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剣雄綺譚  作者: 田崎 将司
剣士マーシャと怪盗
103/138

十六

 さらに二日が経過した朝のことである。


「先生、お目覚めでしょうか」


 と、マーシャの部屋のドアを叩くのはミネルヴァである。

 ここ数日間、パメラは桜蓮荘を拠点として『絵画商シモンズ』の調査にかかっており、ミネルヴァもまた桜蓮荘の一室に寝泊まりしていた。

 マーシャはいつものごとく部屋に近づくミネルヴァの気配を察知しており、ノックの前にはすでに目を覚ましている。


「はい、起きていますよ」

「パメラが戻っておりますわ。皆に報告したいことがあると」

「わかりました。すぐに参りますよ」


 マーシャが身支度をする間、パメラはすでに簡単な朝食の準備を済ませていた。アイとともにマーシャの居間に料理を運び込む。


「おはよう、みんな。おや、ミネルヴァ様――お顔色が優れぬようですが」

「実は、昨晩あまりよく眠れなかったもので……」

「それはどうして?」

「天井裏で、なにかが動くような音がして……気になってどうしても寝付けなかったのです」

「それは多分鼠のしわざでしょう。どうです、桜蓮荘の暮らしは。春になれば虫も湧いて出るでしょうね」


 マーシャは、意地悪い笑みを浮かべて尋ねるけれども、ミネルヴァは


「住めば都と申しますわ。じきに慣れるでしょう。そもそも、武術家ともあろうものが鼠や虫に恐れをなすようではいけませんわ」


 と、へこたれる様子を見せない。


「それはそうと――パメラ、調査の結果を報告したいのではなくて?」

「はい、お嬢様。皆様もよろしいでしょうか」


 パメラは、数枚の紙を取り出し、皆に示した。紙には、数多くの人名、絵画の作品名、そして数字などが羅列されている。


「これは?」

「『シモンズ』の帳簿の写しです。商人の交友関係を探るなら、まず顧客からと思いまして」


 パメラによれば、正確には『シモンズ』の帳簿の中から、特に取引額が大きいものを抜き出して写し取ったものだという。


「『シモンズ』に忍び込んだのでござるか?」


 アイの問いに、パメラは首肯した。


「しばらく監視して、あそこにはもう盗賊の一味がいないことがはっきりしましたので」


 怪盗たちが滞在していないとなれば、『シモンズ』もただの一介の商家にすぎぬ。パメラにとって、闇夜に紛れて侵入し、帳簿を漁るなど容易いことだ。


「なるほど、確かに『シモンズ』は繁盛しているようだ」

 帳簿を見れば、『シモンズ』は定期的に高額な絵画を買い上げる上得意客を数多く抱えているのがわかる。

 取引が多い客ほど、『シモンズ』との関係が深いことは容易に想像できるが、


「この顧客の一覧を片端から調べていく、というのはさすがに手間がかかりすぎるな」


 というマーシャの言葉は正しい。


「ほかに、この帳簿から読み取れることはないか」

「ううむ。名前と数字だけ見せられても、見当がつかぬでござるよ。芸術の分野はとんと疎いゆえ」


 資料を分析し、なにがしかの結論を得るためには、前提としてその内容についての知識が必要となる。幼少時より放浪生活を続けていたアイに、芸術に関する知識があるはずもない。

 マーシャも、アイ同様首を捻る。幼いころから剣術一筋で過ごしたマーシャであるから、画家の名前や作品名を出されてもほとんど知らぬものばかりだ。


「ミネルヴァ様はどうですか」

「私も、画家の名前程度なら多少は……お恥ずかしいのですけれど、うちの家系もこと芸術の分野となると……」


 芸術よりも武術という家に育ったため、ミネルヴァも芸術については教養として基本的なことを教えられているだけだった。

 パメラもまた、絵画に関してはあまり知識を持ち合わせていないという。


「この面子で芸術の話をしようというのが無謀にござるよ」


 冗談めかして言うアイに、マーシャとミネルヴァは苦笑する。


「まあ、わからぬことがあるなら、素直にその道の専門家に教えを乞えばいいさ」

「そうですわね――フォーサイス家出入りの商人に美術商の伝手があるかどうか調べてみましょうか」

「それには及びませぬよ、ミネルヴァ様。絵画に明るい人間なら、私にも心当たりはある」

「なるほど。にござるか」


 アイは、マーシャの言葉に合点がいったようだ。マーシャが席を立つと、事情を呑み込めぬ様子のミネルヴァもそれに続いた。




 一同が向かったのは、ミネルヴァの予想に反してすぐ近く――桜蓮荘一階の隅にある一室であった。


「ヒュー、私だ。いるか」


 マーシャがドアを叩くと、一瞬間をおいて男の声が返ってきた。


「……先生? どうしたんです、家賃ならきちんと払ったはずだが」

「取り立てに来たのではない。少々用があるのだ」

「わかりました。ちょっと待ってください」


 ややしばらくして、ドアが開かれる。

 顔を出したのは、一年ほど前からこの部屋を借りて暮らしているヒュー・フレミングという男だ。年齢は二十代半ば、痩身長躯でぼさぼさの金髪を伸ばし放題伸ばし、後頭部で一つ結びにしている。その皮膚は青白く、あまり日の当たる場所に出ていないのがひと目でわかる。


「そちらはウェンライトのお嬢ちゃんと……たしか、先生の所に剣を習いに来ている方でしたかね」


 数日おきにマーシャのもとに通うミネルヴァの顔を、フレミングは覚えていたようである。


「ミネルヴァ・フォーサイスと申します。早朝におしかけてしまい、大変失礼いたしました」

「こ、こいつはどうも……」


 貴族の令嬢らしい折り目正しい挨拶を受け、フレミングはすっかり恐縮してしまった様子を見せる。不安げに視線を泳がせながら、助けを求めるようにマーシャに尋ねる。


「それで、ご用件はなんなんですか」

「うむ。ヒュー、最近の絵画市場については詳しいか?」

「まあ、それなりには。『売れる』画家になるためには、市場の動向ってものを把握しなくちゃなりませんからね」


 フレミングは、そう言って自嘲気味に肩をすくめた。

 マーシャがなぜフレミングを訪ねたのかといえば、彼が画家であるからであった。フレミングは、いつか巨匠と呼ばれる画家ことを夢見て、日々腕を磨いている。現状「売れない」画家である彼だが、肖像画を描くことに関しては定評があり、仕事も早いため、時おり入る肖像画の依頼によって生計を立てている。

 芸術家志望の人間というものは概して我が強く、自分独自の作風を世間に認めさせてやる、という野望を抱きがちだ。しかし、フレミングの場合は逆で、「まずは世間の風潮に迎合する作品で名を売り、大物になってから独自色を前面に出した作品を作ればよい」と考えている。


「それは好都合。ひとつ、見てもらいたいものがあるのだが」


 と、マーシャは帳簿の写しを差し出した。


「これは――どこの大店おおだなのものか知りませんが、こんなものを見てしまっていいんですかね」

「正直、大っぴらにしていいものではないな。内密にしてもらえると助かるのだが」

「ん、まあ、先生がそう言うのなら……それで、これを見てどうしろと?」

「なんでもいいから、それを見て気がついたことがあれば言ってほしい。それだけだ」

「わかりました。ちょっと待ってくださいよ……」


 フレミングは、渡された資料に目を通し始める。


「ふむ……ヘンドリクスの初期作品がこの値段か。おっ、さすがは巨匠マーキュリーだな。俺もこんな値段で売れる絵を描いてみたいもんだ……」


 などと呟きながら紙をめくるフレミングであったが、帳簿のある一点に彼の眼が留まった。


「ん……? なんだ、これは。こいつはどうもおかしい」

「どうしたのだ?」

「いえね、ここですよ、ここ。どう見ても売値がおかしいんです」

「詳しく教えてくれないか」

「はい。この『白鳥と貴婦人』って絵なんですがね、普通じゃ考えられない高値で売買が成立してるんです。作者のクラプトンって画家は、確かにいい絵を描くが、俺と一緒で手が早い。世に出た作品数も多いから、市場じゃそこまでの高値はついていないんです。でもこの帳簿だと、桁を間違えてるんじゃないかってくらいの値段がついている。おかしな話だ」


 フレミングは、さらに帳簿の数か所を指さしながら、首をかしげる。


「あっ、これもです。それから、こいつもだ。ほかの絵の売値は、しごく妥当だと思うんですが……」


 マーシャたちは顔を見合わせると、互いに頷く。フレミングが指摘した箇所――その取引の買い手が、すべて同じ人物だったからである。


「ありがとう、参考になった。手間をかけさせた礼に、来月の家賃は二割引にしておこう」

「そいつはありがてぇ」




 マーシャの部屋に戻った一行は、ふたたびテーブルを囲んで顔を突き合わせる。


「これは、秘密裏にまとまった額の金を動かそうとするときに使われる常套手段です」


 と、パメラが説明する。

 懇意にしている商人を相手に、まず適正価格以上の金額で物品を買い上げる。その際発生する差額を回収することで、隠し財産を蓄えたり、表沙汰にはできない用途に使うことができるようになる。そういうからくりだ。


「なるほど。しかし、解せんな。この絵を法外な値段で買いたという人間――ウォルター・エヴァンスだ」


 フレミング曰く「どう見てもおかしい値段」で数度にわたり絵画を取引していたのは、すべて同一人物――ウォルター・エヴァンスであった。


「リンカム伯爵・エヴァンスといえば、私でもその名を耳にしたことがある。反フォーサイス派の急先鋒として知られる貴族ではなかったか」


 ミネルヴァも頷く。


「これはどうしたことだろう」


 反フォーサイス派のエヴァンスに怪盗との繋がりがあるとすると、先日マーシャたちが考えた、フォーサイス派が怪しいという仮説とはまったく逆の結果が出たことになる。


「確かに、この手を使えば、怪盗が使ったという道場を買い取ったり、活動資金を出すことは可能にござるな」

「悩ましいですわね……どう解釈すればよいのでしょう」

「このエヴァンスにしても、怪盗とはまったく関係がなく、脱税など普通の犯罪の隠れ蓑としてたまたま『シモンズ』を利用していただけかもしれない」

「しかし先生、偶然にしては出来すぎているように思えるでござるよ」

「うむ。エヴァンスが臭いのは確かだが……」


 しばらく考えていたマーシャが、パメラに問うた。


「すまないがこの話、数日私に預けてもらえぬか」

「それは構いませんが」

「意見を聞いてみたいお人がいるのだ。秘密は必ず守るお人ゆえ安心してほしい」


 マーシャの頭の中にあったのは、王立特務調査部のマクガヴァンのことである。貴族たちの裏事情に誰よりも通じているマクガヴァンならば、マーシャたちには見えないものが見えてくるかもしれぬ。


「承知しました」

「よし。話がまとまったところで、サディアス殿の見舞いに行くとしようか。ファイナの話だと、ごく浅くではあるが何度か意識を取り戻しているそうだ」




「峠は越したじゃろ。あの男、かなり鍛えこんでいるようじゃな。身体の強さが危ういところでものを言ったわい」


 とは、ホプキンズ医師の言葉である。

 マーシャらが病室に入ると、サディアスは穏やかな寝息を立てて眠っていた。蒼白であった顔色も、幾分か良くなってきている。

 一同はしばらくの間静かにサディアスの寝顔を見守っていたが、彼が目覚める気配はなかった。


「いまこの瞬間にも目覚めるかもしれませんし、私はもうしばらくここにいたいと思いますわ」


 と言うミネルヴァと、それに付き合うというアイ、そしてパメラを残し、マーシャは診療所を出た。向かう先は、警備部の詰め所である。


「いやあ、このたびは大変お世話になりましたな」


 と、マーシャを迎えた分隊長コーネリアスの顔色もまた、以前マーシャが会ったときよりも若干良くなっている。一人とはいえ、さんざん煮え湯を飲まされてきた怪盗の一味を捕えることができたことが、精神的によい影響をもたらしたのだろう。


「あの盗賊、なにか吐きましたか」


 捜査上の秘密を民間人に漏らすのは本来ご法度であるが、マーシャ相手だとコーネリアスもすっかり心を許している。春の通り魔事件に魔剣にまつわる騒動など、マーシャはいくつもの重大事件を解決している。街の喧嘩を仲裁したり、暴れる酔漢を懲らしたりと、小さいものも含め、マーシャの警備部への貢献は計り知れない。コーネリアスが彼女に全幅の信頼を寄せるのも当然のことだ。


「それが、なかなかしぶとい奴でして……いくら責め立ててやっても、一向に口を開かないのです」


 警備部の責め苦は決して甘いものではない。捕えられてから三日、連日の尋問にも口を割らないというのだから、その盗賊もなかなかに性根が座っているといえよう。


「ただ、ひとつだけ――『お前の仲間は、もうレンから逃げたのか?』という問いに対しては、わずかながら反応を示したのです」

「反応?」

「はい。なにか、こちらを挑発するような眼で、笑ったのです」

「ということは――」

「ええ。盗賊どもは、まだレンにいる。そして、次の犯行の機会を伺っている――そんな気がするのです」




 二日後、コーネリアスの予感は的中した。

 一人を捕縛されたにも関わらず、怪盗の一味は大胆不敵にもふたたび犯行を行ったのである。

 そして、犯行の舞台となった新市街の豪邸には、一枚の書き付けが残されていた。


『無能なる王国軍警備部に告ぐ。一人を捕えたとて、我らを止められるなどとは思わぬことだ。怪盗・影法師』


 この書き付けの存在は、警備部を大きく揺るがした。

 これは明らかな犯行声明であり、警備部に対する明確な挑発行為でもある。

 そして、犯人が『影法師』という文言を使ったこと、これが問題であった。『影法師』とは、警備部隊員が捜査の際に用いる符丁として考えられた便宜的な名称で、警備部と一部の王国軍幹部以外の人間はその呼称を知らぬはずである。

 自分たちは、警備部内の事情にも通じている――怪盗たちは、短い文面を通じ、その事実を警備部に対し突きつけたのだ。

 警備部内、いや、もしかすると王国軍上層部内に怪盗と繋がりを持つ人間がいるかもしれぬ――この疑念はさらなる疑念を呼び、フォーサイス派が怪しいという噂を、より真実味のあるものとしていくのであった。

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