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57 媚薬のヴィンテージ

夜十一時。

寝静まったエンモンドの街。

僕はホテルのエントランス脇にある喫煙所で煙草に火をつけた。


「グルガル族……か」


紫煙を吐き出しながら、ひとりごちる。

今日は日が沈む19時ごろまで、例の資料室でひたすら情報を読み漁っていた。だが、最初に見つけたあの報告書以上に衝撃的な情報は、結局得られなかった。

その後、22時まで建物内を散策。不自然な警備の配置や、明日以降の潜入場所を検討し、照明が落ちて人の気配が完全に消えるのを待ってから軍本部を後にした。


「……ほかに、どんな情報が得られるのかな」


正直、あの報告書以降ジン・カドラーから連絡が途絶えているのであれば、アータバル側もこれ以上の情報は持っていない可能性が高い。だとしたら、僕がこれから優先的に探るべきなのは……。


「アータバル軍の今後の行動について……かな」


グルガル族の生態や詳細が得られないのであれば、この国が彼らに対してどう『報復』しようとしているか、あるいは『利用』しようとしているかを調べるしかない。

 

ジン・カドラーという存在と、それに対するアータバル軍の動向。これらをセットで持ち帰れば、僕の飼い主も満足してくれるはずだ。……そう信じたい。


思考を切り上げ、短くなった煙草の火を灰皿に押し付ける。

 

「……よし」


小さく気合を入れ直し、僕は「奥さん」の待つ部屋へと歩き出す。

痛む足を動かして、僕はエレベーターに乗り込んだ。




部屋の扉を開けた瞬間、緊張で張り詰めていた脳が、甘く重たい芳香に包まれる。


「ただいまー」


その言葉が合図だった。

トトトッ、と軽やかな足音がこちらへ近づいてくる。

今朝と同じ、薄いバスローブ一枚だけを羽織った彼女が、僕の胸に迷いなく飛び込んできた。


「んっ……」


そのまま深く、塞がれるような熱烈なキス。

十秒ほど、肺の空気を奪い合うような抱擁が続いた。彼女の柔らかな体温が、軍本部で凍りついた僕の肌を強制的に解かしていく。


「……タバコの味。」


唇を離したフィオナが、僕の瞳を覗き込んで悪戯っぽく微笑む。


「そっちは、お酒の味だね。」

「ふふっ、おかえりなさい、あなた。ごはん買ってきてあるけどどうする?最初にシャワー浴びる?」

「そうだなぁ…今日は少し歩き回って足が痛いから、まずは座りたいかな。」

「そ。じゃあごはん食べちゃいなさい。」


彼女に手を引かれながら部屋の奥へと進む。

テーブルの上には、ワインと二つのワイングラス、そしてこの街の高級店で調達してきたであろう豪勢な食事が並んでいた。


彼女は僕を椅子に座らせると、自分はすぐ隣、僕の太ももに指先が触れるほどの距離に腰を下ろした。


「さ、いっぱい食べてちょうだい。」

「ありがと。いただきます。」


料理を食べ始める。アルカリグでも馴染みのある味だ。

彼女はすでに自分が使っていたグラスと、もう一つの綺麗なグラスにワインを注ぐと、後者を僕に差し出してきた。それを受け取り、チン、と静かに乾杯を交わす。




「いたたっ……」


食べ終え、シャワーを浴びようと腰を浮かせた瞬間、両腿に鋭い激痛が走り、僕は再び椅子に沈み込んだ。


「ほら、つかまって。シャワーは明日の朝でもいいわ。」


彼女は慣れた手つきで僕に肩を貸し、ベッドまで連れて行ってくれた。

横になった途端、吸い込まれるような感覚に襲われる。


だが、彼女が僕のズボンに手をかけ、脱がそうとしてきたことで意識が跳ね上がった。


「ちょっ、待って! シャワー浴びてからじゃないと!」

「なに変な期待してるのよ。傷口を見るだけよ。」


……期待なんてしてないし。

心の中で毒づきながら、まな板の上の魚になった気分でされるがままになる。

彼女は冷たく、けれど確かな手つきで傷の周りをペタペタと触ってきた。


「熱を持ってるわね。冷やさないと。」


彼女は手際よく冷蔵庫から氷嚢を取り出し、僕の両腿の上に乗せた。


「ありがと。……別に、期待なんてしてなかったよ?」


子供じみていると思ったけど、少しだけ意地を見せてみた。


「はいはい。……あっ、そうだ。」


何かを思いついた彼女は、不意にテーブルへ戻ると、ワインボトルをそのまま掴んで戻ってきた。

そして、横たわる僕の隣に、どさりと腰を下ろす。


「大佐とやったこと、私にもやらせて。」

「ぅえ?」


聞き返す間もなかった。

彼女はボトルから直接ワインを口に含むと、驚きで開いた僕の口を塞ぐように、その唇を重ねてきた。


そのままワインが僕の口に流れ込む。

アルコールと彼女の唾液が混じり合い、それは度数を上げたような、あるいは媚薬に似た甘美な毒となって僕の喉を焼いた。


「ふふっ、楽しいかも」


二口目を煽ろうとする彼女を制するように僕は声を上げた。


「ちょっと待って! 最初に報告させて!」


僕が日中諜報し、その間に彼女が総督へ報告を上げる。それが今回の指令だ。こんなものを飲み続けたら、まともな思考なんて一瞬で溶けてしまう。


「……真面目。」


彼女の動きが止まる。


「しょうがないじゃないかぁ。」


少し不機嫌そうに唇を尖らせながら、彼女は立ち上がり、ボトルをテーブルに乗せ、荷物の中からノートとペンを取り出した。再び僕の隣に座ると、足を組んでノートを広げる。


「ほら。早く報告なさい。」


…不機嫌になっちゃった。

僕は苦笑しながらも、寝転がったまま今日得た情報を整理して伝えた。

ジン・カドラーという名。グルガル族という種族。そして、アータバル軍の生存者がリティッシュ・ランバでいまだに捕虜になっている可能性。ジンとバルガス准将の噛み合わない対話は、記憶した通りに一言一句違わず伝えた。


「今日のところは以上かな。」

「……これだけでも、もうアルカリグに帰っていいんじゃない?」


彼女がノートから顔を上げる。


「そうかもね。……フィオナは、もう帰りたくなっちゃった?」

少し意地悪な笑みを浮かべて、僕は彼女の瞳を覗き込む。


「……バカ。」

彼女はそっぽを向いて、乱暴にノートを閉じた。その耳朶がわずかに赤い。


…何聞いてんだよ、僕は。


聞いて少し…いや、かなりの自己嫌悪をしてしまう。


「でも僕としては、アータバル軍が次にどう動くかまで知りたいかな。総督も、その情報を得られればさらにご機嫌になってくれるでしょ?」

「そう……ね。」


彼女の返信がわずかに鈍る。

初めての任務報告の夜……あの総督の言動を見て以来、彼女はどうも総督の存在を苦手にしているようだった。

まあ、あれを間近で見せられたら無理もない。


「……ねえ、フィオナ」


そんな険しい顔より、さっきみたいに甘えてくる顔の方が好きだな。


「なに?」


なんて、今は言えないけど。


「お酒、飲みたいな。」

「……バカ。」


彼女は小さく吐き捨てて立ち上がると、机の上にノートを置き、代わりにワインボトルを掴んだ。

こちらへ歩きながらワインを口に含む。先ほどのように座ることもせず、そのまま僕に覆いかぶさるようにして、荒々しくワインを流し込んできた。


そのままの勢いで舌をねじ込まれ、ワインの余韻ごと、お互いの口内を貪り合う。


……あ、忘れてた。


「フィオナ、シャワー浴びてくるよ。」

「……ダメ。」

「いや、一日中動いてたから汚いよ。」

「私は浴びたからいいのっ」


うーん、全然良くない。

 

抗う術をなくした僕は、諦めて目を閉じた。

両腿に感じる氷の鋭い冷たさと、全身を包み込む彼女の暴力的なまでの熱さ。

その矛盾した感覚に翻弄されながら、潜入初日の夜は更けていった。

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