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64 ただいま

「ただいま……」




正午を過ぎた頃、僕は家に辿り着いた。


帰り道の記憶全てが曖昧だ。

ただ、水上バイクで跳ねる飛沫が顔にかかるたび、昨夜浴びた返り血を連想して死ぬほど嫌だったことだけを覚えている。


玄関で立ち尽くす。

トリーシャとフィオナは仕事中だろう。家の中には誰もいなかった。

あんなに安心できる場所だったのに、今の僕にはここが、よそよそしくて居心地が悪い。


ボロボロに汚れ、赤く染まった服が入った袋を廊下へ適当に放り投げる。

 

とりあえずテラスに出て、煙草に火をつけた。

……味が、しない。味覚が死んでいる。けれど、口から吐き出される白い煙は、何故か僕を安心させる。


「……お腹、減ったな」


煙草を消し、キッチンへ向かう。

冷蔵庫を開け、適当な材料を取り出す。野菜炒めでも作ろう。

まな板を出し、肉を乗せる。包丁を握り、その刃を肉に当てた――


その瞬間、昨夜の「あの感覚」が、指先から脳へ一気に駆け巡った。

熟れた果実のような、柔らかい牛肉のような、あの喉を裂く手応え。


「うっ……おえぇぇぇっ!!」


シンクに思い切り胃液をぶちまけた。

体がガクガクと震え、止まらない。


嫌だ。気持ち悪い。吐き気がする。嫌だいやだいやだ。

助けて……誰か、助けて……お願い、誰か……!


縋るように周囲を見渡すが、誰もいない。静寂だけが僕を責め立てる。


ふと、リビングの棚の上に、見たことのない写真が置いてあることに気づいた。

「え……?」


フラフラと近づき、その写真を見つめる。

そこには、最高の笑顔を浮かべる五人が写っていた。

エマちゃん、母さん、顔に傷の残る父さん、松葉杖をつきながら誇らしげに立つ兄貴、そして車椅子で微笑むマリアさん。


「ああぁ……ああああああ……ああああああああああ!!」


その眩しすぎる「幸せ」を見て、気が狂いそうになった。

僕は、知らない誰かの、あの笑顔を奪ったんだ。この手で。

彼らがテロを目論む悪人であったのは間違いない。けれど、僕はその家族の未来まで奪い尽くした。


「あああああ!! ああああああ!」


エマちゃんと同じくらいの年の男の子から、両親を奪った。

乳児の両親を殺した。

父さんや母さんと同じくらいの年齢の人たちを、何人も殺した。

それよりも年上の、もう悪さなんてできないはずの老人も殺した。


「あ……あああ……っ」


視界が涙で滲み、足から力が抜ける。

僕は床を這いつくばりながら、逃げるようにシャワールームへと滑り込んだ。

この手に染み付いた「柔らかい感触」を、今すぐ削り落としてしまいたかった。


冷たい水が、服の繊維を通して肌に突き刺さる。けれど、その刺すような痛みが、唯一僕に自分はまだここにいると自覚させてくれた。


「あああ……ああああ……」


喉の奥から、自分のものではないような声が漏れる。声を出し続けていなければ、このまま意識がバラバラに弾け飛んでしまいそうだった。

震えが止まらない。蛇口を限界までひねっているのに、もっと冷たく、もっと鋭く自分を罰してほしかった。


……タバコ。タバコを吸えば、少しはマシになる…はずだ。


僕は冷水を浴びたまま、ポケットからずぶ濡れになったタバコを震える指で取り出し、口に咥えた。


カシュッ、カシュッ、カシュッ……。


濡れたライターの火花は、一瞬だけ散っては消える。火がつくはずなんてない。そんなことは、壊れていない頭ならすぐにわかることだ。

それでも、僕は祈るように、狂ったように親指を回し続けた。


カシュッ、カシュッ……。




どれほど時間が経っただろう。親指の皮はとうに剥がれ、ぐちゃぐちゃになった肉が剥き出しになっていた。そこから流れる鮮血がライターに絡みついても、僕は回すのを止めなかった。

痛みなんて、何一つ感じない。この手で奪ってきた命の重みに比べれば、指の肉が削れることなんて、呼吸をするのと変わらない些細なことだった。


「助けて……助けてぇ……」


助けてほしかったのは僕が殺した人たちのはずなのに、許されるはずのない懇願を続ける。


誰か…お願い……

僕をここから連れ出して。…この記憶を、この「柔らかい感触」を、消してよ…。


「……あっ」


その時、濁りきった思考の中に、一筋の細い光が見えた。


ソフィー。


そうだ。あの時、眠れなかった僕の頭を撫で、安らかな眠りへと誘ってくれた彼女。


彼女なら。

彼女なら、こんな僕でも直してくれるはずだ。


全財産をあげよう。それで眠らせてって頼み込もう。

もし断られた……これから稼ぐお金も、全部渡すからって頼もう。そうすれば、彼女は僕を眠らせてくれるはずだ。

大丈夫……閣下がお給料を上げてくれるって言っていた。お金ならいっぱいある。

だから……お願いしに行こう。


逃げ道を見つけた。そう思った瞬間、僕の視界にはもう、それ以外の景色は映らなくなっていた。

水を止め、僕は濡れ鼠のまま、家から飛び出した。


不可視化。身体強化。

意識するよりも早く、魔力が全身を駆け巡る。最近は魔法を解いている時間の方が短い。


僕はソフィーの家を目指して全力で走り出した。

一刻も早く「自分」を忘れ去りたいという、切実なまでの逃避衝動のみが、僕を動かしていた。




一時間もしないうちにソフィーのアパートに着いた。

ずぶ濡れのまま扉の前に縋りつき、無我夢中でノックを繰り返す。


助けて……ソフィー……ソフィーっ!!


「はーい! 少し待ってください!」

中から聞こえてきた懐かしい声。ああ、ソフィーだ。彼女がいる。その事実だけで、消えかかっていた意識が繋ぎ止められる。

けれど、ノックをする手はどうしても止められなかった。


「はいはい、なんですか? もー」

不機嫌そうに扉が開く。

黒髪のボブカット、小柄な背丈、左耳の二つのピアス。最後に会った時と変わらない彼女の姿が、一瞬だけ僕に執行官であることを忘れさせてくれた。


「は? 誰もいないじゃん」


不可視化を解くのを忘れていた。扉を閉めようとする彼女の腕を、僕は力任せに掴む。

「えっ、何!? 怖いんだけど」


怯える彼女の前で、僕は魔法を解いた。


「ひっ……え? イネス……さん?」

「ソフィー……」

「どうしたんですか!? そんなに濡れて! 顔色も悪いし、痩せすぎだし……え、何、透明だったの? ええぇ?」


混乱する彼女を突き飛ばすようにして部屋に入り、僕は強引にその体を抱きしめた。


「ちょっ…イネスさん!何か話してく――んっ!?」


叫ぼうとする彼女の唇を、奪うようにして塞ぐ。

腕に魔力を込め、二度と離さないように、逃げられないように。


「まっ、へ……んっ……」


必死に抗う彼女の体温を感じながら、僕は唇の感触にすべてを集中させた。

久しぶりに触れる彼女の形。それでも、僕の心は安らぎを感じてくれなかった。


あ…そうだ…説明、しないと。


「ソフィー……ごめん……お金、あげるから……いっぱい、あげるから……」

「……どういう、ことですか?お金なんていらないです。こっちはお話ししたいことがいっぱいあるんです。……イネスさん、タバコ吸い始めたんですか?」

「お金、あげるから……お願い、お願いっ」

「イネスさん!落ち着いて!ちゃんとお話しし――んっ!」


再び唇を奪い、玄関先で彼女を押し倒した。


「いたっ!」

倒れた衝撃で僕の歯が彼女の唇に強く当たり、肉を裂いた。


――血が、僕の口内に入り込む。

 

昨日の、あの味だ。


「いたぁ……」

「あ……ああ……うぷっ!!」


バッと彼女から距離を取り、込み上げる胃液を無理やり飲み下す。


「イネスさん!落ち着いて!どうしたんですか!?」


ソフィーの唇から、赤い血が流れている。

守りたかった。そのために遠ざけたのに。

僕は……僕が、傷つけた。血を流させた。


……ソフィーを殺してしまったのかもしれない。僕のせいで、彼女が死んじゃう。


「ごめん……死なないで……ソフィーが死んじゃったら……何も意味ないじゃん……」

「死なない!死んでない!!イネスさん!こっち見て!!」


彼女が僕の腕を必死に揺らす。けれど僕は蹲り、自分の膝を見ることしかできない。


死なないで。やだよ。お願いだよ。ソフィーが死ぬくらいなら、僕が代わりに....

………あっ


その時、脳の奥でパチリと音がした。



そうだ。

僕が死のう。


 

新しい逃げ道。なんて素晴らしい名案だろう。

こんな、人殺しのくせに、人に縋ることしかできないクズ。早く消えてしまえばいいんだ。

なんで今まで思いつかなかったんだろう。


僕は下を向いたまま、スッと立ち上がった。


「イネスさん!こっち見てよ!!」


「ソフィー……傷つけてごめんね。でも、許さなくていいよ。安心して。死ぬから。」


「っ!!イネスさん!!!」


縋りつく彼女の腕を身体強化で強引に振り払い、ドアを開けて不可視化を編み上げる。

 

「イネスさん!!イネスさん!!!どこ!?」


背後で聞こえる悲鳴のような叫び声。怒り狂っているんだろう。


家に帰ったら、全財産を彼女に相続させるよう遺書を書こう。まだ少ないかもしれないけど、これが僕にできる唯一の謝罪だ。


ごめんね。でもすぐ死ぬから。すぐにお金を届けるから。

 

僕は高揚感に包まれながら、シャワーの冷水と涙を撒き散らし、最期の家路へと走り出した。




家に滑り込み、無線機の横にあるメモ用紙とペンをひったくってリビングのテーブルに叩きつけた。

殴り書きで、ソフィーへ全財産を相続する旨を記す。


立ち上がろうとして、またあの五人の写真が視界に入った。

「うぇっ……」

せり上がってくる胃液を無理やり飲み込む。


トリーシャかフィオナが、僕のために撮ってきてくれたんだろう。この写真が僕をここまで追い詰め、吐き気を催させているなんて、彼女たちは夢にも思っていないだろうな。その善意が、今の僕には何よりも鋭い刃だった。


ふらふらとキッチンへ向かい、包丁を握る。


……僕のお金、家族にも少しは渡した方がいいのかな。


そんな考えが過ぎるが、濁った頭では答えなど出なかった。僕は考えるのをやめ、思考を遮断した。


「どこで、死のう……」


リビングの真ん中じゃ、トリーシャたちの掃除が大変だ。

ああ、そうだ。シャワールームがいい。あそこなら直接排水溝へ全部流せる。


シャワールームに入る。

汗と汚れを落とすため、そしてこれから吹き出る血を流すために、冷水を浴びる。

そして、自分の首に包丁の刃を突き立てた。


――ピタッ、と。


この十日間、一度も止まることのなかった指先の震えが、嘘のように止まった。

ああ……なんだ。僕は、ずっとこうして欲しかったんだ。自分の命を終わらせる準備が整って、初めて安心を感じている。


そのまま、一気に力を込めようとした。

けれど、またしても家族の顔が脳裏をかすめた。


……僕が死んだら、家族はどうなる?


総督が支払うと言った治療費の15億レンは一括だったのかな?分割だったかのかな?

もし分割で、僕が死んだせいで支払いが止まったら、あの人たちは借金地獄に落ちるんじゃないか?


……家族にも、ソフィーにも、トリーシャにも、フィオナにも。

僕は、どこまでいっても他人に迷惑をかけ続けることしかできないのか。


心底、気持ち悪い人間だ。

自分が、この世で一番おぞましい生き物に思えた。


あの写真の中の幸せな笑顔を、僕の勝手な死で絶望に変えたくない。


カランカラン、と乾いた音を立てて、包丁が床に転がった。

冷水を浴びたまま、僕はその場に蹲る。


どうしよう。死ぬことさえ、僕には許されないのかな。

 

「あ……そうだ。トリーシャに、聞いてみよう」


彼女が帰ってきたら聞けばいい。僕が死んだら、家族に借金は残るのかって。

残らないって言われたら、その時、また包丁を拾えばいい。


僕はポケットから、もうボロボロになった煙草を一本取り出した。

冷水に打たれながら、ガチガチと鳴る奥歯を噛み締め、カシュッ、カシュッ、と虚しく火花を散らし続ける。


皮の剥けた親指が赤く染まっても、僕はただ、家族の今後のことだけを考えながら、ライターを回し続けた。

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