、ヴァートは水をかけられたようにはっとなった。あまりの怒りに、ファイナが囚われの身となっていることも忘れそうになっていた自分に気付く。こころを落ち着かせるべく、大きく息を吐いた。
一方、櫓の上のルークは舌打ちをする。暗殺者ギルドにはヴァート以外の仲間を始末するように依頼したのだ。一人が犠牲になって二人を逃がしたのであろうが――四年前ヴァートを取り逃がしたことといい、口ばかりでつくづく信用できん連中だ。前金の半分は返してもらわねば気が済まぬ、などと考えている。
「済みません、取り乱しました。先生は?」
「一人で先ほどの連中を相手にすると、われわれを先行させました」
「一人で!?」
「先生ならば大丈夫。ヴァートが信じなくて、誰が先生を信じるでござるか」
私の心配をするなど、十年早い。ヴァートにはマーシャの声が聞こえた気がした。
「それにしてもこの状況――まずいですわね」
「うむ。あの男がどうにも邪魔でござるな」
「――俺に任せてくれませんか」
そう言って、ヴァートが一歩進み出た。
「ブロウズさん、あんたは間違ってる。人を斬ることで快感だと? そんなものは狂人の考えることだ」
「剣とは、つまるところ闘争の道具にすぎぬ。人を斬り、殺すための術理が剣術というものだ。俺は、剣士本来の姿に立ち返っているだけだ。それに、人も斬らずに強くなどなれるものか」
「だったら、俺と勝負しろ。一人の人も斬ったことのない俺があんたに勝つことができれば、あんたの理屈は間違っていることになる」
「大きく出たな。しかし、その言葉一理ある――いいだろう、面白い」
ブロウズは、ひらりと櫓を飛び降りた。
「待て! 勝手は許さんぞ!」
「サリンジャー、約束したはずだ。俺を飽きさせぬほどの勝負の場を提供すると。早速約束を果たしてもらう」
「くっ……」
ブロウズの眼光に射竦められ、ルークはそれ以上言葉を継げない。
「命が惜しくば、くれぐれも勝負に水を差すような真似はするなよ」
ファイナに視線を向け、ブロウズは警告を発した。ファイナに手を出すことでヴァートの集中を削ぐような真似はするな、ということなのだろう。
「わかった。しかし――ひとつだけ要求を呑んでもらおう」
「なんだ」
「あの小僧、できるだけじっくりといたぶって殺せ。それだけだ」
「……趣味ではないが、善処しよう」
ブロウズは羽織っていた外套を脱ぎ捨てながら、広場の中心に向かう。
「ちっ、これだから武術家というやつは嫌いなのだ」
ブロウズの背中に向かって、ルークが毒づいた。
(まあよい。ブロウズが勝とうが負けようが、ヴァート・フェイロンの命運は決している)
広場には、手下のならず者どもが三十人。そして、背後からの奇襲に備え森の中にも二十人ほどの手勢を配置してある。ヴァートが勝利し、さらにファイナの命を顧みず立ち向かってきたとしても、この人数に敵うはずはない。ルークはほくそ笑む。
「ヴァートさん、あの男を引っ張り出したのはいいのですけれど……負ければ、その場であなたの命は終わりですわよ。あの男の言葉がはったりでないことはお解かりでしょう」
「かの男、相当な腕前と見た。ほかにやりようはあったろう」
ファイナの傍から、ブロウズを引き離すことがまず肝要なのだ。必ずしも一対一の勝負など挑む必要はない。ミネルヴァもアイも誇り高き武術家である。ゆえに、一旦勝負が始まってしまえば、敵が卑怯な手段にでも出ない限りはヴァートとブロウズの勝負に手を出すことはできない。特殊な状況とはいえ、これはヴァートのほうから挑んだ正々堂々の勝負なのである。
「あの男は間違ってる。先生がここにいたなら、そう言うでしょう」
ヴァートは、自らの過去を告白したときのマーシャの顔を思い出す。底知れぬ悔恨に沈んだあの眼――ブロウズの言葉をマーシャが聞いたなら、彼女は怒るだろうか。それとも哀しむだろうか。
「それは私も同意しますけれど……私やアイさんではいけなかったのですか」
たしかに、自分よりもミネルヴァやアイのほうがブロウズに勝てる可能性は高い。
しかし、マーシャは「蜃気楼」での過去を話したのはヴァートだけだと言っていた。マーシャがこの場にいないならば、自分こそがブロウズの過ちを正さなければならぬとヴァートは考える。
「任せてもらえませんか。正直勝算なんてないですけど、負けるつもりもありません」
ヴァートの瞳に迷いはない。
「――やれやれ、仕方ない。美味しいところはヴァートに譲るゆえ、必ず勝たれよ」
「いてっ!?」
アイが、ヴァートの背中を強く張った。
「観客の質は少々悪いですが――一世一代の見せ場ですわ。ファイナさんに格好のいい所を見せて差し上げなさいな」
ミネルヴァがヴァートの背中を押す。
「ありがとうございます」
ヴァートは二人に一礼すると、広場中央の囲いに向かった。
囲いの中央では、ブロウズが腕組みし佇んでいる。
ヴァートは親指の先を剣で浅く切ると、滲み出た血で首筋に横一文字に紅い線を引いた。
ブロウズは、剣を引き抜くとくるりと回転させ、剣先を地面に向ける。
古式に則った、決闘の作法。
「ラルフ・ハミルトンが弟子、ヴァート・フェイロン」
「マット・ブロウズ。師はおらぬ」
静寂が支配する闘技場で、二人は対峙する。
と、ヴァートの顔に水滴が当たった。水滴はひとつ、またひとつとヴァートの身体に降り注ぎ――驟雨となった。
稲光が曇天を斬り裂き、一瞬遅れて身体の芯を震わせるような雷鳴が轟く。
「行きます」
「来い」
ヴァートは全身に気合を漲らせ、大きく踏み込んだ。




