61 等身大の女たち
《フィオナ視点》
「……なにか、あったの?」
あの人が一階の自室ではなく、わざわざ客間へ逃げ込むなんて初めて見た。
それに、あの痛々しいほど無理をした様子。そして、目の前で今にも泣き出しそうな顔をしているウィット大佐。
……え? もしかして、この子が告白でもして玉砕したの?
一瞬、そんな甘い考えが頭をよぎったけれど、返ってきた言葉は私の予想を遥かに超えて深刻なものだった。
「……今日、お邪魔したとき、家の中に電気がついていなかったんです。鍵が開いていたのでそのまま入らせていただいたのですが、彼、リビングの隅で……暗闇の中、一人で座り込んでいました」
「……なにそれ?」
「分からないんです。そのあとの彼、すっごく無理をして明るく振舞っていて。途中で倒れそうになっていたので、横になるよう提案したのですが……突然、大声で拒絶されました」
「……」
どういう……こと?
あの穏やかな彼が、声を荒らげて大佐を拒んだ? 一体何が彼を変えてしまったの?
「中佐、彼とこの一週間で何かありましたか?」
「……っ」
真っ直ぐな瞳に射抜かれ、言葉に詰まる。
彼女は間違いなく、私と同じように彼に心を奪われている。
アータバルで私たちが過ごしたあの甘く幸せな一週間のことを思い出し、まるで彼女を裏切っているような……残酷な仕打ちをしているような気がして、胸が痛んだ。
……いや、今はそんな申し訳なさに囚われて、黙り込んでいる場合じゃない。
彼のあの態度は、間違いなく私との一週間が原因で起こった変化ではないはず。それを、何よりも先に突き止めないと。
「……この一週間のせいでは、間違いなくないわ。何か、別の理由があるはずよ。」
「……あ、明日から二週間任務って言ってましたけど、中佐は何か聞いていますか?」
「いえ、初耳ね。そういえば今朝、今日中に閣下と通信しなきゃいけないって言ってたわ。……その時に、任務を言い渡されたのかも。」
「そうだとしたら、その任務のせい……なんでしょうか。」
「かも……しれないわね。」
だとしたら、本当に嫌な予感がする。閣下は、彼に何を命じたというの?
「少し、座りましょうか」
「……はい。」
大佐を促してリビングに入り、ソファに腰を下ろそうとした瞬間。
テーブルの上に散らばった「異物」を見て、私の身体は硬直した。
くしゃくしゃに潰された空の煙草箱が二箱。そして、すでに半分以上吸われた三箱目が、無造作に放り出されている。
「え……?」
座ることも忘れ、私は弾かれたようにテラスへ出た。
そこにある灰皿を確認し、息が止まる。
アータバルへ出発する直前、綺麗に掃除しておいたはずの灰皿が、溢れんばかりの吸い殻の山で埋め尽くされていた。
これ、全部、今日一日で吸ったの……?
背筋に冷たいものが走る。
彼がこれほどまでに自分を痛めつけ、何かを必死に誤魔化そうとしていた。
窓を閉め、そのまま二階へと急いで上がる。
「中佐? どうしたんですか!?」
通り過ぎる際に大佐から声をかけられたが、答える余裕なんてなかった。
客間の前に着き、ドアノブに手をかける。けれど、冷たい金属の感触は動くことなく、内側から鍵がかかっていることを告げていた。
私は焦りで早まる鼓動を抑えきれず、ドアを何度も叩きながら、大きな声で彼を呼んだ。
「あなた!? 鍵を開けて!お願い!何があったか私に話して!」
もしかしたら、今まさに彼は誰かに縋りたいのかもしれない。
昨日、私があんな無理なお願いをしてしまったから……。彼は私に悪いと思って、大佐に縋ることもできず、一人で耐えているのかもしれない。
だとしたら、今の彼を癒やすことができるのは、私だけのはずなのに。
「あなた! お願い! 顔を見せて!」
どれだけ必死に声をかけても、拳が痛くなるほどドアを叩いても、中から反応が返ってくることはなかった。
寝ているなんて、ありえない。これだけ大きな音を立てているのだから。
聞こえていて、それでも開けないということは。
……大佐と同じように、私も拒絶されているんだ。
その事実が、鋭いトゲのように胸を刺す。
「はぁ……はぁ……っ……あなた……」
肩で息をしながら、私は崩れ落ちそうになるのを堪えた。
これだけ呼びかけても出てこないということは、今は何があっても一人になりたいのだ。……あるいは、誰の介入も許さないほど、深い闇の中に沈んでいるのか。
私は後ろ髪を引かれる思いで、重い足取りのまま階段を下りる。
階段の下では、大佐が不安げに私を見上げていた。
「……中佐」
大佐が、消え入りそうな声で私を呼んだ。
あれだけ大きな声を出しても、結局扉は開かなかった。その事実が、私たち二人の間に重くのしかかる。
「……ひとまず、リビングへ戻りましょう。ここで立ち尽くしていても、彼を追い詰めるだけだわ」
自分に言い聞かせるようにそう告げ、私たちはリビングへ戻った。
ソファに向かう際、彼が作った肉じゃがの匂いが香ってきた。…でも、食欲なんて、二人とも微塵も湧かなかった。
「……大佐。今日、閣下から彼にどんな命令が下ったのか、心当たりはないの?」
私はソファに深く腰掛け、隣に座った大佐を見据えた。彼女は困惑したように視線を泳がせ、それから絞り出すように答えた。
「……分かりません。閣下が…次に何を考えているのかも、何も分かりません……ごめんなさい。」
「そう…」
私の相槌すらも、冷え切ったリビングの空気に吸い込まれて消えていく。
頼みの綱だった大佐からも答えは得られず、ただ時計の秒針だけが、私たちの焦りを嘲笑うようにカチカチと時を刻み続けていた。
その重苦しい静寂を破ったのは、申し訳なさそうな、けれどどうしても聞き捨てられなかったという響きを含んだ大佐の声だった。
「あの……ごめん、なさい。……こんな時に、聞くべきことじゃないのは分かっているんですが……。……イネスさんのこと、『あなた』って、呼んでるんですか……?」
心臓が跳ねた。
焦りのあまり、彼女がいる前でイネスさんを「あなた」と呼んでしまったことに、今さら気づいて血の気が引く。
「……それは……」
どうしよう。彼女に本当のことを伝えるべきなのだろうか。
しかも、こんな状況で?
……いや、むしろこの状況だからこそ、伝えたほうがいいのかもしれない。
もし真実を知った大佐が、彼を諦めて身を引くというのなら、私が一人で彼のそばにいて、とことん彼を支え抜くことができる。
けれど、もし彼女がそれでも諦められないと言うのなら。……彼がこれからどうなっても、私たち二人がかりで彼を支えて、決して彼を一人きりにはさせない。
全部、正直に話そう。
私は深く息を吸い込み、逃げ場のない大佐の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……そう、ね。……アータバルの任務中、ずっと彼を『あなた』と呼んでいたわ。……そして、今も。」
大佐の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。
「大佐。あなたに確認したいことがあるの」
「……なんでしょう?」
「大佐は、彼のことが好き?」
「いっ……いや……あの……」
「私は好きよ。彼のことが、大好き」
「っ……」
私はまっすぐに彼女を見つめて言葉を重ねる。
「お願い、答えて。あなたが彼のことをただの同僚として気にかけているだけなら、私は何も気にせずこの先を話せる。でも、あなたが彼を好きなら……私たちは二人とも、覚悟を決める必要があるわ。」
「……好き……」
「……そうよね。」
「……大好きです。……私の方が、先に、彼を好きになりましたっ。なのに、中佐まで……なんで好きになっちゃうんですかぁ……」
大佐は子供のように顔を歪めて泣き出した。その涙を無視して、私は残酷な真実を並べていく。
「大佐。ひとまず、聞いてほしいの。聞き終えてから、私のこと殴ってもいいから。」
「ひくっ……うぅ……」
大佐は、こぼれる涙を拭いもせずに、小さく頷いた。
「……ごめんなさいね。私、彼に無理やり迫ったの。アータバルで、強引に彼にキスをしたわ。」
「……やだ」
「その後のことも、彼に迫った。彼は最初断ったけど、それでも私は引かなかった。止められなかったの……彼が好きで。……ごめんなさい。」
「やだ……やだぁ……!」
大佐は耳を塞ぐようにして首を振る。けれど、私は止まらない。
「まだ、聞いてほしい。……それでも、彼は最後までは頑なに許さなかったわ。……彼ね、心に決めた人がいるみたいなの」
「……え?」
「その子はね、軍に入る前に、傷ついた彼をずっとそばで支えてくれていたんですって。その子に操を立てて、最後の一線だけは絶対に越えさせなかった。……まあ、途中までは、してしまったけれど。」
「うぅ……ううぅ〜……」
彼女の涙が、私への怒りなのか、彼に想い人がいる絶望なのか、あるいはその両方なのかは分からない。
「……私、ズルをしたのよ。女を使って、無理やり彼と肌を重ねた。……そして昨日、彼に好きだと伝えたわ。」
「……」
「でも彼は、私を受け入れなかった。自分が許せないって言っていたわ。自分が辛いときに、そばにいる女性に甘えてしまう自分はクズだ、心底嫌だって。」
「……」
「大佐。ごめんなさい。あなたが彼に惹かれていると知っていながら、私もどうしようもないくらい、彼に心を奪われてしまった。自分でも歯止めが利かなくなるくらいに。」
私は、テーブルに捨てられているタバコに目をやる。
「それで、昨日……恥ずかしげもなく『まだ、あなたって呼ばせて』って頼み込んだの。彼は何度も断ったけれど、私が笑えるくらい引き下がらなかったから、最後は彼が折れてくれた。……だから、今も彼のことを『あなた』って呼んでいるわ。」
「……」
「それで…私が言いたいのはね……まだ私もあなたも、同じくらいチャンスがあるってこと。……そして彼は今、本当につらい状況にいるってことよ。明日からどこへ行くかは分からない。けれど間違いなく、彼は心底疲弊して帰ってくるわ。……絶対に、誰かがそばにいないといけないくらいに」
私はソファ越しに、大佐の手をそっと握った。
「……今の私の話を聞いて、それでも大佐が彼のことを支えたいというのなら……一緒に、彼を支えない?」
「……っ」
「彼の最初の任務、二回目の任務……その両方が、彼を相当に疲弊させたわ。でも、今回の任務はおそらく、その二つ以上に彼の心を壊すものなんだと思う。……そうなると、今回の任務の内容は、だいぶ絞られるけれどね。」
「心を……壊す?」
久しぶりに、大佐が掠れた声で口を開いた。
「……何か、心当たりがあるの?」
「……イネスさんが、初めて軍に来て、閣下にお会いした時……閣下が、『彼が壊れそうになったら頼む』って……私に……」
「……こうなるのも、閣下の思惑通りなのかもしれないわね」
ふつふつと、心の底から冷たい怒りが湧き上がってくる。
すべてを予見し、あえて彼を絶望へ追い込んでいるのだとしたら……。隣に座る大佐の横顔にも、絶望を通り越した鋭い怒りが滲んでいるのが分かった。
「大佐。こんな私が言うのもなんだけど……お願い、一緒に彼を支えましょう」
私は、自分のプライドも、彼女に対する後ろめたさもすべて投げ打って、懇願するように言葉を継いだ。
「執行官としての彼の任務は、常軌を逸しているわ。……おそらく、私一人では支えきれなくなる。彼の心の崩壊に、私まで飲み込まれて共倒れになってしまうかもしれない。そうなったら、彼を救う人がいなくなってしまう。」
大佐の瞳をじっと見つめる。
「……私のことを嫌いになってもいい。なるべくあなたと顔を合わせないようにもするわ。だから…お願い。一緒に彼のこと、守りましょう?」
沈黙が再び訪れる。
でも、私が言いたかったことは、これで全部。
……あとは、彼女の思いを聞くだけだ。
そして、彼女が口を開いた。
「……冗談じゃない」
大佐が、低く、地這うような声でそう吐き出した。握っていた彼女の手を、拒絶するように強く振り払われる。
「自分を嫌ってもいいなんて……そんないい人のふりしないでくださいよ!」
彼女が顔を上げると、そこにはこれまで見たこともないような激しい怒りの形相があった。ボロボロと溢れる涙が、怒りの熱で蒸発してしまいそうなほどに。
「ズルい!ズルすぎますよ!!無理やり彼に迫る嫌な女なのに、私には『チャンスがある』だなんていい人ぶって……。そんなの、反吐が出るくらい狡いじゃないですかっ!」
大佐は立ち上がり、私に向き直る。その体は怒りから震えていた。
「私の想いを知りながら、私より先に彼に触れて……彼の心の傷を見つけて!私がしたかったこと全部して!!挙句の果てに私に『助けて』だなんて……。あなたは本当に最低な人です!軍人としても、女としても!!」
「……ええ。分かっているわ。」
「何も分かってないよ!私はこの恋が大事なの!彼のおかげで自信がついたの。自分のことを、魔力以外でちゃんと見てくれる人もいるって気づけたの!そんな人と一緒になれたらどれだけ幸せかって……ずっと一緒にいたいって…家族以外で思えた初めての人なのに……」
彼女はそこで言葉を詰まらせ、糸が切れたようにソファに崩れ落ち、膝に顔を埋める。
「……悔しい…っ」
「ごめん…なさい」
その『悔しい』は、どれほど深い意味を持った悔しいなのか…。
私は、彼女に謝ることしかできなかった。
彼女が俯いたまま、長い沈黙が流れた。
……そして、ようやく震える唇を噛み締め、ポツリ、ポツリと再び言葉を紡ぎ始めた。
「……私も…ごめんなさい。」
「え…?」
理解できなかった。
なぜ、彼女が謝ってるの?
「すっごく、感情的になってしまいました。」
「そ…そんなの、当り前よ。謝らないで。」
「いえ、謝ります。…あなたのしたこと、私にとってはすごく悲しくて、羨ましいことです。……でもそれは、私のただの嫉妬です。私がもし彼に求められたら、嬉々として受け入れてると思います。…そうしたら、立場は逆になってたと思います。…多分、恋ってそういうものなんですよね。」
「っ……」
どれだけ…大人なのよ……この子は…。
「できれば…私だけで彼を支えたいって思ってます。……でも、彼には、優秀な医者がついていないといけないってことも分かってます。そして、彼が執行官を続ける以上、これからも絶対に、誰かが彼のそばにいる必要があるということも。」
「……」
今度は、私が黙ってしまう。
彼女の優しさと、底知れない彼への思いに声が出せない。
「だから…あなたが私と同じくらい彼を思ってるのなら、そんなあなたと彼を支えれたら……それで彼が少しでも救われるなら、私はそれでいいです。」
彼女が顔を上げる。
涙で赤くなったはずの目は、決意に満ち溢れていた。
「……私たち二人で、彼を救います。あなたが壊れそうになったら、私があなたごと二人を支えます。そして、その過程で、彼が私たちの内のどちらか一人を選んだのだとしたら、その時はお互い身を引きましょう。……正直女としての魅力は、あなたに勝てる気はしませんが。」
「っ!」
そう言い、涙で濡れた頬をそのままに、わずかに口角を上げて微笑む彼女は、今まで見てきたどんな大輪の花よりも美しかった。
この人には、絶対に勝てない。そう思わせる微笑だった。
そしてその言葉と表情が、私の凍りついていた心を粉々に砕いた。
彼女の手を、痛いほどに強く握る。
「大佐……一つ、お願いがあるの。」
「なんですか?」
「…お互い、名前で呼び合いたい。」
「……そうですね。こんな関係、聞いたこともないですもんね、フィオナさん。」
「っ……トリー…シャ…!」
今度は、私が涙を堪えられなくなる。
彼を想う痛切な気持ちと、この優しすぎる少女への罪悪感が一気に溢れ出し、胸が張り裂けそうだった。
「トリーシャ…ごめんなさい…本当にごめんなさい。」
「もう、謝らないでください。…思い出して、私も辛くなっちゃいます。お互い、いつも通りになりましょう。」
ああ……もう、これ以上ないくらい、カッコよくて、強い女だわ。
「……あなたが良ければ、私たち三人で結婚するっていうのはどう?」
「ふふ、そうしたら、二人とも絶対フラれませんね。」
「……そうしたら、あなたと私もイチャイチャするのよ?」
「…いつも、そんな冗談言ってましたっけ。」
夜の静寂が、少しずつ二人を包み込んでいく。
さっきまでの刺すような冷気は、いつの間にか、お互いの体温が伝わる微かな熱に変わっていた。
「……ねえ、フィオナさん。明日から彼が帰ってくるまで、私もこの家に居ていいですか?」
「当り前じゃない。そうしてくれると、私も嬉しいわ。毎日女子会よ。」
「……ふふ、楽しそうですね。…家から着替えを取ってきます。明日の朝、彼を見送りたいです。」
「分かったわ。私、今日は久しぶりに本部に顔出したから、少し疲れちゃってるの。明日の朝、もし私が起きれなかったら、あなただけで彼を見送ってあげて。」
「…了解です。」
私がたとえ何時に起きても、明日、トリーシャには彼と二人きりになってほしい。
贖罪でもなんでもなく、そうしないとフェアじゃないから。
私は彼とかけがえのない1週間を過ごさせてもらった。
なら、彼女にも、同じような時間を過ごしてほしい。
彼が帰ってきたら、1週間ほど久しぶりに自分の家に帰ろう。
彼女には、私と同じかそれ以上に幸せな時間を、彼と過ごしてもらおう。
トリーシャが扉を出る後姿を見ながら、そう心に誓った。




