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48 軍医のメスは、恋にも刺さる

意識が浮上した瞬間、僕を待っていたのは安らぎではなかった。

軍艦のゆったりとした揺れではない。地面を噛み、激しく跳ねるような、荒々しい振動。


「……あ……、……カハっ」


目を開けようとした。けれど、何も見えない。

三日間にわたって、時速200kmの潮風と海水に晒され続けた僕の眼球は、すでにその機能を一時的に喪失していた。視界は真っ暗な闇か、あるいは混濁した赤か。


感覚の戻った肉体に、遅れて猛烈な激痛が突き刺さる。

神経の末端が一本ずつ焼き切られるような痛みに、僕は理性をかなぐり捨てて叫んだ。


「があああああッ!!」


「イネス!起きたのかイネス!安心しろ、大丈夫だ!」


前方からよく知った声が響く。ホームズ中尉だ。


「今、お前の家に向かってる! そこで軍最高の医官が待ってる! もう少し、もう少しの辛抱だ、踏ん張れ!!」


「ゴホッ、……ゲホッ!! おぇぇっ……!!」


返事をしようとした口から、熱い塊が溢れ出した。

大量の吐血。

57時間もの間、高濃度の塩分を含んだ大気を、超高速の風圧とともに肺の奥深くまで吸い込み続けた結果だった。僕の呼吸器官はズタボロに焼けただれ、内側から崩壊を始めていた。


「クソッ! 間に合え……間に合ってくれっ」


中尉の悲痛な叫びとともに、エンジンの回転数が跳ね上がる。

車体は軋みを上げ、さらに速度を上げた。

意識の輪郭が再びぼやけていく。中尉が必死にアクセルを踏み込む音と、僕の肺が奏でるヒューヒューという不吉な喘鳴だけが、闇の中に響いていた。




タイヤが悲鳴を上げ、僕の家の玄関前に車が急停車した。

中尉が運転席から飛び降り、後部座席のドアを乱暴に開ける。


「……ぁ……っ、……あ、ああああ……」


身体を動かされるたびに、千切れた筋肉と焼けた肺が内側から火を噴くようだった。中尉は僕を担ぎ上げると、玄関を蹴破る勢いで家の中へ駆け込んだ。


「ローレン中佐!! お願いします!! 早く!!」

「ゴホッ…おぇぇぇっ」


中尉の絶叫が我が家に響き渡る。

視界は真っ暗なままで何も見えない。

混濁した意識の中で、一人の女性の声が届いた。


「リビングのベッドへ。中尉、あなたは止血の補助を。」


聞いたことのない、澄んだ、とても耳通りのいい女性の声だった。

甘さはない。代わりに、一切の動揺を排した冷徹な響き。


中尉の手によって、僕はベッドへと下ろされた。

直後、すぐ近くで衣擦れの音がし、高濃度の消毒液と鉄錆の匂いが混ざり合う。


「……ひどい状態ね。よく生きていたわ、本当に。」


冷たいゴム手袋の感触が、僕の首筋に触れた。


「肺の炎症が酷いわ。挿管を急ぐわよ。中尉、吸引機を。」


その女性は、まるで直接僕の体の中を見ているかのように、的確に指示を出していく。

視界を失い、死の恐怖に震える僕の耳元で、彼女はただ一言、事実だけを告げた。


「今は、安らかに眠りなさい。私の執刀中に動かれると困るわ。」


その言葉と同時に、腕に細い針が刺さる感覚があった。

強力な麻酔薬が血管を駆け巡る。

五臓六腑を焼き尽くしていた激痛が、急速に遠のいていく。


「始めるわよ。」


その声を最後に、僕の意識は深い、深い闇へと沈んでいった。




次に意識が戻ったとき、世界はまだ静寂の中にあった。

五臓六腑を焼いていたあの激痛は、今は重く鈍い痺れへと変わっている。


目を開けようとして、まぶたの上に重い違和感を感じた。

「……っ、……」

指先がわずかに震えるだけで、全身に力が入らない。顔の半分を覆うように、消炎剤を塗った厚手のガーゼと包帯が厳重に巻かれていた。


「……あ、……」

僕が掠れた声を漏らした瞬間、右手に、ずっとそこにあったような強い熱が宿った。


「イネス…さん……?イネスさん!! ローレン中佐、イネスさんが起きました!」


この数日で聞き慣れてしまった、ウィット大佐の取り乱した声。

横たわる僕の右手を、両手で壊れ物を包むように握りしめてくれていた。

軍務を終えてからずっと、ここで僕の目覚めを待っていたのかな。


「声が大きすぎるわ、ウィット大佐。術後の患者に騒音は禁物よ。」


すぐ傍で、あの耳通りのいい、落ち着いた声が応じる。

…どなただろう?


リビングに持ち込まれたであろう医療機器が微かな駆動音を立て、消毒液の匂いが、本来そこにあるはずの生活の香りを上書きしていた。


「……ぁ……っ」

「動かないで。包帯を替えるわよ。」


彼女の手が、僕の顔の包帯を解いていく。

ゆっくりとまぶたの上の圧迫感が取り除かれ、わずかに開いた隙間から、リビングの照明が強烈な光となって差し込んできた。


視界は白く濁り、水の中にいるようにぼやけている。

その混濁した視界の向こう側に、二人の女性の輪郭が浮かび上がった。


一人はウィット大佐だろう。

もう一人は…白衣を着ていることしか分からない。


白衣の女性は、僕の焦点が泳いでいることに気づくと、僕の眼球の状態を慎重に観察するため、至近距離で僕を覗き込んだ。


「意識ははっきりしている? 自分の名前と、現在の役職を言ってみなさい。」

「……イ、ネス……。……特別、執行官……」


「よかった……! 本当に、本当によかった……っ」


ウィット大佐の声が震え、僕の手を握る力がさらに強まる。


「よろしい。脳へのダメージも最低限のようね。地獄からお帰りなさい、ウエステイル特別執行官殿。」


白衣の女性は事務的にそう告げると、新しい薬を塗った冷たいガーゼを僕の目に当てた。

「お話はまた今度。今はまだ、世界を閉じておきなさい。」


視界は再び暗闇へと戻った。けれど、右手に残る大佐の温もりと、去り際に鼻をかすめた白衣の女性の微かな香りが、僕に「生」の輪郭を教えていた。




深い泥濘の底から這い上がるように、再び意識が浮上した。

目を開けようとするが、まぶたの上には依然として重い違和感がある。


「……あ……み…ず…」

酷い喉の渇きを潤したく、掠れた声を漏らす。すると、すぐ傍から聞き慣れた声が弾けた。


「イネス…さん……?イネスさん!! ローレン中佐、イネスさんが起きました!」


あれ?なんだかすごくデジャブ。

すると、聞き覚えのある、けれどまだ名前を知らない女性の声が重なった。


「あなたねぇ……昨晩も言ったでしょ? 病人の枕元で大声を出さないの。」


あ、やっぱり。これ2回目だよね。

足音が近づき、その女性が僕の状態を確認するように問いかけてくる。


「意識ははっきりしているかしら?質問に答えて。……今の魔法歴は?」

「…287年……」

「あなたが怪我をした理由は?」

「…言えない…です…」

「それは極秘任務だったから?」

「…言えないです…」

「最後に。あなたの家族はどこにいる?」

「…はまむ……」


「よろしい。脳の機能は正常ね。しっかり思考もできてる。」

淡々と、けれどどこか満足げな響き。一通り質問が終わったところで、僕は焼けるように熱い喉を震わせた。


「水……ください……。」

「すぐ持ってきます!」


ウィット大佐が弾かれたようにドタドタと足音をたてて遠ざかっていく。

数秒後、再びドタドタと足音が近づいてきた。


「今から差し上げます!」

「……ちょっと、なんであなたが飲もうとしてるのよ。」

「!?ゴクッ、……ゲホッ、ゲホッ!!」


ウィット大佐が盛大にむせる声が響いた。


……もしかして。また、口移しで飲ませようとしてくれていたのかな。

目が見えない分、脳内で繰り広げられる大佐のドジな光景が、驚くほど冷静に再生される。


「ほら、ストローを使いなさい。」

「あ、はい……ありがとうございます……」


なんか少し残念そうに感謝している。


「イネスさん、口元に運びますよ。」


その声とともに、唇にちょんちょんとストローの先が触れる。

それを弱々しく咥えて吸い込むと、冷たい水が砂漠のような喉を潤していった。


水を飲み干し、一息ついたところで、再び衣擦れの音が近づいてきた。


「少し落ち着いたようね。……もう一度、目の包帯を替えるわよ。」


先ほどから大佐をあしらっていた彼女が、僕の枕元に腰を下ろす気配がした。

ゆっくりと、まぶたを覆っていた重みが取り除かれていく。


「……っ」


寝る前よりも視力が回復しているのが分かった。

差し込む光に目を細めながら、僕は目の前にいる人物を、今度こそはっきりと捉えようとした。


まず目に飛び込んできたのは、至近距離から僕を覗き込む、鋭くも知的な切れ長の瞳。

そして肩にかかる、黒に近い深いグリーンの髪。

白衣のボタンは無造作に外され、その下には軍の規律を挑発するような、肌を大胆に露出した黒い衣装が、彼女のしなやかなボディラインを際立たせていた。


軍人というよりは、どこか毒を持つ美しい花のような人だった。


「あ……はじめ……まして……」


僕は、命の恩人であろう彼女に向けて、掠れた声で挨拶を絞り出した。

すると、彼女は僕の眼球を覗き込んでいた顔をわずかに離し、唇の端を吊り上げた。


「自己紹介がまだだったわね。……フィオナ・ローレン医務中佐よ。あなたのオペを担当したわ。」


フィオナ・ローレン中佐。

多分…ホームズ中尉が、軍最高の医官だって言ってた人だよね。


「これでも、あなたの心臓を元通りに動かすのには苦労したのよ?感謝しなさい、ウエステイル特別執行官殿。」


彼女はそう言いながら、手際よく新しいガーゼに薬を塗り始めた。

冷徹なようでいて、その指先は驚くほど繊細で、優しい。

名前を知ったことで、僕を包んでいた得体の知れない緊張が、少しだけ解けていくのが分かった。


「あなたのことは閣下から聞いてるから、私には何も隠さなくていいわよ。これからあなたが大きな怪我をしたら、全部私が見ることになる。……そうならないように気をつけなさいね。」

「了解……です……。」


目に新しい包帯を巻きながら、彼女は淡々と、僕の主治医になることを宣告した。


「それにしても……大佐、あなたどうしちゃったの? 見たことないくらい挙動不審よ。いつもはあんなに冷静なのに。」


「え!?冷静ですよ!特に今はっ、はい。」

「……はぁ。まあいいわ。」


中佐は深いため息を一つ吐くと、再び僕に声をかける。


「ところでウエステイル執行官殿。名前がとても長くて呼びづらいのだけど、違う呼び方でもいいかしら?」

「あ、はい……全然、いいですよ。」

「ありがと。そうねぇ、他の人たちはみんなイネスって呼んでいるようだし、私もそうしようかしら。」


「えっ!?」


横から、ウィット大佐の素っ頓狂な声が上がる。


「……なるほどねぇ。」

中佐…なんか、含みのある声な気が…。


「そうねぇ、みんなと一緒だと面白味もないし、イネちゃんとかどうかしら?」

「イネチャ!?」

「それが可愛すぎるなら、いねっちとかどうかなぁ。」

「イネチ!?」


大佐の声がどんどん裏返っていく。

中佐は最後に、僕の耳元に顔を寄せた。


「あ、二人きりのときは、『あなた』って呼んじゃおうかしら。」

「アナナ!?」

…大佐…絶対冷静じゃないですよね…。


「まあ冗談はここまでにして、私だけ違う呼び方なのも変だし、みんなみたいにイネスさんって呼ばせてもらうわね。よろしく、イネスさん。」

「はい。よろしくお願いします、中佐。」


「…別に…役職呼びでもいいじゃん…」

聞こえないほどの声だけど、大佐が何かぶつぶつ言っているのが分かる。


「……ちなみに、ローレンって苗字は軍に5人くらいいるから、私のことはフィオナって呼びなさい。」

「ふぇ!?」


「…」

え?

……閣下と言い大佐と言い、軍では名前呼びが流行ってるのかな…。


「あっ、あのっ!イネスさん!実はウィットという苗字も軍に沢山いましてですねっ」

「嘘は良くないわ大佐。私の知る限りだとあなた一人よ。」

「なんでそんなこと言うんですか!ローレンだって!…ローレンは…」

「私は嘘は付いてないもの。でも名前で呼べってのは冗談。…あっ、イネスさんがそう呼びたいなら、構わないわよ?」

「~~~っ!」


大佐の声にならない声が聞こえた。


……う~ん…残ってた頭痛が、さらにひどくなってきた気がする。…。もう何も考えたくない…。


多分大佐は、僕に名前で呼んでほしい…んだよね?

彼女は覚えてないけど、あの宴の夜の帰り道で僕に強請ってきたのは、おそらく本心だし。

でもここで大佐だけ名前呼びにして、中佐を苗字っていうのもなんか変な感じがしないかな。…中佐も良いって言ってるし、もういいか…。


「……お二人のこと…トリーシャさんと…フィオナさんって…呼んでも良いですか…?」


「あら、私はもちろん構わないわ。私だってあなたのこと名前で呼んでいるんだし。」

「あ、ありがとうございます。」


「……」


…あれ?大佐の反応がない…。

包帯で何も見えないけど…もしかして嫌だったのかな…。


「ごっ、ごめんなさい大佐、調子にのってし「大佐じゃないです!!」

「あなたは大佐よ。」


……う~~~ん…何が起こってるのかさっぱりわからない…。


「えーっと…トリーシャ…さん…。」

「…………お手洗い、借ります。」

「あ、はい。どうぞ。」


ドタドタドタッと、すごい勢いで足音が遠ざかっていった。


「あの、フィオナさん?」

「何かしら。」

「えっと、大丈夫そうですか?」

「大丈夫よ。」


…大丈夫ならいいか。


僕は考えるのをやめた。


「ごめんなさい。起きてからずっとお話ししていたので、少し疲れちゃいました。」

「当たり前よ。あなた、生きているのが不思議なくらいの重傷だったんだから。あの子が戻ってこないうちに、早く寝ちゃいなさい。」


その声に包まれ、安堵とともに意識がまどろみへと溶けていく。

眠りの淵に沈みかける僕の耳元で、フィオナさんが最後に囁いた。


「あなたもだいぶ回復したようだから、閣下に報告しておくわね。……おそらく明日、閣下自らここへ来ることになると思うわ。」


その言葉を最後に、心地よい闇が僕を完全に包み込んだ。

明日、僕の見たすべてを報告しなければならない。

重い義務を予感しながらも、今はただ、泥のような深い眠りへと落ちていった。

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