二
ハタの村は、四方を山に囲まれた小さな盆地にひっそりと佇む、ささやかな集落だ。盆地中央付近の平地では畑作と牧畜が行われ、水はけのいい山麓部では果樹栽培が行われる。特に目立った産業らしい産業はない、シーラントではよくある田舎村である。
村の北西に位置するなだらかな傾斜面を登った先に、村唯一の寺院があった。年老いた神父と神父見習いの少年、そして神父よりも年かさの下働きの三人のみが暮らす、古い寺院だ。随分広い敷地を持つが、管理する人手が足りないため、その土地の大部分は放置されほとんど荒地同然の状態だ。
その敷地の一角、村を見渡せる見晴らしのいい場所に、寺院の墓地はあった。そして墓地の一番端に、まだ真新しい墓石が据えられていた。この墓が、ヴァートの家族のものであることは言うまでもない。
時刻は昼過ぎ。からりとした気持ちのいい秋晴れだが、山から吹き下ろす風は冷たい。
「こっちは、レンよりも冷えるな」
墓地には、花束を手にしたヴァートの姿があった。
ハタは小さな町ゆえ、花屋など存在しない。花束は、ここまでの道中でヴァートが見つけた野の花を束ねたものだ。
家族を失ってから、四年と半年が経過している。ようやく家族の墓に花を手向けることができた――ヴァートは、目頭が熱くなるのを感じる。
墓前に跪くと、しばし眼を閉じて祈りをささげた。
腰を上げると、後ろを振り返った。墓地からは、村が一望できる。
「たしか、あのあたりだったはず――」
村のはずれ、大きなもみの木のそばに、ヴァートと家族たちが暮らした家があったはずだ。ヴァートは目を凝らし、もみの木の周辺を探るが、そこにかつて過ごした家はなかった。代わりに、もとは民家だったと思しき焼け落ちた廃墟が認められる。
一家が村を出てから、なんらかの事故で焼失してしまったのだろうか。あるいはルーク・サリンジャーが、証拠隠滅のため焼いてしまった可能性もある。
ともあれ、思い出の地が失われたことに、感傷を禁じえぬヴァートである。
焼け跡を遠く眺めつつ、在りし日の家族を想う。
父シーヴァー。物静かで多くを語らず、常に穏やかな微笑をたたえて家族を見守っていた。一日たりとも剣の稽古を欠かしたことはなく、ヴァートが剣を学ぶことを望んでからは厳しい師匠でもあった。
自分ではまったく意識していなかったが、多くの人間がヴァートとシーヴァーがよく似ていると証言している。しかし、ヴァートは鏡や硝子窓に写る自分の顔と記憶の中にある父の姿を重ねてみても、
「そんなに似ているかなぁ」
という感想しか浮かばない。
記憶の中の父は、自分よりも引き締まった精悍な顔立ちをしており、ヴァートからすると
「俺なんかより、ずっと格好いい」
のがシーヴァーという男であった。
思い出は美化されると言われるけれども、この点においてヴァートは自らの主張を曲げる気はない。
母クローディアは、美しい女性だった。
彼女もまたシーヴァー同様物静かで、その所作や言葉は常にたおやかであった。村で暮らしていた当時、家族以外でヴァートが知る大人といえば、ごく限られた村の人間のみだ。しかし、クローディアはその誰とも違う空気をまとっていた。今思えば、それは彼女が貴族として生まれ持った気品というものだったのだろう。
いつも毅然としていた父と違い、クローディアはときに悲しげな表情を見せることがあった。元気にはしゃぎ回るヴァートや姉ローラの姿を見て、なぜだか涙を流す母を、ヴァートは何度か目撃している。ルーク・サリンジャーが復讐を諦めぬかぎり、子供たちに明るい未来はない。そのことに対し、罪悪感を感じていたのだろうか――今のヴァートには、母の気持ちが少しわかる気がする。
姉ローラは、母に似た美しい少女であったが、性格は母と比べて快活だった。
活動的なところもあり、ヴァートが小さかったころは、よく一緒に野山を駆け回ったものだ。
ある程度の年齢になってからはヴァートとともに遊びに興じることは少なくなり、両親に言われるまでもなく献身的に家の仕事を手伝うようになった。両親が立たされている苦境を、彼女なりに察してのことだったのだろう。そうヴァートは推測する。
そして一家に付き従う老僕がひとり。ダンカンに聞いたところによると、彼はもともとシーヴァーの生家・ナイト家に仕える人間だったという。
人目を憚るようにひっそりと暮らす一家を、村の人間はどいう目で見ていたのだろうか。
ひと目で武術家とわかるシーヴァーと、気品あふれる美しい妻子。田舎の村には、あまりに場違いな一家であろう。
「シーヴァー様一家は、とある貴族の血縁でしたが、後継者争いに巻き込まれた末、田舎の村に追いやられた。そういう触れ込みで村に移り住んでいたのです」
ダンカンは、そう語った。
人目を憚らねばならぬ理由も、それで一応は説明がつく。
シーヴァーが労働らしい労働をしているところを、ヴァートは見たことがなかった。どうやって暮らしの費えを得ていたのか、子供心にヴァートも疑問に思っていたが、アンドレアス・シアーズが金銭的な援助していたと知ったのは最近のことだ。
しかし、アンドレアスとてルークに悟られないよう動かせる金には限界がある。一家の暮らしは、きわめて質素なものであった。
贅沢も許されず、行動も制限される生活――しかし、ヴァートはそれが不幸なものであったとは思わない。家族が揃って健康に暮らせる、それはなによりも得難い幸せであると最近のヴァートは考えるようになった。
身近な人間でいえば、アイ、そしてホプキンズの診療所で働くファイナ・スマイサーなどは、ともに幼少時肉親をすべて失っている。彼女たちに比べれば、自分はなんと恵まれていたことか。そして、多種多様の人間が集まるレンを見渡せば、アイやファイナよりはるかに悲惨な境遇にある人間はいくらでもいるのだ。
家族を殺されたことへの憎しみ、悲しみがまったくないといえば嘘になる。しかしヴァートは、過去を振り返らぬ。「生きろ」――暗殺者たちに囲まれたシーヴァーが、最後に残した言葉だ。それは、どす黒い感情を抱いたまま生きろ、という意味では決してないはずだ。
家族との思い出は、いつまでも心の中に。
(父さん、母さん、そして姉さん――俺がこれからヴァート・フェイロンとして生きていくことを、どうかお許しください)
心の中で、そう呟いた。
両親がつけてくれた名と、父祖から受け継いだ姓を軽んじるつもりはない。名というのが、家族との繋がりを示すものだということも理解している。しかし、ヴァートにはジュリアス・ナイトという姓名を名乗れない事情がある。
そして、「ヴァート・フェイロン」というマーシャがつけてくれた名もまた、ヴァートにとってはかけがえのない大切なものなのだ。
大切なのは、こころだ。名前が変わってしまったとしても、家族を想うこころを持ち続けるならば、その絆は失われない。ヴァートはそう考えている。
ふっと、暗雲が日差しを遮った。
気が付けば、かなりの時間が経過している。
ヴァートはここからエディーン村に向かう予定だが、この日のうちにエディーンに着くのは不可能である。どこかで一泊しなければならないが、ハタの村に宿泊施設はない。大きな街道に出て、エディーンの手前にある宿場町を目指さねばならぬ。
先ほどまで晴天だったはずの空は、にわかに曇り出した。じっとりと湿気を含む南風も吹き始めている。天候が崩れる兆候だ。
村を見て回りたい気持ちもあったが、雨が降り出さないうちに少しでも先を進んでおかねば厄介なことになる。もたもたしていると、悪天候の中野宿、ということにもなりかねない。
それに、ヴァートの顔を見て、シーヴァーのことを思い出す村人もいるかもしれぬ。あれこれと詮索されるのは、あまり好ましくない。
「また来ます」
墓石にそう言い残し、ヴァートは足早に寺院をあとにするのであった。
太陽が西の空に消えかけたころ、ヴァートはようやく目的地の宿場町の灯りが見えるところまでたどり着いた。
少し前から弱い雨が降り始めており、雨足は徐々に強くなってきている。しかし、ここまで来ればもう安心である。
とはいえ、濡れ鼠になるのは勘弁である。脚を速めたヴァートは、宿場町のほうからふたり連れの旅人が歩いてくるのに気付いた。
(こんな時間に……? 妙だな)
歩きながら、ヴァートが訝しむ。
仮に、ふたりが宿場町から一番近い集落を目指すにしても、到着するのは深夜になってしまう。天候は悪化することが予想されるため、常識的に考えれば宿場町で一泊するべきであろう。
街道沿いにはぽつぽつと農家が点在している。ヴァートは、その農家の人間がなにかの用事で宿場町に出かけ、帰宅する途中という可能性も考えた。
ふたりとの距離が近づき、その姿がはっきりと見えるようになってきた。若い男女である。
ふたりの装備は、長期間の旅に耐えうるしっかりとしたものだ。近場の人間のする格好ではない。
男女の組であるけれども、夫婦という雰囲気ではない。
すれ違う瞬間にふたりの顔をちらりと見たヴァートは、
(兄妹ではないだろうか……)
と、なんとなしに感じた。
すでにあたりは暗く、またふたりはともに帽子をかぶっていたため、はっきりとその顔貌を確かめたわけではない。ヴァートの推測は、あくまでもなんとなく、程度のものだ。
ともかく、すぐ近くに宿場町があるというのに、この時間、この天候の中歩こうとするのはいかにもおかしな話である。
いくらシーラントの治安がいいとはいえ、野盗、山賊の類はいまだ存在する。王都レン近郊の大街道ならば、夜間でも多くの旅人が行き交うが、ここは辺鄙な田舎である。人っ子ひとりいない道が危険なのは言うまでもない。
暗夜、足元が不確かな中歩けば、足首を挫くなど怪我をする可能性も高まる。
おそらくは、夜通し先を進むつもりのふたりである。そうしなければならない理由として考えられるのは、よほど急いでいるか、それとも
(他人にあまり姿を見られたくないか――)
二つのうちのどちらかであろう。その両方、ということも考えられる。
みだりに他人の事情を詮索するのが無作法だとはわかっているが、気になるものは仕方がない。ヴァートはつい、ふたりの背中を眼で追ってしまう。
(しかし、あの男の人――)
ヴァートが気になったのは、先に立って歩く男の足取りだ。その歩みはいかにも弱々しく、ときおりふらついては片割れの女に支えられている。
と、男は腰が砕けたようにその場で膝を折り、道端に倒れこんでしまった。
「大丈夫ですか!?」
思わず、ヴァートが駆け寄った。
女性に抱き留められたため、男に怪我はない。しかしその意識は混濁しており、びっしりと脂汗を浮かべて荒い息を吐いていた。
「あ、兄上、しっかり!」
男の頭を抱きかかえつつ、女性はただただ狼狽する。
兄上呼ばわりしたところをみるに、ふたりが兄弟であることは間違いないようだった。
「これはいけない。医者に診せたほうがいいですよ」
男の弱り切った姿を見たヴァートがそう言ったが、女性はその言葉に従うべきか迷いを見せる。
「もしかしたら、悪い病気かもしれない。宿場町まで行けば、医者の一人はいるはずです。事情は知りませんが、どの道この様子じゃとても立って歩くことはできないでしょう」
ヴァートの言葉はもっともである。女性も頷くしかない。
「では、失礼。済みませんが、俺の荷物を頼みます」
女性に自分の荷を託すと、ヴァートは男を背負った。細身の男だとは思っていたが、その身体はヴァートの想像以上に軽かった。
「あ、ありがとうございます」
「いえ、旅先で困った人がいたら助け合うものだって世話になっている人に言われてますから。気にしないでください。それに俺はもともと、あの町に泊まる予定でしたし」
努めて明るく、ヴァートは言った。
宿場町まではすぐであった。
ヴァートたちは一番手前の宿に駆け込むと、宿の主人に事情を話して医者を呼んでもらった。
駆け付けた医者が、客室の寝台に寝かされた男を診る。
「おそらくは、疲労が限界に達したのだと思われます。しばらく安静にして、しっかり食事と睡眠を取ればじきに回復するでしょう」
との診断で、連れの女性はほっと胸を撫で下ろす。しかし、すぐに真剣な表情になり、
「できるだけ早く出立したいのですが……」
と尋ねる。
「無理はしないほうがいい。たかが疲れといっても、旅ではそれが命取りになることもあり得ます。そうですね――最低三日は、様子を見るべきです」
女性は表情を曇らせたが、医者の言うことは正論だ。それ以上食い下がっても仕方のないことである。
「わかりました――ありがとうございます」
これで一安心だ。部屋の戸口で一部始終を見守っていたヴァートが、その場を離れようとすると、女性がそれを呼び止めた。
「旅のお方――このたびは、大変ご迷惑をおかけいたしました。謝罪するとともに、兄を救っていただいたこと、深く御礼申し上げます」
「いえ、俺は大したことはしてませんから……」
礼法に則った、実に折り目正しい謝辞を受けて、ヴァートは恐縮してしまう。
と、女性ははっとしたように口に手を当て、慌てて帽子に手をかける。
「いけません、私ったらお世話になったかたの前で帽子も取らず――失礼いたしました」
言いつつ、帽子を取った。
帽子の中から、女性の長い髪がこぼれ落ちた。その髪の色は、ヴァートがかつて見たことのない色――美しい、銀色をしていた。
そしてヴァートは、ここで初めて女性の顔をまともに見た。
年齢はヴァートの一つか二つ上、といったところか。まるで陶器のような白くすべらかな肌に、切れ長の両目は見事な碧眼だ。すうっと通った鼻筋に、控えめな唇――実に、均整の整った面立ちである。
ヴァートはちらりと寝台を見やる。穏やかな寝息を立てて眠る彼女の兄は、髪の色こそ茶色だが、その顔立ちは女性とよく似ていた。
「ゆえあって、名を名乗ることができません。お世話になったというのに、重ね重ねの無礼をお許しください」
女性が、再び謝罪する。女性はすべての所作が優雅で、礼儀正しい。
ヴァートは彼女から、ミネルヴァ・フォーサイスや母クローディアと同種の雰囲気を感じ取っている。
(この人は、おそらく貴族なんだろう)
そう考えるヴァートであったが、むろん口には出さぬ。自分たちの素性を探られたくない様子の人間に対し、そのような発言をするほどヴァートは考えなしではない。
ヴァートとて、素性を隠し人目を避けながら旅をしたことがある身だ。他人にあれこれ詮索されたくないという気持ちは、痛いほどわかるつもりだ。
「それから、厚かましいことを承知でお願いしたいのですが――私どもと出会ったことは、どうか内密に願いたいのです。どうか、お願いいたします」
「わかりました」
ヴァートは即答する。
なにせ、この女性はシーラントでも珍しい銀髪の持ち主だ。帽子を取れば、たちまち衆目を集めること請け合いである。そんな中、素性を隠し通すというのは簡単なことではない。ヴァートが彼女に同情的になるもの、無理からぬことだ。
それに、女性の態度は一貫して真摯である。素性を隠さねばならぬ理由としてまず考えられるのは、なんらかの罪を犯し、その罪から逃れようとしているから、ということだろう。しかし、その女性が罪人であるとはとうてい思えぬ。
もっとも、この女性のごとき美女に懇願されれば、世の男性の九割九分は首を縦に振ることだろうが……
「せめてものお礼に、こちらを――」
女性が金子を差し出すが、ヴァートは断固としてそれを固辞する。
「本当に、大したことはしてませんから。じゃあ、俺はこれで」
なおも食い下がろうとする女性をむりやり振り切って、ヴァートは自室に戻るのであった。
翌朝。夜も明けきらないうちに、ヴァートは宿を出た。
れいの兄妹が気にならないでもなかったが、早朝ゆえ部屋を訪ねるのも憚られる。それに、わざわざ様子を見に行くのは恩着せがましいことのようにも思えた。
結局、兄妹にはなにも告げず、ヴァートは出発した。
雨はすっかり上がっているが、かわりに冷え込みのきつい朝である。白い息を吐きつつ、ヴァートは一路エディーン村を目指すのであった。




