05 君との馴れ初め
今日の仕事は11時からと普段と比べかなり遅めのスタートのようだ。
こういう時は大体業者がそこに住む人との最終チェックを行っている。顧客と業者は基本現場に来ないし、現場監督になる軍人も11時前にならないと来ないだろう。
でもやることもないので、とりあえずいつものように走って現場に向かうとする。
今日の現場はグルガル村から一番近い人間の居住区、オウタ市だ。
仕事が終わったらそのまま走って帰った方が早く家に着けるな。そんなことを考えながら、まばらになってきた民家と自然豊かな風景を眺める。
「いい街だな」
つい口に出てしまった。
僕らの村はあまりに廃れていて、でもアンクーバーの駅周辺は栄えすぎている気がする。僕は住むならこれくらいの田舎がいいな。
気持ちよさを感じながら走っていると、300mほど先に人の後ろ姿が見えた。
腐ってもグルガル族、100m先で飛んでいるトンボの色を見分けるのも容易い視力を持っている。
その人は杖を左右に振りながら、かなりゆっくり歩いている。
ご老人か?いや、見た目はかなり若いはず、どうしたんだろう。若干の違和感を覚える。
まあ、老人だろうと何だろうと手助けなんてできる訳ないけど。
僕らが人間に話しかけて、人間が不快な思いをしたと軍に告げ口すれば、その時点で体罰は免れない。
だんだんその人物との距離が近づく。そして100mほどになったとき、その人物が派手に転んだ。かなり痛そうだ。そしてその衝撃で杖が少し離れたところへ飛んで行った。
あぁ、そういうことか。
手で杖を探す姿を見て、違和感の正体が分かる。目が見えていないのだ。
近づくにつれ速度を緩めていく。ここまで来たら僕の中でやることは決まっていた。
「大丈夫ですか?」
人間のそばに行き声をかける。その人は泣いていた。
「あ、あぁ、はいぃ、ごめんなさい」
グズグズを鼻をすすりながら、顔をこちらに向ける。その目は斜め下を見ていた。
良かった、僕に対して嫌悪感は抱いてなさそうだ。
その女はお世辞にも美しいとは言えない風貌であった。
真っ黒でぼさぼさの髪、比較的小さい目、低く丸っこい鼻と周りにそばかす、体型は少しぷっくりとしていた。
年は僕より少し上かな。服装は鮮やかな赤色の、ひざ下まで伸びるワンピースだ。
「杖、取りますね。はい。」
ひょいと拾い上げ、女の手を取り、杖を握らせる。
「あ、あぁ、ありがとうございます!」
何度もペコペコと頭を下げてくる。良かった。少し元気が戻ったかな。
「いいえ、大丈夫ですよ。立てますか?」
「あ、少し待ってください…痛ッ!」
立ち上がろうとして、両膝から血が出ているのを見つける。
ここは道路が舗装されておらず、砂利道だった。
「あ、無理しないでください。えーと、どうしようかな。」
仕事まで時間は十分ある。さすがにこのまま走り去る選択肢は僕にはない。
かといって、他の人間に助けを求めることもできない。…しょうがない、ちょっと聞いてみるか。
「すみません。僕はジンと言います。お名前を伺ってもいいですか?」
「あ、はいぃ、アヤと申します。」
「アヤさんですね。初めまして。いきなりこんなことを聞いてしまい申し訳ないのですが、少しお体に触れてもいいですか?もちろん変なことはしません。」
「あ、ええと、はい。何をされるのですか?」
「そうですね。アヤさんを抱えて、近くの水辺に行きその傷を洗いたいと考えているのですが、大丈夫ですか?」
「いえいえ悪いですよ!そんな迷惑かけられません!」
「全然迷惑なんかじゃないですよ。むしろこのまま放っておくことの方が個人的に難しいです。」
「そんな…ご予定があるのでは?」
「あと3時間は大丈夫です。」
「本当ですか?」
「ほんとです!」
「…じゃあ、すみません。お言葉に甘えます」
よかった。それじゃあ…
「甘えちゃってください!」
そういいながら、ひょいとアヤさんを持ち上げる。かっる。
「うわぁ!」
かなりびっくりしたようで、杖を落とし、両手をバタバタさせる。僕の二の腕を見つけたようで、それにしがみつく。
僕はしがみつかれていない方の手で杖を拾い、はいとアヤさんに渡す。お礼を言い、片方の手を僕から離してぎゅっと杖を持つ。
トクン
…ん?なんか少し心臓が早まった。
「この近くにいい水場はありますか?」
「あ、はい!今道路に立っていると思うんですが、道路に沿って西の方に行って、分かれ道を左に行けばきれいな川があります。」
なるほど。そこを右に行けば今日の職場だ。
「了解!飛ばしちゃっても大丈夫ですか?」
「無理はしないでくださいね。ジンさんが大丈夫な速さでお願いします。」
「ちなみに馬車とか乗ったとこありますか?」
「え?ああ、ありますが…」
「乗ってて酔ったことあります?」
「あ、私馬車には強いですよ!酔ったこと一度もないです!」
「よっしゃ!じゃあしっかり掴まっててくださいね~!」
「きゃっ」
そう言い、結構な速度で走り出す。
勝手な想像だが、たぶんアヤさんは思いっきり走ったこともないだろう。せっかくなので、春の心地いい朝風を思いっきり浴びせてあげようと思った。
多分もう二度と会うこともだろうから、こんな時くらい非日常感を味わってもらおう。
「わ、はは!すごい!気持ちいい!」
「じゃあもう少し頑張ろっかなっ!」
そう言い、もう一段階スピードを上げる。
「きゃーー!あははは!」
「はははっ!」
なんだろう。こんな楽しいの久しぶりな感じがする。非日常感を楽しんでるのは僕の方なのかもしれない。
頑張って走ったからか、3分もしないうちに川にたどり着いた。周りは木に覆われていて、少し幻想的な雰囲気がある。
「到着です!お疲れさまでした。」
「は~、すっごい楽しかったです!ありがとうございました!怪我の功名ってやつですね!」
「ははは、それは良かったです。」
ゆっくりアヤさんを水辺におろす。あ、傷口も見えてないよな…。
「嫌でなければ、僕が傷口を洗ってもいいですか?」
「ええ~!?そんな、何から何まで申し訳ないですよ!これくらいは自分でできます!」
そう言い、靴を脱いで、川に向かいゆっくり歩きだす。が、痛みからか足が震えており、2歩目で石に躓き転びそうになる。
「おっと」
反射的に腕を取り、引き上げて転ぶのを阻止する。その反動で、アヤさんの体がこちらを向き、引き寄せる形になってしまう。
「ぁっ」
アヤさんの頭が僕の胸にあたる。それを感じたのか、力ない声が喉から漏れる。そして少し、頬と耳が赤らみ始める。
トクン
…また、鼓動が速くなる感覚がした。
「あ、あの、えと、ごめんなさい。やっぱり傷口洗ってもらってもいいですか?」
「え、あ、ああ。もちろんです。」
なんだ、これ。言葉が、うまくでてこない。
川辺は小石が多く危なかったので、またひょいとアヤさんを抱き上げる。
「あっ」
アヤさんの頬の赤らみが増した気がした。
トクントクントクン
まずい。鼓動が早まったままになってきた。これは本当にまずい。
片手で抱きかかえたまま僕も靴を脱ぐ。そして一歩一歩川の中に入っていく。
「それじゃあ、下ろしますね。冷たいので気を付けてください。」
脛くらいの深さまで進み、ゆっくりアヤさんをおろす。
「つめた!ほんとですね」
足が水に着いた瞬間、反射でその言葉が出たようだ。
「よし、それじゃあ傷口洗いますね。スカート、少しだけたくし上げてもらってもいいですか?」
「あ、はい!もちろんです!」
そう言い、ぐっとスカートをたくし上げてきた。
ドキッ!
心臓が跳ね上がる。ひざ上くらいまででよかったのだが、加減が分からず腿の大部分が露になってしまった。
心臓が鳴りやまない。くそっ、なんだこれ、やめてくれ。本当にやめてくれ。そんな残酷なことしないでくれ。
アヤさんの手を取りゆっくり下げ、スカートがひざ上に来るように調整する。
「これくらいで大丈夫です。ありがとうございます。」
「あ、ああ!すみません。よくわかってなくて。」
アヤさんが赤い顔のままアタフタする。
本当に、やめてくれ…勘弁してくれ…僕…。
「それじゃあ、ちょっと痛みますよー」
僕はその場で腰を曲げ、水を掬い上げる。掌に溜まった冷たい水をゆっくり傷口に傾けて流す。
「痛!痛いですぅ。」
「はい、我慢我慢。ばい菌が入ったら大変ですからね~」
「うぅ、頑張ります」
何度も、何度も、傷口にこびり付いた砂を洗い落していく。
「はい、じゃあ次は左足行きますね~」
「ううぅ、お願いします。」
左足も同じように、洗い流していく。
川のせせらぎと、鳥のさえずりと、時々聞こえるアヤさんの痛みに耐える苦しそうな喘ぎとで、僕の心臓は落ち着きをなかなか取り戻さない。いや、要因はおそらく3つ目のみだ。
嫌だ、いやだ。そんなの認めたくない、考えたくもない。本当に、許してくれ。
「よし!きれいになりました!よく頑張りましたね。」
「ありがとうございます!痛かったですぅ」
「えらいえらい」
アヤさんの頭に手を伸ばしかけ、ハッとして手を戻す。
「ふふふ、本当にありがとうございました。」
ドキッ!
この日一番の笑顔を向けられ心臓が飛び出そうになる。
ついさっき会ったばかりの少女。
正直第一印象では美しいと言えないと感じたが、今僕の目に映るのはこれまで出会った女性で、一番可憐で、笑顔が似合う少女だった。
ああ、もう、ダメかもしれない。
「はい、どういたしまして。歩けそうですか?」
「多分もう大丈夫です!」
アヤさんは一歩踏み出す。よし、もう震えてないし、足取りもしっかりしている。
だが、数歩進んだ後、「あっ」と言い立ち止まる。
「ん?どうしました?」
「あ、あの、えっとですね、あの、まだ、少し痛むと言いますか、その…」
俯きながらモゴモゴとそんなことを嘯く。少しずつ頬が赤らんでいくのが見て取れる。
意図が、分かってしまう。そんなことしないでくれ。そんな、可愛いこと、しないでくれよ。
「…っ、もう、しょうがないですね」
そう言い、ひょいと、本日3度目となるお姫様抱っこ。
「あっ、あり、ありがとうございます」
もう顔が真っ赤になっている。多分、僕も。
川辺から少し離れ、芝になっている木の根元にアヤさんをおろす。
「本当に、何度もありがとうございました。」
「いえいえ、全然大丈夫ですよ。少し待っててくださいね。」
アヤさんに背を向け、川辺に戻る。そして自分の脱ぎ捨てた靴と、アヤさんの靴と杖を拾う。
アヤさんの元に戻ろうとし、ハッと思いつく。拾い上げたものをすべて下ろし、作業着の袖をある程度の太さで破る。
その布をさらに半分にし、川の水でしっかりと洗う。綺麗になった布2枚を胸ポケットに入れ、荷物を再度拾い、アヤさんの元へ戻る。
「お待たせしました。靴と杖、持ってきましたよ。」
「ありがとうございます!」
「どういたしまして。」
足を前に延ばして座っているアヤさんの足元で片膝をつく。
「どうされたんですか?」
「傷口を守ります。ちょっと痛いけど我慢してくださいね~」
先ほど洗った布を1枚取り出し、傷口を包む。
「いたっ。え、包帯なんて持ってたんですか?」
「まあ、そんなところです。」
「重ね重ね、ありがとうございます。」
自分の服を破ったなんて言ったら、かなり恐縮されそうだったので少しだけ嘘をついた。
両方の傷口に布を巻き付け終わる。
仕事までまだ2時間ほどある。
…もう、いいや。今日はこの非日常をとことん楽しもう。
そして、自分の、絶対に実ることのない初恋をかみしめよう。
「包帯巻き終わりました。もし嫌じゃなければ、アヤさんの隣に座ってもいいですか?」
「えっ!?あ、ああ!もももちろんです!どぞどぞ。」
許可を得たので、隣に移動して腰を下ろす。
アヤさんは前を向いたままガチガチになっている。
かわいいな。
もしかしたら今日だけは、熱に浮かされた今だけは、両想いになっているのかもしれない。そうだったらうれしいな。
自分がグルガル族と知ったらどんな…いや、やめよう。
あ、そういえば聞いておかないと。
「このあたりってあんまり人は来ないんですか?」
「そうですね、休日は子供たちがよく遊びに来てますけど、今日は平日なのでみんな学校に行ってるはずです。なので人は来ないと思いますよ。」
「そうなんですね」
一安心。
「アヤさんはよく一人で散歩されてるんですか?」
「はい、私の日課です。朝散歩するのが好きなんです。肌にあたる朝日と、涼しい風が気持ちよくて。ジンさんはこの辺りに住まわれてるんですか?」
「うーん、この辺りといったらそうなんですが、オウタに来ることはほとんどないですね。」
「そ、そうなんですね…。…今日はオウタまでお仕事で?」
「そうです。ここからだと多分10分くらいですかね。」
「そうなんですか!あの速さで10分だと、私からしたら果てしなく遠そうですね。」
2人でクスクスっと笑う。ああ、楽しいな。
「でも、オウタにあまり来られないのはさみしいです。せっかく久しぶりに新しい友達ができたと思ったのに。」
「そうですね、僕もさみしいです。」
本当に、寂しくて、悲しい。
「でも、またオウタに来ることもあるんですよね?」
「そうですね、もう二度と来ないということはないかと思います。」
「…なんか、さらにさみしくなりました。」
「ごめんなさい。」
再会できる可能性は限りなく低いという、突き放すような言い方をしてしまった。
もう僕には、こんな言い方しかできない。
「嫌なことを聞いてもいいですか?」
「はい、なんですか?なんでも答えちゃいますよ。」
「その、アヤさんは生まれた時から目が見えなかったんでしょうか?」
「そうですねー、生まれた時からです。なので自分は不便に感じたことはほとんどないです。これしか知らないので。あ、でも今日転んだときはさすがに心細かったですね。両足ともすごく痛くて、転んだはずみで杖はどっか行っちゃって、どうすればいいか分からなくなっちゃいました。そんなときにジンさんが駆けつけてくれたんです。本当にありがとうございました。」
正面を向いたまま、ぺこりと頭を下げるアヤさん。
初対面がボロボロの泣き顔だったため、か弱い女の子という印象だったが、見た目よりずっと強い子みたいだ。
「あ、でも、今日、初めて目が見えなくて不便と感じました。」
アヤさんの顔を見ると、先ほどまで落ち着いていた頬の赤らみがぶり返してきている。
「何があったんですか?」
「…ジンさんのお顔を見てみたかったです。」
…クソ。心臓が痛い。
「…ハハハ、たぶん僕の顔を見たら、こうやって仲良くなれなかったと思いますよ。」
「そんなことないです!ジンさんがどんな方でも絶対すきッ…ああ間違えました!仲良くなってたと思います!」
……クソ。涙があふれてくる。こんな情けない顔、絶対見せられない。
「ありがとうございます。すごくうれしいです。僕もアヤさんとなら仲良くなれてたと思います。」
とめどなくあふれる涙をぬぐうこともせず、本心を口にする。
「あの、とても失礼で、不躾なお願いなのは分かってるんですが…」
アヤさんが申し訳なさそうに話しかけてくる。
「はい。なんでも言ってください。多分、今の僕がアヤさんの願いを断ることはないと思います。」
「あ、ありがとうございます。えっとですね、お顔を、触らせていただいてよろしいでしょうか?」
「はい。大丈夫ですよ。」
即答する。
「あ、ありがとうございます!」
アヤさんは僕の方に体を少しずつ近づける。
肩が僕の腕に当たると、布が巻かれた両膝で立ち、僕の顔の目の前にアヤさんの顔が来る。アヤさんも緊張した面持ちで、痛みなど忘れているようだ。
僕はというと、今日一番の速さで心臓が動いてる。
「そ、それでは失礼します。」
ゆっくり、恐る恐る手を伸ばし、まずは髪に触る。
「わ、髪の毛サラサラですね。私とは大違いだ。」
手に覚えさせるように、髪の毛を何度も往復する。
「じ、じゃあ、お顔を触らせていただきます。」
頭から、ゆっくりと指が下がり、額に届く。
そこから額の大きさを確かめるように両手の指でゆっくりなぞる。
さらに下がり、眉毛に届く。眉毛の形を確かめるように両手の指を左右させる。
そして頬を触り、手がピタッと止まる。
「あ、あの、ジンさん。どうされたんですか?やっぱり嫌でしたか?」
ああ、しまった。涙をぬぐっていなかった。ボロボロ泣いていたのがバレてしまった。
「あ、ああ、本当にごめんなさい!つい調子に乗ってしまって。本当にどう謝罪すればいいか。」
「待ってください!」
僕の顔から離れようとした手を、手首からがっちりと捕まえる。
「これは違うんです。この理由はまたあとで絶対説明するので、やめないでください。アヤさんに顔を確かめてもらって、本当にうれしいんです。だから、お願いなので続けてください。」
「ほ、本当ですか?」
「はい、本当に本当です。」
「わかりました。じゃあ後で理由、必ず教えてくださいね。」
「もちろんです。」
「わかりました。じゃあ、続けます。」
そして再度頬を触り始める。
頬が終わると、あごへと下がり、少し上がって鼻の形を確かめる。
「う、うわぁ。もしかしてジンさん、かなりのイケメンですか?」
「そんなことないと思いますよ。」
「嘘です嘘です!こんなに肌がきれいで、全部のパーツが整った方触ったことないです!」
「そんなにたくさんの男性の顔を触ってきたんですか?」
「いえいえいえ!そんなことないです!!仲良くなった友達数人だけです!」
「ははは、そうなんですね。ちなみに何でイケメンって思ったんですか?」
「えーとですね、母から、母が思うイケメンの顔のパーツの話を聞いてて、それがほとんどそのまんまで手に伝わってきたのでそう思いました。」
「そうなんですね。お母さんがそう思われてるなら、その娘のアヤさんも僕のことイケメンだと思ってくれたら嬉しいな。」
アヤさんの顔がまた赤くなる。
今日だけ、そう思っているからか、普段の自分じゃ考えつかないような歯の浮いたセリフが流れ出る。
「や、やめてくださいそんなこと言うの。さっきから心臓が飛び出そうなんです。…ちなみにジンさんは、他の女の子からもイケメンって言われたりするんですか?」
僕の頬をずっと触りながらアヤさんが聞いてくる。
「いや、言われたことは僕の記憶だとないですね。」
「そ、そうなんですね。へー…。あ、あの…」
「目でも、唇でも、好きなところ触っていいですよ。あ、目を触る時は一言くださいね。目を瞑るので。」
さっきから唇に近づいては遠のく指を感じ、触りたい気持ちがひしひしと伝わってきていた。
「あ、ありがとうございます。それでは失礼します。」
ゆっくりと、指先が唇に触れる。
「わ、わぁ…」
視線は下を向いたままだが、かなり真剣なのが分かる。唇に触れた指先が、まず上唇をゆっくりなぞる。
上唇だけで数回往復し、そして下唇に移り、同じように何度も往復する。
「すごく、やわらかいですね。」
「唇はこんなものじゃないんですか?」
唇を触られながら喋ったもんだから、その指先が僕の歯に触れる。
「「あ、ごめんなさい」」
ハモってしまい、二人でクスリと笑う。
「ジンさんの唇は、やっぱり柔らかいと思います。なんか、ずっと触っていたくなる感触です。」
「それは光栄です。好きなだけ触ってください。」
「ふふ、ありがとうございます。」
本当に長い間、サスサスと唇を触ってきた。
「あの、次、目を触らせていただきますね。」
「はい。どうぞ。」
そう言い、僕は目を閉じる。
「失礼します。」
僕がびっくりしないための配慮だろう。額から少しずつ指を下げ、眉毛を経由し、瞼に到達して指先が止まる。
これまで以上に優しい力加減で、目全体をなぞる。
「ええ!?」
かなりびっくりしたような反応を見せる。
「どうしましたか?」
「いや、あの、ホリの深さと目の大きさとまつ毛の長さに衝撃が走りまして…。全部私の倍以上あります…。」
「そうですかね」
「そうですよ!間違いなくイケメンじゃないですか!」
「アヤさんはそう思ってくれてますか?」
「う!うぅ…、は、はぃ」
「そうですか。とてもうれしいです。初めて、自分の見た目が好きになりました。」
「ウソ!絶対ウソだ!ジンさん、他の女の子にもこうやってかっこいいこと言って、ドキドキさせてるんでしょ!そうじゃなきゃありえないもん!」
「ウソじゃないよ。本当に、アヤさんにそう言われて初めて思った。」
相当てんぱっていたのか、今日初めて敬語がなくなる。じゃあ僕も、このときだけ敬語をなくしてみる。
「うえぇ?…絶対おかしいよ。顔も性格もかっこよくて、力持ちで、足が速くて、こんなにやさしいなんてありえないよ。なんか怖くなってきました…詐欺師じゃないですよね?」
「はは、違いますよ。」
…多分、あなたが考えてるのと、全然違うベクトルの恐ろしい存在なんだよ、僕は…
「あ、ありがとうございました。とても参考になりました。」
「はい。どういたしまして。」
「あ!…あの、もう一度だけ、触らせていただいてもよろしいですか?」
「はい。もちろんですよ。」
「あ、ありがとうございます。」
そして、右手の指でゆっくり唇に触る。
今までと違うのは、唇を触る指が人差し指から薬指までの3本になっていた。そして、離れる前にきゅっと少しだけ力を入れてきた。
「ありがとうございました。あ、あの、えと、少しだけ向こう向いててください!」
「え?どうしてですか?」
「理由は言えません!どうしてもです!お願いします!」
すんごい気になる。
「うーん、分かりました。はい、向こう向いてますよ。」
「ほんとですか?ほんとうにこっち見てないですか!?」
「はい、ちゃんと向こう向きましたよ。」
ごめんなさい。一瞬だけ向こう向いたのは事実だけど、今はもうアヤさんの方向いちゃってます。今のは、過去形の『向きました』です。
「う、うぅ……んっ!」
………あぁ、まずい。心臓が破裂しそうだ。
アヤさんは、数秒間逡巡を巡らせ、覚悟を決めた後、僕の唇に押し付けた3本の指を、自分の唇にきゅっと押し付けていた。
「は、はい!もうこっち見てもいいですよ!」
「あ、ああ、りょうかいです。」
「はい!もうこの話終わりです!あーなんか暖かいですねー」
気付いたら、アヤさんの額に汗がにじんでいた。相当恥ずかしかったのか、勇気が必要だったのか。
少しの間、静寂が流れる。恋愛経験0の僕でも、これだけされれば流石に分かる。アヤさんは、僕のことを好いてくれてる。
それは多分、怪我したところに丁度良く僕が現れ、抱きかかえられ、爽快なスピードを体験し、水辺で優しくされたから。
こんな非日常にさらされたせいで、勘違いをしてしまったのだろう。そして、僕がグルガル族だと知らないから…。
それなら、その勘違いのまま今日を終え、素敵な思い出のまま時間とともに風化させたほうが、アヤさんのためになるだろう。




