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59 クズに捧ぐ麻酔

アルカリグに到着し、家路につく。大分痛みも引いた足で、僕はフィオナと並んで歩いた。

空になった車椅子には二人の荷物を載せ、時折「疲れちゃった」と笑うフィオナを乗せては、ゆっくりと車輪を転がして帰ってきた。


けれど、見慣れた景色が近づくにつれ、賑やかだったフィオナの口数は目に見えて減っていった。

さっきまでの楽しげな笑い声はどこかへ消え、彼女はただ、アスファルトに伸びる二人の影をじっと見つめている。僕が話しかけても、返ってくるのは短く、どこか心ここにあらずな相槌だけだった。


そしてようやく辿り着いた、見慣れた僕の家の前。


「到着だね。」


僕が声をかけると、フィオナは立ち止まったまま、俯いて動かなくなった。


「フィオナ?」


返事はない。彼女は地面を見つめたまま、絞り出すような声で言った。


「……家に入る前に、もう一度だけ、あなたを車椅子に乗せて歩きたいわ。」

「え? どうしたの、急に」

「お願い。……いいでしょ?」


顔を上げない彼女の、頑なな態度。僕は戸惑いながらも、荷物を敷地内の外からは見えない場所へ置き、車椅子へと腰を下ろした。


「お願いします、先生。」


冗談をかましても、彼女は無言のままだった。

ハンドルを握り、ゆっくりと車椅子を押し始める。


家の近所を、ただ歩く。

無言なのもさみしいなと思い、僕は前を向いたまま問いかけた。


「そういえば、エンモンドでは何が一番美味しかった? 僕は二日目の夜に食べた肉料理かなぁ。」


返答はない。

おかしいと思って後ろを振り向こうとしたが、その瞬間に彼女はさらに深く顔を伏せ、僕に表情を見せてはくれなかった。


十数分後、再び家の前に戻ってくると、彼女は消え入りそうな小声で「……ありがと」と呟いた。


「どういたしまして。楽しかった?」


そう聞くと、彼女は下を向いたまま、小さく何度も頷いた。


「……それなら、よかった。…じゃあ、荷物を運び入れるね。」


僕は車椅子を降りて、玄関の扉を開けた。重い荷物をすべて中へ運び込み、外で待っているはずの彼女に声をかける。


「フィオナ。もういいよ、お家に入ろ。」


だが、彼女は動かなかった。

そのハンドルを両手で握りしめ、彼女の細い肩が小刻みに、プルプルと震えている。


「……フィオナ?どうしたの?」


嫌な予感がして、僕は彼女の顔を覗き込むように近寄った。

 

彼女の大きな瞳からは、大粒の涙が溢れ出していた。

零れ落ちた雫が、彼女の甲を、そして車椅子のハンドルを濡らしていく。


「……とりあえず、お家に入ろ?」


 彼女の手を車椅子からそっと取り外し、僕は彼女の手を引いて家の中に入った。

「フィオ……」


名前を呼ぼうとして、ふと足が止まる。

任務の前、彼女は言っていた。『任務が終わるまでは敬語なし』だと。そして今、僕たちは任務を終えて帰宅した。約束の時間は終わったのだ。


……けれど、今の彼女に、一線を引くような敬語で話しかけるべきではない。そう直感が告げていた。


「フィオナ、大丈夫? とりあえず座ろ?」


何を言っても、彼女は糸の切れた人形のように動いてくれない。

「……よし!」


僕は身体強化を発動させ、彼女をひょいとお姫様抱っこで持ち上げた。

不意に顔が近くなり、涙でボロボロになった彼女の素顔が露わになる。


「っ……あな……っ……イネス……さん……」


……あなた、じゃなくなってる。

…彼女が線を引いたのなら、僕も戻すべきなのだろうか。


「大丈夫ですか? フィオナさん。ソファかベッド、どっちに行きたいですか?」


問いかけると、彼女は悲痛な顔をして、僕の首に強くしがみついてきた。


「いやっ……お願いだから……フィオナって呼んで……っ。そんな他人行儀に……しないで……」


「……っ」


「お願い……二人だけのときは……『あなた』って……呼ばせて……。この……一週間の……関係を……終わらせたくないの……っ」


……ああ。そういう、ことか。


……僕のせいだ。

僕が最初の夜、自分の欲に負けたからだ。

そして…自分の嫌な思いに蓋をするために、彼女を利用してしまったからだ。


そのせいで…彼女に、勘違いをさせてしまった。


「この一週間……本当に幸せだったの……楽しかったの……。あなっ……イネスさんと……あの時の関係のまま……いたい……っ」


泣きじゃくる彼女の体温が、僕の肌に伝わってくる。


…正直に、話そう。

僕が彼女を「麻酔」として利用したこと。ソフィーに対しても同じように利用して、最後には切り捨てた最低のクズだってことを。


いい加減、僕は自分が許せない。



「フィオナさん。少し、お話していいですか?」


僕が敬語を使うたびに、彼女はひどく傷ついたように顔を歪めた。

彼女は力なく顔を伏せ、コクリと頷いた。


僕は彼女を抱いたままソファへと運び、ゆっくりと座らせた。その隣に腰を下ろすと、彼女はすぐさま縋り付くように僕の首に腕を回してくる。


「……少し長くなりますけど、いいですか?」


コクリと、小さな頷き。

僕は彼女の震える腕にそっと手を置き、僕が軍に入るに至った理由を話し始めた。

あの大地震のこと。家族の怪我のこと。神堕のこと。そして、家族に高度な治療を受けさせるために、この「執行官」という泥沼に身を投じたこと。


「これが、僕が軍に入った理由なんです。……知っていましたか?」


フルフルと、横に首が振られる。


「それで、ですね……。今お話しした、僕が軍に入るまでの間、ずっと一緒にいてくれた女の子がいたんです。エンモンドでの最初の夜にお話しした、『想いが通じ合った子』……です。」


フィオナさんは何も言わず、ただ僕の言葉を聴いている。


「その子は、家族が大怪我をして、目の前が真っ白になっていた僕にずっと寄り添ってくれたんです。……身を挺して、僕の中の不安を消してくれたんです。彼女がいれば前を向けるって、思わせてくれたんです。……僕の家族になりたいとまで、言ってくれました。」


フィオナさんの腕に、ぐっと力がこもる。


「その子が、大好きでした。……今も、その子が好きなんです。今頃どうしているか、元気にしているか……そんなことも、よく考えます。」


フィオナさんの嗚咽が、一際大きくなった。


「でも、神堕して、家族を救うことを一番に考えてたら、彼女と一緒にいられなくなっちゃいました。閣下に無理を言って、その子にだけは伝えさせてくれとか、一緒にいさせてくれとか、そんな風に足掻くこともしませんでした。……僕のこれからの人生は、今回のような人に言えない仕事ばかりになる。こんな僕より、普通の人と一緒になった方が彼女は幸せだ。……勝手にそう決めつけて、僕は逃げたんです。」


呼吸を整える。

ここからが、僕が自分に下すべき罰だ。


「……僕は、彼女を利用したんです。自分が『辛い』という感情を、彼女の優しさを使って癒やしたんです。そして最後には、彼女の気持ちを無視して切り捨てた。最低の男なんです。」


ああ……言いたく、ないなぁ。


「そして、それと同じことを、この一週間、フィオナさんにしました。最初は欲に負けて。次は、自分の仕事から、現実から逃げ出したくて。フィオナさんの優しさと体温を『麻酔』にして、ドロドロした感情を全部吐き捨てたんです。……好きな子が他にいるくせに。」


フィオナさんの身体の震えが、ぴたりと止まった。

いっそ僕を殴ってくれればいい。その方が、どれだけ楽になれるだろう。


「僕は……そんな、最低のクズなんです。僕もこの一週間、本当に幸せでした。あなたと一緒にいて、楽しくて、嬉しくて、ドキドキして、気持ちよくて……全部、あなたのおかげでした。……でも、あなたの思う『楽しかった』は、偽りの楽しかったなんですよ。……クズがあなたを騙して、あなたの優しさに付け込んで……。だから、あなたが感じている『それ』は、勘違いなんです。……勘違いじゃなきゃ、いけないんです。」


静寂が、部屋を支配した。

僕の告白が、冷たい空気に溶けて消えていく。


フィオナさんは動かない。首に回された腕の力も緩まない。ただ、彼女の体温だけが、拒絶を許さないほどの熱を持って伝わってくる。




数分、あるいは数十分にも感じられた沈黙の後。

彼女は顔を伏せたまま、震える声で言葉を紡いだ。


「それでも、いい。」


なんで…。


「ダメだよ。」

「それでも、いいの。」

「ダメなんだって。」


…やめてよ。


彼女は僕の首にしがみつく力をさらに強めた。骨が軋むほどの強さで、僕を自分の一部にしようとするかのように。


「あなたの気持ちなんて……それこそ、あの最初の夜に聞いたわ。あなたが他の人を想っていて、それに苦しんでることなんて、その時から分かってる。」


「……だから、ダメだよ。……お願いだから…。」


なんで肯定するんだよ。

こんなクズを。


「それを知りながら、私は一週間、あなたを求め続けたの。あなたが私を必要としてくれるなら、その理由がなんであれ私は構わない。私を麻酔にした?私は医者よ。それであなたが楽になるなら、いい場所に打ち込めたって自分を誉めてやるわ。」


「意味が……分からないって…」


彼女はゆっくりと顔を上げ、涙で濡れた瞳で僕を真っ向から見つめた。そこには軽蔑も憎しみもない。ただただ真剣な表情で、僕を見つめていた。


「いずれあなたの気持ちが私を向くなら……その可能性が、ほんの少しでもあるなら、私はそれでいい。今のあなたの帰れる場所が…逃げ場所が、私であるなら……それだけで。」


「っ…」

ソフィーと同じこと、言わないでよ。


「私と一緒にいて楽しかったんでしょ?ドキドキしたんでしょ?気持ちよかったかんでしょ?なら、もう私に落ちる寸前じゃない。人生で初めて自分からアタックしてるけど、案外簡単なのね。」


不敵に、そしてあまりにも美しく彼女は笑った。

その表情を見て、僕の中の「正しさ」が悲鳴を上げた。


「だから!僕はクズなんだって!すぐに逃げ出す弱い人間なんだって!こんなのと一緒にいても、フィオナが辛くなるだけなんだ! どうせまた、フィオナがいない時は違う人に縋ってしまう……そういう、空っぽな奴なんだ!分かってよ!」


自分の醜悪さを理解しようとしない彼女に、僕はカッとなって怒鳴ってしまう。

自白すれば離れてくれると思っていたのに、彼女は僕の予想を全て裏切っていく。


「…ふふっ、呼び捨て。そうねー。私がいない時は、できれば大佐か、その想いの通じ合った子に縋ってほしいわね。それなら私も納得だし、フェアだと思うわ。」


「そんなの! ……そんなのっ、意味が分からないよ……!」


本当に、意味が分からない。

彼女の涙は止まり、いつものように冷静な、けれど熱を孕んだトーンで話し始めた。


「大佐が、あなたのことを優しい人だって言っていたけれど、本当にその通りね。」

「優しくなんてない! フィオナおかしいよ!」


「いいえ、あなたは優しいわ。好きでもない私のことをこんなに一生懸命に考えて、私のためを思って、わざわざ自分を悪者にしてくれてる。本当のクズなら、絶対にこんなに悩んだりしないわ。黙って抱けるだけ抱いて、飽きたらポイよ。」


「そんなこと……できるわけないよ。」

「知ってる。そんなあなただから、好きになったの。優しくて、楽しくて、何事にも一生懸命で。でも一生懸命すぎるから、たまに疲れちゃう……そんなあなたが。」


「好きに……ならないでよ……。」

「もう遅いわ。……あなたが疲れた時は、その疲れを私に癒やさせて?ばっちりな処方箋、用意してあげる。副作用に、期待してるから。」


「意味が……分からないって……」

「そ?自分でも上手いこと言ったと思ったんだけど。」


……もう、どうすればいいか分からないや…。

僕が投げた醜い言葉も、彼女は何でもないように受け止めてしまう。


「僕は……忠告したよ?」

「ええ、そうね。」

「絶対に、幸せになれないよ?」

「いいえ。この一週間、とても幸せだったわ。その関係を続けられるなら、私は幸せよ。」

「……僕、いつ死ぬか分からないよ?」

「私が死なせないわ。」


もう、完敗だ。

理屈も、罪悪感も、彼女の覚悟の前では何の盾にもならなかった。


「……知らないからね。」

「っ……あなた!」


僕が折れたのを察した瞬間、フィオナが食らいつくようにキスをしてきた。

これまでの告白なんて最初からなかったことにするかのように。この一週間の、あの熱い夜の関係を繋ぎ止めると言わんばかりの、激しく、深い口づけ。


唇が離れ、至近距離で彼女の瞳が僕を見つめる。


「私のこと、絶対好きにさせてみせるから。覚悟しなさいね?」

「……どう答えればいいか、分からないよ。」

「ふふっ。でも手強いライバルが二人いるから、なかなか難しそうね。」

「二人? どういう意味?」


ソフィーは分かる。でも、もう一人は?


「……それは内緒。でも、さっきも言ったけど、私がいないときにどうしようもなくなったら、その両想いの子か大佐に慰めてもらうのよ。それ以外は……こんな優しい私でも、許さないから。」

「……よく分からないけど。そんな状況にならないように、まずは頑張るよ。」

「そうねっ、それが一番よ!」


さっきまでの悲痛な涙が嘘のように、彼女は明るく笑った。

 

僕は彼女の腕の中で、心地よい敗北感に浸っていた。

これから始まる戦争。心を蝕む閣下。そして…僕の心に居続けるソフィー。

それらすべてを麻酔で眠らせて、僕は今、彼女の体温だけを感じている。

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