二
少年は、深い泥濘に沈み込んだような眠りに落ちていた。
繰り返し同じ夢を見る。一人の壮年の男の後姿の夢だ。男は、数人の黒装束の集団に包囲されていた。片手には剣、そしてその傍らには血を流し倒れ伏す二人の女。
男が何者なのか、どういう状況に置かれているのか。少年にはわからなかった。ただ一つわかったのは、男が自分を庇っているということ。
男はこちらを振り返ると、必死の形相で繰り返し何かを叫ぶ。しかし、少年には肝心のその内容は聞き取れない。
男を取り囲む包囲の輪は、じりじりと狭まっていく。
――あのひとを、助けなくちゃ。
少年は駆け寄ろうとする。しかし、男との距離は縮まらない。それどころか、見えない力に引っ張られるように、距離はどんどんと遠くなっていく。
男に、いくつもの刃が迫る。少年は手を伸ばすが、掌は空を掴むばかり。
男が、こちらを振り返って叫んだ。
「※※※!!」
少年の目に飛び込んだのは、宙空に伸ばされた自らの右手だった。
全身が灼けるように熱く、身体は鉛のように重い。思考は漠として定まらない。
「……痛ッ!」
身体を起こそうとした瞬間、激痛が走る。手で身体をまさぐると、胴体が包帯でぐるぐる巻きにされているのがわかった。
「こ、こは……怪我、してる……? どうして……」
首だけを動かして、あたりを見やる。
古い石造りの建物の一室に設えられたベッドの上に、少年は寝かされていた。
お世辞にも、綺麗とはいえない部屋だった。食卓らしきテーブルの上には、使いっ放しの食器が放置され、書物は書棚にしまわれることなくうず高く積まれている。食卓と揃いの四脚の椅子の背には、もれなく数枚の衣類がかけられており、床には空の酒瓶が何本も転がっていた。
「目を覚ましたようだな」
と、涼やかな声が響いた。
美しい女性だった。艶やかで豊かな黒髪を、うなじの下一つにでまとめている。磁器のようにすべらかな頬に、やや切れ長の瞳が印象的だった。女性にしてはかなりの長身で、男物の衣類を身につけている。
「汚いところで済まないな。しかし、あの診療所は人の出入りが多いゆえ、私の部屋に移さざるを得なかったかったのだ。ああ、寝台だけは清潔だから安心して欲しい」
冗談めかして笑ったその女性こそ、少年の危機を救ったマーシャ・グレンヴィルであった。
マーシャの姿を見て少年は思わず呟く。
「姉さん……」
「ははは。そんなに私が姉ぎみに似ているのかな?」
「ああ、その……ええと、違う、のか……?」
少年は、なぜ自分がマーシャと姉を見誤ったのかわからなかった。なぜそのようなことを言ったのか自分でもわからなかった。そもそも本当に自分に姉がいるのか、そして自分が何者なのか、そのことすらもわからなかった。つまるところ――少年は、一切の記憶をなくしていた。そう、自らの名前さえも。
「何も思い出せない、と」
マーシャが腕組みし、難しい顔をする。
「あの。僕……」
少年の頭は混乱と怪我による発熱とで、ぐるぐる回っていた。
「ああ、済まない済まない。医者を呼んでくるから、もう一眠りするといい」
にっこりと笑いかけると、マーシャは少年の髪を優しくなでた。少年は、女性らしいふんわりとした香りを感じる。不思議と安心する香りだ。怪我による衰弱の影響は色濃く、少年はふたたび深い眠りについた。
「なるほど、記憶がのぉ。そりゃあ難儀じゃな」
診察に訪れたホプキンズ医師が、マーシャの話を聞いて眉間に皺を寄せた。
「いわゆる記憶喪失というやつか。わしも実際に見るのは初めてじゃの」
「原因は?」
「記憶喪失の原因は、だいたい二つだと言われておる。ひとつは、頭部に衝撃を受けた場合。これは、言ってみれば記憶の入れ物が壊れた状態じゃな。もう一つは、精神に強い衝撃を受けた場合。この小僧の場合は後者じゃろう」
少年は頭部に外傷を負っていなかったし、マーシャが見るかぎり頭を強く打ちつけた様子もなかったはずだ。
「人の精神とは良くできているものでの。衝撃的な出来事があると、その衝撃から自己を守るため、記憶に鍵をかけてしまうことがあるそうじゃ。小僧の場合、今まで生きてきた全ての記憶を封じてしまったのじゃからよほどの衝撃だったんじゃろう」
「それで、治る見込みは?」
「それはわしにもわからんよ。時間の経過とともに徐々に回復することもあるし、あるとき突如全ての記憶が蘇ることもあるという。結局、死ぬまで治らんこともあるらしいがな」
と、少年が口を開いた。
「あ、あの……」
「おっと、すまないな。起こしてしまったか」
「いえ、それより、僕は……いったい……記憶喪失……?」
「……聞いていたのか」
少年は頷く。
その顔が青ざめているのは、怪我で血を失ったことのみが原因ではない。
全く記憶のない、赤子のような状態で世に投げ出されたのだ。そして身体には覚えのない深い傷が刻まれている。どれほど不安で心細いことだろう。当事者でなければ、その恐ろしさはわかるまい。
マーシャは、ここで初めて少年を助けた経緯について語った。少年の身の安全を確保するために自室に匿っていることも、併せて説明した。
「僕が、暗殺者に……」
ともすれば、取り乱し泣き叫んでもおかしくない。しかし少年が必死に動揺を抑え、自らの置かれた状況を受け入れるよう努めていることはマーシャにもわかった。
マーシャは、少年の気丈さを好ましく思った。そして、不意に湧き上がる、少年を守りたいという気持ち。それはある種の庇護欲だったのか、それとも母性の発露だったのか――マーシャは、震える少年の手を、そっと握る。
「このような状況で信じろというのは、無理なことかもしれぬ。しかし、それを承知の上であえて言おう。私を信じて欲しい。そなたの命は、この私の剣が必ず守る」
冷め切った少年の手に、じんわりとマーシャの体温が伝わった。覚えず、少年の両眼から涙がふきこぼれた。
「ハッハッハ。小僧、安心するがいい。マーシャが剣を抜いて立ちはだかったのなら、たとえ死神や悪魔が迎えに来たとて裸足で逃げ出すというものじゃ」
老医師がからからと笑うそばで、マーシャは頬を赤らめやや気恥ずかしげである。
「しばらくはこの部屋で暮らしてもらうことになる。いいね?」
少年に異論があるはずもない。
「それにしても、共に暮らすというのに名前すらないというのは何かと不便だな」
「マーシャよ、保護者になるのだからお前さんがつけてやるとええじゃろ」
「私が名付け親となるわけですか……責任重大ですね」
未婚で子供を儲けたこともないし、犬猫や乗馬に名をつけたこともないマーシャである。ううむ、と唸りながら考える。
ふと、少年と目線が重なる。美しく磨き上げられた翠玉のような、翠色の瞳。
翠色の瞳を持つ者は、この国には多くない。そして――ここまで鮮やかな翠色を、マーシャは初めて見た。
「そうだな、ヴァートというのはどうだろう」
「ヴァート……?」
少年が首を傾げる。
「『緑』を意味する古い言葉だよ。気に入らなかったかな」
少年は、ヴァートという言葉を数度呟く。記憶をなくした少年は、名前の良し悪しなど判断できない。しかし、その胸に湧き上がるのは、不思議な安堵感であった。
「……いえ、はい、それがいいです」
少年――いや、ヴァートは、あてもなく空を漂う綿毛のように頼りなく不安定だった自分が、しっかりと大地に根付いたような感覚を覚えた。名前を付けるという行為は、人の存在を確固たらしめる行為でもあるのだ。
「ではヴァート、これからよろしくな」
マーシャに笑いかけられ、ヴァートは初めて笑顔を見せた。
「それで……あなたのことはどう呼んだら」
「そういえば、ちゃんと自己紹介をしていなかったな。私はマーシャ・グレンヴィルだ。しかし、ところの者たちは単に『先生』、などとと呼ぶな」
「先生?」
「近所の子供たちに剣の指導をしているものでね。まあ、ヴァートは好きに呼ぶといい」
「では、僕も先生と呼ばせてもらいます」
と、部屋のドアがノックされた。
「あのー、そろそろ入っていいですか?」
ドアの隙間から、ひとりの少女が顔を覗かせる。
「ああ、待たせて済まない。入っておいで」
マーシャに招き入れられたのは、大きな籠を抱えた小柄な少女だった。緩い癖のついた栗色の髪を、耳の後ろで二つ結びにしている。ぱっちりとした目は髪と同じ明るい茶色で、いかにも活発そうな印象を与える。頬には薄くそばかすが浮いているが、この少女に関してはそれは欠点とはならず、むしろ愛嬌を引き立てる魅力の一つとなっている。
「ヴァート、こちらはファイナだ。これからしばらく住み込みで、お前の看病を手伝ってもらうことになる」
「よろしくね、ヴァート君」
人好きのする笑顔で、フィアナはヴァートに笑いかけた。
彼女、ファイナ・スマイサーは今年十四歳。九つのころに両親を亡くし、ホプキンズ医師に引き取られた娘だ。以来診療所で老医師を助けて働いており、軽い傷の手当くらいならできるし病人や怪我人の介護もお手のものだ。
ヴァートの容態は峠を越え、安静にしていれば命の危険はない状態だ。しかし、包帯や敷布の交換に病人食の調理、さらには下の世話に至るまで、怪我人の介護は大変な仕事である。
しかも、その自室の様子からも察せられることだが――マーシャという女性は家事が大の苦手である。そんな彼女が一日中付きっきりでヴァートの介護をすることは不可能だ。
そのため、マーシャは老医師の診療所からファイナを借り受けることにしたのである。
「じゃあ、早速お着替えしましょうか。汗かいてるよね」
と、ファイナはヴァートの服を脱がしにかかった。
「あの、ちょっと……その……」
ヴァートは困惑し、マーシャと老医師の顔を交互に見やる。
同世代の少女にいきなり裸を見られそうになったのだから仕方がない。記憶がなくとも、そのあたりの恥じらいは忘れていないらしい。
「安心せい。そいつがわしの手伝いをし始めてもうすぐ六年目じゃ。男の患者のものなど見飽きるほど見ておるわ」
抵抗しようにも、傷は痛むし身体は衰弱しきっている。ヴァートはなす術もなく、ファイナの行為を受け入れるしかないのだった。
ヴァートが床を払えるようになるまで、およそひと月の時を要した。
この一ヶ月間、ヴァートはマーシャやファイナ、そして老医師からさまざまな話を聞いた。
まず、マーシャのこと。かつては剣士として身を立てていたが、三年ほど前に表舞台から退き、若くして隠居同然の生活を送っているという。
老医師からは、マーシャが女性ながらかつて国内最強と謳われた剣士であったことを聞かされた。暗殺者を逃走せしめたという事実も、それならばヴァートにも納得がいく。
この場所のこと。
これはマーシャ所有の古い石造りの三階建ての建物で、桜蓮荘という。少年が寝かされていたのはその最上階にあるマーシャの私室であった。彼女はこの建物で、貸し部屋業を営んでいるという。
この国のこと。
シーラント王国。いくつかの島からなる島国である。古くから武勇を尊ぶ気風が強く、武術が非常に盛んであることが他国と一線を画す特徴であるとか。なにしろ、上は国王から下は一般庶民に至るまで、武術を学ぶ者は数知れず。季節の節目や祝典・祭礼にかこつけては武術大会が行われ、自分では武術を嗜まぬ者もこぞって観戦に熱狂するという。
諸勢力が覇を競いあっていた戦乱の世は、既に遠い昔だ。現王家たるエインズワース家が統一国家を樹立して百六十余年、平和と繁栄を謳歌するシーラントにおいて、戦うための術理は人が生きていくうえで必須のものではない。さらに言えば、いまは鉄砲や大砲が戦場の主役となりつつある時代である。それなのになぜこれほど武術が盛んであるのか。それは、古来から培われたお国柄であるからとしか説明できぬ。
そんなシーラント王国で、最強と言われたほどの腕前を持つ――どれほど凄いことなのか、ヴァートには想像もつかない。しかも、マーシャは体力的に不利な女性なのだ。
「先生は、王様から直々に『二つ名』を授けられてるのよ」
そう熱く語ったのは、ファイナである。彼女はいわゆる武術愛好家だ。自分では武術をやらぬが、武術の試合観戦を趣味とし、常に武術家や武術界に関する情報収集を怠らない。
「二つ名?」
「うーん、なんて言ったらいいのかな。称号みたいなものでね。特に優れた実績を挙げた人だけに与えられるの」
「へぇ、凄いんだね」
「そうよ。なんてったって、今生きてる武術家の中でも、『二つ名持ち』は六人しかいないんだから」
ファイナは、まるでわがことのように胸を張った。
マーシャが国王から与えられた「二つ名」は、「雲霞一断」という。
「その剣の疾きこと紫電の如く、雲や霞も両断せん、ってね。先生が現役だったころは、そりゃもう凄い人気だったんだから」
「へえ……でも、じゃあどうして引退しちゃったんだろう」
この国では、武術の試合は興行として成立している。観客から徴収した観戦料、試合を対象とした賭博の売上金で試合を運営し、勝者への賞金を捻出する。金を払ってでも面白い試合が見たいという武術好きが多いからこそ成り立つ商売の仕組みだ。
花形の武術家ともなれば、試合の賞金や後援者からの支援金などかなりの収入があり、一般庶民の数十倍もの金額を稼ぎ出す者もいるとか。人気・実力ともに頂点に立つ存在であったマーシャであるから、現役時代は膨大な収入があったはずだ。
眼がくらような大金と、国中の尊敬を集めるほどの名誉が得られる機会がありながら、若くして身を引く――ヴァートでなくとも疑問に思うことだろう。
「うーん、それは先生も教えてくれないのよね。一応、表向きは剣士生命に関わる大怪我をしたってことになってるみたいだけど」
ファイナの見たところ、マーシャにそれほどの怪我を抱えている様子はない。なぜマーシャが引退したのか、それを知る者はいないらしい。
ともあれ、マーシャは知り合いの伝手があったとかでこの建物を手に入れ、以後貸し部屋の大家として暮らしている。
この町のこと。
王都レン。シーラント最大の島、シーラム島の沿岸部に位置する。街の東には大河ドゥーネが流れ、古くから水運の中心として栄えてきた商業都市である。現王朝の王都とされてからは更なる発展を遂げ、現在は世界有数の大都市となっている。桜蓮荘は、レンの中でも古い街に属する下町にあるという。
ヴァートは、自分がなぜ命を狙われたのか、当然ながらそのことについての疑問を持った。しかし、それはマーシャにもわからないことだ。
「不安はわかるが、いまは何も考えぬことだ。気苦労は傷に障るからな」
と言われ、それ以上マーシャに尋ねようとはしなかった。なぜなら、ヴァートはマーシャに全幅の信頼をおいていたからだ。
ヴァートは、マーシャに聞いたことがある。
「どうして自分に良くしてくれるのですか?」
マーシャは、通りがかりにたまたまヴァートを救っただけにすぎない。ここまでヴァートに肩入れする理由も、義務もない。
「私はかつて、この手で大きな過ちを犯した。罪滅ぼしのつもりはないが――せめて、この手が届く範囲の者は、できうる限り救う。そう誓いを立てているのだよ」
そう答えたマーシャの顔には、深い哀しみの傷跡が刻まれているようにヴァートには見えた。
短い期間に、どうしてマーシャは彼の信頼を勝ち得たのか。その理由の一つが、この会話の中にあった。




