十一
「シアーズ家、ですの?」
貴族のことは貴族に聞くのが手っ取り早い。
翌日。午前中の稽古の前に、ヴァートはミネルヴァに昨晩得た情報を話した。
「アトリード伯爵のシアーズ家のことかしら。ライサ島の南に領地をお持ちのはずですわ」
ライサ島は、シーラント王国という島国を構成する島のうち、王都がある本島のシーラム島に次いで大きな島だ。
シアーズ家は三十年ほど前に国内有数の大富豪、サリンジャー家から嫁を迎え、縁戚関係を結んだ。サリンジャー家の支援を受けて始めた事業が大当たりし、今ではシーラント国内の貴族の中でも五指に入るほどの財力を誇っているとか。
「なんでもお体が悪いので、ご当主はあまり外出なされないとか。社交界のほうでもお会いしたことはありませんわね」
フォーサイス家とはあまり縁がないらしく、ミネルヴァが知ることは少なかった。
「確か、新市街に邸宅をお持ちのはずですわ。私が教えられるのはこのくらいですわね」
貴族は自分の領地にある本宅のほか、王都レンに別宅を持つことが多い。社交界の付き合いもあるし、王都でこなさなければならない領主としての実務もあるため、そのほうが何かと便利なのだ。シアーズ家も、新市街に巨大な豪邸を構えているという。
ヴァートは聞いていいものか迷った末、一つの質問をぶつけてみた。
「無礼を承知で聞きますけど……たとえば、力のある貴族が、人知れず一家まるごとを亡き者にする――そんなことって可能なんですか」
シアーズ家が黒幕であると断定したわけではない。あくまで可能性の一つだ。
フォーサイス家ならそれが可能なのか、という質問にも等しいため、ヴァートはミネルヴァが怒るのも覚悟していた。
ヴァートの質問に、刀痕のあるミネルヴァの右頬が一瞬引きつった。しかし、ミネルヴァの顔に浮かんだのは怒りではなく――悲しみの表情であるようにヴァートには見えた。
「……結論から言えば、可能ですわ」
ミネルヴァは、断言した。
「とある貴族が私欲のため多くの人々を謀殺し、何年もの間それを隠し通したという事件が近年も起こっていますわ。いくつもの偶発的な出来事ががなければ、ことは露見しなかっただろうと言われています」
「ヴァートよ、言いにくいことだが……人を社会から消すというのは、それほど難しくはないのだよ。警備部というものがありながら、だ」
たとえば、とある町である日突然一家が姿を消したとする。家族の中に勤め人がいるなら、すぐ職場の人間が疑問に思うかもしれない。しかし、その一家が自前の耕作地を持つ農民であるとか自営業だった場合、周りの人間が騒ぎ出すのは数日経ってからになるだろう。
腕の立つ暗殺者ならば、証拠を残らず一家を拉致し、殺害することも不可能ではない。そして、数日も経ったころには死体、遺留品などのあらゆる後始末を終えているはずだ。
一家が姿を消したことを警備部に通報しても、残された家に血痕であるとか争った形跡が見られない場合、警備部はよくある夜逃げであると判断して捜査を打ち切るだろう。
こうして、事件は人知れず闇に葬られることになる。
「うーん、そういうものなんですか……怖い話だ」
マーシャの説明を聞いて、ヴァートは大きく嘆息する。
それにしても、なぜマーシャは犯罪者の手口に通じているのだろうか。思えば、ヴァートがマーシャについて知っていることは少ない。疑問は残るものの、いまのヴァートにとってそれは重大事でない。
「場合によっては、警備部に圧力をかけて事件があったこと自体を握りつぶすことも可能ですわね。悲しいことに、この国では貴族の縁故主義が根強く残っておりますので」
「それはシーラントに限らないでござるよ、ミネルヴァ様。某はいくつもの国を見てきたが、この国はまだましなほうだ」
ともかく――ヴァートの家族もそうして存在を消されたのだろうか。
官憲の手は借りられぬ、ヴァートの父はそう言っていたはずだ。相手が警備部に影響力を持つ存在だった場合、情報が漏れかえって身を危険に晒すことになるだろう。マーシャがヴァートの殺害未遂事件を通報しなかったのも、同じ理由からだ。
「シアーズ家が関わっているかどうかはともかく――お前の家族の命を狙った相手は、そういう強い力を持った連中である可能性が高い。ヴァートよ、今なら引き返せるぞ。どこか安全な場所に、お前を匿ってやることもできよう」
マーシャが、ふたたびヴァートの決意を問う。
胸に剣を突き立てられたときの恐怖は、いまだ身体から消えていない。一度死に直面したヴァートだからこそ、なおさら死ぬのは怖い。しかし――
「……はい。もしそんな力を持つ奴らの仕業だったのなら、余計に許しておけません。ハミルトン師匠だってそう言うはずだ」
ヴァートの闘志は萎むどころか、むしろ熱く燃え上がっている。
強きにおもねるような意志薄弱な人間は、そもそも武術家に向かない。ハミルトン道場で、ヴァートの精神は強靭に育てられていた。
「ヴァート、よく言った! 不肖アイニッキ・ウェンライト、いつでも手を貸すでござるよ」
「フォーサイス家として関与するわけには参りませんけど、私個人としてなら助力は惜しみませんわ」
パメラも、無言で頷いた。
「ありがとうございます。でも――まずはできる限り、自分の力で調べてみたいと思います」
「うむ、それでいい。だが――どうしようもなくなったら、遠慮せず頼るのだぞ」
軽々しく皆の手を借りるつもりはない。しかし、ここに集った四人の心遣いは、ヴァートにとって万の軍勢にも勝るほど頼もしいものだった。
「新市街って凄いんだなぁ」
街の中心にそびえる王城を見上げながら、ヴァートがひとりごちた。
ヴァートはこの日、新市街にあるというシアーズ家の邸宅の様子を見に来たのだ。
古いものから新しいものまでさまざまな建物が混在し、道も複雑に曲がりくねっている下町と違い、新市街は都市計画に基づいて建設されているため街並みは整然としている。
雑多ではあるが活気に満ち溢れている下町に対し、高い塀に囲まれた豪邸が並ぶ新市街は、どことなく冷たく無機質であるようにヴァートは感じた。
さて、この日のヴァートの装いはいつもと異なっていた。上にはポケットの多いチョッキを着け、下には幅広のスラックスを穿いている。これは大工の作業着で、マーシャが近所の知り合いから借りてきたものだ。ヴァートが持っているのは継ぎだらけの剣術着ばかりで、高級住宅街でそれはあまりに目立つ。なので念を入れ、簡単な変装をすることにしたのだ。
ご丁寧なことに木製の道具箱も持っており、どこかの家の営繕をしに来た職人、というふうにしか見えないだろう。道具箱の中には、万一に備えて護身用の短剣を忍ばせているが、これの出番が来ないに越したことはない。
伸ばし放題だった髪の毛も床屋でさっぱりと切り落とし、つばが広めの帽子をかぶっている。特徴的な瞳も、これならば見られる心配はない。
「しかし凄い家ばかりだな。こんな家買うには、一体どれくらい金がかかるんだ」
ヴァートには想像もつかない。実際のところ、ヴァートが見上げたその豪邸は、ハミルトン道場があったエディーンの村が丸ごと買えるほどの価値があったりする。
新市街は、王城を取り囲む二本の環状道路に区切られた三層構造になっており、街の内側、つまり王城に近い層ほど格が上がる。
シアーズ家の邸宅は、その一番上の層にある。それだけの財力があるということだ。
ちなみに、ミネルヴァの実家であるフォーサイス家の邸宅は新市街の一番外側にある。国有数の大貴族だから、最高の一等地に邸宅を構えることも可能なのだが、あえてそうしない。もし王都に有事あらば、先頭に立って王を守らねばならぬという考えからである。昔気質の武人のような気風を持つ家系なのだ。
下町と違い、新市街の道はわかりやすい。大して迷うこともなく、ヴァートは目的の番地の近くまで辿り着いた。
「あれか……」
それは、ひときわ大きな豪邸であった。
「さて、どうするか……」
もしかしたら、自分を狙う何者かの眼があるかもしれない。気を付けるに越したことはないのだが、道の真ん中で足を止めているのも不自然だ。なるべく不審に思われないよう注意しながら、ヴァートはシアーズ家の外壁沿いを歩く。と、庭師が庭木に梯子をかけて手入れしているのが外壁越しに見えた。
「そこのあんた、ちょっといいかい」
ヴァートは庭師に声をかけた。
「ああ? なんだい」
「ちょっと聞きたいんだが、ここらにカーライルってお宅があるのを知らないか? 馬小屋の修理を頼まれてるんだ」
ヴァートは、適当な名前をでっち上げて尋ねてみる。ちなみにカーライルとは、ハミルトン道場の先輩から拝借した名前である。
「カーライル……? 知らないなぁ。別の区画じゃないのか」
「そうか、すまなかったな。しかし、凄いお屋敷だな。持ち主はどちらのお大尽だい」
「アトリード伯爵、シアーズ様さ」
仕事に飽きてきたところだったのだろうか。中年の庭師はヴァートの世間話に乗ってきた。
はじめは怪しまれないか不安だったヴァートだが、無用の心配だったようだ。演技をする上で肝要なのは度胸である。そしてヴァートには名優となりうるほどの肝っ玉が備わっていた。
「シアーズ様か。聞いたことがあるな……そうだ、なんとかという、強い剣士をお抱えじゃなかったか?」
「そりゃたぶん、ブロウズさんのことだろう」
「そうそう、そのブロウズだ。俺はこれでも武術愛好家でな。ここ二年くらいブロウズが試合に出てないからどうしてるのかと思ったんだ」
ファイナに教わった知識を交えつつ、ヴァートはもっともらしく語る。
「あの人は変わり者でな。王都に飽きたら、ぶらっと修行の旅に出ちまうのだ。しかし、半月ほど前に戻られたばかりだ」
ブロウズが今もシアーズ家に召し抱えられていることははっきりした。
「へぇ。で、ブロウズは次いつ試合に出るんだ?」
「確か、何日か後にホーキング男爵の屋敷で行われる試合に出るって話を小耳に挟んだが――ただ、内々の試合らしいから兄さんが観戦するのは無理だろうな」
「そりゃあ残念だ……おっと、こうしてる場合じゃなかった。早い所お客の家に行かなくちゃな。じゃあ、邪魔して悪かった」
ヴァートは、庭師に礼を言ってその場を立ち去った。
慣れない演技をして気疲れはしたが、収穫はあった。あとはどうやってシアーズ家の内情に切り込むか。それが問題である。
「ホーキング男爵の主催する試合でしたら、父上も行かれるはずですわよ」
そう言ったのはミネルヴァである。
ホーキング男爵は武術好きで知られており、自宅に武術家を招いて定期的に試合会を行っている。ミネルヴァの父である公爵も、毎回その試合に招かれているというのだ。
「その試合について、詳しくわかりますか?」
「私は行ったことがないから、良くは知らないのですけれど。そうですわね……パメラ、実家までお使いをお願い」
パメラは、フォーサイス家の邸宅から招待状を携えて戻ってきた。
招待状には出場する武術家と、対戦の組み合わせが書かれていた。その日行われる試合は、全部で十二試合らしい。ブロウズは名前は、組み合わせの一番最後にあった。
「なんとか潜り込めないでしょうか」
ブロウズに接触することができれば、何か情報が得られるかもしれない。ヴァートはそう考えたのだ。
そして、ヴァートにはもう一つ思惑があった。
「うーん、父上の従士という名目でなら、できないことはないでしょうけど。でも、それでは常に父上の傍に控えていないといけませんわよ」
勝手に公爵の傍を離れ、情報収集することはできないようだ。ならば潜入する意味がない。
「どれ、私にもその招待状を見せてみろ」
と、マーシャが口を挟んだ。
「なるほど、ファイナが見れば涎をたらしそうな組み合わせばかりだな」
内々の試合とはいえ、かなりの強豪が集められているらしい。
「しかしヴァートよ、この会場にもぐりこむということは、場合によってはお前の姿を敵に晒すことになるかも知れぬのだぞ」
「もちろん承知の上です。むしろ、敵に俺の姿を見せ付けてやろうと思います」
「なるほど、自らを釣り餌にして敵を引きずり出そう、と」
アイが、ぽんと手を打った。
敵の前にあえて自分の姿を晒す。これは、敵に対する挑発行為に等しく、宣戦布告と言ってもいいだろう。危険は大きいが、敵がなんらかの動きを見せる可能性は高くなる。
「思い切ったことを考えたな。あえて敵の顎に手を入れるか。その意気はよし。しかし、何か上手い手を考えねば……ん?」
ふたたび招待状に目を落としたマーシャが、何かに気付いたようだ。
「喜べ、ヴァートよ。なんとかなるかも知れぬぞ」
マーシャは笑みを浮かべてそう言った。
その日のうちに、マーシャはヴァートを連れて桜蓮荘を出た。珍しく剣士としての正装に身を包んだマーシャが向かったのは、レン郊外にある大きな道場だ。看板には、「オーハラ流・ローウェル道場」とあった。
「久しいの、マーシャよ。まったく、遠方に住んでいるわけではないのだから、もっとまめに顔を出さぬか」
二人を出迎えたのは、小柄な老人であった。名をマイカ・ローウェルといって、今年六十五になるが、背筋は伸び動きはきびきびとしていて年齢を感じさせない。
彼は十数年前まで王家の剣術指南を務めた、二つ名「清流不濁」を持つ国内屈指の剣豪だ。
最近はすっかり好好爺じみてきたこの老人は、マーシャの剣の師である。ということは、ハミルトンの師匠でもあるということだ。
「ヴァート・フェイロンと申します。ラルフ・ハミルトンに三年ほど師事しておりました」
とヴァートが緊張の面持ちで挨拶すると、マイカは目を丸くした。
「ハミルトンの弟子とな。あの男、田舎に引っ込んでからというもの便り一つ寄越さん馬鹿弟子でな。奴は息災か」
「はい、とても。門弟の誰よりも元気なくらいです」
それは重畳、とマイカは笑った。
二人は道場脇の母屋にある応接室に通され、歓待を受けた。
「それで、何か用件があるんじゃろう」
と、マイカはマーシャに問うた。
「わかりますか」
「顔つきを見ればわかるわい。それに、出不精のお前がわざわざ訪ねて来たんじゃ。ハミルトンの弟子の顔を見せに来ただけとは思えぬ」
お師匠様にはかないません、とマーシャは苦笑し、件の案内状をマイカに見せた。
「この第一試合に出るリチャード・ヘイグとは、あのリックのことではありませんか?」
「おお、そうじゃ。内々に行われる試合とはいえ、奴にとってはいい機会じゃろう」
リチャードとは、マーシャより三つ歳下の弟弟子である。マーシャがこの道場に通っていた少女時代、よく可愛がってやったものだ――のちに、マーシャはそう語った。
「実は……この試合の出場権を、このヴァートに譲っていただきたいのです」
「また、妙なことを頼むの」
「お願いします!」
懇願するヴァートの表情を、マイカはじっと見据える。
「なにか、理由ありのようじゃの。しかし、こればかりは本人に聞かねばなるまい。どれ、今リックの奴を呼んで来させよう」
程なくして現れたリチャード・ヘイグは、巌のような堂々たる巨躯といかつい顔つきで、いかにもつわものといった風情の男であったが――マーシャの姿を見るなり背筋を伸ばし、直立不動の体勢をとった。
「グレンヴィル先輩! お久しぶりにございます!」
緊張しているのだろか。その声は上ずっていた。
「おお、リック。変わりないようで何より」
マーシャが用件を話すと、リチャードは怪訝な表情を見せた。自分の活躍の場を譲れと頼まれたのだから、当然である。
「済まぬ。詳しい事情は話せないのだが――この通り」
ヴァートと一緒になってマーシャが頭を下げたため、リチャードは大慌てである。
「よ、止してください、先輩! まあ、少々残念ではありますが……先輩の頼みとあらば聞かないわけにはいけません」
と、リチャードは快諾した。
「リックよ、お前にはまた別の機会を見繕ってやるでの。まあ、気を落とすな」
マイカの励ましを受け、リチャードが応接室を辞去しようとしたところに、マーシャが声をかけた。
「そうだ、リック。礼代わりと言ってはなんだが、せっかくだから久しぶりに稽古をつけてやろう……なんだ、その顔は。嬉しくないのか?」
「いえ、決してそういうわけでは……ああ、そうだ! 実は今日は腹の調子が……」
「何を言う。先ほどまで元気に稽古をしていたではないか」
「それは、その……」
マイカの言葉に、リチャードは口をつぐむ。
「そら、行くぞ。どれだけ腕を上げたか見せてもらおう」
顔を引きつらせ冷や汗を流すリチャードの襟首を掴むと、マーシャは道場に向かっていった。
「さて、稽古が終わるまで時間があろう。ひとつ、ハミルトンの話でも聞かせておくれ」
「ぎゃあ」だの「ひぃ」だのというリチャードの悲鳴がかすかに聞こえる中、ヴァートはハミルトン道場での思い出話を語るのだった。




