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58 泡沫の幸福

潜入七日目、最終日。


僕は今、アータバル軍総本部、その最深部に位置する「第一特別会議室」の片隅に立っている。


潜入四日目、僕は必死の調査の末、一つの有力な情報を掴んだ。本日、この会議室が完全封鎖され、掃除夫の立ち入りすら禁じられるという極秘事項だ。

続く五日目、僕は人目を盗んでこの部屋をくまなく調べ、演壇裏に巧妙に隠された通路を発見した。その通路は軍本部から数キロ離れた、人跡稀な古い教会の地下へと繋がっている。


間違いなく、今日ここで何かが行われる。


今朝、まだ街が眠る午前6時。僕はその教会を経由し、誰にも気づかれることなく、この場所に足を踏み入れた。


心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴り響く。

『不可視化』の魔法を維持しながら、僕は壁の一部と化していた。呼吸を極限まで細くし、気配の遮断を完璧に行う。


奥歯には、銀色のカプセルを忍ばせている。

もし『不可視化』を見破られ、この密室で拘束されるようなことがあれば、一秒後にはこれを噛み砕く。

……そのせいで、余計緊張してるんだけどね。


そして午前十一時。

静寂を切り裂き、重厚なオーク材の扉が左右に開かれた。


部屋に流れ込んできたのは五人の男たち。この国の運命を指先一つで左右する、アータバルの最高権力者たちだ。

ちょうど同じタイミングで、僕が通ってきた隠し通路の扉が音もなく開く。そこから現れた人物を見て、僕は声が出そうになるのを必死に堪えた。


アータバル王国第十四代国王、エドワード・アータバル。


豪奢な刺繍が施された軍服を纏い、冷酷なまでに整った顔立ちには一切の慈悲が見えない。彼が椅子に座ると同時に、室内の空気が氷結したかのように静まり返った。



……一体、何の会議が行われるんだろう…。



王を囲むように座るのは、この国の権力を分割して統治する五人の重鎮たちだ。


陸軍総司令官、ヘンドリクス大将。

分厚い胸板と無数の傷跡が、彼が数々の戦場を力でねじ伏せてきた武闘派であることを示している。


海軍参謀総長、カニンガム中将。

既に引退を囁かれる老齢だが、失った巡洋艦の報を聞いて以来、気が狂ったように激昂しているという。


外務次官、シェルビー。

細いフレームの眼鏡の奥で常に計算を巡らせる男。この国の「知恵袋」であり、冷徹な参謀だ。


軍需物資管理局長、ギルモア。

肥満体で、その指先には宝石を散りばめた指輪が光る。彼は兵器よりも、そこから生まれる「金」にしか興味がないと言われている。


そして最後の一人。最年少でこの場に列席を許された、陸軍第一文官、レオ・リード少佐。

二十代という若さながら、その緻密な情報分析能力は王からも一目置かれている。




「……では、始めようか」


エドワード王の低い声が、静寂を切り裂いた。


「シェルビー、まずは対外的な説明からだ。この『侵略』を、世界にどう説明するつもりだ?」


……侵略、だって?


早速、心臓が冷たくなるのを感じた。

すでにこの国は、リティッシュ・ランバに戦争を吹っ掛けることを決定事項としていたのだ。


促された外務次官シェルビーが、淀みない口調で答える。


「はっ。ハーパー外相暗殺に対する『報復的軍事介入』。これが我が国の公式見解でございます。本国の外交官が消息を絶ってから二カ月。安否確認のために派遣された巡洋艦も行方不明。これこそが現在、我が国が全世界に流布している『唯一の事実』でございます。国際法に対する重大な挑戦であり、人道的観点からも軍事介入による制圧は必然……。すなわち世界から見れば、これは『正義の鉄槌』に映りましょう。」


シェルビーの言葉に、軍需局長のギルモアが下卑た笑いを漏らす。


「正義、か。……シェルビー、お前のその口八丁にはいつも感心するよ。国民が求め、世界が許す美しい言葉だ。……そして実際には、我々が真に求めている、その綺麗事の裏にある『実利』を得るための侵略。……そうですよね、陛下?」


ギルモアは王の顔色を伺いながら、テーブルに地図を広げた。その中心には、リティッシュ・ランバが赤く記されている。


「この島に眠る莫大な電導石。これさえ手に入れば、アータバルの国力は数倍に跳ね上がる。世界中のエネルギー供給源を我が国が独占する。この物理的なエネルギー源を完全に支配することで、これまでのリティッシュ・ランバがそうであったように、我々も世界一の先進国へと昇り詰めることができる。これこそが、陛下の望まれる此度の侵略の核心ですな。」


すぐ傍でその会話を聞きながら、僕の動悸はどんどん激しくなる。

電導石。それを独占するために、彼らはグルガル族を皆殺しにする算段を立てているのだ。


「捕虜からの報告によれば」

海軍のカニンガム中将が、濁った声で会話に割り込む。

「あの国にいる連中は、一人を除いて魔力を持たない『死体』の集まりだそうです。そんな人間、聞いたこともありませんが……魔法も使えぬ死体どもに、あの宝の山は過ぎたるもの。……陛下、一刻も早く艦隊を。唯一魔法を使えるというその『王』さえ数の暴力で圧り潰せば、あとは家畜同然。電導石を掘り出すための『生きた道具』が手に入りますぞ。」


会議室に響くのは、もはや国家の体裁すら保っていない、剥き出しの強欲だった。

その時、唯一沈黙を守っていた若きレオ・リード少佐が、恐る恐る挙手をした。


「……陛下。一言よろしいでしょうか。」


王が微かに顎を動かす。


「……その王、ジン・カドラーという個体の戦力は、報告書を読む限り未知数です。その個体は重力魔法師であるとのことです。巡洋艦を一瞬で沈め、山を押し潰すほどの魔力……通常の魔法師の域を遥かに超えている以上、万全を期すべきかと。……例えば、同盟国であるアルカリグに応援を要請し、共同で当たるというのはいかがでしょうか。彼らの戦力があれば、リスクは最小限に抑えられます」


その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ヘンドリクス大将が激昂して机を叩いた。


「黙れッ、小僧! アルカリグだと? 奴らに声をかけてみろ、分け前を寄越せと喚き散らすに決まっている! この電導石の利権は、アータバル一国で独占することに意味があるのだ。他国の不純な血を、我が国の『庭』に入れる必要などない!」


……僕たちと君たちは、仲が良いって思ってたんだけどな。


結局、国家の頂点に立つ人間は、僕の「飼い主」も含めてどこか壊れていなければ務まらないのかもしれない。


「しかし大将、相手は未知数です。油断は……」


「油断だと!? 貴様、我が軍を愚弄するか!」


ヘンドリクスの怒号が響く中、エドワード王が冷たく、重みのある言葉を放った。


「リード少佐。お前の懸念は分からなくもない。だが、国家とは常に賭けを続けるものだ。……その王が怪物であったとしても、こちらは軍隊だ。個人の武力など、圧倒的な物量の前では塵に等しい。こんな簡単な賭け、行わない方が愚かだとは思わんか?」


その言葉に、レオ・リード少佐は「……出過ぎたことを言いました」と、深く頭を下げるしかなかった。王の絶対的な威圧感の前では、正論など無力に等しい。


そして王は続けた。


「……対外的には『報復的軍事介入』とする。真の作戦名は『リティッシュ・ランバ領土化計画』。一週間後、全艦隊を以てかの地を蹂躙せよ。抵抗する者は一人残らず消し去れ。死んでいても動くというのなら、動かなくなるまで叩き潰すだけだ。」


王の宣言。それが、両国の運命を決定づける宣告となった。


椅子が引かれる音、軍靴の響き。

僕はただ、不可視化したまま立ち尽くしていた。



一週間後? あまりにも急すぎる……。



彼らはジン・カドラーという存在を、単なる「魔力の多い反逆者」程度にしか見ていない。彼が最低でも4000億という、想像を絶する魔力を宿していることなど、夢にも思っていないのだろう。


王が再び隠し通路へと消え、椅子から立ってそれを見届けた五人が、正面扉へと向かって歩いていく。


誰かを追いかけるべきか。それともこのまま引き返し、閣下に報告すべきか…。

おそらく、真の作戦目的を知るのは、今この場にいた六人だけだ。これ以上、この建物内の誰かを追ったところで、得られる情報は知れている。


……ここは、閣下への連絡を最善とするべきかな。


念のため、一時間ほどその場に留まり、通路の安全を確認してから、僕は隠し通路を通って軍本部を後にした。




痛みも大分引いた足で、僕はホテルへと駆け戻った。

荒い息を吐きながら部屋のドアを蹴破るように開ける。だが、そこにフィオナの姿はなかった。買い出しにでも出ているのか、観光をしているのか。


僕は構わず、荷物の中から報告用の無線機を掴み取った。特定の周波数を合わせ、震える指でスイッチを入れる。


「こちらウエステイル特別執行官。……閣下、今お時間よろしいでしょうか?」


数秒の静寂の後、鼓膜を震わせたのは、氷のように冷たく静かな声だった。


『……なぜ、この時間に君の声が聞こえているのかね?』


背筋に冷気が走る。この時間の僕は、まだ軍本部の闇に紛れていなければならない。

閣下にとって、この通信は僕が任務を放り出した職務怠慢に他ならないのだ。


「申し訳ございません。ですが、今すぐに閣下のお耳に入れたい情報がありまして。」

『……話しなさい。』


僕は言葉を急いだ。午前十一時、特別会議室で行われた密談。国王エドワードを含む六人の重鎮たちが、電導石の独占を謳い、リティッシュ・ランバへの全面侵略を決定したこと。一週間後に全艦隊が動くこと。

そのすべてを一気に捲し立てた。


話し終えても、受話器の向こうからは何の反応もない。


「……閣下、聞こえておりましたでしょうか?」


恐る恐る尋ねた、その直後だった。


『…ははっ、はははははは!』


鼓膜が破けんばかりの爆笑が響いた。理知的な閣下からは想像もつかない、気が触れたかのような笑い声。僕は受話器を握ったまま、硬直するしかなかった。


『最高だ。傑作だよイネス君! ここ数年で一番愉快で笑える話だ! エドワード王も、相変わらず救いようのないギャンブラーだな!』

「……閣下、それは、どういう……」

『ふぅ。……いや、失礼。あまりに滑稽で、つい笑い疲れてしまった。……イネス君。君は、アータバルが戦争を仕掛けることを、どう思う?』


試されている。僕は喉の渇きを覚えながら、必死に答えを絞り出した。


「……アータバルが勝っても負けても、我が国には不利益になるのではないでしょうか。」

『なぜそう思う?』


「彼らが勝った場合、電導石の所有権はすべてアータバルが握ります。会議での話しぶりでは、我が国との交友すら軽視している様子でした。電導石をこれまで以上の価格で売りつけられる、あるいは供給を止められるリスクがあると考えます」


『ふむ。……では、負けたら?』

「ジン・カドラーの警戒心が頂点に達します。今後、我が国が交渉を試みようとしても、外敵と見なされて対話のテーブルにすら着けなくなる可能性が高いかと……」

『なるほど、優等生な回答だね。……だが、私は全く逆の意見だよ。』

「……お伺いしても、よろしいでしょうか?」


閣下の声は、まるでおもちゃを与えられた子供のように饒舌になった。


『まず、アータバルが負けた場合だ。全艦隊を失えば、彼らは一気に国力を失う。衰退した隣国に対し、アルカリグが「復興支援」という名目で軍を駐留させるのは容易い。……つまり、戦わずしてアータバルを我が国の属領にできるということだ。最高だと思わないかい?』


言葉を失う。閣下は同盟国の敗北を、最初から「乗っ取り」の好機として計算している。


『逆に、万が一彼らが勝ったとしても構わない。怪物を相手に勝利するなら、彼らもボロボロの疲弊状態だ。そこで私たちが「共同統治」を申し出るのさ。背後からボロボロの彼らを刺して、電導石の利権を丸ごと奪う。……どちらに転んでも、アータバルという駒が消えて、私の手元に果実が残る。この一週間後の戦争はどっちに転んでも、私の手を汚さずに宝箱を開けさせる「余興」になるということだよ。』


……恐ろしい。この人は、最初から誰も救うつもりなどないのだ。


『さて。これ以上の情報は、おそらくもう無いと判断して戻ってきたのだね?』

「はい、その通りです。必要とあらば、この後即座に戻り、諜報を再開しますが……」

『あー、もういいよ。これ以上ないほど有益な情報だ。……帰還は明日だったね。今日はもう、エンモンドを観光でもして羽を伸ばすといいよ。来週には今のエンモンドはなくなるかもしれないからね! ははははは!』


高笑いと共に、通信が切れた。

ツッという無機質な音の後、静まり返った部屋で、僕は自分の手が震えていることに気づいた。


観光……だって?

最後の言葉。全く面白くもない冗談だ。


この国の人々はどうでもいいのか? グルガル族が全員死んでも、笑って終わらせるのか?

僕は実際にグルガル族をこの目で見ている。魔力こそなかったが、彼らは全員、笑顔で語らいながら幸せそうに生活をしていた。他人の幸不幸など、この男にはどうでもいいのか?


どうして、自分さえ良ければ他人はどうなってもいいなんて思えるんだろう。みんなで普通に笑って過ごすことが、そんなに難しいことなのかな…。


僕は本当に、この男の下で命令に従い続けていいのか。

本気で抱いたその疑問を、脳裏をよぎった家族の顔が無理やり押さえつける。


……そうだ。僕は、この男の言うことを聞くことしか許されないんだ。軍に入るときに誓ったじゃないか。家族を救うために、何でもすると。


頭ではそう理解できても、心がそれを拒絶する。

僕が家族を想うように、この国の人だって、グルガル族にだって、大切に想い合っている相手がいるはずなのに。そんなこと、あの六人も、閣下も、これっぽっちも考えないんだろうな。

結局、この世界は自分さえ良ければ、他はどうでもいい……そんな奴らが動かしているんだ。


今回の諜報で聞いたあの六人の欲望と、他者の命を塵ほどにも思わない思想……。そしてそれを知った総督の、あの笑い声。

本当に、吐き気がする。


…僕はこれから一生、この欲望の渦の中を進み続けることになるのかな…。


「…いやぁ……きっついなぁ……っ」


ぽつりとこぼれた独り言。

それでも、やっぱり僕は執行官として頑張るしかないんだけどね。




どれくらい、そうして立ち尽くしていただろうか。

部屋のドアが開く音がして、直後に聞き慣れた声がした。


「あなた!」


フィオナだった。買い出しの紙袋を抱えた彼女は、僕の姿を見るなり満面の笑みを浮かべ、荷物を床に放り出して駆け寄ってきた。そのままの勢いで、僕の首に腕を回して抱きついてくる。


……ああ、なんで……僕の気持ちが落ち込んだときは、いつもそばに、こんなにも魅力的な女性がいてくれるんだろう。


すがりたくなんてないのに、この温もりに癒しを求めてしまう。

……でも、ダメだ。

ソフィーにすがり、その上でフィオナにまですがったら、本当に目も当てられないクズになってしまう。

そう自分に言い聞かせながら、僕は彼女の背中にそっと手を回した。


「おかえり、フィオナ。何を買ってきたの?」

「むっ。そんなことより、まずはお帰りのキスじゃない?」


茶目っ気たっぷりに唇を尖らせる彼女に、僕は応えた。これは「すがる」ことには入らない。

…入らない、はずだ。


「それで、何を買ってきたの?」

「今夜の晩酌用のお酒と、私のお昼ご飯のフルーツよ。」


答え終えると、今度は彼女が僕を覗き込んできた。


「あなたは、今日は早かったのね。どうしたの? 傷が痛む?」


至近距離で、不安そうに僕の瞳を見つめてくる。その純粋な心配が、疲弊している僕の胸に刺さった。


「いや……。総督に報告したいことが一つあって、それを話しただけだよ。……そうだ。閣下が、今日はもう任務に出ないで、街を観光しても良いって。フィオナが疲れてなかったら…一緒に出かけない?」


その言葉を聞いた瞬間、彼女の顔が花が咲いたように輝いた。

彼女は僕の体を強く抱きしめ、何度も何度も、降るようなキスを落とした。そしてそのままの勢いで僕をベッドへと押し倒す。


彼女は満足するまで僕の唇を奪うと、火照った顔で饒舌に語り始めた。


「素敵! じゃあ、今からたっぷりイチャイチャして、疲れたら一緒に眠って、まだ日が出ているうちに外に出て観光しましょう。そのままレストランで美味しいご飯を食べて、お酒を飲んで、帰ってきたらまた……朝までイチャイチャしましょ?」


見たこともないほどはしゃぐ彼女。

その幸せそうなプランを聞いていると、僕の中に渦巻く「行き場のない不安」や「罪悪感」が、手の届かない心の奥底へと追いやられていくような錯覚に陥る。


「すっごく……幸せなプランだね。」


僕がそう言うと、彼女はこれ以上ないほど愛おしそうに「ええ!」と笑いかけてきた。



……ああ、そうだ。

さっきまでの僕は、自分のことしか考えないあの六人や、閣下を心底軽蔑していたはずだ。


なのに、今の僕はどうだ。

自分の心を守るために、嫌なことを忘れるために…

彼女の底抜けな明るさを防波堤にして、その温もりをただ、僕の不安を溶かすための「道具」として利用している。


彼女の純粋な好意も、この幸せなプランも。

僕は……重苦しい現実を一時的に忘れるための麻酔にしてるんだ。

 

彼女の魅力をまた一つ知るたびに、僕は自分のことが、また一つ嫌いになっていく。

 

他人を想うフリをして、結局は自分のために彼女を消費している。

……結局、僕はまたすがって、利用してしまっているんだな。



………どうしようもない、クズだ。

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