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剣雄綺譚  作者: 田崎 将司
剣士ヴァートの回生
29/138

十三

「ゆうべ父上にそれとなく聞いてみましたが……シアーズ伯は温厚で心根の優しいお方だと評判らしいですわ」


 翌日の午後。

 試合の興奮も冷めやらぬヴァートは、ミネルヴァからそう聞いた。

 ブロウズから聞いた話とも合致している。


「そのような男が、陰謀をめぐらせ一家を惨殺しようとは思えないでござる」

「しかし、アイさん。悲しいことに――貴族とは、必ずしも綺麗ごとだけでは成り立たないものですわ。わがフォーサイス家とて、裏ではなにをやっているのやら、私にもわかりません」


 人々を導き統治する立場にある貴族は、本人が望む望まぬに関わらず、汚い手段を用いてでも問題解決を図らねばならぬときがある。ミネルヴァの言葉はそういう意味だ。

 いい人だから、という先入観でシアーズ伯爵を推し量ってはいけない。ヴァートは自分に言い聞かせる。


「昨日は早々にお帰りになったとかで、直接お会いすることはできませんでしたわ。自家から出した剣士の試合もご覧にならなかったのですから、お加減がよろしくなかったのかもしれませんわね。それから――」


 ミネルヴァは少し言いよどんだ様子を見せたが、意を決したようにふたたび口を開く。


「父上いわく、シアーズ伯は変わった瞳の色をしているのだとか」

「変わった色って、まさか――」

「はい。鮮やかな翠色なのだそうですわ」


 ヴァートは、頭を殴りつけられたような衝撃を受けた。自分と同じ希少な色の瞳――なんらかの血縁関係があることは、想像できよう。そして、血縁者に命を狙われているかもしれないという仮定は、あまり考えたくないものだった。


「ヴァート、気持ちはわかるがまだそうと決まったわけではないでござるよ」

「それは、そうなんですけど……」


 いや、知らないほうが良かった真実を知ってしまうことになっても、それは自分が望んだことだ。ヴァートは自らの両頬を張り、雑念を振り払う。

 貴族と血のつながりがあるかもしれないということも驚きだが、いまのヴァートにとってそれは大した問題ではない。


「それに――私からも、少し気になる情報がある」


 マーシャが口を開いた。


「知り合いに、シアーズ家の近所に住む貴族に仕える男がいたのを思い出してな。軽く探りを入れてみた」


 とある剣術試合でマーシャと知り合ったというその男いわく――シアーズ家の邸宅に、とても貴族の家臣とは思えぬ怪しい風体の連中が出入りしているのを見たというのだ。それはここ三、四年ほどの話で、以前はそのようなことはなかったという。


「どうも、屋敷自体の雰囲気が変わってしまったように感じる」


 と、マーシャの知り合いは語った。


「怪しい風体の連中……?」

「やくざ者かごろつきの類だろうと、その男は言っていた」


 近所でのシアーズ家の評判も、下がりっ放しだとか。

 こうなると、ますます怪しい。


「さあどうする、ヴァートよ」


 ヴァートは首を捻って思案する。

 まだシアーズ家が敵と決まったわけではない。状況的に怪しいというだけで、瞳の色もただの偶然の一致に過ぎないかもしれない。巨大な財産を持つ家柄だけに敵も多いだろう。誰かの命を狙う動機はいくらでも考えられるが、かといってそれがヴァート家族の命を奪ったことの裏づけとなるわけでもない。

 しかし、いまのヴァートにできるのは考えうる可能性をひとつひとつ潰していくことだけだ。シアーズ家が怪しいというのなら、まずはその線で調べるだけだ。


「うーん、貴族の家の中のことを調べるのは難しいかもしれないけど、そのごろつきみたいな連中の正体を探ることはできる、かなぁと」


 できる限り自分の力で解決する。そう決めたのは自分だ。ミネルヴァの家の力を借りればもう少し詳しくシアーズ家の内情がわかるかもしれないが、皆を頼るのは自分ができる精いっぱいをやってからだ。


「妥当だな」


 マーシャが頷いた。

 いきなり正面からシアーズ家とぶつかるのは得策ではない。外堀から埋めて行くのが情報収集の基本である。


「しかし、特定の対象を監視し、尾行するには技術が必要です」


 パメラが、珍しく自分から発言した。


「? パメラさん、詳しいんですか?」


「はい、それなりには」

「どうしてそんな知識が……」

「要人の側近く仕える者としては当然の教養です」

「そういうもんなんですか」


 ここでもただの侍女らしからぬ一面を見せるパメラであったが、ヴァートはもう気にしないことにした。


「それで、尾行って難しいんですか?」

「相手がその道の専門家なら、ヴァートさんも然るべき訓練を受けねばならないでしょう。しかし、対象が素人ならば、いくつかの点に気を配りさえすれば尾行は難しくありません」


 ヴァートはそれからしばらくの間、パメラからみっちりと張り込み・尾行術の基本を教わるのであった。

 



 その怪しい男たちというのは夜間、シアーズ家の裏の通用門から出入りするという。

 シアーズ家との関係は定かでないが、さすがに異様な風体の連中が真昼間から大手を振って貴族の屋敷に出入りするわけにはいかないようだ。

 ヴァートは日が暮れてから新市街に入り、シアーズ家に向かった。フォーサイス家から借りてきた従士ふうの上着を身につけている。髪型もきちんと整えており、ちゃんと貴族の屋敷に使える若者に見える。上京したての頃に比べれば見違えるようである。

 ミネルヴァなどは、


「貴族のお坊ちゃんと言っても通用しそうですわね」


 と評したほどだ。

 あたりに注意を払いつつ、シアーズ家の裏手に回った。都合のいいことに、植木を刈り込んだ際に出たのであろう枝葉が、山と積まれていた。先日話を聞いた庭師が積んだのだろうか、とヴァートは考える。

 ヴァートは枝葉の山の陰に身を潜め、静かに通用門を見張り始めた。

 どれくらい時間が経っただろうか。今日は空振りかと思い始めたヴァートの前で、通用門が開かれた。

 中から、五人ほどの男たちが出てきた。派手な色の服をだらしなく着崩し、下卑な冗談を言っては大声で笑う。肩で風切って歩くさまは、まさにごろつきそのものだ。


(確かに、怪しい……)


 いくらヴァートが世間に疎くても、その連中がこの場にそぐわないことは一目瞭然である。

 十分な家臣を養う金銭的余裕がない貴族が、用心棒や護衛としてごろつき紛いの武術家崩れを一時的に雇い入れることも稀にあるらしい。

 しかし、この豪邸の持ち主がそこまで切羽詰っているとは思えない。

 さて、ヴァートは早速尾行を開始した。

 ごろつきたちは、手にランプを持ちながら歩いているため、夜間でも見失う危険はない。そして、相手はまさか自分たちが尾けられているなどとは思っていないようだ。パメラから尾行術の基本を教わったヴァートだったが、結果的にそれは必要なかった。

 ごろるきたちは新市街を出て、西に向かった。新市街はもともとあったレン市街の西に新たに造成された街だ。したがって、そのさらに西となれば大部分がまだ未開の森林である。未舗装の道沿いにはわずかばかりの民家と農地があるだけで、レンからすぐの場所とは思えない寂しさだ。


(いったい何の用なんだ?)


 ごろつきたちの目的がさっぱりわからない。

 と、ごろつきたちが脇道に入った。尾行を続けるヴァートは、脇道の先に開けた場所があるのに気づく。林を切り開いて造ったのであろう広場のような空間が、そこにはあった。

 のちに聞いた話だが、そこは数十年前まで使われていた練兵場跡なのだとか。幽霊が出るという噂で、近隣の者は近づこうとしない。

 しかし、広場には何本もの篝火が焚かれ、その手前には二十台もあろうかという馬車と、数頭の馬が停められている。


(こんなところに人が集まってなにをやってるんだ……?)


 ごろつきたちが行う怪しい取引とも思えない。わざわざこんなところまで来なくとも、人目につかない場所はレン市内にいくらでもある。

 考え込むヴァートだったが、突如横合いから強く腕を引かれた。

 驚きながらも反撃を試みようとしたヴァートは、腕を引いたのが良く見知った人物であることに気付いた。


「ヴァート、尾行中は自分もまた尾行されていないか気をつけるべし。パメラが言っていたはずにござろう」


 耳元で囁いたのは、アイであった。

 そして、ヴァートが通ってきた道から、新たに数人のごろつきが歩いてくるのが見えた。

 あのままぼーっとしていれば、ヴァートは見つかっていたのかもしれない。


「危なっかしいから様子を見てやってくれと先生に頼まれてな。密かにヴァートを見守っていたのでござるよ」

「あ、ありがとうございます」


 アイに監視されていたことに、まったく気が付いていなかったヴァートである。


「それにしても……いかにも怪しげな場所でござるな。どうする?」

「とにかく近づいて、様子を見ましょう」


 二人は林の中に入って回り込むことにした。大きな足音を立てないように気をつけながら、広場の裏手を目指す。


「なんだ……? 人の声が……」


 木立ちの間から広場を覗くと、そこには人だかりができていた。人だかりの中は見えない。

 アイが、無言で上を指差した。そして手近な木に取り付くと、猿のような身軽さであっという間に天辺近くまで登って行ってしまった。

 アイに続いて、ヴァートも登り始めた。木登りなどしたことがなかったが、鍛えられたヴァートがアイの少し下まで登るのにさほど時間はかからなかった。


「あれは……試合、なのか?」


 広場の中心には、地面に打った杭に縄を張っただけの簡単な囲いが造られていた。そして、その中では二人の男が戦っていたのだ。

 男たちが手にした剣が、篝火の炎にきらめく。


「まさか、真剣勝負!?」


 斬撃を食らった男から、血しぶきが上がる。紛れもない真剣勝負であった。

 異常な光景だ。囲いを取り囲む数十人もの人々は、みな熱に浮かされたかのような表情で、身を乗り出し、食い入るように試合を見ている。

 観戦者たちの多くが高級そうな衣類に身を包んでいた。富裕層が多いのだろうか。そして全員、舞踏会の仮面で人相を隠している。


「どうやら、賭け目的の見世物のようでござるな。師と旅をしていた途中、同じような試合を見たことがある」


 当然、これは違法行為である。

 ひときわ大きな血しぶきを上げ、一人の男が倒れた。首筋の急所を切り割られたのだろう。

 観客たちから、熱狂的な歓声を上がった。


「狂ってやがる」


 ヴァートが吐き捨てた。人が死ぬところを見て悦ぶなど、まともな人間の所業ではない。

 アイも同意見のようで、唇を歪めている。


「……ん? あれは……」


 ヴァートは、さきほど自分が尾行してきた男たちの姿を見つけた。男たちは一人の男に付き従い、指示を受けているようだ。


「あの男が親玉のようでござるな」


 男が歩くと、人々は彼の前に道を空ける。この場において、上の立場にある人間であることは間違いない。

 顔を見られては都合が悪いのだろうか、目から下をマスクで覆っており、人相はわからない。左足を引きずるように歩いているのは、怪我かなにかのせいだろうか。歩くときも手下に指示を出すときも右手をほとんど上げない。右手も悪いのかも知れぬ。

 もっと詳しく見ようと、ヴァートが身を乗り出したのが悪かった。体勢を崩したヴァートは、木の枝から滑り落ちてしまった。


「くうっ!?」


 辛うじて受け身が間に合ったため負傷は免れたが、枝葉が折れる大きな音が響いた。


「何ごとか!」


 首領格と思しき男が声を上げ、ランプを手にしたごろつきたちが木立ちに殺到する。


「逃げるでござるよ!」


 アイはヴァートの手を引いて立ち上がらせると、走り出した。

 痛む身体に鞭打ち、ヴァートもアイに続く。


「っ……! 速い!」


 アイは、足元の悪い闇夜にもかかわらず、疾風のような速度で林を駆け抜けていく。


「ほら、追いつかれるでござるよ!」


 ヴァートを振り返り叱咤しながらも、アイの速度は落ちない。その運動能力に、非常時ながらヴァートは感嘆せずにいられない。

 やがて、二人は道に出た。そこでは、既に四人のごろつきが馬に乗って警戒に当たっている。


「おい、こいつらか!?」


 ごろつきの一人が叫ぶ。アイは気にせず一気に騎馬のごろつきに肉薄すると、高く跳躍。馬に乗った状態の男の頭辺りまで跳んだアイは、男の側頭部を強烈に蹴りつける。男は呻き声を上げ、落馬した。


「せいッ!」


 鞍上に着地したアイは、そこからさらに跳躍。二人目の男の顔面に向かってとび膝蹴りを放った。盛大に鼻血を噴き上げつつ、男は白目をむいた。

 その男の身体を踏み台に、アイは三たび跳躍。三人目の男の肩に、まるで肩車のような格好で跳び乗る。首に両足を絡め、上体を捻りつつ仰け反るようにして後ろに体重を預けた。


「ぐえぇっ!?」


 男は奇妙な声をあげ、馬から振り落とされた。

 ヴァートも負けじと最後の一人に狙いを付けると、跳躍しつつ剣を抜き放ちざま斬り上げた。手綱を持つ手を斬られ、その男も落馬する。

 アイは一頭の馬にひらりと跨ると、手綱を取った。


「ヴァート、乗馬は?」


 ヴァートが首を横に振る。馬車ならともかく、馬になど乗ったことがない。


「ほれ、早く!」


 アイが鞍の前方に腰を浮かせ、手招きする。後ろに乗れということらしい。本来は馬を御するアイが後ろに座ったほうが安定するのだが、身長相応に手足が短いアイゆえそれだと手綱を捌きにくい。

 多少不恰好ながらもヴァートが馬によじ登ると、アイは馬の腹を蹴った。弾かれたように、馬が急加速する。


「うわっ!?」


 驚いたヴァートは、振り落とされないようアイにしがみ付いた。


「こら! どこを掴んでいるでござるか!」


 気付くと、ヴァートはアイのささやかな胸を両手で鷲掴みしていた。小さいながらも、女性特有の柔らかさが掌に伝わる。

 同時に、アイの肘鉄がヴァートの脇腹に突き刺さった。本気の一撃ではないのだろうが、それでもヴァートの肋骨が悲鳴を上げるほどの威力だ。


「ごっ、ごめんなさい!」

「まったく、掴むなら腰!」

「は、はい!」


 脇腹の痛みをこらえつつ、ヴァートはアイの腰に手を回す。

 しばし馬を走らせ、新市街まであと少し、というところで後方から蹄の音が響いてきた。追っ手だろう。アイは最後に強く馬の腹を蹴り、馬を飛び降りた。ヴァートもそれに倣う。ごろごろと地面を転がって受け身を取ると、二人はそのまま道の脇の林に突っ込んだ。

 追っ手はヴァートたちが馬を捨てたことに気付かず、なおも走り続ける馬を追ってヴァートたちを通り過ぎた。

 追っ手をやり過ごしたヴァートたちは、道を通らず林を抜けて新市街に入った。

 街に入ってしまえば、追っ手を撒くことなど容易だ。念のため尾行に気をつけつつも、二人は桜蓮荘に戻るのだった。




「どうやら、街のやくざ者が開いている賭場とはわけが違うようだな」


 ヴァートとアイの話を聞いたマーシャが、そう言った。

 カード一組、サイコロ一つあれば成り立つ街の賭場と違い、少なくとも二人の命知らずを用意する必要がある。規模も大きいから、開催には相応の元手がいる。

 そして、いかにも金持ちそうな観客たちである。金を持っていて、しかも血を好むような人間ばかりを選んで集めようと思うなら、広い人脈が必要となる。

 また、人の生死を賭けにするなどという行為は、摘発を受ければ重罪は免れぬ。

 摘発されない自信があるのか、それとも摘発されても平気な理由があるのか。強い権力を持つ者なら、後者である可能性もある。


「それに、シアーズ家が関わっていると?」


 ミネルヴァが眉根を寄せた。


「まだ決まったわけではない。が、まったく無関係であるということはないだろう」

「しかし、シアーズ家には動機がありませんわ」


 貴族が非合法な賭け事に関与する。考えられるのは、金儲け目的なのだが――それはないだろう、とミネルヴァは断言した。なにしろ、シアーズ家の財力は社交界に知れ渡っているし、密かに借金苦にあえいでいるという可能性もないというのだ。


「必ずしも金が目的ではないかもしれませぬぞ、ミネルヴァ様。あの試合を見ていた客たちの異様な眼と熱気――もし、試合の主催者が観客と同類の人間だとしたら?」


 アイアの言葉は、要するに試合の主催者は、血を見たいという自らの欲望を満たすため試合を開催しているのではないか。そういうことだ。


「今の段階では、全て推測の域を出ない。しかし――これは思わぬ方向にことは転がってしまったようだ」


 マーシャが、深刻な顔で考える。


「ヴァートが自分の力で真実にたどり着くことを期待していたが――ことここに至っては、公権力の力を借りねばなるまい」


 ヴァート個人の問題に留まっていた間はまだいい。大規模な組織犯罪が絡むとなれば、善良ないち市民として捨て置くわけにはいかない。


「でも先生、ことによっては警備部に圧力をかけられる相手なんじゃ……」


 ヴァートの言葉はもっともだ。警備部を頼れないからこそ、個人的に調べを進めてきたのだ。


「悪を処断する組織は、警備部だけではないということだ、ヴァート。詳しくは、明日――いや、明後日になかも知れぬ。その時に話す」




 夜もどっぷりと更けたころ。

 新市街のシアーズ家邸宅最上階の執務室にて、当主アンドレアス・シアーズは手元の資料に目を通していた。


「今度は、絶対に失敗は許されぬ……」


 年のころは五十過ぎか。髪はその大部分が白く、顔には深い皺が刻まれている。病であるという巷の噂は本当なのだろう。身体は枯れ枝のように痩せこけ、顔色はひどく青白い。


「かといって、信頼できる手駒は少ない……だが、このままではことが露見するのは必定」


 机に両肘を突き、眉間に皺を寄せながら深く考え込む。

 と、部屋のドアがノックされた。


「誰だ」

「私ですよ。入っても?」

「しばし待て」


 アンドレアスは、紙の束を手早く引き出しに仕舞いこんだ。

 入ってきたのは、一人の男だった。口元から目の下までを覆う大きなマスクをしている。


「何用か」

「実は、少々金が要り用でして」

「またか。いくらだ」


 男が告げた金額は、決して少なくない。一般庶民なら、目の玉が飛び出るような大金だ。

 アンドレアスは大きくため息をつくと、引き出しから書類を取り出し、なにごとか書き付けて署名する。封筒にしまうと、指輪で封蝋に紋章を入れた。


「いま屋敷には余分な現金がない。両替商に持って行くがいい」


 アンドレアスは、机の上に封筒をぞんざいに放り投げた。


「では、確かに」


 一方の男は、当主に対して金の無心をしているというのに礼の一つも言わず、尊大な態度を崩そうとしない。アンドレアスも、ことさらそれを咎めようとしなかった。


「それにしても、ここ最近随分お忙しそうだ。お体に障るゆえ、ご自愛なさったほうがよろしいのでは」


 男の言葉には、相手を心配するというよりもむしろ見下したような響きがある。アンドレアスの右眉がわずかに上がった。


「心配は無用。私が忙しいとわかっているのなら、もう下がるがいい」


 男は肩を竦めると、踵を返した。わずかに振り返ると、口を開いた。


「そうそう、人を使って密かになにか調べさせているようですが……その手の仕事に向いた連中に心当たりがあります。よろしければご紹介いたしますよ」

「要らぬ」


 覆面に隠され、その表情は覗えぬ。しかし、男の口元が歪んだのは覆面越しでもはっきりと見て取れた。


「では、今度こそ失礼」


 男は扉に向かって歩き出した。左足を引きずりながら。


「疫病神め」


 閉まった扉に向かって、アンドレアスが吐き捨てた。


「しかし――やつに気付かれてはならぬ。急がねば」


 アンドレアスの皺が、一層深まった。



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