63 執行官、執行。
潜入して、九日目の朝が来た。
初日に運よく潜り込めた集会の後、四日目にもう一度集会が開かれた。そこで九日目の今日、再度集会を行うと告知があった。そしてこの9日という期間は、僕の「死のリスト」を完成させるのに十分すぎるものだった。
前回の集会の終わり、僕は壁に立てかけられていた小振りの湾曲した刃物を盗み出し、懐に隠した。今は、それを縋るように握りしめている。
この国に潜入してから、まともな食事は一度も摂っていない。
昼間、組織の構成員を追って街に出た際、露店から水と食料を盗んで胃に流し込んではいた。
けれど、夜に一人で廃屋へ戻ると、そのすべてを血の混じった胃液と共に吐き出してしまう。
あばら骨は浮き出し、手足は枯れ木のように細くなった。
潜入以来、一度も鏡を見ていないが、自分の顔がどれほど死人のようになっているかは想像に難くない。
睡眠も、日に一時間取れればいい方だった。その代わり、盗んだ煙草の量だけが恐ろしく増えた。肺を刺す煙だけが、自分がまだ生きていることを教えてくれる唯一の刺激だった。
九日目。今日、すべてを終わらせる。
まず、今夜ここに集まる全員を殺す。
その後に、この九日間で突き止めた構成員の家族……あの「お帰りなさい」と言った女性も含む二十人を、一人残らず殺す。
数日かけて一人ずつ始末していくなんて、僕の精神がもつはずがない。
今日一日で、この地獄のすべてを終わらせるんだ。
朝からずっと、僕は廃屋の二階で蹲っていた。
「やるぞ……やるぞ……今日、やるんだ……」
呪文のように、それだけを何度も何度も繰り返す。
脱水を防ぐために、盗んだペットボトルの水を無理やり喉に流し込み、絶え間なく煙草を吸い続ける。
時折、数分ほど意識を失うように眠りに落ちたが、その間も僕の唇は「やるぞ」という言葉を紡ぎ続けていた。
太陽が沈み、世界に夜の帳が下りる。
階下から、ボロボロの扉が開く「ギィ」という音が聞こえた。
……始まる。
僕は震える足に身体強化の魔力を込め、ゆっくりと立ち上がった。
手にした湾曲した刃物が、月光を浴びて鈍く、冷たく光っている。
地下空間は、これまでにない狂信的な熱気に包まれていた。
壇上で指導者が咆哮している。歴史的搾取への怨嗟、アルカリグへの憎悪、そして一ヶ月後に訪れる「葬送」の輝かしい未来。男たちがそれに応え、拳を突き上げるたびに、空気が震えて僕の鼓動を急き立てた。
いつやる……? いつ、やればいい……?
懐の湾曲した刃物を握りしめる指が、自覚できるほど激しく震えている。
あと一分……あと五分待てば、誰かが止めてくれたりしないかな…?
そんな子供じみた希望を抱きながら、僕は不可視化の中で足を進める。
指導者の演説は佳境に入っていた。具体的な配置、爆破のタイミング。それを聞くたびに、僕が愛する人たちの命の火が、一吹きで消えそうなほど小さくなっていくのが見えた。
こいつらの話を聞いて、思ったことがある。
こいつらは、悪だ。
正直、いなくなった方が、世界のためになるとまで思う。
……でも、手を下すのが僕であるということが、たまらなく嫌だった。
誰からやろう?
こいつ?それともあっちの若い人?誰かを殺せば、この吐き気は止まるのかな?
思考が空回りし、視界がチカチカと点滅する。
指導者が次の集会の予定を口にしようとしたその時、僕の焦燥感は限界を超えた。
今やらなければ、集会が終わってしまう。彼らは街に散り、取り返しのつかない種を蒔き始める。
どうしよう、早くしないと…
今?……いや、まだ……でも……っ!
気づいたときには、僕は壇上の指導者の真後ろに立っていた。
男の背中から発せられる体温が、不可視の膜越しに伝わってくる。生きている人間の、生々しい熱。
僕は泣きそうになりながら、自分の心臓を無理やり握り潰すような心持ちで、刃物を振り上げた。
今?……今かな…?…今、なの?
今……今!いま!今だ!!やれ!!今!!!
……やれ。
その熱い背中へ、全力で刃を突き立てた。
――ズブッ、という鈍い音。
手応えは、あまりに最悪だった。
身体強化を使い忘れていた。
狙った心臓には届かず、刃は肋骨の硬い感触に跳ね返された。
鉄が骨を削る「ガチッ」という振動が、僕の右腕を痺れさせる。刃が骨の間に食い込み、抜こうとしても抜けない。
「ぐふっ!あ……がああああああ!!」
男が絶叫し、床を転げ回る。
生々しい肉が裂ける感触、骨と鉄が擦れる不快な振動が、僕の右手にべっとりとこびりつく。男は死ねず、苦痛にのたうち回り、血を噴き出しながら助けを求めて這いずった。
……っ、う、あぁ……
「おえぇぇっ」
あまりの光景に、不可視化を維持したまま胃液が口から溢れた。喉を焼く酸っぱい臭い。周囲の連中は、指導者が突如として不可解な傷を負い、悶絶している姿を見てパニックに陥っている。
「なんだ!?」「何が起きた!」「敵襲か!?誰だ!」
僕は泣きながら、手元で使い物にならなくなった刃物を捨てた。壁に立てかけられていた、別の鋭利な長銘のナイフをひったくる。
次は……次は、外さない……こんな声……聞きたくない。
涙で視界がぐしゃぐしゃになりながら、身体強化を使用する。
次の標的は喉元に狙いを定めた。
後ろから首を掴み、その喉仏の横に深く、一気に刃を突き立てる。
……熱い。
今度は、さっきとは違う感覚だった。
硬い骨の抵抗はない。まるで熟れた果肉か、あるいは手入れの行き届いた牛肉を包丁で裂くような、驚くほど滑らかで柔らかい手応え。
シュウッ、と空気が漏れる音と共に、男の体から力が抜けた。悲鳴すら上げられず、男は崩れ落ちる。
ああ……こっちだ。こっちの方が、ずっといい……
その感触が、僕の中の何かを決定的に壊した。
苦しませるよりも、一撃で、この柔らかい場所を裂けばいい。そうすれば、僕の右手に伝わる「命を奪う嫌な振動」も短くて済む。
僕は身体強化の魔法を最大まで引き上げた。
視界が加速する。
泣きじゃくりながら、嗚咽を漏らしながら、僕は血の海を滑るように動いた。
不可視の死神となって、一人、また一人と「柔らかい場所」を切り裂いていく。
喉を突くたびに溢れる、鉄の臭い。
全身に飛び散る熱い返り血を感じながら、僕は機械的に腕を振り続けた。
床はすぐに肉塊と血溜まりで埋まり、60人いたはずの怒号は、次第にヒタヒタという僕の足音と、断末魔の湿った音だけになっていった。
全員、殺さなきゃ。
全員、殺して、早く帰ろう。
……ああ、おなか、減ってきたなぁ。
僕は返り血で滑るナイフを握り直し、最後の一人が絶望に目を見開くその喉元へ、吸い込まれるように刃を突き入れた。
地下空間から、一切の「音」が消えた。
返り血でぬめる手を無造作に振り払い、僕の思考はただ一点、固定されたプログラムのように駆動を始めた。
……殺さなきゃ。あと二十人。殺さなきゃ。
地下を出て、夜の冷気に身を晒す。廃屋を後にし、この九日間で脳内の地図に刻み込んだ標的の家へと歩き出す。
道すがら、露店に並んでいた林檎とペットボトルの水を、不可視のまま奪い取った。
歩きながら林檎を齧る。シャリッ、と瑞々しい音が暗い路地に響く。
芯を無造作に放り捨て、水を一気に流し込んだ。
一番近い、若い構成員の家に辿り着いた。
僕は不可視を解かず、ただ指先だけで扉をノックした。
怪訝そうな顔で出てきたのは、白髪の混じった、どこにでもいる穏やかな母親だった。
誰、と呟きながら外を覗き込み、誰もいないことに首を傾げて扉を閉じようとする。そのわずかな隙間に、僕は滑り込んだ。
「おい、誰だったんだ?」
奥の部屋から、父親の呑気な声が聞こえる。
それに答えようとして僕に背中を向けた、その母親の喉。
僕は迷いなく、後ろからナイフを突き立てた。
牛肉を裂くのと同じ、あの「柔らかい」手応え。
返事がないことに疑問を覚えた父親が、ひょいと顔を出す。
「おい、母さん、どうし――」
一瞬で距離を詰め、彼が妻の死体に気づく暇さえ与えず、同じ要領で首を掻っ切る。
……次。
振り返り、部屋を出ようとしたとき。
男が出てきた奥の部屋から、嫌にいい匂いが漂ってきた。
ふと視線を向けると、そこには質素ながらも温かそうな食卓があった。具沢山のスープ、焼きたてのパン、彩りのいいサラダ。
……お腹、減ったなぁ……
九日間の飢餓が、死体の前で唐突に牙を剥いた。
僕は血に汚れた手で、テーブルの上のパンを鷲掴みにした。それを口に押し込み、スープの皿を持って一気に流し込む。
咀嚼の音と、飲み込む音だけが静かな部屋に響く。
がつがつと、二人分の食事をすべて胃袋に収めた。
九日間、あれほど拒絶していた食料が、今は驚くほどスムーズに身体へ溶け込んでいく。
「……ご馳走様でした。おいしかったです。」
誰にともなく小さく呟き、僕はその「あったかい家」から出た。
……次。
同じ要領で、淡々と、機械的に標的を処理していく。
七軒目の家。そこには、エマちゃんと同じくらいの年の男の子がいた。彼はきっと、自分の父親が世界を火の海に沈めようとしていることなんて知らない。それを知っているのは、共犯者である奥さんだけだ。
でも……見られたら、殺した方がいいのかなぁ?
そんな疑問が脳をかすめるが、答えが出る前に指が動く。扉をノックし、小さな声で「どちら様ですか?」と顔を出した奥さんの喉を、滑り込みざまに掻き切る。
子供は眠っている。
よかったよかった。
……次。
十五軒目。ここには乳児がいた。父親の罪など、知る由もない命。
ノックし、滑り込み、女の喉を断つ。
作業を終えて背を向けようとしたとき、火がついたような泣き声が部屋に響き渡った。
「……ああ、このままだと、赤ちゃんも困っちゃうよね」
僕は土足のまま汚れも気にせず奥へ上がり、泣きじゃくる赤ん坊を探し当てた。
そこには、透き通るような肌をした可愛らしい女の子がいた。
「かわいいね。エマちゃんを思い出すなぁ」
僕がまだ小学生だった頃、これくらいの重さだったエマちゃんを抱っこした記憶が蘇る。あの時、母さんに教わった通りに、首を支えて優しく抱き上げる。
返り血で汚れた僕の腕の中で、温かな鼓動が伝わってくる。
僕は赤ん坊に不可視化の術をかけ、夜の街へと踏み出した。
泣き声だけが虚空から響く異様な行進。道行く人々が「どこから聞こえてるんだ?」と怪訝な顔をして周囲を見渡すが、死神と赤ん坊の姿を捉える者は誰もいない。
目指したのは、街で一番大きな病院だった。
静まり返った玄関の前に、そっと血塗れの赤ん坊を置く。
「バイバイ。元気でね。」
それから、僕は右腕に魔力を込め、正面のガラス扉を思い切り殴りつけた。
凄まじい破砕音が夜の静寂を切り裂き、ガラスの破片がキラキラと星のように舞う。これなら、奥にいる看護師たちもすぐに飛んでくるはずだ。
……次。
構成員の家族二十人、すべての掃除を終えた。
最後の一軒は、あの指導者の家だった。
「……体、べとべとして気持ち悪いなぁ。あ、シャワー借りますね。」
返事はもちろん、ない。
九日間着続け、返り血で真っ赤に固まった服を脱ぎ捨て、シャワールームに入る。蛇口を回し、お湯を浴びた。だが、そのぬるい温かさが死にゆく者の血と体温を思い出させて、すこぶる気持ちが悪い。
すぐさま温度を下げ、冷水に切り替える。肌を刺すような冷たさが、今は何よりも心地よかった。
体を洗い流した水が赤く濁り、排水溝へと吸い込まれていく。
久しぶりに石鹸を使い、丁寧に、隅々まで自分を洗う。
……ああ、気持ちがいい。
シャワーを出てタオルで体を拭き、曇った鏡を拭った。
「……誰? こいつ」
そこにいたのは、自分に似た何かだった。
髪は伸びて目を覆い、不規則な無精髭に覆われた、痩せこけた男。目は光を失い、ただ虚空を見つめている。
……まあ、いいや。
腰にタオルを巻き、家の中を漁って指導者の私服を拝借した。血の臭いが染み付いたあの服を着る気にはなれなかった。サイズは驚くほどぴったりだ。
ちょうどいい袋を見つけ、血塗れの服を押し込んで家を出た。
……ああ、閣下に報告しなきゃ。
不可視化と身体強化を並行し、九日間拠点にしていたあの廃屋へ戻る。
埃の舞う暗がりで、僕は小型無線機のスイッチを入れた。
「……閣下。こちらウエステイル特別執行官。応答願います。」
即座に、弾むような、親愛の情に満ちた声が耳元で跳ねた。
『おお! イネス君! 久しぶりだねぇ。首尾はどうだい?元気にやっているかな!』
「報告いたします。本日、指導者含むEoLの構成員六十三名、およびその素性を知る家族二十名の殺害を完了しました。敵組織は事実上、壊滅したものと推測されます。」
『本当かね! いやぁ、素晴らしい! 素晴らしいよ君は! たった九日間で二十人もの家族を特定し、処したというのか。それが限界だったのかな?』
「……はい。特定できた範囲内での執行となります。力不足で、申し訳ございません。」
『いやいや、謝らないでくれたまえ! それだけの人数が死ねば、新たにテロを企てようとする愚か者は二度と現れまいよ。しかも誰がやったかさえ不明とあれば、奴らにとっては神の怒りも同然だ。いやぁ、本当にお疲れ様! 君の給与をさらにアップさせると約束しよう!』
「……感謝いたします。これより帰還の途についても、よろしいでしょうか」
『もちろんだとも! 早く帰って、お家でゆっくり休んでくれたまえ。君は我が国の”英雄”だよ!』
「感謝いたします。通信終了。」
給料アップだって。やった。
何買おうかな。フィオナにはおいしいワインを買ってあげよう。トリーシャには大きくてかわいいぬいぐるみが良いかな。久しぶりにホームズ中尉と会いたいな。飲みに連れてってあげよう。
「……帰ろう。」
僕は袋を手に取り、真っ暗のウールの空の下へ、軽やかな足取りで踏み出した。




