67 人を、造る
蛇口が締められたシャワールームには、もう水の音は響いていなかった。
ただ、タイルを叩く不規則な水滴の音と、僕たちの重なった吐息だけが、静寂を微かに揺らしている。
「……もう一回、していいですか?」
何度目の「もう一回」だろうか。
冷水でびしょびしょに濡れ、肌に張り付いた軍服越しでも、トリーシャの震えは伝わってきた。問いかけに「うん」と短く答えるたびに、彼女の潤んだ瞳が近づき、ついばむような柔らかな感触が唇に重なる。
触れ合うたびに、彼女は磁石に引かれるように体を寄せてきた。彼女の腕が僕の首に回り、僕の手が彼女の細い腰を抱き寄せる。冷水で凍てついたはずの体温が互いに混ざり合い、僕の思考は次第にトリーシャの色で塗り潰されていった。
決して消してはならない、命を奪うあの悍ましい感覚。
僕はそれを絶対に忘れない。忘れてしまえば、僕は人間として大事な何かを永遠に失ってしまう。そんな気がした。
……けれど。
「こういうこと」をしている最中だけは、その感覚を意識の奥底へ追いやりたかった。この一瞬だけは、罪の輪郭をぼかさせてほしい。
幸せを感じることが許されない僕にとって、目の前の女性が求めることに応え、彼女の幸せだけを考えること。それが、唯一心が満たされる免罪符のような時間だった。
「……もう一回……」
「うん」
今度の「もう一回」は、今までとは違った。
軽いキスをしながら、恐る恐る、けれど確かな熱を持って、彼女の舌が僕の唇に触れる。
僕も応えるように少しだけ舌を出すと、舌先同士が小さく触れ合った。トリーシャの体が、電流が走ったようにピクりと震える。
…彼女は、この先へ進みたいのかな。
僕は迷いながらも、ゆっくりと彼女の口内へ舌を滑り込ませた。すると彼女は拒むどころか、首に回した腕に力を込め、さらに僕へと密着してくる。
不慣れな舌使いで、懸命に僕の舌を愛撫しようとする彼女。その必死で健気な姿が、狂おしいほどに愛おしかった。
僕は彼女の熱に溶かされるように、その柔らかな感触を享受した。
やがて唇が離れ、銀色の糸が切れる。
トリーシャは潤んだ瞳で僕を見上げ、息を整えながら口を開いた。
「イネスさん……次は……」
これまでの「もう一回」とは違う、さらに踏み込んだ言葉を紡ごうとした彼女の唇が、突如として凍りついた。
――ガシャンッ
静寂を、玄関の方から響いた大きな物音が切り裂いた。
「っ!?」
トリーシャが弾かれたように僕から離れた。
「し、ししっ、失礼しました! か、かかか、体を拭きましょうっ!!」
フィオナが帰宅したのだろう。彼女は蒼白な顔で、泳ぐような手つきで脱衣所へと駆け出していった。軍人としての冷静さはどこへやら、支離滅裂な声を出しながら必死にタオルを掴んでいる。
そんな彼女の背中越しに、廊下から聞き覚えのある、けれどここには居るはずのない声が響いた。
「イネスさん!」
ソフィー、の声……?
焦燥に満ちたその叫びに、僕は妙に冷静になった頭で思考を巡らせる。なぜ、彼女がここに。
バタバタと廊下を駆ける激しい足音が一度止まり、静寂が訪れる。そして、直後。
「イネスさん!!」
先ほどよりもずっと大きな、悲鳴に近い叫び声と共に、再び激しい足音が近づいてきた。さらに、それに重なるようにフィオナが僕を呼ぶ泣き声まで聞こえてくる。
一体、何が起きているんだ。
僕はトリーシャの混乱を余所にシャワールームを出て、脱衣所の扉をゆっくりと開け、顔だけを出してみた。
そのわずかな音に反応したのか、廊下の向こうからソフィーが僕の名前を叫びながら、猛烈な勢いで走ってくるのが見えた。
そして、彼女と目が合う。
ソフィーの顔は涙でボロボロに汚れ、その右手には、僕がリビングに遺してきたはずの『遺書』がくしゃくしゃに握りしめられていた。
……あぁ、それは心配になるはずだ。
「イネスさぁぁんっ!!」
彼女は僕の胸に弾丸のような勢いで飛び込んできた。その衝撃で、僕は踏ん張りきれずに脱衣所の中へと尻餅をつく。
ソフィーは僕の胸に顔を埋めたまま、顔を上げて僕の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「やだ! 絶対ヤダ!! 死なないでっ! イネスさんが死んだら、私も死ぬからぁ!!」
彼女は子供のように、喉を枯らして泣き始めた。
ソフィーには僕のことしか見えていないようだった。すぐ傍らで、タオルを持ったまま石のように固まっているトリーシャの存在にさえ気づいていない。
トリーシャは、泣きじゃくるソフィーと僕の姿を静かに見つめた後、何かを悟ったようにゆっくりと脱衣所の外へ出た。
開いた扉の向こうには、同じように涙を流して立ち尽くすフィオナの姿があった。
トリーシャとフィオナ。二人は言葉を交わすことなく、けれどトリーシャが目でフィオナに語り掛け、静かにその場を離れていった。
残された脱衣所で、僕はソフィーを抱きしめ返すこともせず、ただ、口だけを動かした。
「ごめんね……。心配かけたね。ひどいこと、したね」
心からの謝罪だった。
トリーシャが直してくれた、僕の考え方と軍人としての理屈。
フィオナが治してくれた、ボロボロに崩れ去っていた僕の身体。
ソフィーのおかげで救えた、僕の家族と僕自身。
そして、彼女たち全員がくれた、「生きていてほしい」という剥き出しの感情。
「……もう、自分で死のうなんて思わないから。本当に、ごめん」
その全てを背負い、感じながら、僕は生きていく。
この先何があっても。
ソフィーが泣き止むまでの十数分間、僕たちは脱衣所の冷たい床にいた。
途中で泣き止んだ彼女にリビングへ行こうと提案したのだが、その際、彼女はシャワールームの床に転がっていた包丁を見つけ……彼女は再び大声で泣き出し、僕たちはさらに長くその場に留まることになってしまった。
ようやくリビングに戻ると、そこには泣き腫らした顔を拭ったフィオナと、濡れた軍服から着替えたトリーシャが隣り合って座っていた。
ぐずぐずと鼻を鳴らすソフィーを見ても、二人とも表情を変えなかった。トリーシャとフィオナの向かいに、僕とソフィーが座る。彼女はまだ、僕の腕を離そうとしなかった。
重苦しい沈黙を破り、僕が最初に口を開いた。
「……みなさん。ご心配をおかけして、本当に申し訳ございませんでした」
僕は深々と頭を下げた。ここは、正直に言わなければならない。
「今回の任務で、いろいろありまして……。もし三人がいなかったら、僕は今頃、自分で命を絶っていたと思います。ですが、みんなのおかげで、その考えを断ち切ることができました。今後、何があっても……二度と死のうなんて思うことはありません。……こんな状態の僕が言っても、信じてもらえないかもしれませんが」
それに応えたのは、トリーシャだった。
「いいえ。信じます。……もしあなたが自ら命を絶てば、それはそちらの女性を手にかけるのと同義、ということになってしまいますからね。」
彼女はにこりと微笑みながら、ソフィーに目をやった。
……その通りだ。
トリーシャが静かに言葉を続けた。
「ところで……お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
ようやく嗚咽が止まったソフィーが僕の腕を離し、俯きながら二人に体を向けた。
「ソフィー・ロンドンです。イネスさんとは、大学が同じでした」
それに答えるように、トリーシャとフィオナも自己紹介を済ませ、短く「よろしく」と告げた。
一通りの挨拶が終わり、僕は一番の疑問を投げかけた。
「……あの、ソフィー?なんでこの家が分かったの?」
聞くと、ソフィーの目に再び涙が溜まり始めた。僕がおろおろとしていると、フィオナが代わりに口を開いた。
「私から説明するわ。私が退庁しようとした時、彼女が正門の衛兵と押し問答をしていたの。しきりに『イネス・ウエステイルに会わせてくれ』『住所を教えてくれ』って食い下がっていて……。衛兵もイネスさんのことなんて知らないし、知っていても部外者に機密情報は教えられない。彼女、あまりに必死だったし、イネスさんが軍に入ったことを知ってることが気になって、私が声をかけたの」
フィオナは、ソフィーの手にあるくしゃくしゃになった紙を見つめた。
「話を聞けば、さっき久しぶりに会ったあなたが、まるで最後を悟らせるような、この世の別れを告げる言葉を遺していなくなったから探しているって……。だから、私の判断でここに連れてきたのよ」
「そう……だったんですね」
そりゃあ、心配もするよね。
あの時の僕は、端から見れば相当に異常だったはずだ。……いや、実際、異常だったのだけれど。
時計の針は、すでに夜の9時を回っていた。
ここからソフィーの家までは、身体強化を使った僕の足でも一時間弱はかかる。
彼女の前で魔法なんて使えないし、魔法なしで行こうとしたら何時間かかるか分からない。今から帰ってもらうのは現実的ではないな。
「ソフィー、今日はこの家に泊まって。明日の朝、僕が送るから」
僕の提案に、けれど彼女は静かに、そして力強く首を横に振った。
「……ここに、住まわせてください。」
「ごめんね。それは難しい」
僕は即座に否定した。
「僕の仕事は秘匿性が高いものが多くて、家族にさえ言えない守秘義務があるんだ。それに、急な出張で家を空けることも多くなるし……」
「イネスさん、神堕したんでしょ?」
心臓が跳ね上がった。……さすがに、バレるか。
「そうじゃないと、いろいろ説明がつかないんです。軍がポンと15億も払うなんてやっぱりおかしいし、姿を消せるなんてありえない。……何が起こったのかは分かりませんが、『神堕した』と言われるのが一番納得できます。というか、それしかありえない」
なんて答えればいいんだろう。
閣下からは厳命されている。けれど、彼女のこの確信に満ちた瞳を前に、納得させられるだけの嘘が思いつかない。
僕が頭を悩ませていると、不意にトリーシャが口を開いた。
「そうですね。もう隠し続けることも難しいでしょう。本当のことを言いましょう」
彼女は一転して、軍人としての厳しい表情をソフィーに向けた。
「ですがソフィーさん。これから話すことは、あなたの家族やイネスさんの家族にさえ、絶対に他言無用です。国家反逆罪に問われる可能性すらある。……誓えますか?」
「……はい」
ソフィーはたまった涙を拭い、トリーシャの目を真っ直ぐに見据えて答えた。
そこから、トリーシャによる解説が始まった。
僕が神堕したこと。膨大な魔力量、光魔法の習得、そして時間無制限で魔法を行使できるということ。ソフィーはそれを、聞き逃さないように、真剣に咀嚼しながら聞き入れていた。
「……以上が、イネスさんに起こったことです。こうなったからこそ、彼はあなたを遠ざけるしかなかった。ということです」
「教えていただき、ありがとうございました」
すべてを聞き終えたソフィーが、僕に視線を移す。
「いろいろ、すっごく納得できました。……あなたがいなくなってから、私、どうしたらいいのか分からなくなっていました。すぐに会いに来てくれるかもって期待して、来なくて、寂しくて。でも少しずつ気持ちが落ち着いてきた時に、やっぱりあなたが好きだって再認識したんです」
彼女の瞳に、熱い決意が宿る。
「そんな中、あなたが現れました。大地震の直後よりもボロボロになった状態で。……私、あなたの秘密を知りました。もう、遠ざける必要はないですよね?」
「……そうかも、しれないね」
「じゃあ、私もここに住みます」
「いや、それは……」
「こんなに大きな家なら大丈夫ですよ。今後、どんなことがあっても、私があなたを支えます。だから、一緒にいさせてください」
その目は本気だった。……本当に、どうしよう。
僕は助けを求めるようにトリーシャとフィオナの方を見た。トリーシャは無言で紅茶を口に運んでいる。助け舟を出してくれるかと思ったその時、フィオナがニヤリと口角を上げた。
「ちなみに、私とトリーシャもこの家に住んでるわよ」
「えぇっ!?」
「ブフッ!!」
ソフィーの驚愕の声と、トリーシャの紅茶を噴き出す音が重なった。
「ちなみに私は、この家から出ていく気はないわ。……たぶん、トリーシャもね?」
「イ……イネスさん……?」
ひきつった顔で僕を見つめるソフィー。
「さいてー!! ちょっと魔力が増えたからって、いろんな女性に手を出すなんて!!」
ソフィーの糾弾がリビングに響き渡る。彼女はさらに追い打ちをかけてきた。
「信じてたのに!大学の頃の、あの純粋なイネスさんはどこに行っちゃったんですか!? ……あれ?大学の頃から、そんな純粋じゃなかったような気が……」
…身に覚えがあるだけに、いたたまれない……。
「あの、ソフィー、少し落ち着ーー」
「私は、魔力がなくても彼のことを好きになったわよ」
宥めようとする僕を、フィオナが凛とした声で遮った。
「……私も……」
トリーシャまでもが、顔を真っ赤にして指先をいじりながら消え入りそうな声で続く。
「……」
ソフィーの瞳から光が消え、静かに二人を見つめる。
そして俯き、肩を震わせてから、彼女は弾かれたように顔を上げた。
「やだ! イネスさんの魅力を知ってるのは、私だけでいいの!」
「もう遅いわね。」
ソフィーの嘆きに、フィオナはどこまでも冷静に突っ込んだ。
そして、僕の意志など介在する余地もなく、今後の生活が淡々と構築されていく。
「そうねぇ……こういうのはどうかしら?客室は二部屋、あとはイネスさんの部屋。今日から私たち三人で、毎日交代で彼と同じ部屋で寝る。というのは?」
「エッ!?」
トリーシャがまたしても変な声を上げた。
「い、イネスさんと……同じベッド……? ……そんな、い……いいの……?」
……よくないと思う。
指先を合わせてボソボソと呟くトリーシャ。
一方で、ソフィーはムカムカと肩を揺らしながらも、「うー……いやだ…すっごく嫌だ……だけどしょうがないのかな……てかこの2人なんでライバル同士なのに平気なの……?」と、あまりに飛躍した状況を理解しきれず、混乱の極致にいた。
ああ、こんな日常になっていくのなら……。
この姦しさに振り回されている限り、死のうなんて考える隙間さえ、僕には訪れないだろう。一刻前までのあの冷たい静寂が嘘のように、この騒々しさのおかげで、昔の心に戻れている気がした。
――その時だった。
ピピッ、ピピッ、ピピッ。
リビングの棚の上に置いていた軍用無線機が短く、鋭い予鈴を上げた。
一瞬で空気が凍りつく。全員の視線が無線機に集まる。
僕は心臓が冷たくなるのを感じながら、ゆっくり立ち上がり無線機に向かった。
受話器を耳に当てると、スピーカー越しに、いつもと変わらない軽妙で楽しげな閣下の声が響いた。
『おお、イネス君。無事に帰宅したようだね。元気にしてるかい?』
受話器から響く閣下の声は、まるでお気に入りの玩具の調子を確かめるような、軽やかなものだった。
「はい、なんとか」
彼女たちのおかげでね。
僕は三人の視線を背中に感じながら、短く答えた。
『そうかそうか。早速なんだが、次の任務の話だ』
「はい」
なんでも言ってください。僕はもう、迷いません。
『君が任務に出ている間に、君の報告通りアータバルがグルガル族に戦争を仕掛けたよ』
……結局、仕掛けたんだ。
『ジン・カドラーが魔法を使った瞬間に、アータバル軍は壊滅したがね』
……まあ、そうなるよね。
「それでは、閣下の仰っていた『復興支援』の任になるのでしょうか?」
『そんなことに君を使うわけないだろう。もっと、君にしかできないことだよ』
閣下は声のトーンを変えないまま、淡々と続けた。
『いやあ、グルガル族とは仲良くしたいんだけどね。あの王様がいると何もできそうにないんだよ。そこで、君の出番というわけだ』
……なるほど。この任務のために、前回の『あれ』を僕に命じたのか。僕に、人の心を捨てさせるために。
『イネス君。四日後に、リティッシュ・ランバに単独で乗り込みなさい。そして、彼の国の王である、ジン・カドラーを暗殺してきなさい。これが、今回の任務だ。できるね?』
「はい」
即答する。
もう、僕は立ち止まらない。
『いい返事だ。先の任務で、さらに僕好みに仕上がったね。……それじゃあ頼むよ、“英雄”君』
プツリ、と通信が切れた。
受話器からは無機質な電子音さえ聞こえない、完全な静寂が流れ出す。
僕は受話器を耳に当てたまま、正面の壁を凝視していた。
ジン・カドラー。
一国をも簡単に屠る、あの魔力の怪物を単独で暗殺する。それが、どれほど生存確率の低い、狂った命令であるかは理解している。とんでもない無理難題だ。
だが、この難題を解決できる人間が、世界に僕1人だけだということも理解している。
そして今の僕の胸にあるのは、凍てつくほどに澄み渡った静謐だけだった。
地獄を通り抜け、三人の愛に繋ぎ止められた僕にとって、死ぬことさえもはや恐怖ではない。
……いや、それだと語弊があるな。彼女たちのために、僕は絶対死ねない。だけど、彼女たちの安寧と幸福のためであれば、どんな命懸けの任務だって死ぬ気でやり遂げてみせる。
たとえ相手が神に等しい怪物であろうと、僕がやるべきことは変わらない。
前の任務と同じだ。
不可視の刃を研ぎ、影に潜み、喉元を掻き切る。ただ、それだけのことだ。
僕は静かに、けれど鋼のような強さを持って、受話器の向こうに消えた閣下へ、そして自分自身へ、最後の一言を告げた。
「了解」
この世界は、醜悪な権力と底なしの私欲で回っている。
それでも、僕の愛する人たちが笑える場所を、創り、守り続ける。
……たとえ、僕が人でなくなっても。
第二章 光の英雄
第二章まで読んでいただきありがとうございます。
大変申し訳ないのですが、私生活の方がかなり忙しくなってしまうため、更新頻度がかなり遅くなってしまいます。
必ず完結まで持っていきますので、ゆっくりになりますが引き続き応援いただけると幸いです。
よろしくお願いします!




