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55 結婚初夜

アータバルの首都、エンモンド。

重厚な石造りの建物が並ぶ大通りを抜け、日が落ち切ったころに僕たちは予約していたホテルの一室にようやく辿り着いた。


「良いホテルだね、フィオナ」

「そうね。……少し、騒がしいけれど。」


偽造された身分証明書を提示し、夫婦として電車で国境を越えた。

車椅子に乗った僕をフィオナが甲斐甲斐しく世話し、仲睦まじい新婚夫婦を演じながらの移動は、精神的にリハビリ以上の疲労を伴うものだった。


案内された部屋の扉を開けた瞬間、覚悟はしていたと思っていたが、それでも心臓が跳ねてしまう。

部屋の中央には、あつらえたようなクイーンサイズのベッドがひとつ、鎮座している。


一週間前のあの練習以来、僕たちの距離はそれまでとは比べものにならないほど近づいてしまった。けれど、それとこれとは話が違う。


「フィオナ……その、本当にいいの? ……一緒のベッドだけど…。」

「何言ってるの。いつも一緒に寝てるじゃない。私はシャワーを浴びてくるから、あなたは先に横になってていいわよ。」


嘘である。

断じて、一緒に寝たことなど一度もない。


フィオナは僕の動揺などどこ吹く風で、手慣れた様子で着替えを手に取り、シャワールームへと消えていった。


残された僕は、ようやく松葉杖なしで立てるようになった足でゆっくりと立ち上がり、ベッドの端に腰を下ろした。閉まった扉の向こうから、水音が聞こえてくる。


……だめだ、余計なことを考えるな。

僕は意識的に思考を切り替え、明日以降の作戦を脳内で組み立て始めた。


ここに七泊八日。

明日の朝一から、『不可視化』をフル稼働させ、アータバル軍本部へ潜入する。

今回使用するのは『不可視化』と、必要とあらばの『身体強化』のみ。前回のように脳が焼き切れるような無茶な並列起動をする必要はない。

万が一疲労を感じても、どこか隠れられる場所に潜り込み、魔法を解いて休息すればいいだけの話だ。


目的は、あの島国…緑の瞳の怪物や褐色の種族に関する情報の入手。

正直、三日間生死を彷徨い続けた前回の任務に比べれば、格段に楽な任務だ。身体の自由もきくし、隣には優秀な医官もいる。


優秀な…医官……


「はぁ~~~」


思わず、天井を仰いでデカい溜息をついてしまった。

フィオナは本当によくしてくれている。不満なんてあるはずがない。……というより、良くしすぎてくれているのだ。


出会ってからの数日は、なぜかトリーシャがいる時だけ僕を構い倒してきた。彼女いわく「仕事中の彼女とあまりに違うから面白くて」という理由だった。

だが、あの男…総督への報告を行った夜を境に、フィオナは二人きりの時でも同じように接してくるようになった。


そして…『新婚さんの練習』を始めた日から、当初と真反対になってしまった。

トリーシャが来ている時は普通の友人同士の距離感になり、二人きりになると、ソファでは腕に抱きつき、食事中はずっと片手を繋いだまま。もう腕は動かせるのに「あーん」を強要され、口の周りに食べかすが付けば彼女が自分の唇でそれを取り除く。

睡眠時間になれば毎晩一緒に寝ようと提案され……。


僕が自制心を失うのを恐れてベッドだけは死守してきたが、この一週間で、粘膜の接触以外の触れ合いはすべてやり尽くしたのではないかと思えるほど、彼女は『練習』に余念がなかった。


「今夜……大丈夫かなぁ……」


ボソッと呟く。

不安だ…とっても不安だ……


これまで死守してきた最後の牙城であるベッドが、今夜、ついに崩れることになる。


そう考えた時、ふとソフィーのことが脳裏をよぎった。

……そうだ。そうだよ。

こんな考え、僕みたいな男が持つべきじゃない。


僕はまだ、彼女と過ごした最後の夜から二ヵ月近く経った今でも、ソフィーのことを気にしていた。

彼女がもし違う男と付き合っているのなら、それでいい。…いや、その方が僕の心は楽になる。

一緒になることができない僕のことなんて忘れて、幸せな恋をしてほしいと心から願っている。


だけど…もし、彼女が今も僕のことを想い続けてくれているのなら。

そんな彼女の気持ちを踏みにじって、他の女性と愛を確かめ合うような行為なんて、できるはずがない。


まあ、さすがにフィオナが僕を愛しているなんて、そんな天変地異みたいな可能性の低いことはないと思うけれど。

……でも、僕も彼女も人間だ。僕はもちろん、彼女にだって性欲はあるはずだ。

この一ヶ月、ほぼ一日中僕と一緒にいた彼女が、愛とは無関係に「欲の発散」を求めてきたとしたら……。


……いや、だめだ。自分を律せ、イネス。


まず、そうなるはずがない。そしてそうなったとしても、ソフィーのことを思い出してしっかり断るんだ。

大丈夫、自分は最低な人間だが、大切な人を傷つけることだけは絶対にしない。


「……大丈夫かなぁ……」


うぅ、やっぱり不安だ。


そんな堂々巡りの思考に耽っているうちに、彼女がシャワールームに入ってから30分が経過していた。

いつもなら15分程度で上がってくるはずなのに、今日はやけに長い気がする。


不意に、絶え間なく響いていたシャワーの音が止まった。


密閉された空間に、静寂が訪れる。

入れ替わりで聞こえてきたのは、衣擦れの音と、僕自身のうるさいほど大きな鼓動だけだった。


僕は耐えかねて、痛みで震える足を奮い立たせ、シャワールームの前に移動した。

僕は平静を装い、扉の向こうの彼女へ声をかけた。


「フィオナ、ちょっとタバコ吸ってくるよ。帰ってきたら、僕もシャワーを浴びるね。」

「行ってらっしゃい、あなた。」


いまだに慣れない「あなた」という響きにまた心拍数を上げながら、僕はゆっくりとホテルの部屋を後にした。


ホテルの外に出てすぐ、ベンチのある喫煙スペースを発見し、逃げ込むように腰を下ろす。

震える手で煙草に火をつけた。


「すぅー……ふぅー……」


ああ、落ち着く……。

明日以降、任務中にタバコの匂いを漂わせながら潜入などできるはずがない。そのため、次にタバコが吸えるのは任務が終わってこの場所に帰ってきてから、明日の深夜になるだろうな。


僕は夜風に吹かれながら、紫煙と共に脳内を支配していた邪念を丁寧に吐き出していった。

冷えた空気のおかげで、ようやく「男」としてではなく「軍人」としての自分を取り戻せた気がした。




ホテルの部屋に戻ると、照明は落とされ、フィオナはすでにベッドにくるまっていた。


よかった……。彼女が寝てさえくれていれば、間違いは起こるはずがないんだ。


勝利を確信した僕は、ゆっくりと自分の荷物から着替えを取り出し、まだ彼女の香りが残るシャワールームへと入った。


30分もかけていたからだろうか。排水溝に流れる熱い湯が、石鹸の香りを強く巻き上げ、追い出したはずの邪念を再び呼び戻そうとしてくる。僕はそれを必死に振り払い、任務のことだけを考えながら、手早く身を清めた。


シャワーを終え、寝間着に着替えて、歯を磨いた後に部屋に戻る。

暗がりに目が慣れてくると、ベッドの半分が綺麗に空けられているのが見えた。僕は物音を殺して、空いている側の端にそっと体を滑り込ませる。


「おやすみ、フィオナ」


彼女が聞こえないほどの声量でぼそっと呟く。

極力、彼女に触れないようシーツの端で身を固めて目を閉じた、その瞬間だった。


「……遅かったわね、あなた」


寝ていると思っていたフィオナの声が、すぐ耳元で響いた。

驚いて目を開ける暇もなく、シーツの中で熱い「何か」が、迷いなく僕の腕に絡みついてくる。


「っ、フィオナ!? 寝てなかったの…?」

「新婚旅行の初日なのに、先に寝るわけないでしょう?」


薄暗い光の中、彼女の瞳が濡れたように光っていた。

そして彼女は、当然のように僕の胸元へ潜り込み、熱い吐息を漏らした。


「……冷えてるわね。温めてあげる。」


……そんなわけないのに。たった今、熱いシャワーを浴びてきたばかりなのに。

そんな至極まっとうな突っ込みを脳内で繰り出すが、僕の心臓が落ち着いてくれるはずもなかった。


やばいやばいやばい。さっき喫煙所で決意を固めたのがバカみたいじゃないか。こんな簡単に動揺するなよ……!

……いや、でもこれは…動揺してもしょうがないよね?


「フィオナ、ダメだよ。離れよ?」

「あら。こんなにドキドキしてるのに、離れちゃってもいいの?」


彼女は僕の胸に顔を押し当てている。薄い衣類越しに、僕の狂ったような鼓動を零距離で感じ取っているのだ。


「離れちゃっていいのっ! 僕は、これでも狼なんだよ? フィオナはもっと気を付けないとダメ!」

「いいえ。あなたは狼なんかじゃないわ。」


遮るように、フィオナが顔を上げた。薄暗い中、潤んだ瞳が真っ直ぐに僕を射抜く。


「この一週間、ずっとあなたが食べに来るのを待ってたのに……ぜーんぜん手を出してくれないんだもの。……もう、私が食べに行くしかないじゃない。……んっ」

「っ!?」


言い終わるか終わらないかのうちに、フィオナの唇が重なった。


脳が焼き付き、目の前がチカチカと明滅する。

この1週間、あれほど必死に、死守するように避けた一線を、彼女はあまりにもあっさりと踏み越えてきた。


抵抗することも、受け入れることもできず、ただ硬直している僕の唇を、彼女の柔らかい感触が何度も、何度も確かめるように食む。


数秒して、フィオナが名残惜しそうに唇を離した。


「……男の人とキスするのは初めてだけど。少し、ひげの感触がするのね。」


吐息の混じった、熱を帯びた声。

 

「っ……フィオナっ……ダメだって……っ!」


僕は震える手で彼女の肩を押し返そうとするが、力が入らない。

ソフィー、ごめん。……ごめん、なさい。


脳裏で大切な人の名を呼ぶ。

けれど、目の前のフィオナから発せられる「自分を求めている女性」の香りと熱が、強制的に僕の意識を現在に引き戻す。


「ダメじゃないわ。練習の仕上げよ。……それとも、やっぱり私が嫌い?」

「そんな、嫌いなわけ……。でも、フィオナ、これは……っ」


練習の仕上げって…それはもう『本番』じゃん……。


戸惑う僕の首に、彼女の細い腕がゆっくりと回される。

心臓の音が、耳元で鳴り響く警報のようにうるさい。潜入任務を前にして、僕はかつてないほどの窮地に立たされていた。


「……大佐から聞いたわ。……あなたたち、キス、したんでしょ?」

「……え?」


キス? そんなことしてな……あっ。


「いやっ、あれはキスじゃなくてっ! 動けなくなった僕の水分補給のために、彼女が身を挺して……」

「でも、唇は重なったのよね?」

「それは……そうだけど……」

「……今は、その時と同じ任務中。そして、その時とは違ってあの子は上官、私はあなたの妻よ。キスくらい、して当然じゃない?」


えぇ~……

いつもはとても知的で、理性的なフィオナなのに。「そうじゃないだろ」とツッコミを入れたくなるような、とんでも理論を突き出してきた。

……彼女も、相当に緊張しているんだろうか。


「しかも、口移しで水を飲ませるなんて、普通のキスよりディープなことじゃない。……ずるい」


言い終わるなり、フィオナの腕に力がこもった。

僕の頭を固定し、逃げ場を完全に塞いでから、彼女は先ほどよりもずっと深く、強く、奪うようなキスを仕掛けてきた。


熱い。

彼女の吐息が僕の中に流れ込み、肺の空気が奪われていく。

ソフィーへの忠義を叫んでいたはずの脳内は、いまやフィオナの柔らかな唇の感触と、首筋に回された腕の強さだけで一杯になっていた。


ぐい、と彼女の体がさらに密着する。

シーツの中で重なる足の熱。彼女の心臓の鼓動までが僕の体に転写されるようで、境界線が溶けていく。

そして……。


「んっ……ちゅっ……ちゅる……」

「んむっ!?」


彼女の舌が、滑り込んできた。

慣れた舌先で、僕の口内を蹂躙していく。舌を絡め、歯茎をなぞり、離れたかと思えば唇を甘噛みし、またすぐさま舌を奥へと。

あまりに、キスが上手すぎる。僕はなすすべなく、思考を真っ白に染め上げられながらそれを受け入れるしかなかった。


…あ……まずい……このままじゃ…………気づかれる……。


僕は少しでも下部の密着を防ぐため、必死の抵抗として少し腰を引いた。

だが、それは逆効果だった。彼女は僕が引いた分よりも強く、逃がさないという意思を込めて体を密着させてきた。


「んっ……ちゅるる……ん? ……っ!」


彼女は『何か』に気づき、絡めていた舌を自分の元へ戻した。

唇がわずかに触れ合う距離で、彼女は潤んだ目を開け、僕をじっと見つめてくる。 


バレて…しまった……。

軽蔑されるか、あるいは拒絶されるか…。



「あはは。うれしい」



それは、愛しいものを見つけた少女のような、酷く甘い笑みだった。


言い終わるなり、彼女は僕の肩を押し、仰向けに組み敷いた。

全体重を僕に預け、逃げ場を完全に塞ぐ。

 

「フィ、フィオナ……待って……んっ」


僕の制止など聞こえていないかのように、彼女は再び、先ほどよりもさらに深く激しいキスを落としてきた。



やっぱり…だめだ……。

これ以上は、戻れなくなる。



僕は最後の力を振り絞り、自分を組み敷くフィオナの肩を掴むと、勢いのまま彼女と位置を入れ替えた。彼女を下に、僕が覆いかぶさる形になる。


「……ごめん、フィオナ。今は……できないんだ。」


荒い息を吐きながら告げると、フィオナは拒絶された衝撃に瞳を揺らし、今にも泣き出しそうな顔で僕を見上げた。


「……私じゃ、ダメなの?」

「そんなはずない! 今だって、フィオナが欲しくておかしくなりそうなんだ!」


嘘偽りのない叫びだった。これほど近くにいて、求められて、平気でいられるはずがない。

 

「じゃあ、なんで……?」


震える声に、僕は胸の奥に秘めていた重りを、一つひとつ言葉にしていった。


「僕が軍人になる直前……思いを通じ合わせた子がいたんだ。…でも、今後の生活を考えて『一緒にいられない』って遠ざけた……。…まだ、その子が気がかりなんだ。」


フィオナの瞳が、静かに僕の言葉を追う。


「そんな気持ちを抱えたまま、君と最後までしてしまうのは……思い上がりかもしれないけど、その子をさらに傷つけることになる。そして何より、君に対しても、あまりに失礼だ。だから……最後までは、まだ、できない。」


僕のあまりにも不器用で、身勝手な誠実さ。

それを聞いたフィオナは、しばらく沈黙した後、そっと僕の頬に手を添えた。


「私は……気にしないわ。でも、あなたがそう考えるなら、無理に最後まではしない。」


彼女は慈しむように微笑むと、そのまま手を滑らせ、僕の下腹部へとそっと添えた。


「でも……途中までなら、いいわよね?」


熱い手のひらの感触に、僕の自制心はついに限界を迎えた。


「ダメだよ……フィオナ……っ」




拒絶の言葉を吐きながら、僕の身体は彼女が与えてくれる熱を、渇望するように受け入れていた。


なんて、情けないんだろう。

脳裏ではソフィーの面影が、責めるような、あるいは悲しむような瞳で僕を見ている気がした。

彼女への忠義を誓ったはずの心臓が、今は別の女性の手のひらの下で、恥ずべきほど激しく脈打っている。


自分が、大嫌いだ。

高潔な騎士でも、一途な恋人でもいられない。任務という言い訳を盾にしながら、結局はフィオナの甘い誘惑に抗えない、ただただ身勝手な男。

こんな自分に吐き気がする。


けれど……


今、僕を求めて泣き出しそうな顔をしているこの人を、突き放すこともできなかった。

僕に向けられる彼女のひたむきな熱情が、罪悪感で凍りついた僕の心を、暴力的なまでの優しさで溶かしていく。


守りたい約束も、誓ったはずの誠実さも、彼女の指先が触れるたびにガラガラと崩れ落ち、消えていく。

 

最低な自分を呪いながら、同時に、目の前の彼女を壊したいほど愛おしく思う。

そんな歪な感情のまま、吸い込まれるように……

僕の下で無防備に僕を見つめる彼女へと、身体を震わせながら唇を寄せた。


重ねた唇から、彼女が流した涙の味がした。



「うれしい……。初めて、あなたから……求めて、くれた。」



その言葉が、僕の中で堰き止めていた感情を爆発させた。

僕は彼女の全身を包み込むように抱き寄せ、嵐のような激しいキスを降らせた。


ああ。

もう無理だ。


ごめん……ソフィー。

ごめん、フィオナ。


僕みたいなやつなんて、構わないでくれよ。

……なんでこんな最低な人間、受け入れちゃうんだよ。


自分を呪う言葉が喉元まで出かかって、代わりに溢れたのは、情けなくも切実な告白だった。


「……今日は、今からは……フィオナのことしか考えないから。こんな情けない僕で、ごめん……っ!」




謝罪は愛撫に溶け、理屈は情熱に塗り潰されていく。


窓の外に広がるエンモンドの夜景も、明日から始まる命懸けの任務も、今の二人には遠い世界の出来事のようだった。


二人が心底満足し、深い眠りへと落ちるまで。

クイーンサイズのベッドの上で重なり合った二つの影は、一つの獣のように、夜が明けるまで激しく蠢き続けていた。

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