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49 手を焼いてないのに餅が焼け

≪フィオナ視点≫




規則正しい寝息が聞こえ始めた。

イネス・ウエステイル特別執行官…あの惨状から持ち直すとは、医学的な生命力もさることながら、相当な精神の持ち主のようね。


さて……。

私は視線をドアの方へ向けた。ウィット大佐が「お手洗い」へ逃げ込んでから、もう十分以上が経過している。

流す音すら聞こえない。…顔でも洗って赤面を冷ましているのかしら。


やがて、物音ひとつ立てずにドアが開く気配がした。

気配を殺してリビングに近づき、そっと入り口から顔を覗かせる。軍の精鋭らしい見事な隠密行動だけど、隠れる先がお手洗いじゃ世話ないわ。


「彼なら寝たわよ。静かにしなさいね。」

「っ!」


声をかけると、彼女の肩が目に見えて跳ねた。


「あ、あははー……そうなんですねー、よかった……。」


頬にはまだ微かに赤みが残っている。私は手元のカルテを整理しながら、ごく自然なトーンで切り出した。


「あなた、彼と付き合っているの?」

「うえぇっ!?」

「静かになさい。」

「あっ……ごめんなさい……。」


トリーシャは縮こまって、消え入りそうな声で謝った。

軍では冷徹な大佐として知られる彼女も、この男が絡むと冷静の『れ』の字もなくなってしまうらしい。見ていて飽きないわね。


「それで? 付き合っているの?」

「いえいえいえっ……付き合ってないです……。」


シュンと肩を落として否定する姿は、まるで叱られた大型犬のよう。


「そうなのね。……彼のどこがいいの?」

「え〜?えっとですねぇ……」


質問を変えると、彼女は待っていましたと言わんばかりに食いついてきた。


「一番は、優しいところですねぇ。あとノリも良くて冗談も言うのに、すっごく真面目に物事に取り組むところもカッコイイですねぇ……。」


さっきまでの動揺はどこへやら、恍惚とした表情で語り始める。


「そう。いい男ね。」

「そうなんですぅ……てっ!……別に、彼のこと好きだなんて一言も言ってないですよっ!」


慌てて大声を出しそうになり、自分で自分の口を押さえている。……一応、病人の前で自分を律する理性が残っていたことには感心してあげるわ。


「そ。変なことを聞いてしまったわね。」

「い、いえ……変なことなんかじゃ……。」


言葉よりも、そのだらしなく緩んだ態度で「大好きだ」と叫びまくっているのだけど。


でも……そうなると…少し、困ったことになったわね。


数日前、総督府へ呼び出された時のことを思い出す。




「おお、フィオナ君。悪いね、こんな朝早くに呼び出して。」


ギャレット・ボイド総督閣下は、いつもと変わらない、穏やかでいて底の見えない態度で私を迎えた。


「いえ、問題ございません。」

「そうか。……今から話すことは、箝口令の敷かれた最高機密事項だ。わかったかね?」

「了解です。」


背筋に冷たいものが走った。開口一番がこれか…。

閣下は、静かに本題を切り出した。


「今、我が軍がリティッシュ・ランバの近くで『周辺海域の定点観測、および海流調査』を行っているのは知っているね?」

「はい。大規模な調査だと伺っています。」

「あれは嘘だ。」

「っ……」


軍が公表している任務そのものが、ただの隠れ蓑だと言うことね。


「先日ね、神堕した青年が入隊したのだよ。……魔力は48億、時間制限なく魔法を使え、さらに電気と光の二つの系統を行使できる。」

「……」


頭が、追いつかない。

神堕?本当に?


「今回の作戦はね、本当はリティッシュ・ランバの偵察なのだよ。その彼に三日間、毎日19時間、海上で島を観察してもらっている。」

「え……?」


19時間?海上で?


「…軍艦からの、観察でしょうか?」

「軍艦じゃバレてしまうじゃないか。水上バイクだよ。全身の不可視化をしてもらいながら、遠方から視力強化をして観察している。ちなみにバイクは時速200キロ出る特注品だ。」


常軌を…逸してる。


「…島を、定点観測するのですか?」

「19時間もその場にいるわけないだろう。三日で島の70%以上を見るように指示を出してある」


……ありえない。島と言っても、あれは一国だ。面積は10万平方キロメートルもある。その広大な領域の70%を視察するには、時速200キロで走り続けなければ計算が合わない。


「…その青年は、19時間、ノンストップで走り続けている、ということですか?」

「当たり前じゃないか。」


狂っている。海の上をそんな速度で走り続ければ、体の中も外もボロボロになるに決まっている。


「失礼を承知で言わせてください。……無茶な作戦に思えます。」

「んー?仮にも神堕者だぞ?こんなことで壊れる役立たずだとは思いたくないなぁ。」


だめだ。この男は、自分の価値観でしか物事を考えていない。


「……それで、どうして私にそのお話を?」

「昨日が任務の初日だったんだがね、トリーシャ君から無線が入った。彼がボロボロだと言ってきたよ。……彼は私に無制限で魔法が使えると言ったのに、魔法の多重行使による脳疲労を起こしたと。これは、彼が私に嘘をついたということにならないかね?」


そんなわけがない。その状況下であれば、間違いなく電気魔法による身体強化も行使しているはずだ。

あなたは19時間の間、スクワットをしながら数学と化学と物理の難問を同時に解き続けられるのかと聞き返したくなった。


「……本日は療養させるのですか?」

「そんなわけないだろう。今日も明日も行かせるに決まっている。」


……8割、死ぬわね。


「そこでだ、フィオナ君。明後日、彼が帰ってきたら治療をしてやってほしい。場所は彼の家だ。医療施設には行かせられんからね。必要なものはすべて用意させよう。」

「了解です。」


話は終わったと思った。しかし、閣下は意外な質問を重ねてきた。

「……ところで、君は今年いくつだったかな?」

「28歳になりましたが……。」

「そうか。確か君は、女性が好き……だったかね?」


いきなり何を言い出すのか。

「これまでお付き合いしたのは女性ばかりでしたが、女性だけが好きというわけではないです。」

「そうかそうか。結婚願望は?」

「……それなりには、あります。」

「それはいいことを聞いた。これからは、その青年となるべく長く時を過ごしなさい。」


「……それは、どういう……?」

「私はね、彼にはこの軍の人間と家庭を築いてほしいと思っているのだよ。君が彼と過ごして、お互いに惹かれることがあれば、そのまま一緒になってくれればいい。国のためにもね。」


……ああ、なるほど。

「心配しなくていいぞ。見てくれも悪くなく、料理もできて家族思いだ。あれはいい旦那になる。」


頭が痛くなってきた。

要するに、貴重な『戦略兵器』である彼を、女の情でこの国に繋ぎ止めろということか。


「了解です。」

「うむ。彼はボロボロになって帰ってくるだろうから、ひとまずは治療という名目で彼の家に住まわせてもらいなさい。私からも彼に説明しておこう。」

「了解です。」




それが、私がこの家にいる本当の理由。

閣下の駒として送り込まれたはずだったけれど……。


私はベッドで眠る彼の横顔を見つめる。

そして、隣でポーッと彼の顔を眺めている大佐に目を移す。


……まぁ、彼女も立派な軍人。彼女が彼と一緒になっても、閣下の言う「家庭という名の楔」の役割は果たせるわけだし、それでもいいのよね。


少しだけ胸をなでおろしていると、大佐が不安げな顔で声をかけてきた。


「あの……今の彼の状態だと、どんな食事を用意すればいいのでしょうか?」

「食事の心配はいいわよ。私がここで泊まり込みで、彼の面倒を見ることになっているから。」

「と、泊まり込み……っ!?」

「ええ、閣下のご命令よ。」

「そそそそんなぁ……」


見たことがないくらい大佐が慌てふためいている。正直、さっきから面白くてしょうがない。


「わ、私もお世話しますっ。私だってできますっ」

「私は構わないけれど。まずは彼に聞きなさいね。」

「えっ……うぅ……」

「あと、彼に了承をもらえたとしても、あなたには仕事があるでしょう?」

「仕事はもちろん……え!?中佐は仕事も行かず、彼と一緒にいるんですか!?」

「静かになさい……そうよ。当たり前じゃない。この状態の彼を一人にできると思っているの? これも閣下の命よ。」

「うぅ…そんなぁ…」


大佐はヘロヘロと膝から崩れ落ちてしまった。……さすがに少し可哀想かしらね。

私は救済措置として、一つだけ提案をしてあげた。


「とりあえず、今の彼が食べられるのは裏漉しした野菜と白身魚のスープくらいよ。それだけでも作ってあげたら?」

「っ!ありがとうございますっ!ちょっと買い物してから、家で作ってきますっ!」


そう言うなり、彼女は嵐のように家を飛び出していった。

静かになったリビングに、再び彼の穏やかな寝息だけが満ちる。


…困ったわねぇ。

まあ、いいわ。私は私にできること、すべきことをしていけば、それでいい。


閣下の命令に従い、彼と一緒に過ごして……もし、万が一。お互いに惹かれあってしまったら、それはそれよ。


そうなったらごめんなさいね、大佐。

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