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51 傷だらけの忠犬と、二人の看病

ふと、意識が浮上した。

寝る前までフィオナさんが座っていた椅子には、今度はウィット大佐が腰掛けていた。


「あ……おはようございます、大佐。」

「あっ! お、おはようございます……イネスさんっ!」


いきなり声をかけたせいか、彼女は肩を跳ねさせて驚いていた。

少しだけ上体を起こしたい。

僕は申し訳なさを感じつつ、彼女にお願いした。


「すみません、大佐。そこのスイッチを押していただいてもよろしいですか?」

「えっ、あ! はいっ!」


大佐を顎で使うなんて、僕もえらくなったなぁ。…なんて、冗談だけど。

ウィーンという機械音とともに、ベッドが起き上がる。窓の外はもう夜の帳が下りていた。

時計を見れば、すでに20時。かなりの時間、深く眠り込んでいたようだ。


「もう、『おはよう』という時間じゃなかったですね。」

「いえ、起きた時が『おはよう』です。」

「はは、そうですね。……大佐、お見舞いに来ていただいて、ありがとうございます。」


僕がそう言うと、大佐は所在なげに目を泳がせ、意を決したように口を開いた。


「あ、あの、イネスさん。お忘れになられていることが……あると思うんですけどっ」


……え? 全く心当たりがない。

まずい、寝ぼけて何か無礼なことでもしただろうか。


「え、えーと……ごめんなさい。何か失礼を働いてしまいましたか?」

「うぅ~……じ、自分で思い出してくださいっ!」


大佐はプイッとそっぽを向いてしまった。

どうしよう、早く思い出せ僕。焦り始めた僕の耳に、扉の開く音と聞き慣れた声が届いた。


「あら、起きたのね。おはよう」

「おはようございます、フィオナさん」


僕が答えた瞬間、トリーシャ大佐が下を向いてプルプルと震え始めた。

その様子を見て、ようやく記憶の糸が繋がった。


『トリーシャさんと……フィオナさんって……呼んでも、いいですか?』


……これ、なのかな…?


「……そういえば、スープ。すごく美味しかったです。ありがとうございました、トリーシャさん」


彼女はバッと顔を上げた。頬を赤らめながら、必死に言葉を絞り出す。


「い、いつでも作りますから! イネスさんの料理には敵わないかもですが……っ。私でよければ、何回でも作ります!」


よかった、正解だったみたいだ。安堵のあまり、自然と笑顔がこぼれる。


「僕の料理なんて目じゃないくらい美味しかったですよ。トリーシャさんは、料理が得意なんですね。」

「そ、そんなこと……うぅ~……」


また下を向いてしまった。でも今度は、はっきりと照れているのがわかる。

本人も言ってたけど、本当に名前で呼ばれ慣れていないんだな、この人は。


「……イネスさん、閣下が来る前に、何か食べる?」

フィオナさんが静かに声をかけてきた。


「あ、そうですね。可能であれば、頂きたいです。」

「そ。ちょっと待ってて。」


数分後。再び温められた、トリーシャさんのスープが運ばれてきた。


「大佐、少しそこに座ってもいいかしら?」

「あ、はい。了解です。」


さっきから下を向いて何も話さないでいたトリーシャさんが、ビクッと背筋を伸ばす。

トリーシャさんが座っていた椅子に、流れるような動作でフィオナさんが入れ替わる。

彼女は当たり前のようにスープをスプーンで掬うと、僕の唇の前に差し出した。


「はい、あーん」

「あむっ」


一切の抵抗なく、僕はそれを口に入れて飲み込む。

お昼にもしてもらっていたから、僕にとってはもはや自然な流れだった。


「な、ななっ……!」


目の前で、トリーシャさんがわなわなと震えながら絶句している。


「ありがとうございます。フィオナさん。」

「いいのよ。……お昼も、したしね。」


フィオナさんは、勝ち誇ったような視線を、ちらりとトリーシャさんに向けた。


「なななななっ……!?」


トリーシャさんの顔が真っ赤に染まっていく。

対するフィオナさんは、ついに堪えきれなくなったのか、口元を片手で押さえて、笑い声を押し殺すように肩を震わせ始めた。


「中佐!そこを代わりなさい!彼は私と任務に出たのです!それは私の役目です!」


大佐の叫びが夜の部屋に響くが、フィオナさんはどこ吹く風で、再び二匙目のスープを僕の口へと運んでくる。


「何言ってるの。私は『看病』という任務を遂行しているだけよ。ねえ、イネスさん?」

「あ、えっと、そう…ですかね?」


何が起こっているのかわからない…この差し出されてるスープ、食べていいのかな?

僕が逡巡している最中も、トリーシャさんは「ぬぬぬぬっ」と変な声を出してこちらを睨んできていた。

それを受け、フィオナさんがスプーンをスープに戻し、それをサイドテーブルに置いた。


「…はぁ。ほら、大佐。ここに座りなさい。」

フィオナさんは「まったく」と言いたげな顔で席を立った。


「えっ、あ……いや……」

なぜか後退りして、たじろぐトリーシャさん。


「私はお昼にもう済ませているからいいのよ。イネスさんも、同じ女ばかりから施しを受けても面白くないでしょ?」

「いえ、そんなことは……」


そんなことは一切思っていない。本当に、心からの感謝しかないんだけど……。


「わ……分かりました。イネスさんが嫌でなければ……」

「……じゃあ、お願いします。」

嫌なはずがない。というより、申し訳ないという気持ちだ。


僕がそう答えると、カチコチに固まったトリーシャさんが、決死の覚悟といった面持ちで近づいてきた。そのまま椅子に座り、お椀の乗ったトレーを膝に置く。

……けれど、そこからぴたりと動きが止まった。


「あの、トリーシャさん? 大丈夫ですか?」

「っ! ……大丈夫、です……っ」


震える手でスープを掬い、僕の口元へ近づけてくる。

「はい……あーん……」


耳まで真っ赤に染まった彼女の顔が、視界を塞ぐほど近づく。

……なんだか、僕の方までとんでもなく恥ずかしくなってきた。


あの凄惨な夜、口移しで水まで飲ませてもらった。それに比べれば今のやり取りは、圧倒的にソフトで、健全なはずなのに。

どうしてか、あの時より心臓の音がうるさくて、心拍数が跳ね上がってしまう。


「……あむっ」


スープを口に含む。

美味しいはずなのに、味を堪能する余裕なんて一欠片もなかった。


「おいしい、ですか?」

「っ…はい。とても、美味しいです」

「……毎日、食べたいですか?」

「あっ……えっ? そ、そうですね……」


動揺を隠しきれずに答えると、彼女はさらに頬を赤らめて、再びスプーンを運んできた。

「…………あーん」

「……あむっ」


どうしよう、自分でも顔が熱いのがわかる。

女性に食べさせてもらった経験はこれまでもあるけれど、こんなに心臓が痛いほど脈打つのは初めてだった。

それに……気のせいか、さっきから彼女の顔がどんどん近くなっている気がする。


トリーシャさんは、スプーンを差し出すたびに僕の目をじっと見つめながら「あーん」と声かけを繰り返した。

僕はといえば…恥ずかしさで彼女の目を見れず、パクパクと口を動かすことしかできなかった。


食後、トリーシャさんが「お皿、洗ってきますね!」とトレーを抱えて嵐のように台所へ去っていく。


「……あなたたち、本当に付き合っていないの?」

「うえっ!? フィオナさん!?」


壁に寄りかかっていたフィオナさんに声をかけられ、飛び上がらんばかりに驚いた。そうだった、二人きりじゃなかったんだ……。意識した途端、さらに顔が熱くなる。


「そうですね。間違いなく、付き合ってはいないです。」

「そ。」

そっけない返事。何を考えているのか読めない。


お腹が膨れたためか、ふと無性にタバコが吸いたくなってきた。

けれど、自力で立つこともままならない今の体では……。


「どうしたの? 何か欲しいものでもある?」

「あ、いえ。タバコを吸いたいな、と思いまして。」

「……あなた、医者の前でよくそんなことが言えるわね。」

「あはは……。全くその通りです。」

「それに、あなたの呼吸器は今、相当なダメージを受けているのよ?」

「そう……ですよね……。」


肩を落としてしょげていると、フィオナさんは呆れたようにため息をつき、一度部屋を出ていった。

一分もしないうちに戻ってきた彼女の手には、車椅子があった。


「一本だけよ」


うわぁ……女神様だぁ…。


「ありがとうございます!」

「ほら、私の首に手を回しなさい。」

「あ……何から何まで、すみません……」


言われるがままに彼女の細い首に腕を回す。彼女が僕の体を抱き上げた、その瞬間。まるで僕が彼女に抱きついているかのような体勢になったところで……トリーシャさんが戻ってきた。


「な!? ななななっ……!」

「……あなた、今後私が彼を介抱するたびに、いちいちそんな反応をするつもり?」

「えっ、介抱? 抱きしめたんじゃなくて?」


フィオナさんは全く動じず、僕を車椅子に座らせた。


「はぁ…まったく。……イネスさん、いつもはどこで吸っているの?」

「あ、えと、テラスです。」

「そ。」


彼女が静かに車椅子を押し、夜のテラスへ。後ろからはトリーシャさんが慌ててついてくる。

夜風に当たりながら、フィオナさんが手慣れた手つきでタバコを一本体に咥えさせ、火を灯してくれた。


「ありがとうございます。」

「いいのよ。味わって吸いなさい。」


すぅーっと、深く煙を吸い込む。

肺を満たす紫煙をゆっくりと吐き出した瞬間…あの地獄のような57時間の記憶が、鮮明な濁流となって脳裏に蘇った。


「っ……」


下を向き、必死に涙をこらえる。

本当に、辛かった。本当に、怖かった。

よく生きて帰ってこれたなと、今さらながらに震えがくる。


僕の変化に気づいたのだろう。トリーシャさんが歩み寄り、車椅子に座る僕の前に両膝をついた。そして、タバコを持っていない方の手を、彼女の両手で包み込んだ。


「本当に……お疲れ様でした。あの任務は、世界中であなたにしか成し遂げられないものでした。お見事です。本当に、本当によく頑張りましたね……っ」


……やばい、泣きそうだ。

でも、こんなところで泣くわけにはいかない。これから先も、きっと死ぬような思いをする任務は続く。そのたびに泣いていたら、切りがないんだ。


僕はなんとか涙を抑え込み、彼女に微笑みかけた。


「ありがとうございます。トリーシャさんがいなかったら、あの日、僕は間違いなくダメになっていました。成功したのは、あなたのおかげです。」


そう告げると、僕ではなく彼女の方が、堪えきれなくなったように涙を流し始めた。

……辛い仕事を、させてしまった。彼女の泣き顔を見て、余計にそんな思いが強くなる。


「……ほら、大佐。そこにいると彼がタバコを吸えないじゃない。どいてあげなさい」


フィオナさんの静かな声が、二人の間に流れる重すぎる空気を、優しく解きほぐした。




タバコを吸い終わり、部屋に戻った直後だった。

家の玄関から、こんこん、という重厚なノックの音が響いた。

フィオナさんとトリーシャさんの顔つきが、瞬時に鋭い軍人のものへと変わる。


……きた。


トリーシャさんがドアを開けにいく。


「横になる?」

「いえ……このままリビングに行きましょう。」


車椅子のタイヤが床を転がる微かな音だけが、静まり返った部屋に響く。


「……さて。ご主人様を満足させられるかな…」

僕は小さく自嘲し、背筋を伸ばした。

扉の向こう側に、いまだ底を掴みきれていない『飼い主』の気配が、すぐそこまで迫っていた。

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