65 おかえりなさい
《トリーシャ視点》
午後6時。
執務室の空気は淀み、タイプライターの乾いた音と万年筆を走らせる音だけが響いていた。
私は今、山のように積まれた監視対象者名簿の精査をしている。
治安維持局から回ってくる報告書を読み、疑わしい者に線を引く。私の引く一本の赤い線が、その者の銀行口座を凍結し、渡航を禁じ、あるいは「再教育」の名の下に家族から引き離す。
それが国家という機械の歯車である私の、いつもの仕事だ。
ふと休みのことを思い出し、頬が緩む。
彼、喜んでくれるかな。
先週の休み、私は電車に揺られてハマムまで足を運び、彼の家族が入院している病院を訪ねていた。
「現在の同僚です」と挨拶をすると、ご家族は皆、温かく私を迎え入れてくれた。「彼は非常に優秀で、軍もとても助かっているんですよ」と伝えると、誰もが自分のことのように顔を綻ばせていた。
怪我と任務続きで疲弊している彼が、少しでも元気になればいい。そう思い、ご家族にお願いして写真を撮らせてもらったのだ。
本当に、良い人たちだったな……。
彼の家族は、驚くほど温かかった。イネスさんのあの優しさは、この家族の中で育まれたのだと、深く納得したのを覚えている。
早く、彼に会いたい。あの写真を見せて、家族の近況を伝えてあげたい。
そんな穏やかな思考は、部屋に飛び込んできた通信兵の足音によって無残に切り裂かれた。
諜報部から回ってきた緊急の回覧板。ウールの通信を傍受していた工作員からの、極秘速報。
「……え?」
電信紙に印字された文字を見て、思考が停止した。
『ウール都市部にて異常事態発生。民家にて二十体の遺体を確認。全遺体、抵抗の跡なく喉を一突きされている。また、同市内にて六十三名が突如として行方不明。安否不明、痕跡なし。過激派組織「EoL」の構成員と疑われる数名も含む。……特筆すべき点として、一人の血塗れの乳児が病院前に放置されていたとの報告あり』
20人の、死体。
63人の、行方不明。
あまりの情報の異常さに、背筋に冷たいものが走る。
でも、その惨劇のニュースを見た瞬間、私の脳裏に真っ先に浮かんだのは、政治的な情勢でも平和への懸念でもなかった。
イネスさん……大丈夫かな……。
どこで仕事をしているのか、何をしているのかさえ教えられていない。
けれど彼が、今この瞬間に危険な目に遭っていないか。ただそれだけが心配だった。
さすがにあんなに関係の悪いウールで彼が仕事をしているなんて、ありえない。そう自分に言い聞かせようとした。
……けれど、そこまで考えて、頭の血がサーッと下がる感覚がした。
『あの青年がいれば、国境も、金庫の鍵も、他人の思考すらも意味をなさない』
総督の、あの傲慢で確信に満ちた言葉が呪詛のように蘇る。
そうだ、彼は不可視になれる、国境も警備も無意味だ。彼ならウールに行くことなんて、八百屋に行くのと同じくらいたやすいのだ。
そして、彼が出発する前の、あの異様なまでの動揺。
20人の死体。喉を一突き。
63人の行方不明。しかも、その中に過激派テロ組織の構成員がいるという。
…もしかしたら、この83人が全員、組織の関係者なのかもしれない。
思考がぐるぐると空回りする。
抵抗の跡、なし。
それは、刃に怯える暇さえ与えられなかったということだ。……若しくは、刃そのものが見えていなかったか…。
しかも、病院に置かれた血塗られた赤ん坊。そんな歪んだ、あまりにも不器用な慈悲を見せる殺し屋が、他に誰がいるというのか。
もしかして…本当に……あの優しいイネスさんが、83人もの人間を殺害したの?
…え?83人?一晩で?
ペンを持つ指が激しく震え、インクが名簿の上に大きな染みを作った。
もう、今日は絶対に仕事なんてできない。
私は椅子を蹴立てて立ち上がると、コートをひったくるようにして執務室を飛び出した。
大股で廊下を突き進み、一階の輸送班待機所の重い扉を肩で押し開ける。
煙草の煙が漂う室内で、くつろいでいた兵士たちが、私の姿を見るなり椅子をひっくり返す勢いで起立した。
「本日はもう上がります! 今すぐ、帰宅の車を出しなさい!」
自分の声が、自分でも驚くほど鋭く、冷たく響いた。
「は、はい! 直ちに! 第一車両、準備しろ!」
「大佐、何か緊急の事態で――」
「いいから早く! 五分以内に出発よ!」
兵士たちの戸惑いなんてどうでもいい。私は彼らを突き放し、車寄せへと急いだ。
数分後、重厚な黒塗りの軍用セダンが激しくタイヤを鳴らして滑り込んでくる。運転席から飛び出してきた伍長が、震える手で後部座席のドアを開けた。
「自宅へ。最大速度で出しなさい。交通規制も無視して構わない、私が責任を持ちます。」
車内に乗り込むなり、私は運転手に命じた。
普段なら決して口にしないような横暴な命令。けれど、今の私には軍人としての品位も、交通法規も、全てが邪魔だった。
ただ一人、後部座席で背筋を伸ばし、震える手を握りしめて膝に置く。
本部を出るとき、見たことのない小柄な、ピアスをつけた女性が門番に何かを怒鳴っていたが、そんなことを気にする暇はなかった。
お願い。家に居てください。
そしてどうか…どうか私の勘違いであってください。
車が自宅の前に急停車し、タイヤがアスファルトを削る不快な音が響く。
私は伍長がドアを開けるのを待たずに外へ飛び出し、玄関へと走った。
震える手で鍵を差し込むが、今朝かけたはずの鍵は開いていた。
「イネスさん!!」
家の中は、嫌なほど静まり返っていた。
重苦しく湿った冷気が鼻を突く。そして、隠しようのない鉄の、錆びたような臭い。
廊下には、見たことのない袋が転がっていた。
その袋は赤黒い汚れが点々としていた。
そして中から覗いていたのは、それ以上に真っ赤に染まった袖と思わしき布だった。
「……嘘、でしょ」
視界が歪む。
奥から、絶え間なく続く音が聞こえてきた。
ザーッ、という激しい水の音。
カシュッ、カシュッ、という、乾いた金属の音。
私は靴を脱ぎ捨て、音のするシャワールームへと足を進めた。
ドアの隙間から、肌を刺すような冷気が漏れ出している。
「イネスさん!」
私は意を決し、その扉を乱暴に開け放った。
それは異様な光景だった。
無人の空間。叩きつけられる水の帳。
その中に、濡れそぼった一本の煙草と、安物のライターが、不自然に宙に浮いている。
カシュッ、カシュッ、という乾いた音のたびに、ライターの金属部分からは血が混じった雫がポタポタと滴り、排水溝へと吸い込まれていく。
足元のタイルには、鈍い銀光を放つ包丁が無造作に転がっていた。
そして……降り注ぐ水の軌道が、あまりにも不自然だった。
激しく噴き出す冷水は、ある一点で目に見えない『何か』の輪郭をなぞるように弾け、空中で霧散している。
そこには確かに、蹲る人間の形をした何かが存在していた。
「……っ」
ああ……嫌な予感が、あたってしまった。
なんて、声をかければいいんだろう。どうやって慰めればいいんだろう。そもそも、これほどまでに壊れてしまった魂を、慰める術なんてこの世にあるのだろうか。
……何弱気になってるの、トリーシャ。
彼が出発するとき、彼に約束したじゃない。
ボロボロになっても、私が絶対に支えるって。おかえりなさいって言うって。
今ここで救わなくて、誰が彼を救うの?
……私が、彼を……!
「……イネスさん」
私は、見えない彼に向かって、迷いなく一歩踏み出した。
「おかえりなさい」




