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剣雄綺譚  作者: 田崎 将司
剣士ヴァートの回生
20/138

 ヴァートは、夢を見ていた。

 傷による熱に浮かされ、浅いとも深いともわからぬ眠りに落ちていたときに見た、あの夢だ。

 何度、同じ夢を見ただろう。

 怪我がある程度癒え、マーシャから与えられた部屋で一人床につくようになってからは、見る頻度が増えている。

 ヴァートを庇う男の顔は見えない。とても良く知っている人のはずなのに、それが誰だか思い出せないのがもどかしい。あと少し、もう少しこちらを向いてくれれば顔が見えるのに――そう思った瞬間、いつも目が覚めるのだ。

 そして、自分は一体何者なのか――この疑問が、頭をもたげてくるのだ。

 今の生活に不満はない。

 ヴァートにとって、マーシャは愛情と尊敬と畏怖が混じり合った、信仰心にも近い感情を向ける特別な存在となっていた。そのマーシャのもと、日々剣を学ぶ生活がどれほど充実したものであるか、想像に難くないだろう。

 しかし――ふとした瞬間、強烈な不安がヴァートを襲うのだ。

 記憶がないということは、「自分」がないのと同義である。自己という存在は、長い時間をかけて蓄積される経験をもとに作り上げられるからだ。これから経験を積み、新たな自己を形成すればよい――そう簡単に割り切れる人間のほうが珍しいだろう。

 自分が何者なのか知りたい――その欲求は、日ごとに強まっていくばかりだった。




 夏も間近に迫ったある日のこと。ヴァートがマーシャのもとで住み暮らすようになってから、三月半ほどが経過している。

 ヴァートはいつものように稽古を受けようとしていたが、この日はマーシャの様子が違っていた。

 口を引き結び、何かをを見定めるような眼で、ヴァートをじっと見据えている。

 そして目を閉じて考え込むそぶりを見せたのち、口を開いた。


「ヴァート、今日はお前に話したいことがある」


 ヴァートが今まで聞いたことのない、真剣な口調であった。


「他でもない、お前のことだ。この三ヶ月間、とあるお人の力添えで、お前の身元に関する情報を探っていた」

「本当ですか!? それで――」

「落ち着け。とにかく、話を最後まで聞くのだ」


 勢い込んで尋ねるヴァートを制し、マーシャは調査が空振りであったことを語った。そして、職業的暗殺者に命を狙われるとはどういうことなのかを語る。


「秘密裏にことを運ぼうとすれば、これが限界だった。もっと多くの人間に協力を請えば、何か掴めたかも知れないが。しかし、そうすると――」

「僕を狙っている奴らに気付かれるかもしれない、そういうことですか」

「ああ。連中は、お前が死んだものと思っているはずだ。そう思わせているうちは安全だが、もしことが露見すればふたたびお前の命は狙われるだろう」


 マーシャは一旦言葉を切り、ヴァートの翠色の瞳を見つめる。


「問おう。お前は自分が何者なのか知りたいか?」


 ヴァートは考える。しかし、答えが出るのは早かった。


「はい」

「たとえ命を狙われるとしてもか?」

「はい。危険は承知の上です。それでも――僕は、自分が何者なのか知りたい」

「……そうか。お前が覚悟を決めているのなら、私は止めぬ――と言いたいところだが」


 マーシャは訓練用の木剣を二本手に取ると、一本をヴァートに渡した。


「お前の覚悟、どれほどのものか――試させてもらう」


 マーシャは数歩間合いを取ると、中段に構えた。


「構えよ」


 促され、ヴァートも中段に構える。

 不意に、ヴァートはあたりの気温がぐっと下がったような感覚を覚える。歯の根が噛み合わず、剣を持つ手や膝も震え始めた。

 原因はすぐにわかった。マーシャの身体から、得体の知れないなにか(・・・)が噴出しているのだ。

 それは、布に落とされた一滴のワインのようにじわじわと周囲の空間を侵食し、やがてヴァートの全身を包んだ。

 蜘蛛の糸に絡め取られたかのように、ヴァートの身体は動かない。額には、大粒の冷や汗がびっしりと浮かんでいる。

 ようやく、ヴァートはマーシャの身体から発せられたものの正体に気付く。

 殺気だ。

 硬直したヴァートをよそに、マーシャは一歩一歩ゆっくりと間合いを詰める。右手の剣を、大きく振りかぶった。そして、ヴァートの首筋めがけ、ゆっくりと振り下ろす。

 切れ味などない木剣だ。速度は蚊が止まるほど遅い。それなのに。

 斬られる。

 ヴァートは確信した。

 マーシャの木剣がヴァートの首筋に触れた瞬間――腰が砕け、ヴァートはその場に尻餅をついた。


「死ぬということがどういうことか、わかったか」


 マーシャの殺気は、いつの間にか掻き消えている。ヴァートは何度も頷いた。

 ――あの瞬間、確かに自分は死んでいた。

 マーシャの殺気がそう感じさせたのだろうか。ヴァートは、自分の首がいまだに繋がっていることのほうが不思議に思う。


「どうだ、まだ覚悟は揺るがぬか」


 ヴァートは、とっさに答えることができなかった。自分のことを知りたいという欲求は衰えていない。しかし、マーシャから叩きつけられた殺気。それは、十代の少年にとっては強烈すぎた。


「今のままでは、真実に辿り着く前にお前は命を落とすだろう」

「でも、僕は……どうしたら」


 マーシャはヴァートの手を引き、立ち上がらせた。


「強くなることだ。自分で自分の身を守れるくらいにな」

「強く、なる……」


 ヴァートは、マーシャの言葉を噛み締める。


「少なくとも、お前を襲った連中はくらいは自力で撃退できるようにならねばならぬ」


 失われた記憶を求める過程で、ふたたび敵に命を狙われるような事態が起こる可能性は十分にあるからだ。


「それで、だ。ヴァートよ、お前にはレンを離れてもらう」

「それは……どういうことですか?」

「レンにいれば、いつ敵にお前のことを気取られるかわからない。かといって、今のようにずっとここで引き篭もり続けるわけにもいくまい」

「それはわかりましたが……僕はどうすれば?」

「このレンがあるシーラム島の北に、エディーンという山村がある。そこで道場を開いているラルフ・ハミルトンというお方にお前を預けようと思う」


 ハミルトンは、マーシャとは歳の離れた兄弟子だ。レンで数々の実績を残した剣豪であったが、数年前にエディーンに移り住み、山奥に道場を開いて日々研鑽を積んでいるという。私欲を持たず、ひたすら剣の道に邁進する男だ。周りからは変わり者扱いされ敬遠されることが多く、本人もまた積極的に人付き合いをしようとしない。

 エディーンは、有り体に言えば僻地である。ヴァートを襲った敵の目もそこまでは届くまい。そうマーシャは考えたのだ。


「エディーンでじっくり心身を鍛えるのだ。ハミルトン殿の修行は厳しいが、耐えることができればそのぶん力がつくのも早いだろう」

「先生は、来てくれないのですか」

「ハミルトン殿のもとまでは送り届けるつもりだが、そこまでだ。私には大家としての仕事もあるし、世話になった方々へ果たさねばならぬ義理もある。長く王都を離れることはできないのだ」


 マーシャの言葉に、ヴァートはみるみる意気消沈した。両目には涙すら浮かんでいる。


「こら、男子がなんて顔をしている。旅立つ前からそれでは、先が思いやられるぞ」


 マーシャはヴァートの頭に手をやり、乱暴に撫でつけた。

 マーシャから離れがたい気持ちは強い。しかし、もとはといえは自分が望んだことなのだ。これ以上駄々をこねても始まらないとヴァートは心を決めた。


「はい……わかりました。先生の仰る通りにします」

「よく言った。なに、ハミルトン殿に認められたなら、いつでも帰ってきてよいのだ。私は、お前がここを故郷と思ってくれるなら嬉しい」


 マーシャの言葉は、ヴァートの心に染み入った。


「ありがとうございます、先生」


 ヴァートは心からマーシャに感謝した。

 



 ヴァートの出発は三日後に決まった。

 マーシャは、準備に大わらわだ。

 交通手段の手配、旅装の準備――一番の問題は、旅券の入手である。シーラント王国は世界的に見ても治安が安定していると言われており、各領地間の移動は比較的容易だ。それでも、身元が不確かな者が易々と関所を通過できるわけではない。

 マーシャは旅券を入手するため、様々な人脈を使い尽力した。結果、とある孤児院経営者の協力を得ることに成功し、ヴァートをそこの出身者であるということにしてもらった。

 ヴァートはフェイロンという仮の姓を付けられ、旅券は無事発行された。

 旅立ちの日。

 桜蓮荘の門前には、ファイナが見送りに来た。本来は秘密裏に出立するはずであったが、世話になったホプキンズ医師とファイナにだけには日取りを告げていたのだ。


「ヴァート君、お別れだね」

「いままでありがとう、ファイナさん」


 ヴァートは、差し出されたファイナの手をしっかりと握った。ひと月ほどの間寝食をともにし、マーシャよりも長く、密な時間を共に過ごした二人である。いろいろな話をし、記憶のない自分に世間一般の常識を教えてくれたのも彼女だった。寂寥の念もひとしおである。


「……馬車が来たようだ。別れは済んだか、ヴァート」

「…………」


 ヴァートは、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。

 住み慣れた場所を離れること。身近な人間と別れること。ヴァートにとって、どれも初めての経験だ。身を引き裂かれるような思いで、ヴァートは馬車に乗り込む。


「きっと、帰ってきます。そうしたら、また――」

「うん、待ってるよ! 元気でね――」


 馬車は走り出し、ファイナの声はだんだんと遠ざかっていく。

 ヴァートは窓から身を乗り出し、ファイナの姿が見えなくなるまで手を振るのだった。




 エディーン村。シーラム島北部の山間にある、小さな村である。冬は街道が雪に閉ざされ、隣村へ行くことすらで困難になるという。人口は百人あまりで、村人たちは畑を耕し細々と暮らしている。

 貸し切りの馬車に揺られること六日間。街道から外れた場所にある宿を選ぶなど、できうる限り人目につかぬよう腐心しつつ、二人はようやくエディーンに辿り着いた。

 ラルフ・ハミルトンの道場は、エディーン村のさらに奥まった場所の山中にあった。敷地は広いが、中には小さな木造の母屋があるばかりだ。稽古は、広い庭で行われるらしい。


「久しいな、グレンヴィル」


 二人を出迎えたハミルトンは、痩身の丈高い男だった。年齢は四十五だが、顔には深い皺が刻まれ髪は白く、実年齢より五つも六つも老けて見える。眼光は抜き身の刃のように鋭い。


「あ、あの、僕は……」

「話はふみで聞いている。来い」


 自己紹介しようとするヴァートを無視するかのように、ハミルトンは道場の庭に向かった。


「ああいう方なのだ。さあ、行くぞ」


 マーシャに促され、ヴァートもハミルトンの後を追った。

 稽古場となっている庭では、五人の門弟が黙々と稽古に励んでいた。ハミルトンは無言でヴァートに木剣を渡す。


「ええと、どうすれば……」


 ヴァートは困惑し、マーシャに視線を向ける。


「ヴァート、とにかく私の教えたとおりにやってみろ」

「はい、わかりました」


 マーシャに教わったことは多くない。基本の斬撃の素振り三種類、それだけである。

 ヴァートは大きく息を吸い込むと、下腹に力を入れる。


「ふッ!」


 全身の神経を集中させ、剣を振り下ろした。剣先は美しい軌跡を描き、鋭く空気を引き裂く。


「……続けろ」


 ハミルトンに言われ、ヴァートは素振りを繰り返す。


「いかがですか、ハミルトン殿」


 マーシャが小声で話しかける。


「……悪くない。あれならば、とやかく教えずとも、ひとりでに技術わざは身に付こう。あえてこのような僻地で学ぶことなどあるまい」


 ハミルトンは、素振りを見ただけでヴァートのおおよその才能を察する。


「はい。ですから、ハミルトン殿にはあの子の精神こころを鍛えていただきたいのです」

「こころ、か」

「なにぶん私は若造ゆえ、その方面は不得手でして」


 技術ならば、マーシャはいくらでも教えられる。しかし、他人の精神を鍛えるには、深い人生の経験というものが必要なのだ。


「手紙でお報せしたとおり、あの子は記憶をなくしております。精神の状態は無垢な子供のそれに近く、いわば熱したばかりの鉄のようなもの。叩く者次第で、強くしなやかな刃にもなれば、弱く脆いくず鉄にもなりましょう」

「お前は俺を買いかぶっているようだ。俺は自分の剣を磨くことしか考えられぬ男ぞ」

「そんなハミルトン殿だからこそ、あの子を預けたいのですよ」


 マーシャの言葉に、ハミルトンは軽く鼻を鳴らすのみだった。


「では、私はこれにて。ヴァート」

「先生、もう行ってしまわれるのですか……せめて、もう少しだけでも……」


 マーシャとて、ヴァートにはまるでわが子や弟に向けるような感情を抱いている。別れ難い気持ちはある。しかし、マーシャは沸きあがる感情を押し殺す。


「寂しさに耐えるのも修行だ、ヴァート。今は己を鍛えることのみを考えるんだ」

「先生……」

「もう一度言う。強くなれ、ヴァート。それがお前の生きる道だ」


 マーシャは最後にヴァートの頭をひと撫でし、道場を後にした。ヴァートはこみ上げる涙を必死に堪え、去り行くマーシャの背に最敬礼するのだった。

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