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60 消えゆく足跡

翌朝、カーテンの隙間から差し込む陽光で目が覚めた。

隣ではフィオナが、僕の腕を抱きしめるようにして、穏やかな寝息を立てている。


そっと腕を抜き、僕はベッドを抜け出した。

玄関の郵便受けに何かが落ちる音がしたからだ。


届いていたのは、一通の無機質な封筒。

中を確認すると、二人の男の顔写真、名前、赤い丸が記された地図、そして短い走り書きがあった。

『本日15時に通信。一人きりになれ』

差出人の名はない。けれど、その筆跡だけで心臓が嫌な跳ね方をした。


何だろう…これは……。

……嫌な予感しか、しない。


朝食のテーブル。

フィオナは上機嫌でオムレツを焼いている。昨夜あんなに泣いたのが嘘のように、彼女は「あなた」と僕を呼び、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。

僕はその笑顔に影を落とさないよう、努めて平然を装いながら切り出した。


「……あ、そういえば。今日、15時に閣下へ報告を入れなきゃいけないんだ。できればその時間帯、少し出かけてもらえるかな。」


「あら。じゃあ、私は久しぶりに本部に顔を出してこようかしら。溜まってる書類もあるしね。」


彼女は疑う様子もなく、僕の頬に軽くキスをして家を出ていった。

一人になったリビング。

15時までの数時間が、永遠のように長く感じられた。

 

ドク、ドクと、嫌な心臓の音が耳元で鳴り続けている。

それから逃げるように、僕はテラスへ出て、五本、六本と煙草を吸い続け、灰皿を吸い殻でいっぱいにした。


……もし、あの封筒が、次の任務の詳細なのだとしたら…


嫌な予感を振り払うように、深く煙を吸い込む。だが、吐き出した煙は風にさらわれ、僕の不安を消してはくれなかった。




そして、約束の時間。

通信機の向こうから、あの楽しげで、底冷えのする声が響いた。


『やあ、イネス君。アータバルの休暇は楽しめたかな? フィオナ君とは仲良くやっているかい?』


世間話でもするような軽快なトーン。それが逆に、僕の背筋を凍らせる。

総督からの命令は、僕の予想を遥かに超えて残酷なものだった。


『実はね、隣国ウールに本拠地を構えるテロ組織「EoL」の所在がようやく掴めたんだ。彼らは、今まさに大地震からの復興を進めている我が国の物流網を狙って、執拗に妨害工作を繰り返している。……このままでは、救えるはずの命も救えなくなる。君なら、この深刻さが分かってくれるよね?』

「……はい。許されることではありません。」


EoL…… Eidolon of Lament だ。聞いたことがある。

その名の通り、亡霊のように所在を掴ませず、各地に嘆きを振りまき続けているというテロ組織。


『そうだろう、そうだろう!だからこそ、君の力が必要なんだ。まずは明日、出発したまえ。ウールは陸続きだが、アータバルとは訳が違う。国家間の軋轢もある。そのため、不可視化を使用しながら水上バイクでウールに入りなさい。入国後一週間で、本日送った写真の2名を調査し情報を集め、芋蔓式にメンバーを特定しなさい。それから……』


総督の声から、スッと体温が消えた。


『その次の週で、特定した人間を一人残らず処理しなさい。』


息が、できなくなる。


『もしその家族が、組織のことを少しでも知っていたなら、それも「共犯」だ。まとめて処理したまえ。……いやぁ、君には少し辛い任務になるとは思う。まだ若い君に、こんな泥臭いことをさせるのは心苦しいよ。……でもね、イネス君。これもすべて、この国を、そして君の家族のような善良な人々を守るためなんだ。悪く思わないでくれよ?』


「…閣下、『処理』…というのは…」

『殺害だよ。言わせないでくれたまえ。私だって心苦しいんだ。』


「……っ。……申し訳…ございません…。」


通信が切れた後、僕は受話器を持ったまま、立ち上がることさえ忘れていた。

指先から血の気が引き、視界がチカチカと明滅する。


殺す……? 僕が?人を?


これまでの人生で、誰かが死ぬ瞬間なんて見たこともなかった。あの地震の時だって、瓦礫の下の惨状からは目を背けていたのに。

それなのに、今度は僕がその「死」を作り出す側になれと言うのか。


「……う、っぷ……」


胃の底からせり上がってくる熱い塊を抑えきれず、僕はトイレに駆け込んだ。

昼に食べたサンドイッチが、未消化のまま吐瀉物となって流れ落ちる。喉が焼ける。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになりながら、何度も何度も、胃が空っぽになるまで嘔吐を繰り返した。


「はぁ、はぁ……っ……」


冷たい床に這いつくばったまま、震える手でポケットを探る。

タバコ……。タバコを吸えば、落ち着けるはずだ。


朦朧とする意識の中で、テラスに出て火を点ける。けれど、いつも僕を鎮めてくれるはずの紫煙は、今日に限ってひどく泥臭く、肺を拒絶するように咳き込ませた。


ガチガチと、歯の根が合わない。

どれだけ深く煙を吸い込んでも、身体の震えは一向に止まらなかった。


「……無理だ。……そうだ、断ろう!こんなの、できるわけ…な……」


その瞬間、脳裏に家族の顔がフラッシュバックした。

もし、僕がここで首を横に振ったら…どうなる?

……正直、分からない。


でも…僕が、仕事をすれば……何も心配はいらないんだ…僕が、頑張れば……


「っ……あああああ……っ!!」


僕は自分の髪を掻きむしり、声を押し殺して叫んだ。

断れない。僕には最初から、拒否権なんて与えられていないんだ。


自分の家族を救うために。大切な人を守るために。

僕は、見も知らぬ誰かの家族を殺しに行く。


灰皿には、火が消えたばかりのタバコが何本も転がっている。

喉は痛み、肺が重くなるが、タバコに火をつけるのを止められなかった。


フィオナが用意してくれた麻酔の効果は、一片も残っていない。

代わりに、絶望という名の麻酔が、ゆっくりと僕の心を殺していくのを感じていた。




どれほどそうしていたのか、分からない。

テラスで吸った幾本もの煙草は、灰皿を山盛りに変えただけで、僕の震えを止めてはくれなかった。

 

僕はリビングの隅、月の光さえ届かない暗がりに座り込み、ただ膝を抱えていた。

頭の中では、総督の声が何度もリフレインしている。

「一人残らず」「家族も」「人々を守るため」。


「……イネスさん? 入りますよ?」


頭の中がグチャグチャで、その声が聞こえていなかった。

何かがリビングに入ってきた。視界の端で動く影が見える。

そしてそれは僕に気付くと、悲鳴に近い声を上げて駆け寄ってきた。


「イネスさん!? 大丈夫ですか!? 怪我でも……!」


肩を強く揺さぶられ、僕は強制的に現実に引き戻される。

網膜に焼き付いていた凄惨な想像が消え、目の前のトリーシャの顔がはっきりと映った。


「……あ、トリーシャ……ごめん。寝ちゃってたみたいだ。」


声が掠れている。僕は無理やり立ち上がり、壁のスイッチを探り当てて電気をつけた。

眩しさに目を細めながら、彼女の視線から逃げるように背中を向ける。


トリーシャの純粋な瞳に見つめられたら、今にも「人殺しなんてしたくない」と泣き喚いてしまいそうだった。


……詮索、されないようにしないと。


「お仕事お疲れ様!お腹空いてない? ご飯作ってあげるよ!」


顔を見られないように、僕は早歩きでキッチンへ逃げ込んだ。

冷蔵庫の扉を開け、冷気のなかに顔を突っ込む。冷たい空気が、少しだけ火照った頭を冷やしてくれる気がした。


「……イネスさん?」


背後から、戸惑ったようなトリーシャの声がする。


「イネスさん、あの……顔色が、すごく悪いです。やっぱりどこか具合が……」

「大丈夫、大丈夫! ちょっと疲れが出ただけだよ。……あ、肉じゃが作れそう!トリーシャ、肉じゃがでもいいかな? 腕によりをかけて作ってあげよう!」


僕は努めて明るい声を作り、冷蔵庫からジャガイモや肉を取り出した。

顔を見られないように、まな板に向き合って野菜を切り始める。トントン、トントンと、いつもより少し早いリズムで包丁を動かした。


嘘をつくとき、声のトーンが上がる。ソフィーに言われたことを思い出した。

あれ…普段の僕ってどんなだっけ…。今、そうなってないといいな。


「ところでトリーシャ、今日はどうしたの? 何かあった?」


背中越しに問いかける。だが、返ってきたのは弾んだ声ではなく、戸惑いを孕んだ沈黙だった。


「え……? ええと……昨日、任務から帰られると聞いていたので。……その、少しでもお会いしたいなと思いまして……」


トリーシャの言葉が、どこか歯切れが悪い。彼女は僕の背中を、まるで壊れ物を眺めるような、不安げな眼差しで見つめていた。


「そっか! 嬉しいなぁ、わざわざ来てくれるなんて! ありがとね!」


いつも通りを意識しながら、僕は振り返らずに答える。

だが、トリーシャの懸念は晴れるどころか、さらに深まったようだった。


「……イネスさん。あの、本当に……大丈夫なんですか?」

「え?何が?」

「その……今のイネスさん、なんだか……すごく無理をしてるように見えます。昨日までの任務で、何か……。いえ、私なんかが首を突っ込むことではないのかもしれませんけど……」

「ははは、ちょっと寝起きで頭が回ってないのかも。でも大丈夫!ほら見て!この完璧にカットされた野菜たち!」


僕は包丁を動かす手を止めず、さらに声を張り上げる。だが、トリーシャはそれ以上何も言わず、ただ居心地が悪そうにしている。


「……ごはん、ぜひいただきたいですけど…ローレン中佐は、待たなくていいんですか?彼女も、もうすぐ帰られるんじゃ……」


いつもなら肉、野菜、最後にジャガイモの順で丁寧に加熱するが、今の僕にはそんな余裕なんてなかった。焼けた鍋の中に、切ったばかりの食材をすべて一緒にぶち込んだ。

重なり合った生肉と硬い野菜が、じゅうじゅうと悲鳴のような音を立てる。


「いいのいいの!僕もお腹減っちゃってさ、先に食べちゃお!実は、明日も早……」


言いかけて、止まった。


明日。

明日から始まる、新しい任務。

芋蔓式に、一人残らず、家族ごと――。


「う……っ」


胃の底からせり上がってくる強烈な不快感に、僕は思わず口元を押さえた。吐き気が波のように押し寄せ、目の前がぐにゃりと歪む。


「イネスさん!? 大丈夫ですか!?」

「……だい、じょうぶ。大丈夫だよ。お昼に食べたサンドイッチが、ちょっと、あたったのかな。ははは……」


脂汗を流しながら、僕は引き攣った笑いを浮かべた。震える手で鍋に水と調味料を入れる。

そしてトリーシャは僕の腕を掴み、泣き出しそうな顔で食い下がる。


「そんなこと……とにかく、横になりましょう?今は少し、お休みしたほうが…」



「大丈夫だって言ってるだろ!!」



リビングに、自分のものとは思えない鋭い怒声が響いた。

トリーシャがビクッと肩を震わせ、弾かれたように手を離す。恐怖に染まった彼女の瞳を見て、僕はハッと自分を取り戻した。


「あ……ごめん。ごめんね、トリーシャ。……お腹が痛くて、つい、イライラしちゃって」


さっき「お腹が減った」と言ったことさえ忘れ、支離滅裂な言い訳を口にする。

トリーシャは僕の矛盾だらけの言葉を否定もせず、ただ、悲しそうに唇を噛んだ。


「……そう、ですか。……すみません、私、勝手を言ってしまって……」


彼女は自分を責めるように下を向く。

違うんだ。君が悪いんじゃない。悪いのは……


悪いのは、誰?

テロ行為をしてるやつらが悪いんじゃない?

じゃあ、明日からの任務も、しょうがないのかな?


頭がぐるぐるする。思考が迷走する。考えがまとまらない。

いや、そんなことよりも、彼女に謝らないと。

僕の命の恩人であり、僕のことを心から心配してくれているトリーシャ。

そんな心配してくれている彼女に、怒鳴ったんだ。


「ごめん…本当にごめんトリーシャ……声を、荒げるつもりはなかったんだ。…ほんとに、ちょっとお腹が痛いだけだから。…ごめんなさい。」


沈黙が、重く湿った膜のように部屋を包み込む。

煮汁が爆ぜる音だけが響く中、トリーシャが静かに、けれど逃げ場を許さない響きで口を開いた。


「イネスさん。……閣下に最初の任務の報告をした後、私に言ってくれましたよね? 本当にきつくなったら、イネスさんから私に相談するって。真っ先に、私を頼るって。」


そんなこと…言ったっけ…?


「……今は、きつくないですか?」


きついかって…?

きつい。きついよ!当たり前じゃん!!


喉元まで叫びが競り上がる。

僕はもうすぐ、人殺しになる。頭がふわふわして、今が現実かどうかもあやふやだ。


でも、言えるわけがない。

トリーシャがこんな風に真っ直ぐに僕を見てくるということは、閣下は彼女に次の任務を伝えていないんだ。……いや、今後も伝えるつもりはないのかもしれない。


僕としても…知られたく……ない。

こんなに仲良くなった、気の許せる同僚に、今回の任務のことを知ってほしくない。

……これまで通り、仲良くしたいから。


「……きつく、ないよ。」


自分でも驚くほど、冷たく乾いた声が出た。

トリーシャは、まるで刃物で刺されたかのように悲しげな顔をした。僕の嘘なんて、最初から見抜いているような瞳。


「……そう、ですか。」


彼女は一度視線を落とし、それからもう一度、覚悟を決めたように僕を見据えた。


「……私はいつでも、どんなことがあっても、あなたの味方です。……イネスさんがお話してくれるのを、ずっと待ってますから。」



……え?


…どんなことがあっても味方?


僕が…明日から数人、もしかしたら数十人の命を奪う大量殺人鬼になっても、君はそんなことが言えるの?



何も知らないからそんなことを言えるんだ、と…口から出かけたその言葉を、グッと堪える。

知るわけがないんだ。誰も彼女に伝えていないから、当たり前なんだ。



「……ありがとね。きつくなったら、相談するよ。」



僕は彼女の想いを、ありふれた社交辞令で塗り潰した。

それ以上会話を続けることに耐えられず、僕は出来上がったかどうかも怪しい肉じゃがを乱暴に皿へ盛り、無理やり食卓に並べ始めた。


その時、玄関の開く音が響いた。


「ただいまー」


フィオナが帰ってきた。その明るい声が、今の僕には鼓膜を突き破る不快なノイズにしか聞こえない。

くらくらする。誰の声も聞きたくない。誰の姿も見たくない。

一人になったら、明日からの地獄を想像して発狂するかもしれない。でも、誰かと一緒にいたら、今この瞬間に壊れてしまいそうだった。


「……お帰り! フィオナ! 肉じゃが、作ってあるよ!」

「あら、ありがとう、イネスさん」


彼女は微笑む。二人きりじゃないから、呼び方は「イネスさん」。

その使い分けさえ、今の僕にはひどく遠い世界の出来事のように感じられた。


「……今お皿二つ並べたから、トリーシャと一緒に食べちゃって! 僕、なんだかお腹痛いから、ベッドで横になってくるよ! それじゃトリーシャ、ゆっくりしていってね! あ、あと、明日から多分二週間くらい任務でいなくなるから! じゃあ、お休み!」


一方的に、弾丸のように言葉を吐き出した。二人が何かを言い返す隙さえ与えず、僕は逃げるように二階の客間へ向かった。一階にある自分の部屋よりも、少しでも、一メートルでもいいから彼女たちから……「人間」から離れたかった。




客間のドアを閉め、鍵をかける。

暗い部屋の隅に座り込み、両膝を強く抱え込んだ。


…大丈夫だ。明日から二週間、彼女たちに会わなくていい。……その間に、仕事を片付けて、いつもの自分に戻ればいいんだ。そうすれば、またいつも通りに接せれる。…大丈夫。大丈夫……。


自分に言い聞かせる呪文は、皮肉にも吐き気を呼び起こす。


「……うぷっ」


喉まで競り上がってきた酸っぱい胃液を、無理やり飲み下す。

執行官という泥沼に足を踏み入れた時から、いつかはこんな汚れ仕事も回ってくるだろうと覚悟していたつもりだった。


……でも。

全然、覚悟できていなかったみたいだ。


自分の家族を助けるために、家族を持つ誰かを、その子供を、その親を、根絶やしにする?


暗闇の中で、自分の両手を見つめる。

まだ何もしていないはずなのに、指先がひどく赤く汚れているように見えて、僕は震えながらそれを服に擦りつけた。

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