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52 凍てつく忠誠

「おお! イネス君! 大変だったね!」


現れたボイド閣下は、開口一番、快活な声を上げた。


「何とか、戻ってこれました。」

「うんうん、君なら成し遂げられると思っていたよ!」


……なんだろう、この感覚。

今まで『いい人』だと思えていたはずのその笑顔に、今は拭いきれない薄ら寒さを感じてしまう。

信頼が、薄氷のような不信感に取って代わられていく。


「それじゃあ、報告を聞こうか。君が帰ってきてすぐにでも聞きたかったんだが、なかなかお寝坊さんだね、イネス君は。」


その言葉に、背筋がゾクッとした。

労いの言葉の裏にある、こちらの都合を一切無視した支配者の傲慢さ。


「……すみませんでした。」


僕の謝罪を聞き、閣下の隣に立つトリーシャさんの眉がピクリと動いた。……彼女は、僕のために怒ってくれているのだろうか。


「それでは、ご報告させていただきます。」


僕は一、二日目の状況を伝えた。北部の山は健在だが、それ以外は島中が更地になっていること。

おそらくすでにトリーシャさんから聞いていたのだろう。閣下は無表情のまま、その報告を飲み込んでいるようだった。


「三日目は?」


短く、だが何かを押し殺すような重い声。

ここからが本題だ。トリーシャさんがテーブルに広げてくれた地図に、僕は震える指を置いた。


「三日目に僕が見たものを報告します。南西部の海岸……このあたりで、三人家族を発見しました」


女性二人の目が見開かれる。けれど、総督の表情は微塵も動かない。


「風貌は?」

「褐色肌に、山吹色の瞳。髪は男性がボルドー、女性は薄ピンク。そして二人とも、体長は二メートルを超えていました」


トリーシャさんが「褐色肌……南方の出身? でも山吹色の瞳……?」と、必死に可能性を模索して呟いている。


「……まだ、あるんです。その三人は、魔力がありませんでした。」


この日一番の衝撃が走った。コリン・ヴァレンタインが神堕してから300年。魔力を持たない人間など、この世界には存在し得ないはずなのだ。

だが、総督は……やはり変わらない。この人は、どこまで知っているんだ。


「さらに西には行ったか?」

「はい」


地図のさらに先を指差す。


「このあたりに、彼らの住む町がありました。かなりの人数がいて、全員が同じ特徴を持っていました。彼らは建物の建築を行っていましたが……100キロ以上ある柱や梁を、重機より早く、正確に、素手で扱い、凄まじいスピードで建築を進めていたんです。」


トリーシャさんの、そしてフィオナさんの顔に驚愕が広がる。ふと見ると、閣下のこめかみを一筋の汗が伝った。彼ですら、これには驚きを隠せなかったようだ。


なら、次の情報は…全員の度肝を抜くに違いない。


「そしてさらに西へ……。この丘に、おそらくリティッシュ・ランバを崩壊させた張本人がいました。」


閣下の脈動が、目に見えて早くなるのが分かった。


「……それは、どんな人物だね?」

「外見の特徴は、他とは若干違いました。身長は180センチほどで細身。何より違ったのは、瞳の色です。彼だけが……緑色の瞳をしていました。」


全員が、僕の言葉を食い入るように待っている。


「……なぜその人物が崩壊の原因だと思った?」

「彼には…彼だけには、魔力がありました。それも、あり得ないほど膨大なものが。……彼の魔力は、普通の見え方ではありませんでした。淡い光を纏うのではなく、まるで真っ黒なインクをぶちまけたように、どす黒く空間が歪んでいたんです。」


それを聞いた瞬間、閣下を含めた全員が、言葉を失って目を見開いた。


「そして……彼は、僕の存在に気づきました。不可視化を使用し、しかも5キロも離れた海上にいた僕を、です。」


トリーシャさんの顔から、すうっと血の気が引いていく。閣下も、テーブルに置いていた拳を白くなるほど強く握りしめた。


「彼を見た瞬間、詳細に観察する必要があると考え、僕はバイクを止めました。走行による波も立てていません。なのに、彼は僕に気づき、正確に僕のいる場所を数十秒間、睨み続けたのです。」


総督が、わずかに震える声で問いかけてくる。


「……その人物は、君に魔法を使ったのかね?」

「いえ。彼が僕に手を向け、魔法を使おうとした直前、後ろに老人が現れて彼を連れ去りました。……おそらく使われていたら、僕はここに戻ってこれなかったでしょう。」


全員が、呼吸を忘れたかのように固まった。トリーシャさんの浅い呼吸の音だけが、異様に大きく聞こえる。


「彼が去ってから僕は再び移動を開始しましたが、それ以降、人を見ることはありませんでした。以上が、今回僕が目撃したもののすべてになります。」


沈黙が、部屋を支配した。

数分後。閣下が、軋むような声で沈黙を破った。


「……トリーシャ君。仮に、リティッシュ・ランバ全土…10万平方キロメートルの大地を、たった一度の魔法行使で潰すとなったら、どの程度の魔力が必要かね?」


『潰す』ことが可能な魔法は、重力魔法のみだ。閣下は、この人物をすでに重力魔法の使い手だと決めつけている。

そして、同じ重力魔法師であるトリーシャさんに、閣下は問いを投げた。彼女はうわ言のように、計算式を呟き始める。


「……重力魔法は、1平方メートルを1G増やすのに必要な魔力が1……。……半径100メートルを2Gにしたら3万1400……200メートルを3Gにしたら、25万1200……」


計算が進むにつれ、大佐の体が目に見えて震え始めた。


「……その人物が、どの程度重力を増やしたかは分かりません。ですが、仮に島全体を5Gにしたと仮定すると……」


彼女は、乾いた喉を鳴らして、その数字を口にした。


「魔力量……4000億です」


…4000億。

48億、僕の神堕から得た魔力が砂粒のように思える数字だ。だが、彼女の戦慄は止まらなかった。


「……ですが、北部の山以外すべてが粉砕されていたとなると、さらに高負荷な魔法を行使した可能性があります。仮に……彼が10Gを叩き込んだのだとしたら……」



「魔力量……9000億」



その瞬間、拳を握りしめていた総督が、ゆっくりとソファに近づき、力が抜けたようにソファへと深く体を沈めた。


全員が放心状態に陥る。

…しかも、おそらく彼は島全体を覆うことだけに集中したはずだ。もし、全力ではなかった場合…

魔力量は、1兆を超えている可能性すらある。


…もう、測定不能の域だな。これは。


数分間の、死のような静寂。

やがて、閣下がゆっくりと、まるで深淵の底から響くような声で口を開いた。


「ははは、笑っちゃう数字だねぇ。」


乾いた笑い。それは愉快さからではなく、あまりの絶望的な差に対する、脳の拒絶反応のようなものだった。


「……間違いなく、その人物は神堕しているね。」


それは、間違いないだろう。

だとすると、彼にも…


「ということは、彼には超常的能力も備わっていることになる。……これは、参ったね。」


そう、超常的能力。

僕が二種類の魔法を時間無制限で行使できるように、あの緑の瞳の男にも、理を外れた力が備わっている。

1兆近い魔力と、予測不能の異能。想像するだけで、笑うことしかできなくなる。


閣下が、ゆっくりと立ち上がった。


「フィオナ君」

「はい」

「イネス君はあとどれくらいで動けるようになる?」


……もう、次の仕事の話か。

フィオナさんは僕の震える指先をちらりと見つめ、それから閣下の目を真っ向から見据えて答えた。


「……最低でも、3ヶ月……いえ、彼が今後も任務を続けていく必要があるならば、半年は療養させるべきだと進言します。」


「イネス君、1ヶ月後に新しい任務だ」


……ははは。

「了解です。」

「っ! 閣下!1ヶ月後の彼はまだ、まともに歩くことすらできるか分かりません! どうかご再考を!」

「フィオナ君。彼の返事が聞こえなかったのかね?」


冷え切った閣下の声がリビングを凍りつかせる。フィオナさんが唇を噛み締め、絶望的な沈黙が訪れようとしたその時…


「ふざけないでくださいッ!!」


床がひび割れるような鋭い声。

トリーシャさんが立ち上がった閣下の前に詰め寄る。


「閣下、今の発言は聞き捨てなりません!彼のあのボロボロの姿を、真っ先にその目で見たのは私です。1ヶ月!?正気で仰っているのですか?それは部下への命令ではなく、ただの使い捨ての消耗品に対する扱いです!本国最強の魔法師を、閣下は自らの手で殺すおつもりですか!?」


閣下の目を正面から射抜き、トリーシャさんは一歩も引かずに吠えた。


だが、閣下はそれに応える代わりに、無表情のまま右手を静かに持ち上げた。

直後、バチィッ! と空気が爆ぜる音がし、閣下の右腕に青白い電光が迸る。


身体強化。


「え?」

トリーシャさんが理解できないという顔でそれを眺める。


そして閣下は一切の容赦なく、最短距離でトリーシャさんの顔面を狙い、拳を突き出した。


…だが、その拳が彼女に届くことはなかった。


横から伸びてきた手が、閣下の拳を正面から、ガシッ、と掴み止める。


「っ!?」

「…え、えぇ?」


フィオナさんとトリーシャさんが驚愕に目を見開く。

車椅子にいたはずの僕が、そこに立っていた。


全身から、閣下と同じ…いや、それ以上に濃密で安定した青白い火花を散らせて。

動かないはずの筋肉を、暴力的なまでの魔力による身体強化で無理やり駆動させ、僕は閣下の拳を掌一つで完全に封殺していた。


リビングに、バチバチという魔力同士が干渉し合う不穏な音が響く。


「……その体で、これほどの身体強化を瞬時に。……やはり、君は期待を裏切らないね、イネス君。」


閣下は、拳を掴まれたまま、薄気味悪い悦びに満ちた笑みを浮かべている。

対して、僕は一滴の汗も流さず、至近距離で閣下の瞳を見据えた。


「閣下」


声に感情は一切こもっていない。冷徹な、事務的な響き。


「私は、『了解』と言いました。……ですから、どうか、その拳を収めてください。」


…もう、僕のことはいいんですよ、トリーシャさん。

僕はこの男の飼い犬なんです。この男の言うことを聞くことでしか、僕と僕の家族は生きていけないんです。

…だから、そんな僕のために、無茶なんてしないでください。


「……いいだろう。君の誠意に免じて、今日はここまでにしようか。」


閣下が力を抜くと同時に、僕も掌を離した。

僕はそのまま、何事もなかったかのように再び車椅子へと腰を下ろす。

全身の細胞が悲鳴を上げているが、僕は表情を仮面のように動かさない。


……絶対に、許さない。

受けて分かった。あの拳は、彼女がギリギリ生存できるほどの威力だった。あれが彼女の顔面に届いていたら、間違いなく彼女の顔はグチャグチャになっていた。

…………コイツは、悪だ。


「イネス君、君は本当に素晴らしいね。……トリーシャ君、フィオナ君。君たちも、彼のこの『やる気』を見習いたまえよ?」


閣下は満足げな笑顔を浮かべながら、絶望に震える女性二人を冷笑するように見やった。

命を削ってまで、飼い主の命令を完遂しようとする『歯車』。おそらく今の僕は、彼が望む未来を実現するために一番欲しかった『パーツ』なんだろう。


「特にトリーシャ君。君は……今といい、任務中のことといい、最近度が過ぎるねぇ。」


閣下は、まるで汚れた机の塵を払うかのような無関心さで、トリーシャさんを冷たく見据えた。


「君は、私が君と近い立場の人間だと勘違いしていないかい?それはあまりに傲慢で、無知で、滑稽で、不愉快だぞ? 見ているこちらが恥ずかしくなってしまう。君のような末端の指揮官が、国の意志に口を挟めると思ったのかね?」


その言葉の一つ一つが、鋭いナイフのように彼女の心に突き刺さる。


「だから今、少し教育してあげようと思ったのだがね。……まあ、イネス君に感謝しなさい。今後、同じように私に意見しようとしないことだ。まずは私に、意見していいですか?と、聞くことから始めなさい。わかったかね?」

「……っ」


トリーシャさんは顔を歪め、全身を小刻みに震わせている。その唇は戦慄き、返そうとした言葉は喉の奥で凍りついたまま出てこない。



「返事はッ!!?」



リビングの窓ガラスが振動し、家全体が震えるほどの怒号が響き渡った。

あまりの威圧感に、トリーシャさんは弾かれたように直立不動の姿勢をとる。震える腕で素早く、だが必死に形を整えて敬礼を捧げた。


「了解ッ!!」


張り詰めた声。それは、軍人としての規律ではなく、捕食者を前にした生物としての生存本能が叫ばせた返答だった。

それを見た閣下は、先ほどまでの怒りが嘘だったかのように、春の陽だまりのような柔らかな笑顔を浮かべた。


「うむ、よろしい。」


満足げに頷くと、彼はトリーシャさんへの興味を完全に失ったかのように、くるりと僕の方へ向き直った。


この一連の流れを受け、僕は心に固い決意を刻んだ。


――この男の言うことには、絶対に逆らわない。

――それは、保身のためじゃない。恐怖からでもない。家族や、今僕の隣で打ちひしがれている仲間たちを守るためだ。


「イネス君、安心したまえ。次の任務は、身体的負担は今回と比べればほとんどないと思ってもらっていい。」


――そして、この男のことを信用することは、もう二度とない。…心を許すことも、ない。


「詳細をお聞かせください。」

「い~い心がけだねぇ。私の部下全員が君のような心と体を持っていたらよかったのになぁ。はははっ!」


笑い声が耳障りだ。

早く、詳細を言え。そしてこの家から一刻も早く出ていってくれ。


「次はね、隣国アータバルの潜入捜査をお願いしたい。あそこは我が国より、圧倒的にリティッシュ・ランバの情報を持っているはずだ。その情報をすべて、持ち帰ってきなさい。以上だ。」


……は?

なんだ、そのあまりにも雑で、馬鹿みたいに無計画な指示は。

まるで今、思いつきで口にしたのではないかと疑いたくなるほどだ。


「……今は頭も体も疲弊しています。また詳細について質問が生じれば、閣下に伺ってもよろしいでしょうか?」

「うむ。いつでも連絡してきなさい。」

「感謝します。」

「う~ん、最近の若いもんは礼儀もなく腑抜けばかりだと思っていたが、本当に君はいいね。とても気分がいいから、給与をアップさせよう。」


それは、未だに直立不動で敬礼を続けているトリーシャさんへの、これ以上ない嫌味だった。

閣下はニコニコと笑いながら、僕の肩を親しげにポンポンと叩く。


……触るな。早く消えろ、外道が。


内側の猛烈な嫌悪を殺し、僕はただの『従順な部下』の顔を保ち続けた。


「それでは、私はこれから本部に帰り、イネス君の持ち込んでくれた貴重な情報を踏まえながら今後のことを考えるとしよう。それでは諸君、失礼するよ。」


三人全員が敬礼し、「お疲れ様でした」と声を揃える。

トリーシャさんの声は、恐怖からか、あるいは軍人としての意地からか、他の二人よりも一段と大きく響いた。




玄関の扉がバタンと閉まり、リビングを支配していた重圧が消える。

……ようやく、帰った。


その音を聞いた途端、トリーシャさんは膝から崩れ落ちた。顔を両手で覆い、肩を激しく震わせている。


「ごめんなさい……イネスさん……っ。私……あの人から、あなたを守れない……っ。ごめんなさい……ごめんなさい……っ」


あんなにも強かった彼女の心は、恐怖と無力感で完全に折れてしまっていた。

フィオナさんも、かける言葉が見つからないのか黙ったままだ。


…みんな、笑顔になってよ。

アイツがいないときは、楽しくいこうよ。


僕は魔力を振り絞り、身体強化を全身に施して、無理やり両足で立ち上がる。一歩踏み出すごとに神経が焼けるような痛みが走るが、それを無視して、僕のために涙を流す彼女のそばへ歩み寄った。


そして、床に泣き伏す彼女を、優しく抱きしめた。


「いっ……イネス……さん……?」

「そういえば、忘れていたなと思いまして。三日目の朝、僕が出撃する時、『帰ってきたら、またお疲れ様のハグをさせてください』って、トリーシャさん言っていましたよね。そのハグ、遅れちゃいましたけど、今させてください。」


僕の背中を、服が破れんばかりの力でしがみつき、彼女は泣き始めた。


「大丈夫ですよ、トリーシャさん。あなたには、もう十分守られました。あなたがいなかったら、僕は海の上で死んでいたんです。だから……僕を守れないなんて、もう言わないでください。」


震える背中を、落ち着かせるようにゆっくりとさする。


「トリーシャさん、聞いてください。僕のことは、もう気にしなくていいんです。僕は大丈夫ですから。」

「でも……っ、でも!」

「……もし、本当にきつくなったら、僕の方からトリーシャさんに相談します。真っ先に、あなたを頼ります。だから……そのときが来たら、また僕を守ってください。お願い、できますか?」

「…グスッ……うんっ」


彼女の耳元で、静かに、言い聞かせるように語りかける。

彼女が僕を「守ること」を約束することで、彼女の感じている無力感が少しでも軽くなれば良いな。


「……僕たちの『上司』って、あんな人なんですね。…でも、ここにいる三人の間だけは、あんな冷たい空気は持ち込みたくないなって思ってます。なのでみんな、明るくいきましょ!」


僕がそう言うと、彼女の嗚咽が少しずつ、穏やかなものに変わっていった。


「……イネスさんを元気づけるためのハグなのに、私が元気づけられちゃいましたね」

「ははは。僕はハグからもらえる元気の効力を、あなたに身をもって教えてもらいましたから!」

「ふふっ、そうだったんですね。……効果、絶大です。」


僕から離れたトリーシャさんは、もう震えていなかった。潤んだ瞳のまま、それでも真っ直ぐな笑顔を僕に向けてくれている。


「……それで、とても格好悪いのですが。僕を車椅子まで連れて行ってもらえますか?」


身体強化を解けば、今の僕には立っている力すら残っていない。


「あはは、格好悪くなんかないですよ。イネスさんは、ずっとカッコイイです。……中佐、すみませんが車椅子をこちらまで持ってきてもらえますか?」


彼女は僕を抱きしめるように支えながら、ゆっくりと立ち上がらせてくれた。フィオナさんが無言で車椅子を滑らせてくる。


すとん、と座席に深く座り込むと、一気に重力が戻ってきたような倦怠感に襲われた。


「……お二人とも、今日はお騒がせしました。今日は、これで帰ります。……イネスさん、また明日も、来ていいですか?」

「はい、もちろんです。お見舞いはいつでも大歓迎ですよ。」

「ありがとうございます。……それでは、失礼します。」


トリーシャさんは、いつもの通りピシッとした、軍人のお手本のような立ち振る舞いで敬礼し、玄関へと向かった。その背中には、もう先ほどの絶望の影はなかった。


バタン、と扉が閉まる。

部屋に残されたのは、僕と、まだ少しだけ暗い顔をしているフィオナさんの二人。


「…フィオナさん」

「…なに、かしら」

「……タバコ、もう一本吸っていい?」


さっき「一本だけ」と言われたばかりなのに。

僕が恐る恐る尋ねると、彼女は耐えきれなくなったように「ップフ……」と小さく吹き出した。


「本当に、あなたっていう人は。……しょうがないわね。今日のあなたの頑張りに免じて、もう一本だけ許してあげる。」


…良かった。

フィオナさんも、笑ってくれた。


彼女はそれ以上何も言わず、僕の乗った車椅子を、再び夜風の吹くテラスへと運んでくれた。

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