54 フィオナ・ローレン、攻撃に転ず
「ぐ、……あっ」
膝をつきそうになるのを、両手の松葉杖でなんとか支える。
あの海の上、自らの手で引きちぎり、内側から抉り抜いた両腿。フィオナさんの献身的な処置で肉は塞がったが、無惨に傷ついた神経は、今もなお脳に「焼けるような激痛」という信号を送り続けていた。
「……無理は…しないで。」
僕の身を案じる声がリビングに響く。傍らで見守るフィオナさんの瞳には、不安と悲しみの色が混じっていた。
…あと1週間で、次の任務だ。
ちなみにここ最近、彼女はより近い距離感で接してくれるようになった。
まあ、3週間も同じ屋根の下で過ごしていたら、そうなるのは当たり前か。
「……っ、大丈夫。……まだ、歩けます」
脂汗を流しながら、一歩、また一歩と足を踏み出す。
僕は今回の任務も、必ず成功させないといけない。
なぜなら…
先週の総督との通信内容を思い出す。
プランはこうだ。
隣国アータバルへ、フィオナさんと二人、「新婚旅行」を装い、偽造した身分証明書で入国する。
今回は、彼女が任務に同行する。僕の身体が万全ではない以上、即座に治療を行える医官が必要だという総督の指令だ。
二国間の関係は良好だ。この設定なら怪しまれることなく、首都エンモンドに一週間滞在し、軍総本山へ潜入できる。
『最優先は、緑の瞳の怪物だ。次いで褐色の種族の情報。あるだけ持ってきてくれたまえ。』
受話器の向こうのあの男は、相変わらず楽しげだった。
僕は一つ、最も懸念していたことを尋ねた。
「閣下、潜入にあたり確認させてください。万が一自分が発見され、確保された場合のエスケープルートは……」
『ああ、それなら考えなくていいよ。君の能力でバレることはまず想定していない。万に一つ、不測の事態が起きたら……以前送った資料の中に忍ばせておいた、あのカプセルを思いっきり嚙んでくれ。あれはね…』
銀色の小さなカプセル。
口に含んで起動すれば、頭部を丸ごと消し去る小型の指向性爆弾。我が国、アルカリグの関与を隠蔽するための、最悪の保証。
『万に一つもないはずだよ。むしろ君がこんなことでいなくなってしまったら、私が困り果ててしまう。絶対に使うような状況にならないよう。いいね。』
……こんなこと、彼女たちには絶対に言えない。
「……イネスさん。呼吸が浅くなっているわよ。一度止まって。」
「あ、すみません。……大丈夫です。」
フィオナさんがスッと隣に立ち、僕の肩を支えてくれた。彼女の纏う清潔な薬の香りが、痛みに尖った神経をわずかに鎮めてくれる。
「……初めての新婚旅行で気分が高揚するのは仕方ないけど、あんまり頑張りすぎちゃだめよ。」
冗談めかした彼女の言葉に、僕は乾いた笑みを返した。
「ははは。新婚旅行が本当だったら、よかったんですけどね。」
もしこれが任務でなければ、どれほど楽だっただろうか。
こんな無理なリハビリをする必要も、焦る必要も、あの銀色のカプセルを噛まねばならない事態に怯えることもない。
ただ何も考えず、旅行者として過ごせたのなら、どれほど幸せだったか。
「………」
肩を支えてくれているフィオナさんが、なぜかプルプルと震え始めた。
顔を見てみると、彼女は見たことがないほど顔を赤くしていた。
「えっ!? どうしたんですかフィオナさん!大丈夫ですか!?」
「あっ……あなたね……っ。……なんでも…ないわよ…」
フィオナさんは顔を背けてしまった。
さっきまで普通に話してくれてたのに、急にどうしたんだろう。
「……なんで私だけこんな動揺しないといけないのよ……仕返し、してやる」
僕に聞こえないような小さい声で、彼女が何かをボソボソと呟いた。
「ほら、休憩。このままソファに連れて行くから座りなさい。」
「あ、はい。わかりました。」
そう言い、彼女は僕の肩を抱いたまま歩き出す。
言われるがまま、彼女に肩を抱かれた状態でソファまで運ばれる。
ゆっくりと腰を下ろすと、彼女はすぐさま立ち上がった。
「紅茶とお菓子持ってくるから、待ってなさい。」
「了解…です。」
なんだろう、この有無を言わさない圧力は。
医官の視点から見て、今の僕はオーバーワーク気味だったのだろうか。
数分後、彼女がトレーを手に戻ってきた。
その顔は、まだ赤みが完全に抜けていない。
トレーをテーブルに置いた彼女は、すぐに座るかと思いきや、僕の隣に立ったまま指先をもじもじと動かしていた。
「?あの、フィオナさん?一緒に食べないんですか?」
「っ……いただくわよ。当り前じゃない。」
えぇ…?何か怒ってらっしゃる…?
そう思った直後、彼女は僕の肩と太腿にぴったりとくっつく距離に座り込んできた。
触れている部分から伝わる熱に、心臓が跳ねる。
そして彼女が口を開く。
「……練習、しましょう。」
「え?」
練習?
「……新婚の…練習…」
「ぅえ?」
どゆこと?
「今回の任務では、私たちは新婚夫婦なの。新婚さんっぽく振る舞わないと、アータバル国内で不審がられるわ。練習が必要よ。」
「あ…え…いや……身分証明書の苗字が同じになるだけで、入国してしまえばそこまで周囲を気にする必要はないと思いますが…。」
「必要よ」
「そう…なんですね…」
そうなんですか?
「えっと…練習というのは……具体的に何をするのでしょうか…?」
尋ねる僕を、フィオナさんはじっと見つめた。
その瞳は真剣そのものだが、顔は赤く、どこか強がっているようにも見える。
「……まずは、呼び方よ。」
「呼び方、ですか?」
「ええ。人前で『フィオナさん』なんて他人行儀な呼び方をしていたら、新婚だなんて誰も信じないわ。……いっ…今からは、呼び捨てで呼びなさい。」
彼女はそう言うと、さらにもう一段階、僕の隣に体を寄せてきた。シャツ越しに伝わる彼女の体温と、柔らかい感触。
怪我で過敏になっている僕の神経が、別の意味で悲鳴を上げそうになる。
「い、いきなり呼び捨ては……ハードルが高いといいますか……」
「ひっ…必要なことよ。ほら、呼んでみなさい。」
じっと僕の唇を見つめる彼女のプレッシャーに負け、僕は喉を鳴らして、震える声でその名を呼んだ。
「……フィ…オナ」
「………もう一回」
「フィオナ」
「……よろしい。じゃあ、次。私があなたのことを『あなた』って呼ぶから。……返事をしなさい。」
そう言って、彼女は僕の肩に頭をコテンと預けてきた。
あまりの密着ぶりに、もはや松葉杖なしで立ち上がる時よりも激しい動悸が僕を襲う。
今までも彼女は僕のことを「あなた」と呼んでいた。けれどそれは、医者が患者を呼ぶような、あるいは単に目の前の相手を指すだけの、単なる代名詞に過ぎなかった。
…でも、今からの「あなた」は違う。
今からのは、自分の旦那に対する、固有名詞としての「あなた」だ。
……めちゃくちゃ、緊張する…。
「……あなた?」
耳元で、甘く、『僕が彼女のものである証』を囁かれる。
心臓が凄まじい速度で胸を叩いた。
これは……本当に、潜入任務に必要な練習なんだろうか。
もしやアータバルの監視網は、ここまで親密な空気感までチェックするほど過酷なのか?
「あぅ……はい。……いや、うん。どうしたの?フィオナ。」
僕が必死に夫を演じようと返すと、彼女は僕の腕をぎゅっと抱きしめ、満足げに小さく「……よろしい」と呟いた。
顔は相変わらず真っ赤なままだが、その声にはどこか楽しそうな響きが混じっていた。
少しの沈黙が続き、彼女は僕の腕を解放した。……体は、まだぴったりとくっついたままだが。
咳払いをしつつ、彼女が口を開く。
「今から任務が終わるまで、呼び捨てで、敬語なしで話すこと。わかった?」
「は……うん。わかったよ。」
「……よろしい」
僕も彼女も顔が赤い。……こんな無理、する必要あるのかな……。
彼女はまた口を開く。
「じゃあ、次。私に、お菓子を食べさせて。」
ホッと、胸をなでおろす。とんでもない要求をされるかと思ったが、これくらいなら大丈夫だ。
僕の腕が普通に動くようになるまで、彼女やトリーシャさんに何度もご飯を食べさせてもらった。それが僕になるだけだ。これまでもそういう経験はあるし、大丈夫。
……大丈夫、だよね?
「もちろん、いいよ。」
そう言い、フィオナさ……フィオナが持ってきたクッキーを手に取る。
「ほら、あーん」
「あむっ」
何の抵抗もなく、フィオナが僕の手のクッキーを齧り、半分食べる。もぐもぐと咀嚼し、飲み込む。
この半分は、僕が食べてもいいのかな。
「ほら、残りも、ちょうだい。」
「え……いや……でも、噛めるところもう少ないよ?」
「いいから、練習よ。」
そう言われると……やるしかないか。
そのまま短くなったクッキーを彼女の口元に運ぶ。
「あーん」
そう言うと彼女は、先ほどと違い少し躊躇してから、口を開いた。
……そして、僕の指先ごと、口に含んだ。
「っ!?」
指先に、柔らかく湿った感触が触れる。
クッキーの残りだけを差し出したはずが、彼女はそのまま、僕の指先ごと吸い込むように含んだのだ。
心臓がドクンと大きく跳ねた。
視界が白くなるような衝撃に、激痛に耐えて歩いていた時以上の緊張が全身を駆け巡る。
彼女の吐息が指に触れ、わずかに目線が重なる。
フィオナの瞳は潤んでいて、けれど挑戦的で……それでもやっぱり、耳まで真っ赤で。
ゆっくりと僕の指が解放される。その名残惜しげな感触に、僕は言葉を失って固まるしかなかった。
「……これ、も……練習よ。レストランで、親密さを疑われないための……完璧な演技に必要なの。」
「そう…なんだ…」
彼女の声は微かに震えていた。まあ、僕もだけど。
演技。練習。
彼女が繰り返すその言葉が、もはや自分自身を言い聞かせるための呪文のように聞こえる。
「……指、見せて。」
「あ……うん」
頭の中が完全に飽和している僕は、彼女の言葉に逆らおうともせず、言われたままに右手を差し出した。
クッキーを運んだ手…フィオナに咥えられた手を、掌を上に向けて彼女の前に出す。
すると彼女は、僕の手首をきゅっと掴んで自分の口元まで引き寄せ、クッキーの粉が付いたままの僕の指を、再び口に含んだ。
「うえ!?」
「んっ…れろ……こら、動かさないの。」
人差し指にこびりついていた粉を、丁寧に、綺麗に、なぶるように舐めとっていく。
「ふっ…フィオナ!僕の指、汚いから!そんなことしないで!」
「んんっ…汚くなんか、ないわよ。」
反論を許さぬまま、次は親指が温かな粘膜に包み込まれる。
熱く、くすぐったく、それでいて逃げ出したくなるような甘い刺激が僕の脳を支配する。
…アータバルは、レストランで「夫婦は互いの指先を舐めるか」までチェックしているのか?
潜入捜査って……僕が思っているより、ずっと、ずっと難しいものなのかも…。
そんなあらぬ方向への考察で必死に正気を保とうとしていると、ようやく彼女が僕の指を解放した。
「あ……えっと、フィオナ、今のも……?」
「……必要よ。……不快…だった?」
上目遣いで、不安そうに、けれど熱を帯びた瞳でそう言われ、僕は首を横に振るのが精一杯だった。
銀色のカプセルを噛む覚悟はできていたはずなのに、目の前の「練習」に対する覚悟は、少しもできていなかった。
テーブルのティッシュを一枚掴み、フィオナが濡れた僕の指を拭いてきた。そして……。
「ほら、あなたも。あーん」
次はフィオナが、新しいクッキーを指で掴んで僕に差し出してきた。
練習…練習……。
この練習を完遂させなくちゃ、任務が失敗に終わるかもしれない。もしこれがぶっつけ本番で、アータバルのレストランでやらないといけなくなったら、今の僕なら一発アウトだ。
……本当にそんな状況、あり得るのかなぁ?
そんな根源的な疑問と、うるさいほどに跳ねる心臓を抱えたまま、僕は覚悟を決めて大きく口を開いた。
クッキーを一口で頬張る。
もちろん、フィオナの指先を深く咥え込むほどに、迷いのない大きな一口で。
「っ……!」
フィオナの肩がピクッと跳ねた。
クッキーをすべて口の中に収め、ゆっくりと唇を離す。ボリボリと咀嚼し、飲み込む。
すると、フィオナは真っ赤な顔で手を震わせながら、先ほどの僕と同じように、掌を上に向けて僕の前に差し出してきた。
彼女と視線が重なる。
フィオナの瞳は潤み、呼吸は浅く、吸い込まれそうな熱を帯びて僕を見つめている。
「っ……」
僕は逃げ場を塞ぐように、優しく、けれど拒絶を許さない力で彼女の手首を掴んだ。
そして、その白く細い人差し指を口に含んだ。
「んっ……んん……!」
フィオナが、喉の奥で甘い声を漏らす。
くすぐったいのか、それとも別の衝撃か。
でも、僕はやめない。
彼女の指に残った甘い粉を、舌先で絡め取り、丁寧になぶり取っていく。
口内に広がるクッキーの甘みと、彼女の体温。
指先から伝わる彼女の微かな震えが、僕の脳の深いところを痺れさせていく。
変な気持ちになってきた…任務のこと忘れちゃいそうだ…
僕は彼女の手首を掴んだまま、次は親指へと唇を寄せた。
「あ、あなた……もう、それくらいで……んっ」
口ではそう言っているが、手は逃げようとする素振りが一切ない。
親指を口に含む。
同じ要領で、くまなく綺麗にしていく。
十数秒後、名残惜しさを押し殺して彼女の手を解放した。
「綺麗に、なったかな?」
問いかけると、フィオナはポーッと放心したように、濡れて光る自分の指を見つめていた。
そして、あろうことかその人差し指をパクリと自分の口に含んだ。
「っ…フィオナ?」
数秒して口から指を出すと、彼女はティッシュで丁寧にそれを拭った。
「…少しだけ、粉が残ってた。まだまだ練習が必要ね。」
「ご、ごめんね。」
…アータバルのレストラン、厳しすぎない?
「ま、まあ、初めてにしては上手だったわ。また次頑張ればいいわ。」
「うん、わかったよ。」
次もあるのか…
「じゃあ、最後。…肉体的接触の練習よ。」
……まだあるの?
「えーっと、具体的にはどんなことを?」
「…キス。」
「ええ!?」
そんなことまで!?それはもう…ホントに練習の範疇なの?
「安心なさい。唇へのキスではないわ。親愛の証といて、頬にキスする程度よ。」
「あ、なるほど。」
それくらいなら、いいか。
……いいの?
正常な判断力が、彼女の香りにあてられて麻痺していく。
「まあ、それだけだと足りないから、なるべく身体的接触はしながら、ね。」
言い終わると、彼女は僕の右手を握ってきた。指を一本一本絡めるような、深い関係でなければしないような、密接な繋ぎ方。
「じゃあ、まずは私から。」
彼女の顔が、僕の視界を塞ぐように近づいてくる。
互いの呼吸が混ざり合う距離。
そして…
「好きよ。あなた」
耳元で、蕩けるような甘い声がした。
直後、頬に柔らかくて温かい感触が押し当てられる。
数秒して、チュッと音を立てながら唇を放す。
……練習…練習…っ
僕も、男だ。
こんなに綺麗な人と、これほど濃密に接触して、何も感じないわけがなかった。
加えて、この家に来てからというもの、一度も「そういう処理」をしていない。
さっきから、練習以外のことをどうしても考えてしまう。
もっと、親しい仲の男女が……それこそ、本物の夫婦がするようなことを。
だが、彼女は僕の命の恩人だ。
そして、今回の任務に同行してくれる相棒になる。
正直、今やっていることが練習なのかどうかも、疑わしくなってきた。だが彼女が、本当に僕の身を案じる一心で、意にそぐわないはずの接触に身体を張ってくれている可能性もある。
そんな彼女に、こんな汚らわしい劣情を抱いていいはずがない。
「ほら、あなたからも…キス、して?」
「っ!」
本当に…さっきから……
人の気持ちも、知らないで。
僕は弾かれたように、片手で彼女の細い腰を強く抱き寄せた。逃がさないよう、自分の方へぐいと引き寄せる。
もう片方の手で彼女の熱い頬を包み込み、上を向かせるように固定する。
「ぁ…」
蚊の鳴くような、小さな声。
視界には、彼女の顔しか映らない。
聞こえるのは、僕の荒い息と、彼女の浅い吐息だけ。
数秒、見つめ合った。
そしてフィオナは、潤んだ目をそっと閉じ、唇を僕の方へと差し出してくる。
……だめだ。これ以上は、本当に一線を越えてしまう。
沸騰しそうな脳内で、最後の理性が叫んだ。
僕は突き上げられる衝動を必死に抑え込み、吸い込まれそうな彼女の唇を、わずか数ミリのところで回避する。
そして。
「あっ…」
彼女が、少し切なそうな声を漏らす。
僕は真っ赤に染まった彼女の頬に、深く、刻みつけるように唇を押し当てていた。
…よく、止めたよ…僕…。
今回ばかりは、自分の自制心を褒めよう。
頬にキスはしちゃったけど…まあ、彼女から言われたことだし、そこはご愛敬ということで。
唇を離し、お互いの息がかかるほどの距離で見つめ合う。
「…ごめんね…少し強くしちゃった。…痛く、なかった?」
「……痛い。」
その言葉を聞いた瞬間、頭に上っていた血がサーッと引くのを感じた。僕は弾かれたように彼女を解放し、距離を取る。
「ごめんなさい!本当にごめんなさい!少し…いや、かなり冷静じゃなくなってました!」
フィオナさんはソファの上で蹲り、両手を胸の前でぎゅっと握りしめている。
「……心臓が…痛い…」
彼女は何かを小さく呟いたが、その声はパニックに陥っている僕の耳には届かなかった。
「フィオナさん…本当にすみません。もう、この練習はしない方がいいと思います。僕、またあなたに痛い思いをさせてしまいます…。」
すると、彼女は上目遣いで僕を射抜くように見上げ、口を開いた。
「ダメ…。練習は、する。あと、敬語。」
ダメだよ…勘弁してよ……こんなの、拷問だよ…。
「フィオナさん…本当に、危ないですよ……」
「敬語」
「…フィオナ。」
「よろしい。」
リビングには、なんとも言えない気まずい沈黙が流れた。
さっきまでの熱をどう処理していいか分からず、二人してそわそわと視線を泳がせていると、玄関をノックする音が響き、トリーシャさんが入ってきた。
結局、そのまま三人で夕食を囲むことになったのだが、僕が「フィオナ」と彼女を呼び捨てにするたび、食卓の空気はどんどん張り詰めていった。
最終的にトリーシャさんは肩をわなわなと震わせ、ついには身を乗り出して僕に懇願してきた。
「わ、私も……! 私も敬語は不要です!」
これは任務のために練習しているんだと説明しても、「今後私ともそういう任務があるかもしれない!」と必死に訴えられ、反論の余地を奪われてしまった。
結局、胃が悲鳴を上げそうになりながらも、トリーシャさ……トリーシャのことも呼び捨てで呼ぶようになってしまった。
本来の目的であるフィオナとの「練習」が、いつの間にか身近な女性二人を呼び捨てにするという、僕にとっては別の意味で過酷な試練へと変わってしまった。
そして出発までの残り一週間、束の間の平穏だったはずの日常は音を立てて崩れ去ったのだが……それはまた、別のお話。




